その男によって墓へ捧げられた小さな花は,崖の向こうから吹きつけてくる風に無情にも飛ばされて
しまった。
あとに残ったのは,冷たく凍った墓石のみで。

――誰の墓だい そりゃ。
――…。

男はこたえなかった。
墓前に座りこむ男の丸い背は,彼自身もまた一つの墓石であるかのようにぴくりとも動かない。
その背中を見下ろし,もう1人の男は溜息を吐いた。

――お前のような野郎にも 大事な奴はいるってか。
――…おらぬ。そのようなもの。

今度の問いかけには,こたえた。
しかし 振り向くことは決してなく。

――もう おらぬわ。

男の声が震えていたのは,おそらく潮風のせいだろう。
びゅうびゅうと煩くて仕方が無い。

びゅうびゅうと。
びゅうびゅうと。


不知夜月


びゅうびゅうと山中を吹き渡る風の音が,いつになく激しい。木々の枝から紅葉をもぎとる木枯しが,
晩秋の空の下を勢いよく流れてゆく。ざわざわと山全体が揺れ,鳥達の鳴き声もあいまって辺り一面に
反響している。

「…」

けれどもそのような荒々しい風に頓着することなく,男は黙ったまま木枝で土に『』と書いた。

「ふーん」

その彼と向かい合いしゃがみこんでいる彼女は,興味深そうに地面の字を見つめた。

「これがわたしの名前なのね」
「ああ…そうだ」
「素敵」

は手にした小石で,男が書いた『』の隣に同じ字を書こうとした。がりがりと石が土を削る
のを見て,男は少しだけ笑った。

「違う。書き順がめちゃくちゃだ」
「こう?」
「ああ。こっちの線が先だ」
「へえ…」

男はが書く速度に合わせ,今度はゆっくり『』と書いてみせた。
枯れた風に砂が舞い上がり,足袋の先をうっすらと土色に染めようとする。
2人の手で地面に書かれた沢山の文字の上を,赤い落葉の群がからからと横切ってゆく。

「ねえ」

はふと手を止め,顔を上げて男の目を見つめた。

「あなたの名前はどう書くの?」
「俺の名か…」

彼は唇の端を歪め,ひどく静かに自嘲した。
しばし何かを思い出そうとするかのように虚空を見上げ,地面にその名を彫ろうとしたその時,

「ー」

彼女を呼ぶ声が響いた。

「あ,はーい」

はそれに応え,着物の裾を手で払いながら立ち上がった。

「座長が呼んでる。打ち合わせの時間」

明日の興行の…と付け加え,傍らの平石に置いていた風呂敷包みを抱えて男に笑いかけた。

「ごめんね。また後で教えて?」
「ああ」

男は自分の持っていた枝を,乾ききった地べたに置いた。
そうして――天を見上げる。

視界に映るのは 燃えるような紅葉。
紅蓮の向こう側の青。
影の中を踊る 木もれ日。
こがね色の 光。




――『己の技を買う者であれば,誰であろうと忠誠を誓う』…忍とは本来そういうものだろう?

おまえが父上を殺した。

――我々はお前の技を買う,と言っているのだ。

おまえが母上を殺した。

――妹御の『面倒』も見てやる。悪い話ではあるまい。

おまえが爺様と婆様を殺した。

――我らに忠誠を誓え。

おまえが殺した。
顔を。
声を。
名前を。
すべてを。
ころした。

ああ にくい。
ああ くるしい。


…ころしてくれないか。




「見殺しにしたのね,カンダタを。お釈迦様は」

男が口にしたお伽話を聞き終えると,は不満そうに眉を歪めた。
さやけき月光が天幕の外から零れてくる。薄暗いテントの中,2人は一つの寝床に転がって,一つの
枕に頭をのせている。

「お釈迦様って酷いひとね。たとえ悪人じゃなくたって,普通の人間ならカンダタと同じことをするわ」
「ふっ…そうかもしれぬな」

息を零すように笑い,男は瞼を下ろしたが,の感想はさらに続いた。

「お釈迦様はハナからカンダタを助ける気なんて無かったのよ。そうとしか思えないわ」

彼女は少し乱暴に寝返りを打って,男の肩に顔を寄せた。
控えめな体温の振動が,頬を伝わって来る。

「それなら蜘蛛の糸なんて垂らさなければ良かったのに。へたに希望をもたせて。酷いひと」

釈迦をなじる畏れ知らずの吐息が,暗闇の中に落ちてゆく。
男は特に相槌を打つことも無く目を閉じていたが,まだ起きているようだった。は片手で頬杖を
ついて,仰向けに寝ている彼を見下ろした。

