浮橋
「十四郎さま」
柔かな吐息で囁かれ,耳を柳の枝で撫でられたかのようなくすぐったさに,俺は寝床の中で首をすくめた。
暦の上ではもう春とはいえど,夜明け前の空気は氷水のように冷たく冴え渡っていた。
正直言って,月もまだ空に残るこんな時間に起き上がりたくなどなかった。顎の下にある衾を引き上げ,
頭までかぶった。いかにも大儀そうな俺の仕草が面白かったのか,柳枝の声の持ち主がくすっと笑うの
が聞こえた。そして,
「十四郎さま,もうお支度をなさらなければ。夜が明けてしまいます」
「ん…」
今度は声をかけられるだけでなく,寝具の上から遠慮がちに体を揺すられた。
朝まだき…夜闇が薄らぎ始めた時分。
婚家の屋敷とはいえど,婿が朝まで長居するのは無粋とされるのが現代の――平安の世の慣しだった。
重い瞼をゆっくり開くと,褥の側に座る妹背の君・の姿が視界に映った。薄目の俺と視線を合わ
せ,は梅の花が綻ぶかのように笑んだ。ほんの少し顔を傾けたことで,豊かな黒髪が重たげに襲の
上を流れ落ちた。
「お目覚めでいらっしゃいますか?」
「…ああ。残念ながらな」
「え?」
俺は欠伸を噛み殺しながら身体を起こし,妻の白い頬に手を添えた。ひんやりと冷たいの肌に,
今しがたまで夜具の中にあった俺の温い手のひらが,ぴたりと吸い付いた。妻の黒目がちな瞳を真直ぐ
見て,俺はしみじみ呟いた。
「夜が明けるのが恨めしいったらありゃしねェな」
「まあ…ふふ」
はほんのり顔を赤らめた――白雪に桜花を散らしたかのようだ。
そろそろと俺の頭に手をのばし,細い指で髪を数度撫でた。そして,
「そんなにお眠いのですか。いくつになられても幼子のようなお方ですね」
「…ばか」
そういう意味で「夜明けが恨めしい」などと言ったわけではない。いや,たしかに眠いといえば眠いが。
(お前と離れなきゃならねえから,恨めしいんだよ)
目前で微笑している妻とは筒井筒の仲だが,こいつこそいくつになっても幼子のようだ。
…のんびりしていて危なっかしいったら。
は黙り込んだ俺の唇を,人さし指でそっと突き,
「私も恨めしいです。夜が明けなければ,あなたをお帰ししなくていいもの」
「…」
なんとも可愛らしい小声で,なんとも可愛らしいことを俺の耳に囁いた。
…やはり幼子じゃねェな。
立派な女だ,こいつは。まあ,俺が女にしてやったんだが…いやいや。
妻が自分と同じく「離れたくない」と思っていたと知り,俺の思考はついつい下世話な方向へと傾き
かけるが,咳払いをしてなんとかごまかした。
「離れたくなどありませんが,日が高くなってからお帰ししたとなっては浮名を流すことになりますわ。
私の名など惜しくはないけれど,十四郎さまの恥になりましては……っ!」
の息を呑む音が,妙にはっきりと聞こえた。
全く何の前触れもなしに,俺が彼女を腕の中に閉じ込めたのだから,驚くのも無理はないのだが。
を抱いたまま,俺は格子の向こう側へと視線を投げた。
「そんなことより見ろ。有り明けの月がきれいだな」
「…もう」
襲の上からでも華奢だと知れる肩が,吐息と共に揺れた。と同時に,の体からふっと力が抜けて,
代わりに俺の胸に柔らかな重みが掛かった。鬱陶しい程に長く重たいその黒髪を,俺は片手で弄んだ。
の衣に焚かれた梅の香が,暁の月光の中をゆるりと漂うのを感じつつ,俺はふと問いかけた。
「」
「なんですか?」
「その…もう懸想文は貰ってねェな?」
「…まあ」
「笑うなよ」
「だって…ごめんなさい」
謝ってくるものの,まだ笑っている。俺がむすっと口を閉じると,彼女は一層くすくす笑った。
