狼は 最近 バンビに 夢中らしい。
可愛いだけじゃダメだから
暦の上では既に仲春を迎えたはずなのだが,鼻頭を赤く染める寒さは未だに残っている。
最近は日によって温かな陽気になることもあるが,数日も経てば思い出したかのように再び冴え返る。
どうやら春はまだまだ浅いらしい。
そんな肌寒い日中の市中見回りは,正直なところ非常に面倒くさく,適当にさっさと終わらせて帰り
たいのが本音だ。
某お天気アナの「今日は杉花粉をめっちゃくちゃ含んだ春風がウザいくらいに吹き渡るでしょう」
という言葉を,土方はふと思い出した。
公園の中心を吹きすさぶ風は,流水のように冷ややかで何の匂いも運んでは来ない。
(…これが春風なわけあるか)
胸中で毒づきながら足早に広場を通り過ぎる。この気温の低さを反映してか,公園にいる人間の数も
まばらだ。特に異状も見当たらないので,さっさと立ち去ろうと思った――が。
………!
「お」
小さな白い影が足元を走った,と思いきや萌黄色の目と視線が交差した。
「…」
思わず靴を止めた土方の数歩先で,白猫が立ち止まってこちらを見上げている。
きょときょとと動き回る瞳は,ラムネ瓶の中に入っているあのガラス球のようだ。
無言で見つめていると,白猫は尻尾をゆっくり動かして一声鳴いた。
「…」
とりあえず左右を見回す――近くに人影はなし。
土方はそれを確認するとおもむろに咳払いをし,
「ちっちっ」
少し体を屈めて猫に手を伸ばした。
だがしかし。
フンッ…
と実際に鼻を鳴らされたわけではない。あくまで比喩だ。しかし,白猫は思いきり胡散臭そうに目を
細め,顔をぷいと逸らし,すたたたっと駆け足で去っていった。
「…」
前屈した格好のまま固まっている土方に,無色透明・無味無臭の寒風が容赦なく吹きつけた。
誰が投げ捨てたのか,空き缶がカラカラと音を立てて石畳の上を転がっていく。
何も得られず仕舞の冷えた手のひらを引っ込め,土方はポケットの煙草とライターを握った。
「…ふん」
乾燥しきった空気の中へ,乾いた感情を吐き出した。
自分は決してあの小さな生き物によって傷付けられたわけではないのだ,と誰かに…自分自身に言い
聞かせる。けれどもどんなにもっともらしいことを考えようとしても,胸中には苦々しい色が滲んで
いき,瞼が自然と歪んだ。
「ふーっ…」
「土方さん」
「!」
突如背後から名前を呼ばれ,土方の肩がびくっと跳ね上がった。
その柔らかな声音には聞き覚えがあった…というより,今1番会いたくなかった(というよりむしろ
見られたくなかった)人物の声だった。頬がひきつるのを堪えつつ,声の主を振り返る。
「…」
そこにいたのは予想通りの――にこにこと紅梅のように艶然と笑う女性だった。
は人懐こく目を細め,小さく頭を横に傾けた。
「こんにちは」
「あ,ああ…」
声が裏返らないようになんとか喉を引き締めるが,動揺のせいでどうしてもどもってしまう。
それとなくの手に提げられた籠バッグを見る。中身が空であるのをみるに,これから買い物に行く
ところなのだろう。
「…」
「…」
再び彼女の顔に目を移すと,相変わらずたおやかな笑顔を浮かべている。
(…セーフか?)
