Light Trap
という女の人を一言でいうなら…『贅沢な存在』だ。
先輩は僕よりも1つ年上だ。
非常に華やかで端整な顔立ちをしていて,けれども決して見た目のままにはおさま
らない。
僕らの年齢には少し早い,でも恐ろしいほど様になっている妖艶な微笑みひとつで,
相手の先入観や期待を見事に裏切るのは先輩の得意技だ。
先輩は我が高の女生徒会長で,
僕は書記だ(来年は生徒会長になってやる…)。
最初に先輩と話をした時,僕は本当に驚いた。
…状況が状況だったのだ。
忘れもしない,初会議の日。
僕が生徒会室に入ったら,先輩は当時教育実習生だった先生と…
その…抱き合っていた。
…これで驚かない方がおかしいだろう!!!!!
あの時は本当に慌てた…不覚にも,この僕が。
当の本人達よりも,僕の方が余程うろたえていた。
あれは一生の不覚だ。
先生は襟元を正すと僕を押しのけて生徒会室をさっさと出て行ってしまったし,
先輩はというと呆気に取られている僕に,
「口止め料」
そう言って素早く近づいて軽く僕の唇にキスをすると,近づいてきた時と同じく
らい素早く身を離して,髪と衣服を整えた。
呆然としていた僕の顔は,あの一瞬で朱に染まっていたに違いない。
眼鏡だってずり落ちそうになっていたに違いない。
あれは一生の不覚だ。
…というより,もはや汚点だ!
僕のファーストキスは先輩に奪われた。
情けないやら悔しいやらだったが,先輩の唇は驚くほど柔らかくて心地よかった。
「得をした」という感想が一瞬でも頭に浮かんでしまい…
…落涙しそうなくらい,僕は自分をふがいなく思った。
そんな先輩の隣りには絶えず『男』がいる。
例の教育実習生とどうなったのか,後日それとなく聞いてみたのだが,
「つまらなかった。あの年齢でキスのやり方も知らないなんて不気味じゃない?」
と,さらりと先輩が答えるのを聞いて,僕は椅子から転げ落ちるくらいショックを
受けた。
それでは,されるがままに先輩にキスされた僕は一体なんなんだ!?
とにかく,先輩の近くに男の影が見えなかったことは皆無だ。
それも2週間も経てば違う男に替わっているから…驚嘆せずにはいられない。
というよりも,かなり腹が立つ。
彼女にも…彼女に惚れる男達にも。
先輩と知り合った男達の態度は真っ二つに分かれる。
敬遠するか,
惚れるか。
当然,僕は前者だ。
なにせ最初に交わした会話が会話だから,僕は先輩を自然と避けるようにしていた。
生徒会の業務連絡以外の会話はほとんどしない。
彼女も別にそれを何とも思っていないらしく…僕は少し安心していた。
が,一方で「僕の唇を奪っておいてその淡白な態度はなんだ!」と文句の一つ
でも言ってやりたくなる。
先輩について,副会長と話をしたことがあった。
副会長は成績優秀,品行方正,さらにはバスケ部主将でもある有能な人物で,僕も
一目置いていた。
しかしその彼も先輩には所謂『ベタ惚れ』だったらしい。
…結局別れてしまったようだが。
僕が副会長に,
「僕は先輩のような底の知れない人には魅力を感じません」
と言ったら,一言。
「彼女に惚れない男はいない」
と即答された。
そんな彼女の周りにいるのは常に『一筋縄ではいかない』男ばかりだ。
『切れ者』だったり,
『曲者』だったり,
『大物』だったり。
その『一筋縄ではいかない』男達も,先輩の傍ではなんともわかりやすいただの
『恋する男』になってしまうから,僕は不思議で仕方がない。
しかも先輩はそんな恋人としては希少価値が付くんじゃないか,と思う
ような男達をあっさり捨ててしまう。
そんな彼女だから同性には人気が無いかと思えば,そうでもない。
なにせ生徒会長に選ばれるくらいだ。
先輩の処世術は本当に見事だ。
そんな先輩のあだ名は『誘蛾灯』。
誰が言い出したかなんて,もはやわからないくらいそのあだ名は定着している。
まさにその名の通りだ。
男という『虫』の,
心の『夜』にぱっと輝いて,
次の瞬間にはもう『虫』を惹きつけている。
そして…
『虫』は彼女に誘い集められて,捕殺される。
それでも『虫』はその『灯火』に集まることを止めない。
すぐ目の前で,『灯火』に触れたことで感電して死んでいく仲間を見ていると
いうのに。
彼女に手酷く捨てられる男達の噂を聞いているのに,彼らは彼女に近づくこと
を止めようとしない。
…でも僕は絶対に『虫』にはならない。
その先輩が,今まさに通りの向こう側で一人蹲っているのが見えた。
僕は授業で数学教師が推薦していた某参考書を購入するため,今日は都心まで
足を運んでいた。
日曜日の夕暮れ時というのは人通りが多い。
向かって来る人の波をかわしながら,
(彼らはどこから来たのだろう…そしてどこに帰っていくのだろう…)
などと自嘲気味に笑いながら,ふと向かい側の歩道を見るとパッと目をひく後姿
があった。
よく彼女が先輩だと気付いたな,と我ながら思う。
横断歩道の少しばかり手前で先輩は蹲っていた。
一体どうしたと言うのだろう?