子どものように嫉妬を露にしてしまったのは恥ずかしいが,その感情に偽りはない。
俺の中の嫉妬心を激しく煽るほどに,妻は少女のように愛らしく,そして美しかった。
「何度も言うけどな,お前は色々と噂になってたんだよ。俺と契る前までは恋文を腐る程送られていた
だろうが」
「ち,契る前って…もう。そんなあけすけな言い方おやめになって」
の頬にさっと火がともり,咎めるかのように目が少し細くなった。が,俺は構わず話し続けた。
「お前は箱入り娘だから知らねェだろうけどな,世の中には遊び人の男もたくさんいるんだよ。武勇伝の
箔付けに平気で人妻に手ェ出す輩がな」
「はあ…」
「『はあ』じゃねェよ」
本当に呑気な奴だな,と俺が溜息をついても,はおっとり笑うだけだ…これだから困る。
平安の現世,「どこそこの姫の手蹟は見事らしい」だの「やれそれの姫は大変長い髪をお持ちらしい」
などと言った噂話が,恋愛においてものを言う。いい女の噂話を聞きつけた男は,せっせと文を送りつけ,
女の気をひこうとするのが恋愛初期の常套手段。
そんな中,自分の妻がいつまでも人の噂になり続けているのは,気が気じゃない(むしろ不愉快)。
なにしろ現代はとにかく『自由』なのだ。男も女も。
「男は女の元へ自由に通い,女は男を待つだけ」というのは大間違い。いや,確かに「一人の女しか愛さ
ない男はつまらない堅物」みたいな空気はあるが(俺はしないぞ)(つまらない堅物で結構だ)。
そりゃあ男も自由だが,女だってかなり自由な恋愛を楽しめるのが現代なのだ,実は(まったく)。
だから噂好きの暇人貴族共が,の話をしているのを耳にする度に「妻の噂をするな」と睨むのだが,
「土方さん,アンタがそういう風に嫉妬を露にするのも,噂が絶えない原因の1つですよ」
と,右近少将・沖田には揶揄された。
「『鬼の中将』と恐れられてるアンタが,妻の話になるといちいち狼狽するから。『あの中将があんなに
夢中になる姫はさぞ美しいに違いない』って。悩ましいですねィ。ざまみろ」
…清々しいくらいに腹立つな,あいつ。
いやしかし面と向かって言ってくる分,あいつはまだマシなのだ。特に腹立つのは――
「特に帥の宮は――高杉殿は本当に…」
あの宮は噂話に積極的に加わってくるような浅薄な御人柄ではないのだが。
しかし,多くの女人と浮名を流し「物語の源氏の君もかくやあらん」と宮廷で囁かれている宮様だ。
たしかに顔は良いわ,血筋も良いわ,歌も上手いわ,楽器も舞も絵も上手いわ…天はあの宮に何物お与え
になったというのか。
しかも…浮名を流す相手は全部『極上』と噂される女ときている。
噂話に加わって来ないくせに,女の情報はしっかり仕入れているらしい(腹立つ)。
「あの宮は油断ならねェ」
もう半年近く前になるか――俺が「我が妻の話をするのはやめていただきたい」と他の奴らを蹴散らす
横で,高杉は何を言ってくるわけでもないが,不敵な笑いを浮かべていた。
唇の端を歪めてもなお美々しい宮様は,俺と目が合うと――ぱらりと扇を広げ,口元を隠した。
けれども,その冷たく甘やかに笑う右目を隠せてはいなかった。
「お前の側仕えの女房を篭絡させて,手引きをさせるくらいのことをあいつならやりかねない」
「十四郎さま」
「!」
両の頬を柔らかい手のひらで包み込まれ,俺はハッと息を呑んだ。すぐ目の前で,しっとりと潤んだ双眸が
ささやかな光をにじませていた。
は両手で俺の頬を二度撫でた。ゆっくりと,二度。
その手のひらは,ぐずる子供をなだめるかのように大きな優しさに満ちていて,それでいて有無を言わせ
ない強さをも潜めていた。