「ねえ…」
「…なんだ」

影に縁取られた男の喉が,乾いた声と共に震えた。

「どうしてわたしを抱かないの?」

凪いだ水面に 一滴だけ雫を落としたかのように。
静かな夜気の中を,彼女の声が波紋して広がってゆく。

「…」

男はうっすらと瞼を開き,の方へ顔を向けた。

「ねえ,どうして?」

純粋な興味から男に重ねて問いかける。
旅の一座であるたちの馬車に「江戸まで乗せてくれ」と,男がそう声をかけてきてから既に7日
以上が経っていた。

「抱いて良いのよ。子どもじゃないし,生娘でもないし」

彼が路銀として座長に渡した金は相場の倍で,「やましいことがあるから私達に紛れて旅がしたいの
だろう」と,一座の面々は影口を叩いた。
男が同行することを許しながらも,皆が常に一定の距離をもって彼と接していた。
男の方も,敢えて連中と言葉を交わすことはなかった。

「…」

ただし――をのぞいて。
なぜかはわからないが,彼はには幾分か『人間味のある表情』を見せた。

「頭の悪い女は嫌い?」

興行の合間をぬって,学の無いに読み書きを教えてくれることさえあった。
 <旅芸人の女と,その馬車に乗り合せた男>
床を共にするようになるのに,然程時間はかからなかった。
しかし,2人はただ寄り添って文字通り『寝る』だけだった。
穏やかに寝物語を交わすものの,彼はにほとんど触れて来なかった。

「わたし,そんなに魅力ない?」
「…いや」

男は否定の声を発すると,自身の目頭に手を置いた。

「妹と同じ年頃の女は抱かぬ」
「妹?」
「ああ」

ゆっくりと顔から手を離し,彼は「すまぬ」と誰かに…何かに一言詫びた。

「…もう眠る」
「うん…おやすみなさい」

も素直に頷いた。それ以上問いかける気にはならなかった。
彼の声は沈みきっていた。
まるで どこまでも果てしのない穴ぐらのように。

ひどく深く ひどく悲しい声。
今にも泣き出しそうなくらいに。
泣かないで,と。
そう言ってあげたくなるくらいに。




――…もういい もういいの

泣かないでくれ。

――私のために無理をするのは もうやめて

守らせてくれ。

――兄者…自分の人生を生きて

待ってくれ。

――自由に…自分のために生きて

いやだ。
いくな。
たのむから。
たのむから。


…こわしてくれないか。




壊れそうな呻き声をあげ,男は瞼をかっと開いた。

「…!」

彼の黒い眼に映るのは,それ以上に黒い深淵の夜で。

「大丈夫?」

女の声が闇をすり抜けて男の耳に届いた。

「………か」

数秒の逡巡の後,男は現実を確認するかのように彼女の名前を呼んだ。
2人の寝床の周囲は,眠る前とさして変わらず闇に包まれたままだった。
夜は…未だ明ける気配もない。

「すごい汗」

が手ぬぐいで彼の額をゆっくりと拭いた。その間,男はされるがままじっとして動かなかった。
ただ――虚ろな眼差しで横たわっていた。

「怖い夢を見たの?」

ひんやりとした空気が流れ,天幕の隙間から月光が静かに差し込んできた。
男は銀色の光に目を細めると,呼吸を整えて深い溜息をついた。

「ああ…昔の夢を見ていた」
「そう」

彼の黒髪が月の光を吸い込んで,解き放つ。

「ねえ」

は男の髪を指先で撫で下ろした。

「『  』って誰?」

男の目が驚愕で大きく見開かれる。
はもう一度彼の髪を撫で,「寝言で呼んでたから」とぽつんと呟いた。

「ああ…」

男は納得したように顎を引いて,額にあるの手に自身の手を重ねた。そして,

「…妹の名前だ」

そう答えながらやんわりと彼女の手をどかした。は小さく肩をすくめ,枕に頭を下ろした。
彼女の頭が沈みこんだ方へ,男の頭もまた少しだけ傾いた。

「妹さんは,今?」
「何年も前に死んだ」
「…そうなの」
「…」

そのまましばらくの間,2人の枕元に沈黙が流れた。その静けさを埋め合わせるかのように,天幕の
外から風の音が柔らかく響いてくる。

「わたしにも兄さんがいたけど,病気で死んじゃった」

は額をこつんと男の肩に当てた。伸ばしかけの前髪が額と肩との間でくしゃりとつぶれる。
露寒い空気が,閉じた瞼の表面や睫毛の先に沁みこんでくる。
男はの方へ少しだけ,本当にわずかに頭を近づけた。

