あの事件の後。
彼の部屋から書類や帳面類はもちろんのこと,衣服や調度品まで全ての物が慌しく運び出された。
『検閲』をするためだ。
彼は攘夷一派と裏で手を組み,真選組という一組織を揺るがす事件―謀反を起こしたのだから,
彼の持ち物全てが検められるのは当然のことだ。

でも…

一切の物の影が消えてしまった伊東先生の部屋を見て,わたしは現実味の無い空虚な寂しさを感じた。
そこからは『色』が失われてしまっていたから。
彼の無彩色な世界がいつか色付くことを,わたしはずっと願い続けていたから。
そしてその気持ちは,今も変わらずここにある。



色彩哀歌



「というわけで,こんなの持って来ました。綺麗でしょ?」

そう言いながら,わたしは墓石の前に花束を差し出して見せた。
濃黄色の花弁を咲かせるコスモスを十本。
涼しい秋の風に吹かれて,秋桜はくすぐったそうに身を揺らした。

「これね,屯所の花壇に咲いているものなんですよ」

わたしはコスモスに顔を近づけて,その淡い香りを吸い込んだ。
控えめだけれど凛としていて,甘やかな芳香が鼻孔を撫でた。

「近藤さんは『やっぱり花があると気分が明るくなるなあ』っておっしゃってくれてるし。
 土方さんは『男所帯に花なんていらねーよ』って顔をしかめるんですけど。
 でもね,そう言いながらも内心じゃ結構気に入ってくれてるみたいなんです。
 このまえ縁側に座ってコスモス眺めながら微笑んでましたもん」

わたしは「あの表情は貴重だったなあ」と思い出してくすくす笑った。
墓前の花立に残っている古い花を片付けて,かわりにコスモスを活ける。

「コスモスの花壇,伊東先生にも見て欲しかっ…ううん,ちょっと違いますね」

言葉の途中で首を振って,言い直す。

「伊東先生に,見て欲しかったです」

わたしは持ってきたお線香に火をつけて,香立にゆっくりと差し込んだ。
お線香の独特な和の香りが,薄灰色の煙と共に風に流れる。
ゆるゆると昇っていくその煙を,わたしは静かな気持ちで見上げた。

澄み切った秋の高い空の中へ,煙は一筋の曲線を波打って吸い込まれていく。



+++++++++++++


伊東先生の第一印象は『感じの悪い人』だった。

「すまないが君,お茶をかえて来てくれないか」

お茶を出して数分後,料紙の補充をしたり墨を足したりしていたわたしに先生は言った。
わたしは「もう飲んだんだ~早いなあ」などと思いながら,文机の上にある湯呑を覗き込んだ。
でも,中にはまだたっぷりのお茶が揺らめいていた。

「…?まだたくさん残ってますよ?」

わたしが首を傾げると,伊東先生は深く嘆息して眼鏡をくいっと押し上げた。

「敢えてはっきり言おう…非常に不味くて飲めたもんじゃない。入れ直して来てくれないか」
「…」
このお茶ブッかけてやろうかしら,という物騒な考えがわたしの頭をよぎった。

伊東先生はお茶の味にものすごくうるさかった。
そりゃあもう本当に。
土方さんがマヨラーなら,伊東先生はオチャラーですかってくらいに。
一度伊東先生に「先生はオチャラーですね」と言ったら,ものすごく怪訝な顔をされたけれど。
他の人たちはお茶の味なんてほとんど気に留めないのに。
敢えてはっきり言おう…非常にムカつくことこの上ありません。
でも,だ。
『外回りの仕事が多くて滅多に屯所に戻らない伊東先生に,せめて屯所にいる時くらいは心身共に
 休んで欲しい』
そういう思いも確かにあったから。
伊東先生にゆっくりお茶を味わって欲しくて,
『美味しい』と笑いかけてもらいたくて,
その日以降わたしはバカみたいに一生懸命お茶の淹れ方を猛練習した。
――そして日々が流れて,

