2人きりにはならないようにしていた。
『逃げろ』と――心と身体が警告していた。
一度囚われたなら 最後。
きっと わたしは 潰される。



臨界点は猫みたいっスね』
同じ隊で働いている同じ年齢の女のコからそう言われたことがある。
彼女がそういうことを口にするのも無理はないし,むしろ言い得て妙だとわたしも思う。
というのも,組織の活動の性質上わたし達は各地を転々とすることが多く,そのたびにアジトとなる
建物(あるいは船)も変わる。けれども,わたしは新しいアジトに移るたびに毎回『人目につかない
場所』や『誰もが忘れている部屋』を見つけ出した。そしてそこで時々居眠りしたり,読書をしたり
することを好んだ。
別に孤独を好んでいるわけじゃない。
ひとりが好きというわけでもない。
しかし‘群の一員’として普段動いていると,忘れかけていた‘個’を取り戻したくなる時がある。
わたしを「猫みたい」と言ったその同僚は,わたしがその『人目につかない部屋』にいるところを
偶然にも度々発見した。そして決まって「うお!こんな所にいたんっスか!?」と彼女は驚くのだ。
彼女いわく「そういえばこの部屋何だっけ?」と思って入ってみたら必ずわたしがいる,とのこと。
でもそういう『誰もが忘れている場所』を見つけてはわたしに遭遇しているわけだから,彼女もまた
立派な‘猫気質’なんじゃないかと思う。

――そしてわたしは今日も‘その部屋’の扉を開く。

窓外から侵食してくる夕焼けが眩しくて,わたしは目を細めた。
色褪せた部屋を真紅に染める夕日は,美しいけれど自分勝手で暴力的だ。

(まるで…あの人みたいだ)

咄嗟に頭の中に浮かんでしまった人物を,溜息と共に吐き出した。それから手に持つグラスの水に
少し口をつけ,ひんやりと喉を潤した。
おそらくこのアジトの前の持ち主は,ここを倉庫にでも使っていたのだろう。
主を失った様々な調度品や書物,用途不明の箱類が所狭しと捨て置かれていた。
薄汚れた床を踏んで進むと,通り過ぎた後の微風で舞い上がった埃が金色に光る。
咲き乱れる夕光の筋がはっきりと見え,床に映し出された窓枠の影を強調している。
自分の脳の底が,気怠くぼんやりとした感覚で満たされる。
心地良い量のお酒を飲み干した時の,あの‘安らかな憂鬱’によく似ている。
ひどく落ち着く――埃に塗れた部屋なのに。
わたしはいつもの定位置,すなわちスプリングの壊れたソファに座ろうと歩を進めたけれど,

「誰だ」
「…!」

わたしの右手の方で声が上がり,誰かの上半身がむくりと起き上がった。
その途端身体が強張り,いやと言う程の緊張が背中を走った。
…『誰か』なんかじゃない。
男にしては艶めき過ぎている声,目の端に映る派手な柄の着物,そして夕日色に染まった包帯。
彼以外にありえない。

「…晋助様」
「…か」

寝起きなのだろうか,少しだけ掠れた声がいつもにも増して淫らだ。
片肘で上半身を支えているその格好は,どこぞの美術館に飾られていても不自然ではない程に綺麗で
悩ましげで…。彼は皮肉げな笑みを口に浮かべ,漆黒の髪をかき上げた。

「こんな所で何してんだ」

それはわたしの方が訊きたい。
こんな埃だらけの部屋で,隊の首領が何をしているというのだ。

「少し…休憩をいただこうと思って」
「ほォ」

人に質問しておきながらも,答えの内容などどうでも良いらしい。
心ここにあらずの相槌を打つと,高杉は懐から煙管を取り出して火をつけた。

(…)

――わたしはこの人が苦手だ。 
彼の志に賛同したからこそ,こうして鬼兵隊へと入った。それは事実だ。
その気持ちに間違いは無かったし,それは今でも変わらない。けれど…

『あの人はねェ 篝火なんだよ』

盲目の同志が,以前そう言っていた。
自分たちはそれに群がる蛾なのだ,とも。

(わたしは…違う)

自分の意思でもって 彼の思想に共感したから。
自分の理性でもって 彼の目指すものを肯定したから。
だから ここにいる。
決して破滅的な本能に動かされているわけじゃない。
わたしは蛾なんかじゃない。それなのに…

