西日が窓から入ってくる頃に,わたし達は目を覚ます。
都会の空が茜色から群青へ,そして漆黒へ。
摩天楼の連なる街が夜の帳に包まれる時,わたし達の1日は幕を開ける。



Night Cats



「晋助,起きて」

布団にくるまれている肩を軽く揺すると,

「ん…」

かすれた声がわたしの名前を呼んだ。
ダブルベッドの中で彼の右腕はゆらりと動き,隣の空間を――つい先程までわたしが寝ていた位置を――
ぽふぽふと探った。

「…わたしはもう起きてるよ?晋助」
「…あー」

目的のもの(って自分で言うのもなんか変な感じだけど)を掴めなかった手から,みるみる間に力が
抜ける。晋助はもぞもぞと寝返りを打つと,とても億劫そうに瞼を開いた。それからベッドサイドに
立つわたしを,布団の中から見上げてきた。

「もう朝か」
「…です」

呆けた幼い表情に,思わず笑みがもれる。
目覚めた時に決まって「朝か」と訊く晋助の癖は,学生時代から変わらない。
あの頃の起床時間は確かに『朝』だったけれど,今の彼が起きるのはれっきとした『夕方』なのに。
最初のうちは「朝じゃなくて夕方だよ」と逐一訂正していたけれど,最近ではもう諦めてしまった。
彼の頭の中では『自分が起きる時間=朝』という公式が成り立っているんだろう。
…つくづく自己チューな人だ。

「ね,もう起きないと遅れ――…っ!」

再度促した瞬間,腕をぐいっと引っぱられた。
不意をつかれたわたしの体は,なす術もなく彼の方へ倒れ込む。

「晋助。ちょっ…!」
「今日は…ずっと寝てる。お前と」

ころころと甘えてくる声は「反則だよ!」と叫びたくなるくらいに魅力的で。
ぎゅっと抱きしめてくる腕は,このまま石化したくなるくらいに心地よくて。
なんでもワガママをきいてあげたくなるけれど。でも,

「…だめ。ちゃんと起きて,晋助。わたしだって仕事あるんだから」

やんわり腕をほどくと,晋助は不満そうに目を細めた…そんな顔しないでよ(わたしだってちょっと
不満なんだから)。
ちなみに,わたしも晋助と同じく夜の仕事をしている身だ。
――と言っても,彼のようなお水の花道ではなくて。
『深夜開館』をうたい文句にしている某私立図書館で,司書の仕事をしている。
晋助はなにか言いたげに口をへの字に曲げた後,やれやれといった風に嘆息した。

「チッ」
「舌打ちしないの!」
「あー…はいはい」
「『はい』は1回!」
「はーーーい」
「…(なんかすっごく腹立つ)」

青筋の浮かんだわたしの頭を撫でると,晋助は上半身を起こした。

「ご飯冷めちゃうから早く着替えてね」
「ん」

彼がベッドから立ち上がるのを見届けて,わたしはリビングに向った。
そのままキッチンまで進んで,コンロに火をつける。鍋の中の味噌汁をおたまでかき混ぜていると,
寝室からのっそり晋助が出てきた。
彼は目元をしきりにこすりながら,洗面所の方にぺたぺたと裸足で歩いていく。

(…あれがホストか)

毎日の光景だけれど,わたしには毎日の疑問だ。
まあ,たしかに。彼の顔はやたらと綺麗だし,全身から無駄にフェロモン垂れ流しているけれど。

でも私生活じゃどちらかというと無口だし。面倒くさがりだし。甘えただし。
寝起きで歯を磨く時ものすごくスローペースだし(奥歯をうまく磨けないんだとか)。
前髪が邪魔らしく普段部屋ではタオル地のヘアバンドしているし(おでこ丸出しだよ)。
朝食(もとい夕食)はパンとスープ派じゃなくてご飯と味噌汁派だし(具はワカメと豆腐とネギ)。

まるで気ままで気まぐれな黒猫みたいで。
今の職に就く前から彼を知っているわたしには,彼がホストだということはかなり違和感がある。
…でもこんなことが言えるのは『身近な人間』の特権なのかもしれない。

「腹減った」
「はいはい,待ってね…って」

振り向いた先には,きっちりスーツ姿の彼。
グレーの背広に同色のズボン,夜色のシャツにラインストーンの細ネクタイ。
うん。これはホントに惚れ惚れするくらい格好良い(普段はあんなだけど)。
でも――