内心胸を撫で下ろしながら,念のため訊いてみた。
「なあ…」
「はい?」
「…見ていたか?」
「見ちゃいました」
両手を双眼鏡の形にして目に当てると,は鈴の音のような声で笑った。
いつもならば心地よく感じるはずの笑い声なのだが,今は場合が場合なだけにひどく耳に痛かった。
「見てたのかよ…」
土方は頭を抱えたくなるのを堪えつつ,ハァと深く息を吐いた。
溜息は余寒の中へ吸い込まれていく。
「忘れてくれ。頭下げっから」
土方が視線を逸らし顎をさするのを見て,はクスクスと微笑した。
「ふふふ。土方さん,猫が好きなんですね」
「まァ…嫌いじゃねェな」
かといって犬派でも猫派でもないのだが。
は「へえ」と楽しそうに頷いて,周囲をきょろきょろ見回した。
そして,数メートル先の芝生で毛づくろいをしている猫に目を留める。
「この公園,猫が多いですよね」
「…そうだな」
土方も相槌を打ちながらその猫を見やった。虎斑の毛色をした猫は,自身の尾をしきりに甘噛みして
いる。石畳の上を歩いていると肌寒いが,ああやって芝生に伏せていると存外温かいのかもしれない。
虎猫は春光の中で気持ち良さそうにくつろいでいる。
じっと注目していると,猫はこちらの視線に気が付いたようだ。
ぴたりと動きを止め,土方を見返して来る。
もし科白をつけるのならば…「何見てんだよ」といったところか。
心なしか不穏な眼差しで,猫はこっちを睨め上げている。
「あっ,睨んじゃ駄目ですよ」
「俺は睨んでねーよ」
むしろガンつけてんのは向こうだろう,と言うと,は小首を傾げて土方の顔をじーっと見上げて
きた。瞬きもせずこちらを見つめてくる彼女の視線に,動悸が一段と早まった。
「…なんだ?」
「う~ん…土方さんは威厳のある顔立ちだから。猫よりも強い動物のオーラを出しちゃってるん
ですよ」
「なんだそりゃ」
思わずつっこんだが,は至って真剣な表情で言葉を続けた。
「たとえるなら…そう,狼のオーラですよ」
「誰が狼だ」
「だって制服真っ黒だし」
「どんな理由だ,そりゃ。それじゃ隊士全員が狼になっちまうだろーが」
「あ。そういえばそうですね。ふふ…」
指摘を受け恥ずかしいのか,は微かな声で笑った。
照れた彼女の頬を冷たい風が撫で,春塵がちりぢりに舞踊った。
(だが…あながち間違っちゃいねェな)
日差しの中で光るの髪をこうして見下ろしていると――触れたい衝動が強く突き上げてくる。
「俺が狼なら,お前は子鹿だな」
「え,子鹿?」
はきょとんと目を丸くしたが,土方は前々から彼女を「子鹿みてェな奴だな」と思っていた。
顔立ちが鹿顔ということも主因の一つだ。けれどもそれ以上に彼女の雰囲気が『子鹿』なのだ。
「子鹿って…喜んで良いんですか,それ?」
「さァな」
どう反応すれば良いのか迷っている様子のに,土方は小さく笑った。
某名作アニメでは鹿が『森の王』だったが,それも言い得て妙な設定だと思う。
には芯の通った気品があるが,表情や物腰に棘がない。
むしろ守ってやりたくなるような,支えてやりたくなるような空気を醸し出している。
柔らかな可憐さと,しなやかな品格が同居している。
「もう。せめて『子』は取ってください。土方さんと年もあまり違わないんですから」
しかし,当の本人は全く自覚が無いらしい。
たとえ狼に狙われていても…気付かずのんびり草を食べていそうな。
たとえ狼が忍び寄っていても…無邪気に蝶々を追っていそうな。
要は――『あぶなっかしい』。
「で,話を猫に戻しますよ。土方さんは肩に力が入りすぎています。そんなんじゃ猫はみんな逃げ
ちゃいますよ」
はそう言いながら微笑み,
「力を抜いて」
「!」