「…」

高杉が徐にソファから立ち上がり,わたしは反射的に一歩後ずさった。
それを見た彼は楽しげに目を細めて,わたしが手にしたグラスを顎で指した。

「それは酒か?」
「いえ…ただの水です」
「水,ねェ…」

彼はそう呟くと,細長い煙管をゆっくりと唇で咥えた――まるで見せつけるかのように。
煙管の先から踊り出る灰煙が,夕日の赤と交わり合う。

「…」

堪らずわたしはもう一歩退ったけれど,ほぼ同時に高杉も足を踏み出したため,距離を置けない。
憑かれてしまったかのように,わたしは彼の飢えた瞳から目を離せなかった。

――彼の目が苦手だ。

一切の妥協や虚偽を認めない,凶暴で純粋な目。
まるで一枚ずつ衣を剥かれていくかのような気分になる。
…たまらない。

「ひと口,よこせ」

高杉は煙管を傍の棚の上に預け,わたしのグラスに手を伸ばしてきた。
拒否権など最初からありやしない――わたしは言われたとおりそれを差し出した。

「どう,ぞ…………っ!!!!!」

刹那。 

冷たく骨ばった手に捕まれた手首。
前方へ引っ張られる無力な腕。
横向きに勢いよく流れる自分の髪。
反動で反り返った身体。
木箱の上に押し付けられて軋む背中。
打ち付けられ鈍痛の走る後頭部。

グラスが床の上で砕け散る音が,どこか遠くの方で聞こえた気がした。
埃の積もった木床をひたひたと流れていく水の音がする――いや,そんな音聞こえるはずがない。
それは わたしの 妄想の音だ。
妄想の海から聞こえた波音だ。

そして目の前に――獣の瞳。
獲物を前にした肉食獣の目だ。
恐怖を感じる前に魅了されていた。

「…っ!」
「」

謳うような甘い声が耳朶に滑り込んできて,思わずわたしはぶるりと身を震わせた。
その反応に気をよくしたのか,高杉は喉の奥でかすかに笑った。

「お前ェとことん俺を避けてるよなァ?」
「!」

これ以上無いという程,自分の目が見開かれているのがわかる。
…2人きりにはならないようにしていた。
『逃げろ』と――心と身体が警告していた。
一度囚われたなら 最後。
きっと わたしは 潰される――そう思っていたから。

「…そんなことは,」
「『無ェ』っていうのかよ?ここまであからさまに避けといて」
「…っ」

掠れた喉が反論しようともがくけれど,何一つ言葉にはならず,ただ息だけが漏れた。
逃げることを許さない手が,わたしの手首を箱の上に縫い付けている。
繊細な指に絡みつかれる感触が生々しくて,それだけでも悲鳴をあげそうになる。
組み敷かれた体を捩って,わたしは彼の毒めいた香りから抜け出そうともがいた。

「晋助様…は,離してくださ,」
「…」

吐息の混ざったような声と同時に,わたしの首筋に生暖かいものが当たる。
――身体の音が,頭の中で爆ぜた。
背筋を昇りつめる感覚に,首を竦めて目を閉じた。

「んっ…」

尖らせた舌先で,ピアスごと耳を舐め上げられる。
歯を食いしばってその感触に耐えるけれど,理不尽な快感で脳細胞が千切れそうだった。
執拗に耳で奏でられる水音が,絶望的に甘い。
叫び声がわたしの身体の中で響く。

「やっ…!」

ざらついた舌の表面で,ぬれそぼった舌の裏側で,耳から首元にかけてをせめられる。
彼の唾液で濡れた耳朶に,時々息を吹きかけられて体中が震え上がった。
奥歯が凍る。瞼の裏が燃える。
与えられる刺激の所為で,心臓がありえないほど速い。
その鼓動に呼吸がついていかない。

「あっ…いやぁ…晋助…様…」

首を振って逃れようとしても,したたかな腕によっていとも簡単に阻止された。
ぎゅっと瞼に力を込めると,今度はそこも舐められた。
瞼の薄い皮膚の上を,秘めやかな舌で撫でられる。
睫毛の一本一本を舌先で突付かれて,濡れた摩擦に胸が潰れそうになる。

「ほんとに…やだ…!誰か………ッッッ!!!!」

声を上げようとしても,それを見越していたかのように,荒々しい口付けで塞がれた。
生暖かく湿った高杉の舌が,わたしの唇を滑る感覚に溜息が漏れる。 
その少しの隙間に入り込んできた舌が,わたしの歯をぐっとこじ開けた。 
侵食してきた舌がわたしのと絡んで,押し込められて,吸われて,くすぐられて,少し噛まれる。 
体の深層でほとばしる快楽を受け入れられない――逃げ出したくて仕方が無い。
抵抗させてもらえない。歯止めが効かない。
それどころか良いように身体を動かされる。