「そんなにおっかないお顔をなさるから『鬼の中将』だなんて呼ばれるのですよ」
心配と,からかいと,少しの咎めと,そして…大きな慈しみと。
の声はそれらすべてを含んでいた。
照れくさいようなバツが悪いような,なんとも言い難い心持ちになって目を逸らすと,俺の頬を包み込む
の手に少し力が篭った。
「本当はとてもお優しいのに」
「…優しくねェ」
「お優しいですよ」
お前にだけだ――なんて,そんなこと口に出して言えねェけど。
「ふふふ」
こいつには,全部ばれているのかもしれない。
にこうして微笑まれるだけで,俺の中の醜い嫉妬心や苦悩がいとも簡単に溶けていく。
我ながら単純にも程がある。「いくつになっても幼子のよう」なのは,やはり俺の方なのか。
ったく…俺にも少しは格好つけさせてくれ。
この調子じゃ一生負けっぱなしだ。
「…妙なこと言って悪かった」
「いえ」
「鳥羽から戻ったら,すぐにまた来る」
「…はい」
今日の昼過ぎに,俺は鳥羽にある別邸へ発つことになっていた。というのも,ここ数日間,母上の体調が
あまり良ろしくなく「土地を変えたい」とにわかに言い始めたのだ。それほどの重病ではないようだが,
『病は物の怪がつれてくる』といわれる現世,妖の物から逃れるために居所を変えたいというのもさして
珍しい発想ではない。んで,その鳥羽の別邸へ行くにあたり,母上は俺にもついて来て欲しいとのことで…
正直,いい加減息子離れして欲しい。でも,病気の母上をないがしろにするわけにもいかねェし。
「お待ちしていますわ」
は穏やかに微笑んだ後,俺の胸あたりに額をあてて「早く戻ってきて」と小さな声で呟いた。
…こういう風に甘えられると,是が非でも早く帰って来なければ,と強く思う。
でも,俺が「行くのやめるか」と言うと,「母君を大事になさらないと」とぴしゃりと言い放たれた。
(このままじゃ本当に一生負けっぱなしだな)
それも悪くねェな,と思っているのだから世話はない。
俺はの髪に唇を沿わせて,ふと視線を空へと上げた。
徐々に薄らいできた明け方の空に,淡雪のような月が弱く光っていた。
なんとも綺麗な光だが――今にも消えてしまいそうで,不安になる。
美しく儚いものは,いつだって人を不安にさせる。
そういう類のものに対しては…「いなくなるな」と。
人は ただ そう祈るしかないのだ。
+ + + + + + + +
凍りついた夜天の下,吹きすさぶ氷風を断つようにして,琴の音が凛と鳴り続けている。耳を撫でるその
音色はひどく優しいが,柔和さの中に一筋の意思の強さが窺えた。なよやかな柳の枝が,雪の重みに耐え
かねて曲がっても,ぎりぎりまでしなって決して折れないように。
優美で凛々しい音だ――この音色を奏でる主の気性もそうなのだろう。
(なるほどねェ…たしかに見事な琴の腕だ)
品よく整えられた前栽に身を隠し,俺は琴の音に耳を澄ませていた。閉じていた瞼を開き,前栽の間から
建物の内を覗き見た。家格の高い名門貴族のお屋敷にしては,部屋の中がやたら薄暗い――まあ,俺が
あらかじめ「芯を短めに切り,隠れている俺に気付かれないようにしておけ」と,姫君の女房の一人に
言い含めておいたからなのだが。それに「姫に琴を弾かせて俺に聞かせろ」とも言っておいた。
既に通う男のいる女君に手を出す場合,その女君の女房をこちらの味方につけておけば色々と都合が
良いのだ。薄明かりの中こちらに背を向けて座っている姫君を,俺は格子の隙間から右目で見た。
(豊かな黒髪って噂も,本当だな)
<中将の妻女の髪は,御身丈よりもなお一尺あまり 滝のごとく流れるばかり>と,噂で聞いてはいたが。