「晋助。そのネクタイは昨日と同じだよ」

ぴっと指差すと,晋助はネクタイをひょいと掴んで目を瞬かせた。

「…そうだったか?」
「そうだよ…もう。貸して」
「ん」

ホント中身はぬけまくってる人なんだから。見た目は文句無しのホストなのに。
昨日のネクタイくらい覚えててよ(この調子じゃ昨日の献立も言えないだろうな)。
わたしは晋助の首にかかったそれを解いて,クローゼットから別のネクタイをいくつか取り出した。
スーツやシャツとの相性を見ながら,ネクタイを次々と彼の首に当ててみる。
わたしが「あーでもないこーでもない」と試している間,晋助はされるがままにボーッとしていた。
こんなにもぼんやりした人が,仕事になると一変して数多の女にかしづく男になるというのだから
不思議だ。

(…)

なにが悲しくて,自分の恋人が他の女にキャーキャー言われるためのネクタイを選ばなきゃいけない
んだろう。
ちくりと刺した胸の痛みを堪え,選んだネクタイを彼の首にきゅっと結び上げた。

「はい,これでオッケー」
「ん。すまねェな」
「…ううん」

笑顔をつくって晋助を見上げると,彼も笑みを返してくれた。
元々鋭い目つきの彼が笑うと,その瞳はますます細くなるのに。
なぜか,ひどく優しい光を帯びるから。
こんなにイイ男,女が放っておかないだろうなって。
――そう思った。

ご飯を食べ終えて,なにもかも支度をすませて,わたし達は玄関に立った。
晋助はもう出ないと危うい時間だけれど,わたしにはまだ少し余裕がある。
だから,わたしはお見送り。

「行ってくる」

鈍く光る革靴を履いて,晋助が振り返った。

「うん」

彼の声に頷いて――どちらからともなく額と額をくっつけた。
これは『合図』。
何がきっかけだったのか,どちらから始めたのか。もう忘れてしまったけれど。
この行為には,わたし達のいろんな思いがこもっている。
言葉にはできない いろんな思い。
額と額で体温が伝い合う感じ。触れ合ったところから溶けていく感じ。
これがすごく好き。

「…」

リビングから漏れ聞こえてくる夕方のニュース番組が,出発の時刻を告げる。
くっつけた時と同じように,わたし達はどちらからともなく額を離した。

「いってらっしゃい」
「ん」

わたしの声に短く返事をすると,晋助は踵を返した。そのまま扉を開けて,闇に忍び込むようにして
夜の街へと出て行った。黒猫は狩り場へ向かった。

「んーっ…」

わたしは1つ伸びをして,リビングへと戻った。わたしもそろそろ仕事行く準備をしないと。
と,その時。

「あ」

ソファの上で光る黒い物体が,視界の隅に映った。
摩天楼の街に生息している青年なら持ち歩いてて当然,な物。

「携帯しなきゃただの電話だぞー…」

主人に置き去りにされた携帯電話を,わたしはひょいと拾い上げた。

(なにやってんだか…もう)

仮にも客商売,いやそのものズバリ客商売。いつ何時誰から電話が入るかわからないのに…
ホントにとんだぼんやりホスト様だ。

「届けなくっちゃ」

わたしは勤務先の私立図書館に「諸事情で遅れます」と電話をかけ(アバウトな職場でよかった),
手早く身支度を済ませた。バッグを肩にかけ,パンプスを履いて――その時,

「!」

黒い携帯が 震えた。

「…」

数秒ほど身震いを続けた後,彼の携帯は再び沈黙した。震動の名残のように,ちかちかと黄色の光が
点滅している。
黒い身に黄の光――獣の眼を思わせるそれを,わたしはじっと見つめた。

「…見られても文句言えないぞー」

物言わぬ電子機器にぼやいてみて…溜め息をつく。
携帯電話に罪は無いけれど。
他の女からの言葉を受け取る機械なんて。
他の女からの欲望を伝える機械なんて。

「だいっきらい」

些細なことでいちいち湧き上がる嫉妬心が,自分でも嫌でたまらない。
わたしは軽く頭を振って,自分の携帯電話を取り出し『ある人物』に電話をかけた。

「…もしもし?わたし」
「おー」

かなりご無沙汰していた電話だというのに,その人はいたって普通に応じてくれた。

「久しぶり」

その人の声を聞くと…ひどく安心する自分がいる。
わたしの大切な友人で,わたしにとって兄のような存在である『彼』。
『彼』の声は,相変わらず透明な温度に保たれていた。
わたしは時々 その温度に甘えてしまう。