「ん…ん…」

急速に燃え上がる体温。
色めいた声が滲む吐息。
見開いたわたしの視界には,欲情した獣の右目と白い包帯。
そしてその背後に黒ずんだ天井が映った。
彼を縁取る流血色の夕光が,きらびやかに燃え上がる。
本能を隠そうともしない彼の瞳を見ていられなくて,わたしは再び瞼をきつく閉じた。

「ふぁ…っ…やぁ…!」

屈辱と恍惚の狭間で呼吸すらもままならない。
高杉の肩を押しのけようとした。
着物を引っ張り上げようともした。
けれども全てが無駄に終わった。

「ッッッ!!!」 

あげた悲鳴さえも唇を吸い上げられて,彼の喉奥へと引きずり込まれる。
すべてを溶かされてゆく感覚に気が狂いそうになる。
その肩と腕に手を置いて離れようとしても,力が抜けてしまったみたいに上手くいかない。
ただ彼のすることすべてに体が反応する。 

「も,もうやめ………っ!?んんっ…!」

突然。
高杉の節くれ立った中指が,わたしの口の中に突っ込まれた。
咥内の形を探るかのように指先で弄られる――舌先から舌裏,前歯から歯茎,奥歯…そのもっと深く。

(…!…!)

わたしの頭の中でフラッシュが焚かれ,サイレンがけたたましく鳴り響いた。
彼の指を噛みちぎるという考えが一瞬だけ頭を過ぎるけれど,そんなことは出来ないとすぐに思い直す。
かといって,このまま彼に口の中をいたぶられ続けるのも嫌で――

「はぁ…んくっ…ぅんっ」

なんとか口から追い出そうと,懸命に中指を舌で押し返す。
でも,それが逆に奥へと入り込む隙を与えてしまったらしく,彼の指はわたしの咥内をさらに荒らした。
わたしの叫び声は,彼の指に絡め取られて縛られる。
好きなだけ指先を暴れさせた後,高杉はやっとのことで中指を引き抜いた。
透明な糸が,わたしの唇と彼の指先とを繋ぎ,そしてぷつりと途切れる。
高杉はその指を今度は自分の口に含んだ…じっとわたしを見下ろしながら。
ぴちゃぴちゃと音を立てながら,わたしの唾液に塗れた指を舐め上げる。

「い,や…ど,して…どうして…っ?」
「…」

あまりの羞恥心で頭がどうにかなりそうだった。
顔を振って視線を外そうとするけれど,それよりも早く高杉の唇が接近した。

「…」

どこか熱に浮かされたような声で名前を呼ばれ,再び口づけられる。
上唇を柔らかな口で挟まれた後,下唇をぺろりと舐められた。
必死に閉じた口の間を,ゆるゆると舌先でなぞられる。

「…んっ」

唇が離れて,それにつられて目を開けた時――高杉が自身の下唇を舐めているのが目に入った。 
その仕草は見事に艶めいていて,見てはいけないものを見てしまったかのような気持ちになった。 
高杉はわたしが戸惑っているのを見ると薄く笑った。そして今度はわたしの口の周りを舐め始めた。

「…やっ…やっ」

汗ばんだ両手で頬を固定されてしまい,逃れることができない。
彼が発する甘美な熱を 振り払うことができない。
彼が放つ官能的な光に 跪くことしかできない。
彼は――選ばれた人間だから。



――あの人はねェ 篝火なんだよ
――かがりび,ですか?
――そうさね。そして 俺達ァ蛾だよ。篝火に集まる蛾の群だ。
――……。



『俺達ァ蛾だよ』
(…違う!!!!)

脳内の残響に向って,わたしは叫び声を叩きつけた。

(わたしは蛾なんかじゃない…!)

それなのに――

「やだ…やだぁ…ッん,ん」

彼にすべてを奪われたくなってしまうのは…どうして。

――赤い絵の具で引いた彼との境界線が,どんどん滲んでゆくのを感じる。

舌先を唇に強く押し付けられ,8の字を描くように動かされて,腰がとろけそうになった。
歯列を割られ,舌を吸い上げられ,絡められ,唇を舐めまわされる。
全身を這う歓びと,心臓で渦巻く昂りで,心も体もバラバラになってしまいそうだ。
 彼が怖い。
 どうしようもなく 怖い。
彼があまりに美しすぎて,自分がガラクタのように思えてくる。
彼があまりに眩しすぎて,自分が影法師のように思えてくる。
彼によって貪られるわたしは,獣の檻に放り込まれた餌に過ぎないのかもしれない。