貴族の子女が滅多に顔を男に晒さない(つーか結婚するまで晒さない)現代,その姿形を知るには噂を
あてにするしか無いのだが。この噂話がくせもので,絶世の美女と評判な女君にいざ逢ってみたら醜女
だった,という話はぞっとしない。女房らがよく話題にしているかの『源氏物語』の末摘花の例をひく
までもないだろう。とりあえず「琴の名手」と「素晴らしい黒髪」という,姫君に関する噂の内2つは
本当だと知り,俺は胸を撫で下ろした。
せっせと文を送り続けたというのに,女房を篭絡させたというのに,いざ逢ってみたら醜女だったなどと
笑えない。泣ける。俺は面食いなのだ。見た目は良いに越したことはない。
(まァ…一度も返歌を頂戴したことはないが)
こちとら半年もの間,密かに文を送り続けているというのに,中将の妻女は情のこわいお人らしい。
一度も返事をもらったことはない。鬼中将の妻への執着ぶりは,宮廷でもなにかと噂に上っているし,
おそらく妻本人にも「浮気するな」と口酸っぱく言っているのだろう。器の小せェ男だな,ったく。
(その煩い夫も,今日は京にいねェという)
土方の不在を伝え聞き,こうして忍び込む計画を練った。手を出すなら今夜だ。
俺があれやこれや考えている内に,いつの間にか琴の音は止まっていた。
中将の北の方は,一番近くにいる女(年齢からして多分あれが腹心の女房だろう)に何事か告げると,
衣ずれの音を立て静かに移動し始めた――そろそろ御自分の部屋に帰るつもりなのか。
その時,別の若い女房が腹心の女房に声をかけた。短い間2人は言葉を交わし,腹心の女房は姫君に申し
訳なさそうに頭を下げた。姫君はというと「気にしないで」とでも言うように頭を振り,お1人で部屋
を後にした。部屋には腹心の女房と,若い女房だけが残った。
(――よし)
俺は2人が部屋から出ないのを見届け,そっと姫の後を追った。何を隠そうあの若い女房が,俺の密かな
味方で,「姫君腹心の女房殿を夜通し引き止めておくように」と命じておいたのだ。
姫君の部屋が東の対屋だということも,聞いている。なにせこの大きな屋敷だ。狙う女の部屋の情報は
必要不可欠なのだ。
俺は庭を回り込み,姫君よりも先に東の対屋へと足を踏み入れた。寒空の下でずっと潜んでいた身には,
部屋に「風が入らないこと」,ただそれだけでも十分に温かく思えた。灯台には火がいれられてあるが,
油が足りないらしく明りはおぼろげで頼りない――これも,俺が女房に言っておいたことだ。
俺は練絹に朽木形の几帳の裏に回り,そっと息を殺した。
少し時の過ぎた後,するすると衣ずれの音が聞こえ,ことりと部屋の戸が開かれた。几帳の裏から様子を
窺うと,予想通りそこにいたのは中将の北の方で(そうでないと困るのだが)用心のためなのか,妻戸の
掛け金をかけた。
(鍵をかける方が危険だぜ,姫さん)
誰も入れないからな――あんたと,俺を残して。
姫がこちらを振り返ったため,俺は再び身を隠した。もう少しこちらに近づいてから,顔を出すつもり
だった。姫君は静かに几帳の方へと移ってきた――が。
突然ハッとしたようにお顔をあげた。
「沈香…だ,誰っ?」
初めて聞いた声は,少女のように頼りなげで愛らしかった。あの凛とした琴の音の主とは思えない。
良い意味で予想に反しウブそうな声に,俺の気分は高揚した。
(それにしても,失敗したな)
自分の衣に焚き染めてきた沈の香を,俺は少しだけ悔いて舌打ちした。現代は,香がすなわち個性なのだ。
人それぞれに好む香があり,土方には土方の,姫君には姫君の香がある。
身に覚えのない男物の――俺の香に気付いた姫は,怯えたようにきょろきょろと部屋を見回している。