「…辛かったか」
「うん…すごく。元から体弱くて,わたしはいつも心配してた」

は目を開き,夜に溶けてしまいそうな男の横顔を見つめた。

「妹さん,きっとあなたのことをすごく心配して亡くなったと思う。『妹』だからわかる」

影色の視界がゆらゆらと歪んだ。
は布団の隅っこで瞼をきゅっと押さえた。ほんの少し布団に滲んだ雫は,思いの外熱かった。
控えめに鼻をすすると,冷気が一瞬つんと沁みた。

「…」

衣擦れの音が流れ,男は上半身を起こした。
が顔を上げると,彼の身体の輪郭が闇に浮かび上がっていた。

「外に出ないか」
「外に?今?」
「ああ…嫌か」
「ううん。ヤじゃない」

少し眠いけれど…と言うと,男はの額に手を伸ばし,あやすように彼女の前髪を横に梳いた。
その動作がひどく優しかったので,は自然と微笑んでいた。

「眠いけど,我慢する。行こ」
「ああ…行こう」

の高い声が夜気を弾ませ,彼の低い声が夜闇を震わせた。
寝床の温もりに未練を残すこともなく,2人はそこから抜け出した。
天幕の中に停滞している安らかな闇だけが,それを見守っていた。
いってらっしゃい,とでも言うように。
2人が天幕を出た背後で,白い埃が暗闇の中をふわふわと舞っていた。


++++++++++++++++++


「寒い!」

外に一歩足を踏み出した瞬間,風が口笛のような音を立てて吹きぬけていった。は思わず肩を
跳ねさせたが,男はそれほど寒さを感じていないらしい。首をすくめるような動作もみせず,露玉で
湿った地面をざっざと歩き始めた。も慌ててそれに続く。
男の手にした提灯が風に揺れ,寝静まった山中をゆらゆらと上下左右に照らし出す。
夜闇の中,逆光に浮かび上がる彼の背中は,これから黄泉の国へと旅立つ御霊のようで。

(…やだ)

彼が遠くへいってしまいそうで。
は怖くなって,男の背後にぴたりとついて歩いた。
それでなくとも夜の山道は恐ろしかった。影に閉ざされた茂みの奥から獣が今にも飛び出して来そう
だったし,葉ずれの音は人ならぬ存在があげる笑い声のようだった。
視線を上げると,提灯によって下から照らされた紅葉が,無数の赤子の掌のように「おいでおいで」と
手招きをしていた。

「いたっ」
「!」

どんっと体に衝撃が走る――闇の紅葉に見入っていたせいだ。
ぶつかった男の背中は,実際にはそれほど痛くはなかったが,反射的には小さく叫んだ。

「…ちゃんと前を見て歩け」

危ないだろう,と。
呆れ半分・微笑半分の表情で男は言った。

「うん…でも怖い」

は隣に並んで,男の袖をぎゅっと握り締めた。

「…」

彼はそれに対して特に何も言わなかったので,許可をもらえたとは勝手にそう思うことにした。
袖から彼の体温を感じ取ることはできなかったが,自分の体温で徐々に温まってくる布の感触になぜか
ほっとした。

「ねえ,どこまで行くの?」
「…もう少しだ」
「『もう少し』ってどのくらい?」
「もう少しは,もう少しだ」
「えー」

が口を尖らせると,男は喉の奥で小さく笑った…思い出し笑いのように,かすかに。
彼はと話をしている時,よくそういう穏やかな笑い方をした。

「…」

それが嬉しくもあり…少しだけ寂しかった。
微笑する時の男の双眸は,ひどく遠い日の夢を見ているかのようで。
今,彼の隣にいる娘のことを忘れていた。

「ここだ」

――丸い空が顔を出した。
頭上を鬱蒼と覆っていた木々が,その場所だけは円形にぽっかり空いていた。
秋の盛りを越えてもなお僅かに残る虫たちが,風の音にのって静かに鳴いている。
滅びに向かう季節の,濡れた土の匂いがする。
丸く切り取られた夜空の真ん中で,月が真っ白な輝きを放っていた。

