清き記憶


「え?…今,何て?」

呆けたような彼女の声を聞いて,僕は思わず溜息をつきそうになった。
できれば…聞き返されたくなかったから。
でも聞き返されてしまった以上,もう一度言わないわけにはいかなくて。
僕はすうっと息を吸い込んだ。

「江戸に…」

なるべく冷静な声音になるよう心掛けて,彼女にそれを告げる。

「江戸に行くことになったんだ」
「…!」
「先生が推薦状を書いてくださって」
「…」

彼女は僕の言葉に小さく息を呑み,目を丸々と見開いた。
(…泣く,かな)
学問所で唯一女の子の彼女は,僕の唯一の友達でもあった。
僕らは…似たような痛みを,お互いに抱えていたから。

「そっか…そうだよね。ここは,鴨太郎君には狭すぎるよね!」
「!」
「おめでとう!よかったね!」
「…う,うん。ありがとう」

僕の予想に反して,彼女はにこやかに笑った。
「そっかあ」と繰り返し頷きながら,傍らの小石をもてあそんでいる。

彼女は――学問所の男子から「女のくせに」と謗られ,よく苛められていた。
まだ「女が学問をおさめても意味がない」と言われる時代であり…そういう地方だった。
学舎の裏で隠れて泣いている彼女を見つけては,その都度僕は慰めた。
彼女は声を押し殺して泣くから,いつも見つけるのが大変だった。
だから――

「江戸でなら鴨太郎君の才能,きっと目一杯発揮できるよ!」
「…うん」
「わたし,応援してるよ!ずっと!」
「…」

だから――きっと 泣くと思った。
泣いてくれると 思った。

応援する,と笑って言ってくれるのは嬉しかったけれど。
泣かれたらどうしよう,とも確かに思っていたはずなんだけれど。
内心…僕は少し傷ついていた。

「手紙いっぱい書くね!江戸に行っても鴨太郎君が寂しくないように」
「それはいいな。君の文章は誤字脱字が多いから。読むと気が和むよ」
「あっひどい!」

皮肉を言うと,彼女は怒ったように僕をぶつふりをした。
でもすぐに元通り笑顔になって,僕から目をそらした。
そして,手に持っていた小石を前方の川に向かってぽんっと投げた。

「鴨太郎君も,手紙ちょうだいね!」
「…」

飛沫を立てて 小石が川に沈んだ。
川は何事もなかったかのように,さらさらと流れてゆく。

「時々で良いよ!たまにで良いよ!あ,でも読みにくい漢字は使わないでね。
 鴨太郎君はいっつも難しい言葉ばっかり選んで使うんだもん。
 そんな難しい手紙,お断りだから!」

彼女はつとめて明るい声で,そう捲し立てた。
…ちっとも寂しそうじゃない。

僕は――少しどころじゃなく傷ついた。
彼女は…彼女だけは,寂しがってくれると思っていたから。
いかないで,と。
そう言ってくれると 信じていたから。

「べつに…」

胸に怒りのようなものが込み上げてきて,僕は小石をぎゅっと握り締めた。

「べつに,難しい言葉を選んでなんか…!」
「…うそ」
「…え?」
「お断りなんて,うそ」

急に口調が下がったので,僕はハッとして彼女の方を見た。
彼女は膝を抱えこみ,ぼんやりと川を眺めていた。
…かと思うと,膝の上に額を押し付けるようにして俯いてしまった。

「どんなことでも,いいよ。
 いいよ,何書いても。
 どんな手紙でも,わたしは…」

ああ…そうだった。
彼女は――すぐには泣かないコだった。
苛められている時には絶対に涙を見せないで,その後に…隠れて泣くコだった。

きっと――我慢するつもりだったんだ。今日も。
後で,泣くつもりだったんだね。


「大事にするから」


でも――今日は 堪えきれていないね。


「だから…手紙ちょうだいね,きっと」
「…うん。約束するよ」
「きっとよ」
「…うん」

彼女は俯いたままだったけれど,小さく鼻をすすりあげる音が聞こえた。
僕は彼女が泣いている時いつもそうしたように,彼女の頭をそっと撫でた。
(僕がいなくなったら…誰が彼女の頭を撫でてあげるんだろう)
そう思うと,僕もひどく泣きたい気持ちになった。

ふと――水辺に咲く黄色い花が目に入った。

「あれ,あの水仙」
「…え?」

僕の声に,彼女は顔をあげた。
目の周りが真っ赤になっていて,瞳からぽろぽろと涙が零れていた。
その潤んだ双眸が,僕の指差した方に向けられた。

早春の陽光の中,黄色い水仙が数本寄り添うようにして咲いていた。

「…?水仙のお花がどうしたの?」
「あの水仙に誓うよ」
「?」

僕は彼女の手を引いて立ち上がり,一緒に川の方へ歩いた。
そして,水仙のすぐ側でもう一度屈んだ。
彼女もしゃがみ込んだのを横目に,僕は水仙の花弁に触れた。

「この水仙の花に約束するよ」
「…うん」
「絶対手紙を書くって。ずっと書き続けるって。この水仙に誓うよ。だから…」
「…」

だから…
だから…?

僕の言葉は,そこで止まってしまった。
(だから…なんだろう)
自分自身に問いかけてみる。
でも,涙でいっぱいになっている彼女の瞳を見ていると,どうにも思考がまとまらなかった。

僕は――彼女に言うべきことがあった。

江戸へ発つ前に。
ここから 離れてしまう前に。
彼女から 離れてしまう前に。

言わなければならないことが あった。
でも――


「だから…泣かないで」


――口から紡がれたのは 違う科白で。
空回った言葉は 胸の奥で複雑にもつれてしまった。

「…うん」

それでも…彼女は笑ってくれた。
袖でごしごしと目元をこすると,鼻を真っ赤に染めたままでにっこりと笑った。

「わたしも…絶対に手紙送り続けるね」
「…うん」

ああ…どうか。
もう一度…

「お習字もっと頑張って,鴨太郎君みたいにきれいな字を書けるようになるよ」

もう一度…会えるなら。
今度は 言葉を間違えませんように。


「わたしも,この水仙に約束する」


もう一度 会えるなら。
今日 言えなかった一言を
今度は 告げることができますように。


「またね,鴨太郎君」
「…うん」


――またね。


光流れる水面を背に,黄水仙たちは静かに風に揺れていた。
まるで 笑うように。
まるで 頷くように。
まるで…泣きじゃくるように。
いつまでも――

――いつまでも。




水仙(黄)の花言葉…「もう一度愛して欲しい」「気高さ」「自尊心」
          あの頃の僕らは,「またね」をいとも簡単に信じていた。


2010/9/20 up...
八代目・拍手お礼夢その2。