「土方中将の北の方はお鼻がよろしいな」
「!!!」
姫がこちらを向いていない時に几帳裏から出て,俺は背後から彼女をはがいじめにし,その口を塞いだ。
びくりと細い肩が震え,こちらを振り返ろうとしているのか,それとも振り払おうとしているのか,姫は
全身でもがいた。非力な姫君に顔を近づけ,俺は低い声音で囁いた。
「そう暴れるなよ。今,人に見られて恥をかくのはあんたと土方だぜ」
夫は鳥羽の別邸に行っている最中。まるで夫の留守をねらって愛人を引き込んでいるかのようだな。
どう言い繕う,と。そう脅しをかけても姫君はひたすらもがき続けていた。
「んんっ…!」
「そんなに暴れんなって…俺はもう半年も前から,あんたに文を差し上げてたんだ」
「!」
俺がどこの誰か,気付いたらしい。一瞬,姫は黙り込んだ。
こっちは半年もの間,文を送っていたのだ――覚えているはずだ。この姫も。
一度も返歌はなかったけどな…。
「ま,俺が誰かなんてどうでもいいか。俺は…そうだな。あんたの琴の音に惹かれ迷い込んだ,ただの
羽虫さ」
姫君の衣に焚かれた梅の香が,ほのかに俺の鼻をくすぐった。梅を主体として,他にも何かを混ぜ合わせ
ているらしい。その組み合わせは明確にわからないが,よく練られた,これまで聞いたこともない美しく
かぐわしい合わせ香の匂いだった。姫の趣味のよさ,教養の高さが窺え,ますます興奮が高まった。
「今から手を離すが,騒ぐなよ。念を押すが,人に気付かれて噂されるのは,俺じゃなくあんたと中将だ…
…いいな?」
俺は既に『現世の光る君』と噂されている男だ。今更人妻と噂になったからといって痛くも痒くもない。
でも,堅物の土方中将やその北の方はどうだ。俺よりも物笑いになるのは目に見えている。
たとえ「帥の宮が無理強いをした」というのが真実だったとしても,それを証明できる手段などない。
それに――いうまでもなく,俺の方が血筋はこよなく良いし,位も高いのだ。
俺は姫君の口,体からゆっくりと手を離した。姫君はみっともなく騒いだりなどしなかった。
数度だけ深く呼吸を繰り返した後,気丈にもすっと背筋を伸ばし,こちらを振り向いた。
ただし,檜扇をばっと開き,お顔を隠して。
「…」
「…フッ」
良家の子女として当然といえば当然の反応なのだが,思わず笑みが漏れた。この状況で,顔を見られずに
済むと,本気でそう思っているのだろうか。
「なあ…もう一度,声をくれよ。あんたに焦がれた哀れな羽虫に」
「あ…!」
俺は檜扇を持ったその白い手をぐいと引っ張って下ろさせた。姫はもう片方の袖で顔を隠そうとしたが,
その手も握り締めて自由を奪った。これで正面から顔をはっきり見ることができる。余裕をもってその
お顔を見据えると,こちらを睨み上げる双眸が怒りで仄かに燃えていた。けれども,元々は優しげな目元
をしているのだろう。睨まれてもそれほど怖くない。むしろどことなく可愛らしい。
「…酷いことを,なさるのね」
「ああ。やっぱり綺麗な声だな。鈴の音みてェだ」
「…お帰りになって」
姫君はふいっと俺から目をそらした。透けるような白い肌,切れ長な一重の目をびっしりと縁取る睫毛。
今のように伏し目にしていると,濃い睫毛が柔肌に淡い影を落とす。
噂通りの――いや,噂以上の美しい姫君だ。
「今なら,誰にも申し上げませんわ。世間の噂になるのは私達夫婦だとあなたはおっしゃいますけれど…
あなただって物笑いの種になるのは免れませんよ,帥の宮 高杉様」
「…違いねェ。姫は頭がよろしいな」
「…」