「もう一杯いただけるかい」

きれいに飲み干した湯呑を伊東先生が差し出してくれた時,わたしは嬉しくて大泣きしてしまった。

「え!?ど,どうしたんだい?君!?」

あんなにもおろおろしている伊東先生を見るのは初めてだった。
先生の表情は本当に必死で「あ~わたしのために慌ててくれてるんだ」と思うと,ますます涙が出た。
伊東先生はぎょっと目を見開いて『?』マークを頭上にいっぱい浮かべて,

「なにも今すぐ持って来てくれなくても良いから。もし持って来るのが嫌なら今日は我慢するから」

と,全然的外れなことを言いながらわたしの頭をそろそろと撫でてくれた。
もちろんわたしはその後すぐにお茶を持って行った。
今度は季節の和菓子もプラスして。



伊東先生は外での仕事が多かったけれど,屯所にいる時はわたしとよく話をしてくれたし,出張から
帰って来た時はいつもわたしにお土産を買って来てくれた。
そしてわたしがお茶を淹れて,そのお土産を伊東先生の部屋で一緒に食べる,というのがいつの間にか
恒例になっていた。
客観的に見ても仲良しだったと思う…伊東先生とわたしは。
少なくともわたしは,伊東先生と一緒にいる時間を心地よく感じていた。



「そんなところで何をしているんだい?」

桜の季節もとっくに終わった頃,庭で土をいじっていたわたしに,伊東先生が縁側から声をかけてきた。
その日わたしは汚れても構わない鳶色の着物に,小豆色の前掛けをしていた。
袖が邪魔にならないようたすき掛けして,両手には軍手をはめて,頭にはきっちりと三角巾をつけていた。
つまり,普段にも増して色気の無い格好をしていた。
わたしは額に浮き出てきた汗をぬぐいながら,

「見てわかりませんか?花壇作りですよ。前から思ってたんですけど屯所は殺風景だと思うんです。
 だから花でも植えたら良いんじゃないかって。ちゃんと近藤局長の許可はいただきましたよ」

伊東先生の方を振り返って,スコップを振ってみせた。
でも先生はというと,そんなわたしに呆れたように眉をひそめた。

「そんなことをやる暇があるなら他の仕事をやった方がいい」
「わたし今日オフなんですよ」
「…なに?」

わたしの発言に,なぜか伊東先生は目を曇らせた。
その表情の変化に少し疑問を感じながらも続けた。

「今日一日使って土台を整備して,明日からは休み時間使ってちょこちょこやります」
「…」
「他の女中さん達も『今日は無理だけど,明日からは出来る限り手伝うよ』って言ってくれてますし」
「…」
「あ,大丈夫ですよ。普段の女中業に差し障りがないよう作業を進めますから」
「…」

じっと押し黙ってしまった伊東先生に,わたしは首を傾げた。
(本当にどうしたんだろう?…まあいっか)
わたしはまだ何の花も咲いていない,それどころかまだ何の種も植えられていない裸の花壇の方を向いた。
そしてスコップで土をざくざくと馴らしていく。

「花って視覚的にも嗅覚的にもリラックス効果があるんですよ。ちゃんと科学的にも立証されている
 らしくて。屯所内が華やかになる上に,癒しの効果もあるなんて一石二鳥ですよね。
 隊士の皆さんは業務で毎日お疲れですから。少しでもリラックスできる空間をお庭に作りたくて」
「…」
「あ。でも猫ちゃん達に花壇に入らないように教えなくちゃ」

ずっと話し続けていると,頭上に影がさした。
いつの間にか伊東先生が縁側から降りて,わたしの隣に立っていた。
先生は花壇の方へ少し屈み込んで,

「何の花を植えるつもりだい?」

興味深そうにわたしの手元と,それから側の種子袋に目を移した。
伊東先生が関心を持ってくれたことが嬉しくて,わたしの頬は自然と緩んだ。

「色々考えたんですけど…コスモスを植えようと思っています。コスモスの花言葉をご存知ですか?」
「いや…」
「『野生美』です。真選組にぴったりだと思うんです」

晴天の下,見事な群をなして美しく咲き誇って。
風になぎ倒されても,雨に打たれても,決して折れることはない。
激しい風雨も厳しい日差しも,すべてを受け入れて自らの強さに変えていく。
秋桜は,そういう花だ。
わたしは自分でも気付かない内に,歯を見せて笑っていた。