そのまま無視することもできたが,いくら僕が先輩のことを苦手でもさすがにそれ
は良心が痛む。
僕は信号が青になるのを待って,色が変わると同時に横断歩道を小走りで渡った。
「あの…先輩?」
僕は少しばかり緊張しながら,屈んでいる先輩の背に声をかけた。
一瞬,先輩はぎくりとしたように肩を跳ねさせて,僕の方を振り返った。
「なんだ,伊東君」
話しかけたのが僕だとわかるとほっとしたように笑って,すっと立ち上がった。
「………!」
先輩の格好を見て,僕は固まってしまった。
ファー付きの白いコートの下に,赤のニット,黒のタイトスカート。
そして…真っ赤なハイヒール。
いつもは真直ぐのストレートヘアに今日はウェーブがかけられている。
目にはアイラインを引いていて,マスカラを重ねて。
高校生とは思えないようないでたちだが,ものすごく似合っていて,思わず僕は
見入ってしまった。
「買い物中?」
先輩の声で我に返り,僕は軽く頭を振った。
「ええ。僕は買い物ですけど…先輩こそどうしたんですか?蹲っていました
よね?」
「これ」
先輩は,すっと右足を少し上げて見せた。
ハイヒールの底が見えて,僕は納得した。
「ヒールが折れちゃったのよ,片方だけ」
真っ赤なハイヒールの底についているはずのそれは,無残にも折れてしまっていた。
これでは真直ぐ歩くことは不可能だろう。
このハイヒール高かったのに,と肩を竦める先輩に僕は,
「…高校生が赤いハイヒールを履くのはどうかと思いますが」
「好きなんだもの,ハイヒール。脚が綺麗に見えるから。赤も好きなの」
まあ確かにその赤いハイヒールは先輩の足によく似合っていて,いつもよりさらに
脚が綺麗に見えますが……って,違うだろ僕!!
言いかけた言葉を飲み込んだせいで,僕の口からしゃっくりのような声が漏れた。
幸いなことに彼女はそれに気付かなかったようだ。
「どうしようかなあ…」
先輩はヒールの折れた右側と,
いまだヒール健在の左側を交互に見比べ,
さらに僕の顔を見てから,ぽんと手を打った。
「ね,伊東君。お願いがあるんだけど」
「…なんですか?」
「こっちのヒールも折ってくれない?そしたらバランスちょうど良いから」
…
……
………
…………。
僕は,行き交う人ごみの中で,美女を前に大声で笑ってしまった。
「…笑いすぎよ」
びっこを引く先輩に手を貸しながら,すぐそこのロータリーまで移動して,僕は
先輩と二人でベンチに腰をおろした。
つぼに入ってしまって未だに笑いを止めることのできない僕を,先輩は半眼で
睨んでいる。
「す,すみま,せ……はははは」
「良いけれど」
少し頬を膨らませてそっぽを向く先輩は,いつも生徒会室で見ている大人っぽい
雰囲気とも,先程出会い頭に感じた色っぽい雰囲気とも全く違って,なんというか…
…少しだけ可愛かった。
「普通言いませんよ。『もう片方も折って』だなんて」
「それが一番良いと思ったのよ。
靴買うのはお金かかるし,かといってあのまま歩いたら足がくがくさせながら
公共の場を移動するはめになるのよ?それならどっちも折った方が歩きやすく
なるし。あまり目立たないし。わたしじゃ折れないけど,伊東君なら折れるかも
と思って。」
「その発想がおかしいんです!」
僕が突っ込むと先輩は「なによ,もう」と拗ねたようにまたもや明後日の
方向を向いてしまった。
こうしていると年相応の可愛い人だと思う。
…僕より年上だが。
にしても,これからどうしようか?
