しゃぼん玉 とんだ
空で 踊った
青の中 いき
預けて 癒えた


Soap Bubble


秋の爽やかな大気の中で,青空が高く高く晴れ渡っている。
澄んだ空気のせいか屋上からこうして眺める景色も,いつもより遠くまで見える気がする。
校庭から聞こえてくる体育の授業の掛け声も,気持ちが良いくらいによく響いている。
昼休みが終わった5時間目。わたしは屋上の中でも1番上――給水塔の前に1人で座っていた。
どうしても授業に出る気分になれなかったし,どうしても高いところに登りたい気分だったから。
本当は給水塔の上に立ちたかったけれど,さすがに怖くてやめた。
だからこうして屋上が見渡せる高い位置…ただし給水塔の上ではなく前に座っている。

「…いー天気」

青い空を見上げてぼんやりとわたしは呟いた。
1度空へ昇った呟きは,再びわたしに落ちて来る。

「いー天気」

そしてそれをもう1度空へリリース。
空とわたしのキャッチボールだ。
わたしはしばらくそうして空を見上げた後,首から下げているしゃぼん玉のボトルを手にとった。
通学路の駄菓子屋さんに売ってある至って普通のしゃぼん玉だ。
日の光に透かして見ると,ボトルの中でゆらゆらと泡の液体が揺れる。

――必然的に『あのひと』を思い出した。
しゃぼん玉で遊んでいた『あのひと』のことを。
あのひとをおもうだけで,幸せな気持ちになれていたのに。
今は――あのひとをおもうだけで,胸が痛い。とてもいたい。

「よしっ」

わたしは痛みを振り払うように掛け声を出して立ちあがり,しゃぼん玉の蓋を捻った。
蓋の部分がそのままストローになっていて便利だ(しゃぼん玉の世界も日進月歩なのかな)。
軽く息を吸い込んで,ストローに口をつけて…そして。

「ふーーっと」

柔らかく息を送り込むと,ストローの先からたくさんの泡玉が飛び出した。
赤や青や黄色や紫――光の具合によって様々な彩りに変わる虹色の泡が,秋空へと昇っていく。
ゆらゆらと。きらきらと。ふわふわと。
それから…ぱちん。
全部のしゃぼん玉が消えてしまう前に,わたしは次のしゃぼん玉を吹いた。
再び色彩々の泡が空へと飛んでいく。
しゃぼん玉は清涼な風の中で,気楽に気ままに遊んでいる。

「ふーーーっと」

わたしもなんだか気分が盛り上がってきて,しゃぼん玉を吹きながらくるくるとその場で回転した。
するとしゃぼん玉がわたしを中心にして円形に飛んでいく。
(あ,なんかすごい)
なんていうか…『変身中』って感じ。『美少女侍・トモエ5000』の変身シーンみたいなの。
無駄に花とか蝶とか泡とか飛ばしながら変身するでしょ。ああいう感じ。
自分で言ってて「ちょっと痛いな」て思うけど。
わたしはとりとめもないことを考えながら,くるくると回りつつしゃぼん玉を吹いていた。
そりゃもう地味にかなりのハイテンションで――――が。

「…?」

ふと視線を感じて下を見た。そこには,

「よォ,」
「…高杉君(うわっ眼帯王子だ)」

いつの間にそこにいたのか,同級生の右目がこちらをじっと見上げていた。
いつもは鋭くつり上がっている彼の瞳は,今はなぜか楽しげに細められている。
陽光を浴びた高杉君の黒髪は,さらさらと輝いていてすごくきれいだ。
学ランの下に着ている赤いTシャツは明らかに校則違反だけれど,彼にはそういう色や『校則違反』って
言葉自体がすごく似合うと思う。ポケットに手を突っ込んで気だるげに立っている姿もなぜか格好良い。
ちなみに『眼帯王子』という名称は,女子の間で密かに呼ばれている高杉君のあだ名だ。
本人はそういう呼び方をされるの嫌がりそうだから,高杉君の前では皆言わないけど。
その彼が,給水塔の前につっ立っているわたしを見上げている――にやりと笑って。

「白か」
「…え?」

いきなりなにを言い出すのか。ていうか何が?
わたしは首を傾げて彼を見下ろした――が,

「…っうぇええええ!?」

彼の視線の先がわたしじゃなくて,いやわたしではあるんだけど,わたしの目とか顔とかじゃなくて,
わたしのスカートの中だってことに突然気が付いた。
思わず叫んでスカートを押さえてしゃがみ込むと,「ククッ」と堪えるような笑い声が聞こえてきて
死にたい気分になった。
(あ―…最低だ)
でも頭を抱えていても見られたものは仕方ない。わたしはそそくさと梯子を降りて屋上に立った。
高杉君と同じ高さの目線になったところで,相変わらず同じ位置に立っている彼に近寄った。