「けど,俺はもう慣れてんだ。宮廷の能無し共もせいぜい『またあの宮か』って思うだけだろうよ。だが,
土方中将はどうだろうな。あいつは浮いた噂を何一つ流さねェ奴だ。そういう奴が噂話に上ったらさぞ
騒がれるだろうよ。『あの堅物が妻を寝取られた』ってな。俺よりも大騒ぎされるのは目に見えてる」
それらしい言葉を並べ立てながら,俺は俯く姫君のお顔を下から覗き込み,無理矢理目を合わせた。姫の
瞳に怯えた色が一瞬だけ浮かんだが,すぐにまた凛とした光を宿して俺を見返してきた――面白い。
「あんたもだぜ,姫。『夫が鳥羽に行っている間に愛人を引き込んだ好き者』…なんて噂される
かもしれねェな」
「私の噂など…」
「ん?」
「私の噂など,どうでもよいことですわ。十四郎様は噂話などに惑わされる方ではありません。きっと
私を信じてくださる。それだけで,私は構いません。他のどなたがどこで何と私を謗ってなさろうと,
どうでもよきこと」
最初に聞いた可愛い声とは全く違う,芯の通ったような,それでいてしっとりしている声音でぴしゃりと
姫は言ってのけた。なるほど…やはりあの琴の音の持ち主だ。なよやかで控え目だが,頭は良く,実は
お気も強そうだ。
「でも,十四郎様が不名誉な噂を立てられるのは我慢なりません」
「…中将は良い妻をお持ちだな。羨ましいねェ」
姫は不意に俺の手を払いのけて後じさった――しまった。油断していた。
自分でも気付かない内に手の力を緩めていたらしい。もう一度,と思い一歩姫君に近づこうとした…が。
「お近寄りにならないで」
俺は思わず足をぴたりと止めてしまった。
女に何か命じられてその通りに従ったことなど,生まれて初めてのことだった。
姫君は部屋の冷気を打ち払う,威厳のある熱い声で,
「私は土方十四郎の妻です」
そう言い放つと,閉じた檜扇を威嚇するように俺の方へ向けてきた。予想外の迫力あるお声に,気勢を
そがれそうになったが,俺は気を取り直してせせら笑った。
「やめとけよ,姫さん。喧嘩なんてしたことねェだろ?」
「存じています…身を守る手段くらい」
「へェ…そりゃすごいな」
適当に頷きつつ,姫にじりっと近づいた。
「寄らないで!」
「!」
開いた右目の間近に檜扇の先端を突きつけられてしまい,止まらざるを得なかった。視界を覆う檜扇の
向こうから,凛とした声が響いた。
「身は非力でも,あなたの目を潰すことくらいなら出来ます!両目を失いたくはないでしょう!」
燈台の油が本格的に少なくなってきたのか,部屋の中はいよいよ暗くなっていた。あたりはしんと静まり
返って,遠くに風の音が静かに聞こえるだけだった。その密やかな暗い空気の中に,俺の狩衣に焚きしめた
沈の香と,姫君の梅の香の薫りが音もなく広がっていく。
「さすがは『鬼の中将』の妻。とんだ鬼姫だ」
「…」
内心冷や汗をかいていたのだが,それを知られるわけにはいかない。
宮家の誇りにかけて。男の自尊心にかけて。
俺はそれとなく檜扇の先端から目をずらし,さも余裕のある風に笑ってみせた。
「気性は鬼みてェに怖ェけど?見た目が可愛らしいから,あんまり恐ろしくねェな」
「なっ…」
「そう睨むなよ,鬼姫さん」
「あ…!」
こちらの言に動揺した隙を狙い,檜扇をびしりと払いのけて姫君の手から落とさせた。慌てて檜扇を
拾おうとした姫君の手を掴み取り,軽く足を払う。いとも簡単に姫は倒れ伏した。冷たい床の上に,
豊かな髪が黒い池のように広がった。既婚の証である緋色の袴が乱れているのが目に映り,激しい興奮を
おぼえた。倒れた時に頭を打ったのか,姫君は小さく呻いていたが,俺がその体に跨った途端,ぎょっと
したように顔をあげた。