(もう…やだ…)

――必死に張った境界線が,脳裏の排水溝へと吸い込まれていく。
  すべての区別がつかなくなる。
  これが快楽なのか苦痛なのか…わからなくなる。

どうしてこんなことになったのだろう。
こうなった理由も,こうなったきっかけも,もう思い出すことができない。
もう何もかもがぐちゃぐちゃだった。
皮膚の上も 頭の中も 心の奥も。
 ぜんぶ 痛い。

「…?」



わたしは…泣き出していた。
まるで 小娘のように。



「…っふ…うっ…ひっく」
「…」

夕暮れに支配されていた部屋に,夜のとばりが降り始めた頃。
ようやく――抱きしめられているということに気付いた。
部屋の中はもう薄暗くなっていて,唯一の光源は窓外からの街灯の光だけになっていた。
その夜色の視界の端に,高杉の髪の毛が映った。
先程まで怖くて仕方なかった高杉の体温が,今はわたしを闇から守ってくれている無二の存在に思えた。
つややかな淡い暗闇と,それを貫く窓からの白光を眺めていた目を,わたしは高杉の腕に深くうずめた。
きっと高杉の着物は,わたしの涙やら鼻水やらでべたべたに濡れている。
でも,そんなこと気にしてやるものか。
あんな酷いことをされたのだから,むしろおつりを貰っても良いくらいだ。 

「こんな…ひどい…晋助様」
「…悪かった」

ありきたりな非難の科白を吐くと,高杉はぼそぼそと呟くように謝ってきた。
まるで母親に叱られた幼子のように。
その声はとてもバツが悪そうで,切羽づまっていて,我慢しているようで。
あれだけのことをされたのに,彼が可哀想に思えてくる。
 ずるい男だ。
 どこまでも…ずるいひと。

「…」

いつまでもこうしてはいられなくて,わたしは彼のぬくもりから離れようと試みた。
力を込めて胸板を押すと,一瞬だけぐっと強く抱きしめられて,すぐに解放される。
彼の顔を見ずに,わたしは座っていた木箱から立ち上がった。

「…」
「…」

無言のまま視線を横に泳がせると,床の上に散らばったガラスの破片が目に入った。
仄暗い部屋の底で,彼らはわずかな光を受け止めてちらちら輝いていた。
弾け飛んだ水の軌跡が,肌を破った傷痕のように見えた。

「わたしは…あなたを好きにはなりません」

自分の紡いだ言葉が埃塗れの薄闇に沈んでいく。
それはどこか悲しくて,どこか切なくて,そして静かな罪悪感を背負わせる。

「だって…あなたを好きになったら…きっと辛い」
「そうか」

高杉は棚の上に置いていた煙管を手にし,しなやかな動作で火をつける。
燻る煙の香りに背を向けて,わたしは出口へと足早に歩いた。

「逃がすつもりは無ェよ」

扉の取っ手に指をかけた時,彼の声が背中に絡みついた。
しなるような声が憎らしい。後ろから髪を結わえられているかのように,前へ進めなくなる。

「逃げません。だって…」

わたしは震える指をぎゅっと折り曲げ,心を奮い立たせて彼の方を振り返った。
夜闇に光る獣の右目が,縋るように弱々しく揺らめいている。
心が折れそうになる――でも言わなければならない。

「元よりあなたに捕らえられた覚えは…ありません」
「…」

傷ついた彼の瞳が,わたしを無言でなじる。
子どもを苛めているかのような気持ちに駆られる。
わたしは扉に向き直り,彼の視線から逃れた。
――もう二度と振り返らない。
  そう誓った。

「…失礼します」

声の震えを飲み干して,軋む扉を開け放つ。
電燈の明るさに目が眩み,暖かな空気に喉が疼いた。
扉一枚を隔てただけで,こんなにも世界が違うということに頭痛が走った。

――あなたに捕らえられた覚えはない。

『無駄だ』

――耳に響いた声は,背後の彼による言葉か。
  それとも…自分の本心なのか。

(…絶対に捕まるものか)

逃げきってみせる…必ず。
わたしは蛾なんかじゃない。
そして,彼の『夜』にもならない。

わたしは扉に一瞥もくれず,その場を離れた。
天井の灯りを飛び回る羽虫が,ひらひらと狂い咲いていた。


――欲望は欲情に堕とされて,夜に夜に逃れていく。



-----------------------------fin.





2009/02/14 up...
眩し過ぎる光に晒されると,人は目を細めざるを得ない。それがどれほど美しくても。