「きれい…天井に窓があるみたい」

星たちは澄んだ光をきらきらと零して,今にも流れていってしまいそうだ。
晩秋の夜空は黒一色ではなかった。
紺色で。碧色で。紫色で。
たくさんの色を重ね合わせた色をしていた。

「お月さまも。とってもきれい」
「ああ…今日は十六夜だな」
「『いざよい』?それ,どう書くの?」

耳慣れない言葉を尋ねると,男はに提灯を渡してしゃがみこんだ。手近な石を拾い上げ,湿った
柔らかな土に彼は『十』と『六』と『夜』を書いた。3つ共既に教えられたことのある文字だった
ので,は目を丸くした。

「これで『いざよい』って読むの?」
「ああ…昔は『ためらう』ことを『いざよう』と言ってな。十六日目の月はためらうように,いざよう
 ように遅く昇る…それが転じて『十六夜』と呼ばれるようになったと言われている」
「へえ」

が感心の声をあげると,男は小石を地面に置いた。そして,

「!」

黙ったまま の足袋についた砂を手で払った。
彼の手のひらは大きくて,その分の足が幼子のそれのように小さく見えた。

「どうもありがとう」
「…いや」

男は時折そういう優しい動作を自然にとった。自分より年下の者の世話を焼くのに慣れているよう
だった。彼は自分の砂を払うことはせず,そのまま立ち上がった。

「…」

男が空を見上げたので,もつられて顎を上向ける。
丸くあいた森の窓の向こうで,十六日目の月がこちらを静かに見下ろしている。

「本当にきれいね。月がとっても近く見える」
「そうだな…だが,」

彼は一瞬だけ言葉を止め,すぐに続けた。

「地球から月までの距離は38万キロだ」
「38万!そんなに?」
「ああ。遠いな。これほど近くに見えるというのに」
「…人も同じかも」
「…?」

男が月から視線をはずし,こちらを見たのが横目でわかった。
も空から目をそらしたが,彼の方を見ず俯いた。
提灯の朱光に照らされた2つの影が,冷たい土の上で頼りなく伸び縮みしていた。

「だって あなたはいつも遠いところにいるから」

何を見ていても ほかの誰かをみつめていて。
わたしが隣にいても ほかの誰かを傍に感じていて。
どこにいても どんな時も
ほかの『いつか』の場所に立ち止まって そこから動かずにいる。

「とても遠いところにいるから」

こんなに近くにいるのに とても遠いあなた。
あんなに近くに見えるのに とても遠い月。
似ている あなた達。

「…」
「わたし,字もろくに書けない女だけれど…わかる」

は男の瞳を正面から見据えた。彼はかすかにたじろいで,眉間に浅い溝をつくった。

「あなたは痛みを抱えている」

確信に満ちたの声が,男の視線を揺らした。
赤い光に誘われた羽虫達の,提灯に体当たりをする音が,かつんかつんと辺りに響いた。
は男の指先をそっと握り締めた。彼の乾いた爪はひどく冷たくて,温もりを欲していた。

「あなたには手当てが必要なんだわ」
「俺に手当て…?」

それまで黙っていた男が,自嘲するようにの言葉を繰り返した。
小さな手を己のそれから離そうとして,彼は何度か軽く手を振った。しかし,彼女に離す意思が無い
ことを察すると,諦めたように溜息をついた。

「そんなもの,最も必要のないものさ」
「どうして?痛みなんて無いから?それとも…痛みがあるままで良いから?」
「…お前さんには,わからぬさ」
「わからないよ。だってわたしはあなたじゃないもの。だから,知りたい」

凛とした声が闇に響く。
夜が青く張り詰める。

「自分が憎いの?」
「…」

男は静かに目を閉じた。
まるでの眼差しから逃げるかのように。強制的に視線が断ち切られた。
けれどもは彼をみつめ続けた。
夜闇の黒と,提灯の朱と,月光の銀とが交互に男の顔を侵蝕した。