「………そうか」

初夏の風が吹いたかと思うと,にわかに日が翳った。

伊東先生の声の温度がわずかに冷たくなった気がして,わたしは先生の方を見た。
眼鏡の奥で,先生の瞳は静かな色を湛えていた。
その色は,何かを決意した人が見せる,強くて孤独な光に満ちていた。
それが何を源として光っているのか,わたしには推し量ることもできなかったけれど。

上空では風が余程強いのだろうか。
みるみる内に白雲が流れて,太陽に集まった。
空は青いままなのに日差しだけが見えなくなって,真昼の庭が薄藍色の影に支配された。

「…君」

拒絶の双眸を持つ人が,わたしの名を呼んだ。

「…はい」
「君は真選組が好きなんだね?」

伊東先生の声からは感情が全く読み取れなかった。
どういう答えを先生が望んでいるのか,それもわからなかった。
先生の口調は問いかけだったけれど,既に私の答えを確信しているような響きもあった。
だからわたしは先生の目を見て,はっきりと答えた。

「はい。好きですよ。伊東先生もそうでしょう?」
「…」

一瞬,伊東先生の瞳が苦しそうに歪んだ気がした。
『拒絶』の光の裏に,強い『渇望』の影が見えた気がした。
けれどもすぐにまた元の無表情に戻ったから,ひょっとしたら見間違いだったのかもしれない。

すぐ近くの塀の上で戯れていた雀たちが,何ごとか呟きながら飛び立っていく。
音もなく群青色の風が吹いて,先生の髪を横薙ぎに揺らす。

「君はきっとたくさんの人に愛されて育ったんだね。君を見ているとわかるよ」

不意に。
伊東先生と先生の後に広がる風景が,モノクロに染め上がった。
…もちろんそれはわたしの目の錯覚だったけれど。

でも先生を包んでいる世界は,先生が認識している世界は――
――無彩色だ。

「伊東先生…」

何の彩りも無い。何の温度も無い。
自ら拒絶している。自ら孤独を選んでいる。
本当は狂おしいほどの渇望を抱えているくせに。
根拠は無いけれどそんな気がして,わたしを無性に泣きたい気持ちにさせた。

「でもそうじゃない人間もいる。君はそれを知るべきだ」
「…」

『僕はそうじゃない人間なんだ。
 僕は君とは違うんだ』
そう言われた気がした。

「…」

わからない。
どうして,こんなに胸が痛いんだろう。
自分の心が熱いのか凍えているのか。
自分の目が濡れているのか乾いているのか。
そんなことすらも,今のわたしにはよくわからない。

「」

ひどく近くで低い声がして,はっとした時には伊東先生の顔が目前にあった。
ほとんど反射的に,わたしは瞼を下ろした。
柔らかな弾力をもった熱で,唇が包み込まれた。

その途端,切なくなるほどの甘い燻りがわたしの喉元を焦がした。
閉じられた瞼の裏の暗闇が,真っ赤に燃え上がった気がした。

重ねられた唇はすぐに離れた。
ゆっくりと目を開けると,伊東先生の顔はまだ間近にあった。
眼鏡の奥で光る水鏡のような瞳から目を逸らせなくて,至近距離で視線と視線が交錯した。
しばらくの間わたし達は沈黙したまま,お互いの息でお互いの唇に触れ合っていた。

「伊東…先生…」

呟くように名を呼ぶと,先生はとても儚い笑みを浮かべた。
少し間違えると泣き顔になってしまうような,そんな脆い微笑みを。

塀の向こう側を,子供等が笑いながら駆けていく声が聞こえた。
伊東先生は静かにわたしから身を離して,そのまま黙って背を向けて歩き出した。
だんだん遠ざかっていく背中を見て,わたしは思わず叫んだ。