手のひらでふんわりと土方の背中を撫でた。
(…むしろ力が入っちまうだろーが)
じっと見つめてきたり,静かに撫でてきたり――彼女はそれが楽しいのだろうか。
(もし俺が同じことしたら…どうなるんだかな)
慌てるのだろうか。
戸惑うのだろうか。
それとも…嫌がるのだろうか。
鳥群の黒い影が,の髪の上を俄かに横切っていった。
彼らの甲高いさえずりは,花曇りの空へと昇っていく。
「お手本を見せますよ…にゃ,にゃ」
土方の密かな葛藤には気付かず,は猫の鳴き声を真似つつしゃがみ込んだ。
すると,芝生にいる虎猫は目をくりっと輝かせ,彼女に注目した。
「目線はなるべく同じ位低くして…ゆっくり動きます。いきなり動くとびっくりさせちゃうから」
はそう説明しながら,言葉通り緩慢に手を猫へと差し出した。
ぴくんと三角の耳を動かし,虎猫はそろそろと立ち上がる。
「それで,ぎりぎりまで手を近づけたら…向こうから寄って来るのを待ちます」
近づいてきた猫は,興味深そうに彼女の手を見つめると,丸い鼻先を指にくっつけた。
それから甘えるように自分の体をの手にこすりつけ始める。
はにっこり笑って,そのまま抱き上げた。
虎猫は特に嫌がることもなく,むしろ気持ち良さそうに彼女の腕の中で目を細めている。
「よしよし…と,こんな感じです」
「なるほどな」
ごろごろと喉を鳴らしている猫は,さっきまで自分を睨んでいた猫と同一人物(もとい同一猫)とは
到底思えない。ためしに土方も触ってみるが,やはり大人しくまったりしている。
(は動物になつかれるタチか)
優しげな目で猫をみつめる彼女を見ていると,土方の顔も自然と緩んだ。
「…お前になら虎とか大蛇もなつきそうだな」
「え!?む,無理ですよ。食べられちゃいます…」
ぎょっとしたように眉を上げ,は苦笑した。
「そうか?」
土方は猫の頭を撫でてやりながら,彼女に向ってにやりと笑った。
「少なくとも『狼』はなついたぞ,お前に」
鮮やかな羽色の紋黄蝶が,凍解の風の中をひらひらと飛んでいった。
は口を薄く開いた状態で,ぱちぱちと目を瞬かせた。
「…はい?」
「なついたけど――食いてェな」
「…え?」
「わからんならわからんでいい。まァ…いずれ,な」
ふわふわの毛並から手を離すと,虎猫は名残惜しそうに土方を見上げてきた。
もう1回撫でてやるか,と思い直して再度手を伸ばし――の指先に目を奪われた。
降り注ぐ陽光の中,まるで花弁のように柔らかな色調で光っている。
「爪,色塗ってんだな」
土方は何の気なしにの手をとり,しげしげと見つめた。
明るく澄んだ薄紅色で爪が彩られ,桃の花を模した飾りが薬指にだけ控えめに付けられている。
「珍しいな。普段こういうの,しねェのに」
「塗ってもらったんです。ネイリストを目指している友達に『練習台にさせて』って言われて」
「へェ。器用なもんだな」
「でも…男の人はこういう爪,あまり好きじゃないって耳にします。土方さんは…?」
少し不安そうに眉を下げ,小声では訊いてくる。
そういう表情で訊かれたら,たとえ好きじゃなかったとしても嘘をついてやりたくなるだろう。
もっとも…嘘をつく必要は全く無かったが。
「まァあんまりゴテゴテくっついてんのは好きじゃねェけど…このくらいなら」
土方の爪とは全く造りが違う――の細く小さな爪に,淡い花色は非常によく似合っている。
「きれいだ」
「…ありがとうございます」
「…」
嬉しそうに頬を染めたに,思わず目を見張った。
照れ笑いをした愛らしい子鹿…
…と,それに見惚れるダメな狼。
などというバカなフレーズが頭に思い浮かんだ。
そして,自分が彼女の手のひらを持っているということに,そこで初めて気が付いた。