「どう生きたいの?」
「…くだらぬ」

瞼を下ろしたまま,男は首を横に振った。
目を閉じていても世界は何も変わらないのに。
そして,そのことは彼自身もよく知っているだろうに。

「己の望む生き方など…とうの昔に忘れてしもうたわ」

――その瞼の裏に何を描いているのか。
は握り締めていた男の指から手を離した。代わりに,彼の頬に手のひらをぴたりとくっつけた。
男が驚いたように目を開き,それと同時に2人の視線が再び交錯した。

「生きていたくないのね」
「…」

すっと細められた男の目は,ひどく乾いていた。
きっと『己の望む生き方を忘れた昔』に,涙も忘れてしまったのだろう。
そこにあまりにも沢山のものを置いてきてしまったのだろう。

「じゃあ…どう死にたいの?」

いや――ひょっとすると置いていかれたのは,彼の方なのかもしれない。
あらゆるものから置き去りにされ,泣きたくても泣けなくて。
たとえ泣いたとしても,もうどうにもならなくて。
終わらせるしか,なくて。

「己の罪を…」

低い声でつぶやいて,男は月を見上げた。
わずかに欠けた,円を通り過ぎた十六夜が,彼の虚無を白々と照らし出した。
色の無い冷たい風が,生きている者達の骨を凍えさせた。

「罪を…贖える死に方があるのなら」

提灯が足元に落ち,火がたちどころに消え失せた。
――は男をかき抱いていた。
迫り来る闇からも,振り注ぐ月光からも,彼を守るように腕に抱きしめていた。
彼がどんな罪を犯したのかは知らない。
誰を傷つけ,何を捨てたのかも。
彼のいう『罪』は,決してゆるされるものではないのかもしれない。
それでも――

「わたし,祈ってる。あなたが死んだ後…大好きな人達と会えるように。天国で」

――せめて彼がこの世を去った後は,こころ穏やかであるように。
死はすべてからの解放であるべきだ。


「俺は地獄行きさ」
「蜘蛛の糸をつかめば良いよ」


とっさに出た台詞は,寝物語の切れ端だった。

「…ははっ」

彼は声を立てて笑った。
その笑い声には,苦しみも哀しみもなく――いたって普通の,ただの笑い声だった。
男は身じろぎをして,の頭に手を置いた。
手のひらのやさしい重みに,は無性に泣きたくなった。

「笑わないでよ。真剣に言ったのよ」
「はは…それはすまなかったな」
「本当よ…ふふ」

も笑いながら彼にしがみついた。
目の端から零れ落ちた滴には,気付かないふりをした。

「ねえ…待っていてくれる?」
「…?」
「生き物は皆いつかは死ぬでしょ。わたしもいつかは死ぬわ。だから…」

は顔を上げて,男の双眸を見た。
男は今度は視線をはずさなかった。
彼は微かに露を宿した瞳で,の視線を受け止めていた。
月明かりしかない闇の中でも,不思議とはっきりとわかった。

「天国で待っていてくれる?妹さんと一緒に。わたし,会ってみたい」

男が自分と妹を重ね合わせていること――とっくに気付いていた。
彼はの頭に置いていた手で,彼女の目の下に触れた。
一筋の涙の軌跡を,そっと親指の先で拭う。

「…わかった」
「本当に?」

乾いた指先の感触に,せっかく止まっていた涙が再び流れ出た。
今度は一滴では終わらなかった…後から後からぽろぽろと。
それを見た男は,困ったように眉を寄せて笑った。

「わたしがしわくちゃのおばあちゃんになってても気付いてね」
「ああ」
「腰曲がって足元覚束なくなってても気付いてね」
「ああ」

拭っても拭っても 涙の止まらない泣き虫を。
男は静かに抱きしめた。

「ずっと待っている」


だから お前はゆっくり来れば良い。


白い風が吹き渡り,荻の声が胸に響く。
影を背負った紅葉の群が,ひらひらと地面へ舞い落ちる。
夜を知らない十六夜の下で,ふたりはゆびきりを交わした。

長い約束を結んだ。






――兄者

ああ ここにいる

――ごめんなさい わたしのせいで

謝るのは 俺の方だ

――わたしが男の子だったらよかったのにね

お前はお前のままでいい

――ずっと兄者にあいたかった

ああ 俺もだ

――兄者が大好きよ

なにをばかな
そんなこと…あたりまえだ




俺だって お前がすきさ。



           -------了-------





2009/11/08 up...
不知夜月(いざよいづき)=十六夜の異称。本作は,月詠のお師匠の夢小説です。
Image Song『君は僕に似ている』(see-saw)