「な,なにを…っ」
「なにって…風情のない方だな,姫」
見開いた双眸から目をはずし,ほんの少し下を――その唇を見下ろす。
まるで雪の上に落ちた椿の花のようだ。真っ白な肌の上で,赤く熟れている。
「離して!人を呼びますよ!」
「呼びたければ呼べばいい…ご無礼するぜ,姫」
「…!」
果実を食する時のような心持で,姫の赤い唇を軽くついばんだ。
本当はもっと貪欲に口付けるつもりだった。これまでに何度も人妻に手を出してきたが,生娘でもない
女達に遠慮などしたことはなかった。ただ,互いに快楽を与え合えればそれで良かった。なのに――
「やっ…」
――何故なのか。この姫君に対しては,そうすることができなかった。
逃げようと必死に顔をそらそうとする姫の唇に,頬に,髪に。俺は何度も軽く唇を沿わせた。
少女のように頼りないかと思えば,凛とした威厳ある態度を見せる。
強く気高い空気をまとったかと思えば,弱く可愛らしく瞳を潤ませる。
何故なのか――彼女には無体なことをしたくない,と。大切にしたい,と。
これだけ酷いことをしているというのに,そのようなことを思ってしまった。
暴れ続ける姫君の足先が当たったのか,側の脇息がばたりと音を立てて倒れた。そして――
「お方様,いかがなされました?」
「!」
部屋の外,遠くから俄かに女君の声が響いてきた。ひょっとすると,姫腹心の女房かもしれない。
(ちっ…あの女)
夜通し引き止めておくように,と命じておいたというのに。
俺は姫を見下ろした――涙に縁取られた目と,ぴたりと視線が合った。
こんな場面を人に見られたらどうすればいいの,と。
まるで俺に助けを求めているかのような瞳に,胸の奥を掴まれたかのような錯覚をおぼえた。
「またな,姫」
次にいつ逢えるか,わからない。
ひょっとしたら,もう二度と逢えないのかもしれない。
だから――できる限りこのお顔を目に焼き付けておきたかった。
俺は食い入るように姫君の目を見つめた後,さっと身を離した。衣ずれの音を立てぬように気を配りつつ,
妻戸の掛け金をあげた。薄く戸を開いて辺りを窺ってみると,女房殿の足音が聞こえはするが,今出れば
姿を見られずに済みそうだった。俺は部屋の外に出て,庭の前栽の中に身を隠して息をひそめた。
その少し後に,女房殿が姿を現し,姫君の部屋へと入って行った。
――お方様,なにやら物音がしましたが,いかがなされましたか。
――大きな鼠が出たので,恐ろしくなって。思わず脇息を倒してしまったの。
――まあ,鼠が…。
――もういなくなったから平気よ。
俺は鼠か,と噴き出しそうになるのをなんとか堪えた。
(それにしても取り繕い方がやたらと上手いな…)
これだから女人は。嘘をつかせたら男よりも遥かに上手い生き物だ。怖いものだ。
俺はしばらくそのまま身動きをせず,前栽に隠れていた。女房殿が部屋の中に入って妻戸を閉めたのを
確認し,そっと抜け出た。足音を忍ばせ,庭に入った時と同じ要領で,今度は邸の外へと出る。
改めて北風に身を晒すと,自分でも気付かない内に頬が熱く火照っていたことがわかった。
どうやら自覚していた以上に,高揚していたらしい――あの可愛い鬼姫に。
ほんの一時のお遊びに,と思っていたはずなのだが。
今の自分は一時ではなく,もう少し長い縁を望んでいるようだ。
(参ったな)
たわむれに恋はすまじ,と言ったところか…らしくねェな。
冬の空を見上げてみれば,氷の月が冴え冴えと青い輝きを放っていた。
その光が,先程の姫君の涙に似ているような気がして――俺のついた溜息は,白く凍えて夜空へと消えた。
+ + + + + + + +