先輩にタクシーに乗ってはどうかと勧めたが,「お金がないわけじゃないけど
無駄なことには使いたくないのよ」と退けられた。
「じゃあ…僕が適当に靴買って来ますよ。何センチですか?」
そう言って立ち上がりかけた僕の袖を,慌てたように先輩は掴んだ。
「良いわよ,そんな!!悪いから!!」
意外と常識的な反応だ。
先輩は男に平気で貢がせる印象が僕の中にあったが改めよう。
…などと心中で思いながら,
「そのままでは帰れないでしょう?」
「だから!折ってくれって言ってるでしょう!!」
「そ,それは無しで………ははは」
「じゃあ,わたしカード持ってるからそれで買って来…」
「大丈夫ですよ。今,手持ちありますし」
というか,この人はクレジットカードを持っているのか…一体どういう家庭で
育ったのだろう。
意見を変えない僕に,先輩はフーッと溜息をついて,少しイライラしたように
僕を細目で見上げた。
くっきりと引かれたアイラインが,元々鋭めの先輩の目を余計強いものにして
いる。
「ねえ,伊東君。親切はありがたいし,感謝もしてる。でもね……」
人ごみのざわざわした音の中でも,先輩の声はなぜかクリアに僕の耳に響いた。
「後輩にお金出させるなんてしたくないのよ」
…
……
………
…………。
どうしてかはよくわからないが。
僕はその先輩の一言にムッとしてしまった。
……コドモアツカイシナイデクレ。
「…わかりました」
「うん。じゃあ,このカード預け,」
「ちゃんとした靴買ってきます!!!!」
僕はそう宣言すると,スペースシャトルもびっくりの勢いでロータリーを飛び出
していた。
後方で「ちょっと!伊東君!」という声が聞こえたが…僕は無視した。
夕暮れの中を,人の波に逆らって僕は走った。
「どうぞ!!」
僕はびゅっという音がするくらいの勢いで,先輩の目の前に靴を差し出した。
壊れたハイヒール程の深紅ではないが,とにかく赤い靴だ。
買う時にお店の人に怪訝な顔をされたがそれは無視した。
先輩は怒るべきか,喜ぶべきか迷っているような複雑な表情で,僕と靴とを交互に
見たが,突然ふっと笑った。
「面白いのね,伊東君って」
そっと僕の手から靴を取ると,今履いていたやつを脱ぎ捨てて新しいのを履いた。
「壊れたやつはどうするんですか?」と訊くと「接着剤つけてまで履こうとは
思わないわ」と返された。
…どうやら持って帰る気はさらさらないようだ。
先輩は履き心地を確かめるように,爪先や踵をコツコツとアスファルトに打ちつ
けていたが,やがて僕の方を向いて,とても美しい表情で笑った。
「ありがとう。
ここ数年間されたことの中で,今あなたがしてくれたことが一番嬉しかったわ」
「……っ」
彼女の笑顔が空気を支配したように思えた。
硝子のような華麗さと,鋼のような強さを兼ね備えた先輩のその表情は,街灯の
燈り始めた薄闇の中でさえ,スポットライトを浴びているかのようにはっきりと
見えた。
『堕ちる』と。
そう思った。
なんとなくその場の流れで「帰ろうか」という結論になり,そこで初めて
先輩と僕が同じ街に住んでいることを知った。
電車を降りた後,必然的に先輩と僕は肩を並ばせて道を歩くことになった。
話している内に,先輩はやはり変わった人だと思った。
「変わっている」というか,話していて飽きない人なのだ。
考えてみれば,『生徒会長』としての先輩としか僕は話をしたことがない。
まあ…ぼくがそれ以外で話すのを避けていたせいなのだが。
横を通り過ぎる人々が必ず振り返るのを見て,「この人は本当に綺麗な人なのだ」
と改めて思う。
そして,そんな彼女と並んで歩いていることに,ちょっとした優越感を感じた。
(先輩は毎日『こういう視線』をさらりと交わしているのか)
そう思っていると,すれ違いざまにサラリーマン風の男2人が先輩の方を振り返り,
喉を鳴らして笑い合うのがわかった。
……なぜか非常に不愉快だった。
「どうしたの?眉間に皺寄ってるわよ」
先輩の言葉に,僕は慌てて眉間を押さえつけた。
「…いや,その。なぜ皆こちらを見るんでしょうね?」
ごまかすように僕が言うと,
「さあ…なんでだと思う?」
先輩はいたずらっぽく笑った。
…この人が僕に何を言わせようとしてるのかわかったから,僕はわざと知らん顔
をして「わかりませんよ」と答えた。
その僕の答えをさも楽しそうに笑うので,やはりちょっとわからない人だと思った。
「ね,伊東君って下の名前なんだっけ?」
突然先輩が訊いてきた。
「鴨太郎です」
「へえ,良い名前ね」