「…っ!伊東先生!」

切羽詰まったわたしの声に,伊東先生は立ち止まった。
でも振り返ってはくれない。
わたしはそんなことには構わずに叫んだ。

「じゃあ…それを知った後はどうしたら良いんですか?」

新緑の風が木々を揺らして,ざわざわと音を奏でた。
伊東先生はやはり振り返ってはくれない。

「わたしはどうすれば良いんですか?
 そういう人に幸せになって欲しいって,そういう人のために何かしたいって。
 そう思ったらどうすれば良いんですか?」

――あなたと一緒にいるにはどうすれば良いの?――

「…」

伊東先生のこちらを振り返る動作が,なぜかひどくスローモーションに見えた。
風に雲が取り払われて,隠れていた太陽が再び庭を照らし出した。
白金色の光が先生を照らし出す…まるで優しく天へ攫おうとするかのように。
伊東先生の薄い唇が開いた。

「好きにすると良い。どうせ僕が何を言っても,結局君は自分の意思を通すんだろう」

それは突き放すような言葉だったけれど,驚くほど優しい響きをもっていた。
そういう風に聞こえたのは,伊東先生が笑っていたからかもしれない。
まるで花を愛でる時のように,穏やかに目を細めて。
わたしは声もなく,ただ目を丸くして伊東先生の笑顔を見つめた。

「でも土いじりはほどほどにするべきだ。君は普段から働き過ぎている。休みの日くらい休みなさい。
 それから…」

五月晴れの青が滲んで,地上へと降り注いでくる。
伊東先生は下唇に手を当てると,からかうように口角を上げた。

「土の味がしたよ。終わったらちゃんと洗った方が良い」

すぐにはその言葉の意味を理解できなかったけれど,

「………!!!」

何のことか気付いた途端,今更ながら顔がカアッと熱くなった。
わたしがスコップを放り出して両手を頬に当てると,伊東先生は今度は声をあげて笑った。

爽やかな風が青葉を揺らし,まるで口笛のような音を立てて吹き渡っていく。
茂みの中から漆黒のアゲハ蝶が姿を現し,伊東先生とわたしの間を横切っていった。
ひらひらと。
ひらひらと…


+++++++++++++



「…ねえ,伊東先生」

頬を伝う一筋の滴を払って,わたしは墓標に向って話しかけた。
秋の白んだ空気の中,花立のコスモスが静かにふれ動く。

「わたしね,先生のこと好きでしたよ」

 あの時に植えた種が,今はこんなにも綺麗な花を咲かせてくれましたよ。
 今,屯所の庭は…
 …あなたがアイした真選組の庭は『野生美』の花で彩られていますよ。 

「とっても好きでしたよ」

 あなたの渇望していた色彩が,確かにここに在るんですよ。

「でも伊東先生もわたしのこと好きだったでしょ?」

 あなたの笑顔が好きだった。
 あなたの声が好きだった。
 あなたの背中が好きだった。
 
 あなたのなにもかもが,好きだった。

「たとえそうじゃなくても,わたしはそう思ってますからね」

 わたしに見せてくれていたそれが,あなたの一部に過ぎなくても。
 そんなことは関係ないんだ。
 そんなことは大した問題じゃないんだ。

「好きにすると良い。どうせ僕が何を言っても,結局君は自分の意思を通すんだろう」

 だってわたしは,ほんとうにあなたが大好きだから。

「…好きにしますよーだ」

わたしは目を閉じて,そっと手を合わせた。
線香の匂いがしめやかに零れ,とても緩やかな時が流れた。
墓地の隣にある竹林が風に揺さぶられて,鮮やかな音を奏でていた。
逝ってしまったあの人の面影を,瞼の裏でもう一度思い描き,わたしは微笑して目を開けた。

「また来ますね」

そう声をかけると,墓前の秋桜がそろって頷いた。
わたしは立ち上がって大きく背伸びをし,空を見上げた。
空の匂いが,清涼な風に運ばれてくる。
露をふくんだような青が目に眩しくて,わたしは目を細めた。

願わくば,あなたの今いるその場所が,安らかな色で充たされていますように。
そして願わくば,あなたがそこで笑っていますように。
祈りを込めて。

秋空に 歌おう。



--------------------了


2008/11/04 up...
コスモスの花言葉=『野生美』『乙女の真心』『少女の愛情』『調和』