「あの…高杉君。つかぬことを聞きますが」
「んだよ」
「い,いつから屋上にいたの?」

スカートの中を見られたこともかなり恥ずかしいけれど,しゃぼん玉で1人戯れているところを見られ
るのも同じくらい恥ずかしい。ていうか痛い。
わたしはおそるおそる訊いたんだけれど,

「30分くれェ前だな」

返って来た言葉はすさまじく無慈悲なものだった。

「う…嘘でしょ。だってわたしが来た時は誰もいなかったよ」
「あ?嘘じゃねェよ。俺ァ裏の方で寝てたからな。見えなかっただけだろ」
「ま,マジでか…」

自分の迂闊さを呪いつつ,それでも「もしかしたらしゃぼん玉で遊んでいるところは見てないかも。
寝てたんだし」と希望を捨てずに質問してみた。

「じゃあいつから見てた?」
「お前が無意味に回り始めたあたりだな」
「…忘れて。今すぐに忘れて(特にパンツのことを忘れて欲しい)」
「俺ァ原色系の方が好みだな」
「いや聞いてないから。あなたの好みとか別にどうでもいいから」

わたしがつっこむと高杉君は一瞬だけ右目を丸くして,それから面白そうに笑った。

「お前ェ,結構言う奴なんだな」
「え?『言う奴』って?」
「もっと大人しい奴だと思っていたんでなァ」
「あー…そう?」

返答に困ってわたしは頬をぽりぽり掻いた。
同じクラスとはいえ,わたしは高杉君とそんなに話したことがなかった。
1度だけ一緒に日直をしたことがあって,その時に事務的な会話をした程度だ。
高杉君はなにかと派手な噂の絶えない人だけれど,日直時の会話がわりとまともだったから,わたしは
彼に対して苦手意識とか恐怖心とかはあまりなかった。

「,それ貸せ」

唐突に高杉君はわたしの首にぶら下がっているボトルを顎で指した。
(え…しゃぼん玉を貸せって?高杉君に?)

「『それ』って…しゃぼん玉?」
「それ以外にあるめェよ」

呆れたように彼は苦笑する――いや普通に考えたらそりゃそうだけど,あなたがそういうことを言う
とは思わなかったんだもの。

「ちょっと待って…はい」

わたしはストラップを首から外して,しゃぼん玉を手渡した。
高杉君はさっきわたしがしたように日光にボトルを透かして見た(やっぱそれやるよね)。
それから蓋を開いてストローを取り出し,おもむろに口をつけた。
間接キスだ…わたしはちょっとドキドキするけど,高杉君はそういうの気にしなさそうだなあ。

「ふーーーーーっ」

高杉君が息を吹き込むと,しゃぼん玉の群がストローの先から飛び出していった。
わたしより肺活量があるからか,わたしの一吹きよりもずっとたくさんの量のしゃぼん玉が浮遊する。
わたし達の目の前が,一瞬にして光の球体でいっぱいになった。

「きれーだねー…」
「…そうだなァ」

わたしの呟きに高杉君が頷く。
のどかで緩やかな空間が,屋上につくられる。

「ふーーーーーっ」

もう1度高杉君が吹くと,さらにたくさんの泡玉が視界を埋め尽くした。
青空へ吸い込まれるように昇っていくしゃぼん玉たちは,まるでガラスで出来た風船みたいだった。
(ホントにきれい…)
わたしはしゃぼん玉から目を外して,彼の方を見た。
高杉君はいつも通りの斜視でしゃぼん玉を見つめている…でも唇の端が少し上がっている気がした。
おお…眼帯王子がしゃぼん玉で遊んでるよ(しかも結構楽しそうに)。
ひょっとしてこれってかなりレアな光景なのでは?

「んだよ?」

視線に気付いた高杉君が,怪訝な表情でこっちを見た。

「高杉君,似合うね。しゃぼん玉が」

わたしが思ったことをそのまま言うと,高杉君は眉を潜めた。

「…しゃぼん玉に似合うも似合わねェもねーだろ」
「そっかな?でも本当に似合ってるよ。なんていうか『絵になる』っていうか」
「…うっせ」

高杉君はぶっきらぼうにそう言い捨てると,ぷいっと明後日の方向を向いた。
その耳は少しだけ,ほんの少しだけどほのかに赤い。
…あり?照れてる?
ひょっとしなくても照れている高杉君ってのもかなり貴重な気が。