「…そうですか?僕はあまり好きじゃありませんが」
自然と両親の顔を思い浮かべてしまい,ぼくの声は沈んだ。
「どうして?昔から鴨は風流を表す鳥なのに。万葉集とか古今和歌集の和歌にも
いっぱい出てくるわ」
先輩は「ね?」と言って優しく微笑んだ。
…そういう笑い方もできるのか。
「良い名前だとわたしは思うわ」
「…ありがとうございます」
名前をそんな風に褒められたことがなかったため,僕は少しくすぐったくなった。
それから何回か先輩は口の中で僕の名前を反芻した。
名前を呼ばれているだけなのに,僕は心臓が飛び跳ねるくらい緊張していた。
(落ち着くんだ,伊東鴨太郎…この人の罠にはまっては駄目だ。
もう十分はまっている気がしないでもないが…とにかくこの人は危険だ)
「ここが家」
先輩はぴたりと立ち止まって,僕の方を見た。
「ここですか…?」
先輩が立ち止まったのは,この辺りで有名な高級マンションだった。
「先輩はご両親と住んでいるんですよね?」
「ううん。一人暮らし。うち,わたしがまだ小さい頃に母が死んじゃって。
父は外資系の仕事で日本にいないのよ」
先輩の説明に,僕は少しだけショックを受けた。
彼女がクレジットカードを持っている理由がわかった気がした。
いつも『大胆不敵』と思えるくらい堂々としてるけど,実は寂しい生活している
のかもしれない。
広いマンションの部屋で,一人ですごしている先輩の姿を想像してしまい,僕は
溜息をついてしまった。
先輩はそんな僕の様子に気付いたのか,
「あ,『可哀想な人なんだ』とか思ったでしょ?でも,おあいにくさま。一人暮ら
しは楽しいわよ。とことん自由気ままでね。それに,父は毎日毎日国際電話を
かけてくるし,一週間に一回は祖母が来てくれるし。そんなに寂しくはないわ」
そう言うと,僕の買ったハイヒールをこつこつ鳴らしながらマンションの入り口
まで歩いていって,そこで振り返った。
「今日はありがとうね,鴨太郎君」
「いえ…」
「また明日」
「はい…」
名残惜しいような気がして,僕は先輩の細い体が入り口をくぐるのを最後まで
見届けていた…が。
「あ!そうだ!」
声と同時に,先輩が入り口を再び開いた。
びっくりすると同時に,少し嬉しかった。
…再び姿を見ることができて。
「鴨太郎君」
「なんですか?」
嬉しさを隠せなくて,僕の頬は緩んだ。
が,次に先輩が口にした言葉は衝撃としか言いようがなかった。
「お礼と言っちゃなんだけど,夕御飯食べていかない?」
「…え?」
僕は思わず聞き返してしまった。
しかし先輩はお構い無しで,「おいでおいで」と手を振って笑っている。
「パスタ作るから。あがっていってよ」
「……」
「あ,もうお家の人が夕御飯の支度しちゃってる?」
無言でいる僕に,先輩はちょっと首を傾げた。
僕は慌てて首をぶんぶんと振った。
…横に。
「そ,それは電話一本でどうにか…なります…けど」
「なら寄っていってよ。一人で食べるより二人で食べる方がわたしも楽しいし」
「でも…あの…」
「…嫌なの?」
反則だ。
上目遣いに先輩はこちらを見てくる。
彼女はきつめの顔立ちのはずなのに,一昔前のCMのチワワを思い出してしまった。
「そ,そうではなくて…」
大してずれてもいない眼鏡を押し上げ,僕はやっとのことでまともに口を開いた。
「先輩の部屋に行っても良いんですか?」
しまった,と思った時には遅かった。
先輩はみるみる内に半眼になって,こちらを睨んだ。
「言っておくけど,変なことしたら叩きのめすわよ?」
心なしかドスの効いた声で先輩が言う。
僕はさっきの数倍は強くヘッドハンキングした。
「…しません!!!!」
「…しないの?」
間。
「……………え?」
「嘘よ」
そう言って彼女はくすくすと笑った。
わずかに妖艶さをのせた,少女の微笑。
小リスのような桃色の小さな舌が,歯の間から見えた。
…やっぱり,彼女は『誘蛾灯』だ。
「いらっしゃい」と嬉しそうに言いながら入り口に僕を招きいれた先輩の
笑顔は本当に可愛くて。
僕は『誘蛾灯』に捕殺される『虫』にはなるものか,と頭の中で決意をあらたに
していた。
彼女のあだ名は『誘蛾灯』。
僕はそれに集まる『虫』ではなく。
『誘蛾灯』を点けたり消したりできる『管理者』になりたい。
僕がパスタを食べる横で「美味しい?」と訊いてくる彼女に笑い返しながら,
この予想外の出来事を喜ぶべきか否か…こっそりと溜息をついた。
2008/11/04 up...
万葉集、古今和歌集、拾遺集、後拾遺集、新古今和歌集、壬二集などなど…和歌にいっぱい出てくる鴨。