+++++++++++++++++++


クラブへ近付いた時に『着いたよ』と件の人物にメールを送ったら,そのちょっと後わたしが裏口に
立ったその瞬間,まるで見計らっていたかのように扉が開いた。

「おー。久しぶりだな, 」

彼は気だるげな目をしたまま,へらりと笑った。昔から全然変わらない彼の笑い方だ。

「久しぶり,銀時」
「入れよ。むさくるしい所だけど」
「…仮にもホストクラブがむさくるしくて良いの?」
「ばーか。男が群れているとこなんてなァ,どこだろうがむさくるしいに決まってんだよ。だって
 男だもん」

頭を掻きながら軽口を叩く銀時に,思わず笑ってしまう。彼もまた晋助と同じ職に就き,何の因果か
同じ職場で切磋琢磨しているわけで。彼もまた立派な『夜の男』なんだ。
わたしは裏口からお店の中に入って,銀時の案内にしたがって従業員の控え室へと入った。
ここに足を踏み入れたのは,過去に1回だけ(その時も晋助の忘れ物が原因だった)。
控え室の中は香水とヘアワックスの匂いが交じり合い,激しい『自己主張』の空気が充満していた。

「座れよ。今コーヒー淹れっから」
「うん。ありがとう」

銀時に促され,ロッカーの横にある椅子に座る。壁にはられている大きな鏡の中から,少し緊張した
表情の自分がこちらを見ていた。晋助はいつもここにいるんだなあ,と思うとそわそわしてしまう。
わたしの知らない表情を,ここでは見せているのだろうから。
鏡の中のわたしの後ろに銀髪の男が立った。

「おまちどーさま」
「ふふ。ありがと」

湯気の立つカップを受け取ると,コーヒーの匂いが鼻をくすぐった。
香水,ヘアワックス,そしてコーヒー。
ホストになる人達には,強い匂いのものが好きという習性でもあるのだろうか。
わたしが「いただきます」とカップに口をつけると,銀時は「インスタントだけどね」と言いながら
隣の椅子に腰を下ろす…そうしてしばらくの間,お互い無言でコーヒーを啜った。

「これ。よろしくお願いしまーす」

コーヒーカップをテーブルに置いて,わたしはバッグの中から晋助の携帯電話を取り出した。
黒いプラスチックの塊を銀時に差し出すと,彼は「おー」と頷きながらそれを受け取った。

「高杉もあれで時々ぬけてっからなァ」
「ぬけてるとこしか最近見てないよ」
「マジでか」
「マジです」

真面目な顔つきで言ってみせると,銀時は面白そうに笑った。

「まァな…普段格好つけてばっかりだからな,俺達。自分の巣ではリラックスしたいんだよ」
「うん。なんとなくわかるよ」

とどのつまりは『客商売』だから。嫌だと思うお客様にも笑顔や愛想を振りまかないといけないし,
言いたくない言葉を言わなくちゃいけない時もあるだろうし。
意外と心の支えを必要とする職業だと思う。

(支えになれているのかなあ…わたしは)

晋助は言葉にして「好きだ」とか「あいしている」とかあまり言わないから。
態度で伝わってくるから十分だけれど。そう思うようにしているけれど。
たまにちょっとだけ不安にもなる。

「中,開けてチェックした?」

わたしが物思いにふけっていると,銀時がいきなり質問してきた。
一瞬何のことかわからなかったけれど,彼が晋助の携帯を手でぷらぷらさせつつ笑っているのを見て,
慌てて首を振った。

「見ないよ!そんなことしない!」
「ほんとにィ?」
「してないよ!」

いくら長年の付き合いだからといって,相手の携帯電話を見るなんてマナー違反だ。
『自分がされて嫌なことは相手にもしない』
これ,人付き合いの常識だよ。小学生の道徳の授業みたいだけれど。
それに――それに,

「…してもいいことないし。きっと」
「…」

仮に,晋助の携帯を見たとして。
知らない女からのメールや着信を見たとして。
それでどうなるっていうの。
晋助を問い詰める?それとも責める?なじる?
それでどうなるっていうの。
きっと どうにもならない。
晋助はこの生き方を選んだんだし,わたしがどんなに泣いて喚いても生き方を変えない。
わたしが泣くのを見て,彼は辛い表情をするだろうけれど,それでも生き方を変えない。
そういう人だから。