「ふふふ」
「…んだよ」
「ううん,なんでもないよ」

なんだか嬉しくなってわたしが笑うと,高杉君はフンッと鼻を鳴らした。
「可愛いなあ」なんて本人には絶対言えないけど,そう思ってしまった。
思っただけで口にはしなかったのに,そういうのは雰囲気で伝わってしまうのか…高杉君は無言で
わたしにしゃぼん玉のボトルを突き返してきた。
からかうつもりは全然なかったけれど,彼のプライドを少し傷つけてしまったのかもしれない。
心の中で「ゴメンネ」と謝って,今度はわたしがしゃぼん玉を吹いた。
(もう間接キスなんてどうだっていいや)
秋空で鰯雲が白く斑に波打っている。
その鰯雲に向ってしゃぼん玉を吹く。
笑っているかのように震えながら,しゃぼん玉は空へと踊る。

「なァ」

少し間を空けて,高杉君が話しかけてきた。

「ん?なに?」
「なんでこんなとこでしゃぼん玉吹いてたんだ?」
「…」

ぱちん。
目の前でしゃぼん玉が壊れた。

なにげない高杉君の質問は,わたしの心に影をさした。
彼の質問に傷ついたわけじゃなくて,彼の質問で色々なことを思い出しちゃって,胸が痛んだ。
『あのひと』のことを思い出して,
『あのひと』への想いを思い出して,
胸がずきんと痛くなった。

「…銀八先生がね,しゃぼん玉吹いてたの」

わたしはしゃぼん玉を吹くのを止めて言った。
1つ2つ3つ…次々と泡玉が弾けて消えていく。
わたしの言葉に,高杉君は意外そうに目を見開いた。

「銀八がァ?いつだ?」
「2ヶ月前。ここでね,1人で吹いてた」
「…へえ」
「それでね,好きになったの」
「………は?」

高杉君が思いっきり目を瞬かせた。まあその反応が普通だよね,うん。
自分でも「今の話の流れはおかしいな」って思った。わたしは自分自身に少しだけ苦笑して,

「しゃぼん玉吹いてる銀八先生を見て恋に落ちちゃったの。ふぉーりんらぶ」
「…お前ェの英語の発音が最悪だってことは,よっくわかった」
「そんなことわたしだってわかってるよ。ほっといて」

あれは――まだ日差しの強い残暑だった。
真っ青な空の下,焼けたアスファルトが眩しい屋上で。
あの人は1人しゃぼん玉を吹いていた。
銀色の髪がきらきら光っていて,
白衣の裾が風にひらひらたなびいていて,
その周囲をしゃぼん玉がふわふわ舞っていて。
緩やかな曲線を描いた先生の双眸が,しゃぼん玉を愛しそうに見上げていた。
――あの瞳が自分を見てくれればいいのに――
気が付いたらそう願っている自分がいた。

「でもね,今日見ちゃった。電話してるとこ」
「『電話してるとこ』って…そりゃ銀八だって電話くれえするだろ」
「きっとね,彼女と電話してたと思う」

あの時の瞳だった。
電話している時の,銀八先生の目は。
とてもとても大事なものを見つめる時の…目をしていた。

「目とか声の雰囲気でなんとなくわかったの」
「…」

わたしは高杉君に向って無理に笑おうとしたけれど,弱々しい笑みにしかならなかった。
これじゃ笑わない方が良かったかもしれない…高杉君の表情が少しだけ曇ったもん。
自分の行動に少し後悔しながらも,わたしは言葉を続けた。

「それで…ここでね,お葬式しようと思って」
「…葬式?」
「うん,わたしの――」

何の前触れもなく強い風が吹いてきて。
わたし達の目の前で…音も無くしゃぼん玉が弾けた。
最後の1つだった。

「わたしの恋のお葬式」

グラウンドからホイッスルの音と同時に歓声が響いた。何か試合でもやっているのかもしれない。
澄んだ空気の中を駆けぬける音はとても清々しかった。
わたしの心とはまるで裏腹に。

「だからこれはね,弔いのしゃぼん玉なの。冥福を祈るためのしゃぼん玉」

わたしは静かにストローへ口をつけた。
ゆるゆると息を送り込むと,ストローの先からふわふわと泡玉が膨らむ。
思いのほか大きく大きくそれは膨らんで,ぷつりと先から離れた。
高杉君とわたしの顔を映したしゃぼん玉は,怖がることなく空へ昇っていく。
いつ弾けるかわからない。いつ壊れるかわからない。
それでも,なにも恐れない。
ただ舞い上がっていく。

「」
「ん?なに?」

その大きなしゃぼん玉を見上げていた高杉君がわたしの方を見た。

「それもう1回貸せ」

貸せ,と言った時には既にわたしの手からボトルを奪っていた。
訊く意味ないじゃん…君はジャイアンですか!高杉君ってせっかちなんだなあ。
ていうかそんなに気に入ったのかな,しゃぼん玉。
わたしは「ムッとした」のが半分,「ちょっと笑える」のが半分な心境で高杉君に訊いた。

