騎士として守るべきもの



――妃殿下がお呼びです。土方卿。



王妃の侍女から告げられ,馬上槍試合会場からそれほど遠くない城内の一室へと案内された。
あと半刻もすれば,一騎打ち競技である『ジョスト』が始まるというのに,心を惑わせるようなことはなさらないでいただきたい。
…まァそれは今に始まったことじゃないか。
妃殿下はいつも俺を惑わすようなことを仰るし,なさるのだ。

「来たか。『鬼の騎士団長』よ」
「…お待たせいたしました」

部屋に一歩入ると,薔薇の香りが鼻をくすぐり,俺の脳内の一部を甘く痺れさせた。
そして,咲き誇る大輪の薔薇のように美しく,神々しくさえある我が女王に,俺は跪いて頭を垂れた。

「何か御用でしょうか」
「なに。昨夜の前夜祭では,そなたと話す機会がなかったゆえな」

退屈な宴じゃったわ,と。そう仰って,開いた扇でご自身の口を隠し溜息をつかれた。

「…俺と話さない宴は退屈ですか」
「退屈じゃ。そなたは面白い男だからな」
「…」

俺がムッと口をつぐんだのを見て,扇の裏で王妃はクスッと笑った。
この方は…いつもこうだ。
思わせぶりなことを仰るくせに,俺が少しでも核心に触れそうなことを言うと,後ろ髪引かれることなくすり抜けてゆく。
甘い棘を残して。

「…国王陛下は?」
「心配せずとも,王はおらぬ」

王妃は口元から扇を外し,俺を煽ぐようにそれを上下にゆっくり振って,

「近う寄れ」

薔薇色の唇で抗いがたい命令を下した。
俺が立ち上がり,畏れ多くも妃殿下の傍へと近づくと,王妃は満足そうに微笑んだ。そして,

「これを」
「…これは?」

真っ赤な絹のスカーフを俺に手ずから渡した。真紅のそれを広げてみれば,布の端にやはり赤い糸で『T.H』と俺のイニシャルが刺繍されていた。

「王に隠れて,縫ったのじゃ」
「…貴方が?」

まさかと驚愕して顔を上げると,王妃は熱い目線で俺に笑いかけた。
その瞳が思い詰めたように一瞬潤んだが,それはあまりにも短い間のことだったので,もしかすると俺の願望が見せた幻だったのかもしれない。

「それを首に巻いて,今日の試合に臨むがよい」

妃殿下は扇を俺の方に差し出し,その上にスカーフを置くよう示したため,俺はずっとそれを手にしていたい気持ちを抑えて従った。

「異国の本に書いてあったのじゃ。赤い布を首に巻くと,さながら首から血が流れておるように見える。ゆえに,戦へ行く時に赤い布を
 首に巻いておけば,本物の血を流さずに済むとのことじゃ。最初からもう血は流れておるからな」

面白いまじないじゃの,と楽しそうに笑って,王妃は扇の上に乗せられたスカーフを手にとった。そして,

「!」

思わず体が硬直した。
王妃はスカーフを広げると,俺の首に手を回し,それを結びつけた。
細い指が襟足にほんの少し触れた時,俺の肩はびくりと跳ねてしまったが,王妃はそんなこと気にもかけていないようだ。
結んだスカーフの形を整え終わると,王妃は頬を薔薇色に染めて俺を見上げ,

「…美々しいのう」

吐息と一緒に悩ましげにそう呟くので,俺の心臓は早鐘のように鳴りっぱなしだ。

「もったいなきお言葉です」
「今度,画家にそなたの絵を描かせようぞ」
「宮廷絵師の高杉卿ですか?」
「さよう…懇意か?」
「…いいえ」

ここ近年,王家御用達となっている隻眼の宮廷絵師を思い浮かべ,顔をしかめそうになった。
別に何があったというわけではないが,どうも高杉卿とは馬が合わない。

「あの者も大層美しい顔立ちをしておる。いつか自画像も描かせたいものじゃな」
「…」

王妃が賞賛するので,ますますあの男を嫌いになりそうだ。俺が押し黙ったのを見て,妃殿下の口角が品良く上向いた。しかし,

「土方卿」

打って変わって真剣な声音で俺を呼んだ。はっとして王妃を見つめると,威厳溢れる強い目つきに身も心も瞬時に射抜かれた。
民草から『紅薔薇の女王』と呼ばれ貴ばれる唯一無二の女性を前に,俺は躊躇なくその場に跪いた。

「本日の一騎打ちじゃが――」

女王はぴしゃりと音を立てて扇子を閉じ,

「――勝て。それ以外は許さぬ」

扇の先で俺の顎に触れるので,俺は跪いたまま顔を上げた…王妃の熱い視線に再び捕らえられた。
この美しく,やんごとない女性の眼差しが,真っ直ぐに自分へ注がれていることを,心地よくも畏れ多くも思う。

このままずっと 見つめられていたいと思う。
見つめていたいと思う。

「妾はそなたの無愛想な仏頂面をこよなく愛しておる。それに傷がつくことは,断じて許さぬ」

王妃は俺の顎から扇子を退け,代わりに右手を目前に差し伸べた。

「はい。仰せのままに」

俺は妃殿下の白い手をとり,その手の甲に接吻をおとした。
一層強くなる薔薇の香りに感覚が痺れてゆくような,研ぎ澄まされてゆくような,矛盾した状態になる。


――我が勝利を,敬愛する紅薔薇の女王陛下へ。


跪いたまま王妃を見上げ,俺は笑ってみせた。
『無愛想な仏頂面』を愛する彼女には,少々物足りなかったかもしれないが。




王妃様の読んだ異国の本=北方謙三氏の『三国志』


2015/04/02 up...
13代目・拍手お礼夢その1。