「つらいか?」

そう問いかける銀時の声に,さっきのからかうような響きは無くて,ひどく柔らかかった。
そのおかげでわたしの心も柔らかくなって,素直な気持ちが言葉になった。

「ん。ちょっとだけ。時々」

あまり深刻にならないように笑って言った。

「やっぱり嫉妬しちゃうから」
「そりゃ…そうだろうなァ」
「彼女に嫉妬されるの,彼氏は面倒くさいでしょ?」
「んー俺はそうでもねェけど。全然妬かれねェのも男としちゃァ寂しいもんよ」
「…そうなの?」
「俺はね。で,高杉と外に出かけたりはしてんの?」
「一緒に住んでるから家で毎日会ってるけど…外ではあまりデートできないよ」
「つらいとこだな」
「うん…」

ふと会話が途切れて,部屋の中が静まり返った。

(あーあ…)

結局しんみりした空気になっちゃったなあ。なんでだろ。
そんなにストレス溜めているつもりないんだけど。
自分でも気付かない内に我慢しちゃっているのかなあ…。

(面倒くさい性格。我ながら)

突然ぽんっと頭に暖かな重みが加わって,自分が俯いていたことに気付いた。
銀時の方を見ると,彼はゆるやかな眼差しで微笑んでいる。その表情のまま,わたしの頭上に置いた
手をゆっくり動かした。

「つらかったらちゃんとグチれよ?」

昔から溜め込む奴だからな,お前。
銀時に頭を撫でられると,自分が子供に返ったかのようで心が安らいだ。

「うん。ありがと」
「銀さん,なんでも聞いてやっから。『銀さんのなんでもお悩み相談室』開いてやっから」
「ふふ…本当?」

実際に銀時が『お悩み相談室』を開いているのを想像してしまって,わたしは噴出してしまった。

「おう。落ち込んでる時の女のコはおとしやすいし」
「え?」

銀時の声音がなんとなく,本当になんとなく変わった気がして彼の方を見た。
気のせいか…さっきよりも顔が近いような。頭上にある手に,少し力がこめられたような。
気のせいじゃなく…銀時の目に『男』というか『獣』が宿っている,ような。
の,呑気に笑っている場合では無い,とか?ひょっとして!

「…」
「え。あの,ちょっと,銀時,」
「ぶっ殺されてェのか…てめェは」

地を這うような声が扉の方から響いてきた。
咄嗟に銀時を思いきり突き飛ばすと,「イテッ」と叫んで彼は椅子から転げ落ちた。
銀時は床に座ったまま,腰をさすって顔を上げた。

「あれ。いつからいたの?高杉」
「し,晋助」
「…」

見る者全てを凍らせてもおかしくない,鬼のような目で晋助は銀時を睨んでいる。
…怖いから。とんでもなく怖いから!

「あ,あの…晋助」
「…なんだ?」

恐る恐る声をかけると,晋助は視線を和らげてこちらを向いた。
わたしは床に落ちた黒い携帯を拾い上げて(銀時が落ちた時一緒に落ちてた),晋助に渡した。

「あのね…これ,忘れ物」
「ああ。悪ィな」

晋助は携帯を受け取ると,中を確認せず内ポケットにしまった。そして,

「銀時。出ていけ」
「えー」
「えーじゃねェ。さっさと出ていけ」
「へいへい」

銀時はいつも通り気だるげに頷いて,すっくと立ち上がった。彼はズボンを手で何度か払い,晋助と
入れ替わるようにして扉の前に立った。少し猫背気味な背中に,わたしは声をかけた。

「じゃ,じゃあね!銀時」
「おう。また今度な」
「あ?『また今度』っていつだ」
「挨拶にまでつっこまないでよ,晋助」

思わずそう言うと,晋助は不満そうに口をつぐむ。
わたし達のそのやりとりを見て,銀時の目が三日月形に歪んだ。

「尻にしかれちゃってるねー晋ちゃん」
「うるせェ。今すぐ消えろ」
「へーい」

銀時は手をひらひら振って扉の向こう側へと消えた。
ばたんと音を立てて扉が閉まり,部屋には晋助とわたしだけが残された。

「…」
「晋助?」

彼の眼差しの中に,複雑な感情が垣間見えた。
わたしは椅子から腰を上げて,晋助の目の前に立った。

「どうしたの?」
「ん」

晋助は喉の奥で頷くと,ぽふっとわたしの肩に顔を埋めた…いきなり甘えモードになっている。
どうしてだろう。なぜか彼はひどく落ち込んでいるようだ。

――つらいか?
――ん。ちょっとだけ。時々。

(…あ)

「ひょっとして,聞いてた?」
「…なにをだ」
(…聞いてたのね)

ほんの少しだけれど,声が不安定に揺れている。しらばっくれたって,わかる。
どれだけ長く一緒にいると思っているの。
わたしが自分のせいで辛い思いをしていると聞いて,このコは傷ついている。