「…?」
「…え?」
格子の間に滲む空を見上げ,もの思いにふけっていると,十四郎様から声をかけられた。
少し驚いているような彼の表情から察するに,何度か声をかけられたのかもしれない。
でも,私は気付かなかった…自分の夫の,声に。
「ごめんなさい。何ですか?」
「いや…」
せっかく逢っているというのに,まるで上の空な様子の私に,十四郎様も気付いている。
気まずそうに目を逸らし,私の後ろから格子の外を眺めた。
「雪が降りそうだな,って。そう言っただけだ」
「あ…本当に」
「…」
「…」
重い沈黙が,私たちの間に横たわる。こんなこと…今までになかったのに。
あの宮様が現われる夜までは――こんなこと,なかったのに。
「…?」
「…」
「どうした?」
わたしが抱きつくと,夫は「急に子ども返りか」と笑って頭を撫でてくれた。
彼の優しい手のひらが,好き。それなのに…
「十四郎様」
「ん?」
彼の低い声が,好き。それなのに…
「抱いてください…強く」
気配が消えない。
あの人の――気配が。
「もっと,強く」
あの人の 手のひらの感触が。
あの人の 艶めいた声が。
あの人の 深い沈の香が。
「私を『誰にも渡さない』と言って」
いつまでも この身に残り続けている。
あの夜から,ずっと。
「誰にも渡さねェよ。どこの誰にもだ」
彼は苦しそうな声でそう言い,私の体をぎゅっと抱きしめてくれた。
もっと…もっと。
「『どこにも行くな』と言って」
「行くな…どこにも」
痛いくらいに 抱いて。
あの人の体温を忘れるくらいに。
あの人の呼吸を忘れるくらいに。
「他の男のところに行くのは,許さねェ」
私のこころを 離さないで。
「俺のものだ」
あなたのものに して。
ずっと…ずっと。
どうか忘れさせて。
浮橋のように儚いあの人への道を。
早く 忘れさせて。
格子の隙間から ひらりと雪が舞い降りてきた。
一粒の雪は彼の狩衣の上で 影を残してふわりと消えた。
――――了
2011/02/13 up...
〇衾(ふすま)=寝る時に体を覆う布製の夜具。 〇妹背(いもせ)=恋人同士の男女。夫婦。 〇襲(かさね)=とどのつまり重ね着の衣服
〇筒井筒(つついづつ)=筒井にある丸い筒の井桁。色々転じて,「幼馴染」ってこと。 〇浮名(うきな)=浮いた噂。よくない評判。
〇有明の月(ありあけのつき)=夜明けの空に残る月。 〇契る(ちぎる)=メイク・ラブ。 〇中将(ちゅうじょう)=割と偉い。少将より上。
〇右近少将(うこんのしょうしょう)=これから出世してく感じ。
〇帥の宮(そちのみや)=大宰府長官のこと(ただし京にいる場合の方が多い)。それなりに実権があった時代もあるが,本作ではいわば
親王専門職で,お飾り長官。ただし,格式だけは高い。
〇女房(にょうぼう)=貴族の家に使える侍女。
〇前栽(せんざい)=庭前の花木・草花の植え込み。ちなみに,古典の試験では「読み方要注意の語句」としてよく出題される。
〇末摘花(すえつむはな)=『源氏物語』に登場する光源氏の恋人の一人。見た目に恵まれなかった赤鼻の姫。
〇北の方(きたのかた)=貴族等の妻の敬称。妻が沢山いる男の場合,正妻のことをさす。
〇対屋(たいのや)=寝殿に対し,その左右や後方にある別棟の建物。娘・夫人・女房が居住する。
〇几帳(きちょう)=絵や模様の書かれた衝立のような家具。 〇脇息(きょうそく)=座った時に肘をついて,体を楽にするもの。つまりは肘かけ。
〇浮橋(うきはし)=水の上に筏または多くの舟を浮かべ,その上に板を渡した橋。文学では,儚いものの喩えに使われたり使われなかったり。