離そうと反射的に思ったが,どこかに…心のどこかに「離したくない」という思いが確かにあった。
結局そのまま固まってしまい,離すタイミングを自ら失った。
「…」
「…」
無言で手をとり合っている2人の間で,虎猫は不思議そうに目を見開いている。
長閑な東風に乗って,沈丁花の甘い香が漂ってきた。
馥郁とした香が,ゆるやかに溶ける。
そっと触れているの指先を,握り締めようと土方は力を込めかけた――が。
「土方さん」
土方の手の中から,するりとの手のひらが抜けた。
「…?」
彼女はどうとも形容しがたい微妙な表情で一歩後ろにさがった。
そして――
「『おあずけ』」
――子鹿は笑った。
まるで春の木もれ日のように。
空いた土方の手の上に,は温かな毛玉を乗せた。
その毛玉,もとい虎猫はもぞもぞと土方の腕の中で動く。
みゅー……
「!」
猫の甘えた鳴き声が耳に入ってきて,土方はハッと我に返った。
「……あ」
「じゃあまた」
いかにも無害そうな微笑を浮かべ,はひらひらと手を振って踵を返した。
「…」
そのあまりに隙の無い所作に呆然とする。
(…ちょっと待て)
一体どこからどこまでが『素』なんだ。
どこからどこまでが狙ってやったことなんだ。
どうなんだよ。
どうすんだよ。
どうしたいんだよ。
「!」
堪らず叫ぶと,彼女はぴたりと足を止めてこちらを振り返った。
特に動揺した様子も無い。非常に愛らしく頭を傾げ,
「なんですか?」
「おまっ…!お前なァ…」
呼び止めた自分の方がうろたえているのだから,もうどうしようもない。
何を言うかなんて決めていなかったが,ふと思いついたことを口にした。
「『おあずけ』ができる狼なんて俺くらいだぞ!」
言った後で「しまった」と思った。これでは負け犬の遠吠えだ。もはや狼ですらない。
しかし,には効いたようだった。
彼女はハッと息を呑んで,口に手を当てた。それから少し考え込むように俯いて,ぱっと顔を上げた。
「狼さんを素敵だと思ってる鹿だってわたしくらいですよっ」
「!」
いつになく早口で,いつになく少々はすっぱには言い切った。
そして「さよならっ」と短く叫んで,今度こそ足早に去っていった。
「…」
ひょっとして照れていたのだろうか。
いやいや,もしかするとあれも演技か?策略か?計画的な犯行なのか?いや犯罪でもなんでもないが。
(まさかな…)
疑い始めたらきりがないし,疑ったところでもう遅い。
どんなに考えを巡らせたところで,結局自分は彼女について良いように解釈してしまうのだから。
にゃー…
いかにも「撫でろ」と言わんばかりの甘い声が響く。
「…ちっちっ」
喉元をさすってやると,虎猫はごろごろと満足げに喉を鳴らした。
なんにしろ,だ。
――可愛いふりして思いの外したたかなバンビらしい。
「…絶対ェそのうち食ってやる」
にゃっ…!
「ああ,大丈夫だ。お前のことじゃねーよ」
只ならぬ空気を感じ取ったのか,猫はびくりと体を揺らした。しかし,ぽんぽんと頭を撫でてやると
再び気持ち良さそうに体を預けてきた。ついにはウトウトと眠り始めた猫を見下ろし,土方は小さく
笑った。浮遊しているタンポポの綿毛が耳につき,虎猫はぴこんとそれを動かした。
春の鳥達のさえずる恋歌が,群鳴となって広場に高らかに響き渡っている。
――『狼』の意地に賭けて。
(…近い内に必ず仕留めてやる)
狼は 最近 バンビに くびったけ。
------------------------fin.
2009/03/08 up...
タイトルの元ネタはイザベル・アジャーニ主演の映画『可愛いだけじゃダメかしら』です。魔性の女ほど無害そうな顔をしているよね,って話(笑)。