「大丈夫だよ」

肩の上にある彼の頭を,わたしはゆっくり撫でた。
彼から香る妖艶な香水の匂いが…ひどく痛々しい。わたしはそう思う。

「大丈夫」

まるで――無理矢理開かされた花の蕾のようで。
胸の奥がきゅっと痛くなる。
どうしても守ってあげたくなる。

「他の女がどんなに晋助に群がっても,蹴散らしてやるんだから」

このやさしい彼を誰にも傷付けさせない。
どんな悪意も,どんな苦痛も。彼に届かないようにしてあげたい。

「晋助がわたしを1番におもってくれている限り,ずっと傍にいる。もし1番じゃなくなったら…
 その時は,」

彼が傷つかないためなら わたしはなんだってやる。
彼が怖がらないためなら わたしはなんにだってなる。

「ぶん殴って泣いてやるんだから」

頭をこつんと小突くと,くすぐったそうに彼の髪が揺れた。扉の向こう側から笑い声や拍手が微かに
響いてくる。晋助はわたしの肩から顔を離して,こちらを見下ろした。その眼差しは,なんだか少し
照れくさそうだった。晋助は人差し指でわたしの唇にふれて,

「オトコマエだよな,お前」
「でしょ?」

えっへんと胸を張って見せると,晋助は安心したように笑った。
よかった…元気になってくれたみたい。

「それじゃ,もう行くね」

いい加減わたしも仕事に行かないと。いくらアバウトな職場だからといってさすがにマズいだろう。
彼には彼の仕事があるように,わたしにはわたしの仕事がある。

「ああ…悪かったな。手間取らせて」
「ううん。頑張ってね」
「ん」

頷く晋助の頬を一回だけ撫でて,わたしは扉のノブに手をかけた。

「」
「え?」

呼び止められて振り向くと,晋助はなぜかそわそわと目をそらした。

「…?なに?」

彼は落ち着かなさそうにネクタイの端をいじり,思い切ったように口を開いた。

「今度の休み,どっか行くか」
「…え?」

ものすごく呆けた声が口から出てしまった。
だってそんな…まるで初めて女の子をデートに誘う中学生みたいに。
頬を染めなくてもいいと思う(だって一緒に住んでるのに)(もっと恥ずかしいこともしてるのに)。
そんな。
そんな…かわいい。

「えっと,でも…」

誰かに見られたら,晋助が困る。
だから彼がこの仕事に就いてからは,外を2人で並んで歩くこともほとんど無い。一緒に住み始めた
理由も『外では会えないから』ってことが大きい。
わたしが躊躇していると,晋助は肩をすくめてみせた。

「遠出すりゃ大丈夫だろ」
「…そっか」
「行くか?」

彼はわたしの額に手をやって,前髪をすっと横に梳いた。

「うん…行きたい!」
「…よし」

嬉しくて思わず跳ねると,晋助はほっとしたように笑って,そして――
――額と額をくっつけた。
わたし達だけの『合図』だ。

「また後でな」
「うん」

額と額が離れて。
唇と唇がふれ合う。

これも…2人のいろんな思いがこもった合図だ。
言葉にはできない沢山の思いがつまってる。
唇と唇で体温が伝い合う感じ。触れ合ったところから溶けていく感じ。
わたしの大好きな合図。大好きなひと。

唇が離れて瞼を開くと,晋助の目がすぐそこにあった。
それがあまりにきれいな瞳だったから。
わたしが背伸びをしてもう一度軽くキスをすると,晋助は驚いたように一瞬身を強張らせて,そして
嬉しそうに目を細めて笑った――まるで猫のように。





西日が窓から入ってくる頃に,わたし達は目を覚ます。
都会の空が茜色から群青へ,そして漆黒へ。
摩天楼の連なる街が夜の帳に包まれる時,わたし達の1日は幕を開ける。

たとえ太陽がどんなに恋しくなったとしても。
月がわたし達を照らしてくれるから。
あなたがわたしを照らしてくれるから。

わたし達の日々はこうして続いていく。
これからも ずっと。
ずっと 夜を重ねていく。




-----------------------------------fin.


2009/09/02 up...
 相互記念(相互リンクしたのは半年以上前・笑)。『LUCCA』の辻子さんへ捧げます♪
 わたしの方から言い出したのに,わたしのが作品書き上げるの遅くなってごめんなさいでした!
 せっかくのホスト設定なのにあまり色気のない(つーか気弱な)高杉さんになってしまいました。
 それにしても…『不特定多数の女性とよく話す男』と『特定の男友達1人と仲良くする女』。どっちの罪が重いでしょうね(笑)。