「そんなにしゃぼん玉好き?」
「違ェよ。そんなんじゃねェ」

高杉君はしゃぼん玉を吹きながら否定した。吹き出された虹色の球体が盛大に風の中を浮遊する。
(えー…絶対気に入ってるでしょ)
素直じゃないなあ,なんて思いながらわたしが彼の横顔をじっと見つめていると,

「これは俺が吹いてやらァ…だから,」
「だから?」

高杉君はぴたりと吹くのを止めて,わたしの方を見た。
彼の右目の中に,わたしが映っている。
きっとわたしの目の中には,彼が映っているんだろう。
黒曜石のような瞳が,じっとわたしを捕らえている。
しゃぼん玉のようにすぐに消えたりしない,きっとずっと輝いているだろう瞳の光。
あまりに澄んでいて,わたしはどうしていいかわからなくて,見つめ返すだけで精一杯だった。

「お前は泣け」

美しい瞳をもつ人が,驚くほど穏やかな声でそう言った。

「は泣けよ。それが1番の『弔い』なんじゃねーの?」

秋空を背景に 眩しかったのは…
しゃぼん玉の虹色なんかじゃなくて。
真剣な男の子の 透き通った右目。

どこか遠くで鳥達が甲高く鳴いているのが聞こえた。
きっと,彼らはしゃぼん玉よりもずっと高い所を飛んでいるんだろう。

「そんな…すぐには泣けないよ」

やっとのことでわたしはそう言った。
喉が震えてしまって言葉にしづらかった。
心は言葉になってくれなかった。

「泣くまで吹いててやらァ。それにお前すぐに泣きそうだしな」
「…泣かないもん」
「泣けや」

ものすごく偉そうな言い方なのに,ものすごく優しい言葉に聞こえた。
わたしはグッと胸の中心を掴まれたような感覚に陥った。
息が苦しくて,喉が熱くて,瞼の裏が重い。
どうしようもなく切なくなって,わたしは上を向いた。
そこには青い絵の具を零したかのように真新しい空が広がっていた。

「空って青いねー」

誰に向って言ったのか解らない,ひょっとしたら独り言だったのかもしれない。
行き場の無いわたしの言の葉は,みるみるうちに風に流されていく。

「しゃぼん玉ってきれーだねー」

本当に悔しいほどに晴れ渡った空だった。
その青の中を透明な風船がふわふわと漂っていく。
心優しい少年によってつくり出されたしゃぼん玉たちが…ふわふわと。

「高杉君ってやさしーねー」
「…ああ?」

じっと黙っていた高杉君もこれには反応してわたしの方を見た。
そして――わたしの顔を見た彼が固まったのが目の端に映った。

「空は青くて,しゃぼん玉はきれいで,高杉君は優しい」

まるで宇宙の法則のように,わたしはテンポよく言ってみた。
…テンポよく言おうと努力した。
けれども鼻声になってしまって,情けなさを露呈しただけだった。

「…」

高杉君は,ひどく慎重にわたしの頬へと手を伸ばした。
ほんの一瞬だけ触れた指先が,滴を拭ったのがわかる。
熱いものにでも触れたかのように,高杉君はすぐに手を引いてしまった。

「そして…わたしは悲しい」

ぽろぽろと頬を滴が零れ落ちた。
それと同時に高杉君はわたしの頭をくしゃくしゃと撫でた。
それは犬の頭でも撫でるかのような,あまり情緒とか色気のある撫で方じゃなかったけれど。

「悲しいんだよーー…」

あまりに親しい手のひらだったから。
あまりに優しい感触だったから。
わたしはすごく泣けてきて。

恥ずかしいくらいの大声で,わたしは泣き出してしまった。

その間,高杉君はずっとわたしの頭を撫でてくれていて。
今度はそれが嬉しくて,涙が止まらなくなった。


涼やかな日差しと
舞い上がる泡玉と
頭に乗せられた温かい手のひらと。

わたしの恋のお葬式は
これ以上ないという程に穏やかに
幸せに 終わった。

まるでしゃぼん玉が消えた時みたいに
寂しさと懐かしさを残して。

でも…きっと。
次はもっともっと高く。
ずっとずっと高いところまで飛んでゆこう,と。

彼の手のひらに包まれて
わたしはひとり予感を抱いた。

やさしい予感を 胸に抱いた。


----------------------------------fin.


2008/11/04 up...
しゃぼん玉と花火って,見ている時の高揚感と終わった時の寂しさが似ている気がします。