可愛いじゃねェか。
ちょうど『目印』にもなるしな。
……ひょっとして誘ってんのか?
めじるし
日中はまだジリジリと暑さが続くものの,夕方になると幾分風の涼しい時季になった。
夜ともなるとクーラーをつける必要さえ無いくらいにすごしやすい。
窓越しに外の空気を吸うと,消えつつある夏の残り香がした。
確実に季節は秋へと移ろい始めていた。
窓外から聞こえてくる車やバイクの音。
それらの主達はこれから出かけるつもりなのか,それとも家へと帰るつもりなのか。
(どっちにしてもご苦労なこった)
高杉は彼らに対して鼻を鳴らすと,文机の置時計を見やった。
丁度午前2時をさしているのを確認し,それから膝の上に乗せた三味線に再び視線を戻す。
夜にこうして窓枠に座って三味線を奏でるのを,高杉は特に好んでいた。
頬や髪を夜風に遊ばせながら弦を弾く時間は,彼にとって心を休める最上の時でもあった。
今日も随分と長い時をかけて,三味線の音を鳴らし続けた。
“彼女”が「聞きたい」とねだっていた曲をいくつか,繰り返し。
…が,そろそろ瞼も重くなってきたし,耳が音を追うのを億劫に感じ始めていた。
(そろそろ寝っか…)
三味線を卓の上に寝かせ,高杉はふと後を振り返った。
窓から少し離れた褥の上で,彼女――がうつ伏せになって眠っていた。
(…相変わらず死んだみてーに眠る奴だ)
は普段から物静かな女だが,寝ている時は特に静かだった。
寝つきも寝相も良く(寝起きはあまりよくないが),ほとんど動かない。
寝言はおろか寝息もあまりたてない。
高杉がその寝姿を最初に見た時,あまりに静かすぎて「死んでねーよな?」と心配になって
息をしているか確認しようとしてキスしたら,寝惚けていたらしく盛大にひっぱたかれた。
あの時のは,眠気のためか羞恥のためか(あるいは両方か)涙ぐんでいたので,高杉は
珍しく本気で反省した。
しかし…どうしようもない不安に駆られるくらい,本当に静かな寝顔なのだ。
今時の女にしては珍しく,は大人しい気性の持ち主だ。
ちょうど森の奥にある泉や湖のような穏やかな性格で…。
だから,こうしてあまりにも静かに眠っていると,永遠に目覚めないんじゃねーか…と不安になる。
誰にも気付かれずに,誰にも助けを乞わずに,ひっそりと枯れてゆく湖水のように。
「……フン」
高杉はゆっくりと窓を閉めて,布団の方へと歩み寄った。
部屋の灯りを消すと,障子越しに朧に揺らぐ月の光だけが,部屋をぼんやりと照らし出した。
今夜は満月ではないものの,なかなか強い月明かりが障子に滲んで部屋の中まで侵食してくる。
これだけでもそこそこ高杉の視界ははっきりしていた。職業柄,夜目は利く性質だ。
暗闇に慣れた目がの顔を捉えた。
高杉はの隣に横になると,彼女を観察するために肘をついた。
ほとんど寝息も聞こえないが,小さな唇がうっすらと開いていて,まるで赤子のようだ。
(……平和そうな面して寝てやがるなァ)
じっとその寝顔に見入って「ククッ」と高杉は楽しげに笑った。
時々,高杉は一人で暮らしているの家へ,こうして泊まりに来ている。
そして大抵はの方が高杉よりも先に寝付いてしまう。
情事の後,は熱さに参っている猫のようにぐったりして,毎回一言二言話しただけですぐに眠って
しまう。
だから,高杉はほぼ確実にの寝顔を眺めることができた。
そして,それは普段隠れている『あるモノ』を,高杉が目にできるということも意味していた。
(………)
そっと,高杉は指先での右瞼に触れた。
の右瞼には,ほくろがある。
ぽつり,と一つ。
まるでアクセサリーのように。
寝顔を見るまで,高杉はそのほくろの存在に気が付かなかった。
以前,何の気なしに指摘(たしか「お前,随分変わったとこにほくろあんだな」だったか)
したら,いきなりは怒りだしてしまった。
温厚な彼女が突然「そんなこという人,大嫌い」と言って(それでも大声を出したりは
しなかったのだが),ぷいっとそっぽを向いたまま無言になってしまった時,高杉は
それはそれは慌てふためいたものだった。
普段人に頭を下げることのない自分が,女相手に必死に謝って機嫌をとろうとしていたのは
なんとも情けないが,その時はとにかく必死だった。
鬼兵隊の連中が見たら驚愕のあまり卒倒するんじゃないか,というくらいの慌てっぷりだった。
「……っ、機嫌直せって」と何回言ったかわからない。
の無言の圧力はとにかく凄まじかった…はっきり言って非常に『堪えた』。
やっと許してもらった時には,心からほっとしたものだった。
そして,はぽつりぽつりと自分が怒った理由を語ってくれた。
が瞼のほくろに気付いたのは,そんなに昔ではないらしい。
化粧をするようになって,アイシャドウを使うようになってからその存在にやっと気付いたという。
高杉からしてみれば,目を開けている限り見えない位置にあるし,目を閉じていたとしても余程よく
見ない限り気付かないようなほくろだから,気にする必要はないと思う。
しかし,彼女自身は本当にそのほくろが嫌いらしい。
「ごめんね。いくら慰められても,気になるものは気になっちゃうの」
アイシャドウをつけるたびにその存在を意識してしまって嫌になるのだ,とか。
鏡を見る度に目を薄く閉じて,瞼の中央に居座っている黒い点を見ては溜息をついてしまう,とか。
しまいにはそんな些細なことを気にする自分のことも嫌になってしまうのだ,とか。
それ以来高杉は件のほくろについては何も言わないようにしている…が。
…その代わりに,ちょっとした新しい『習慣』を作ってしまった。
本格的に眠くなってきた頃。
高杉はそっとの右瞼に,正確にはその上にあるほくろに軽くキスをした。
いつものように。
なんでそんなことやり始めたのか,などと問われても答えられない。
ただなんとなく,だ。
閉じられた瞼のほくろを見ていると,どうしてだか口付けたくなる。
高杉はゆっくりと口を離して,そのまま眠りに落ちようとした…
……が。
「………ねえ」
たった今キスした瞼が,ぱちりと開いた。
「起きてたのかよ」
「…うん」
起き抜けのせいか、の声は心なしか掠れていた。
何気に色っぽいと思ったが,言わないでおく。
「…ねえ,どうして?」
頭をほんの少し動かして,が訊いてくる。
「何がだ?」
「どうして寝る前に,瞼にキスするの?」
「お前,毎回起きてたのか?」
「んっと…キスで目が覚めてたっていうか」
「…なるほどねェ」
「どうして瞼にキスするの?」
「べつに。特に意味はねェよ」
と,高杉は答えたのだが。
「どうして?」
重ねては質問してくる。
いつもより声のトーンがほんの少し低く,幾分震えている。
ちょっとだけ緊張している時の声だ。
ふっと息をつくように高杉は苦笑した。
一度疑問をもつと,答えを知らずには気がすまない。
はいつもおっとりしてるのに,変なところで頑固だ。
……もっとも,高杉は彼女のそういうところも気に入っているのだが。
「いかにも『してくれ』って見えるぜ。そのほくろ」
くすぐるように耳元で囁くと,の顔にさっと熱が宿ったのが暗闇でもわかった。
「………なんか,いやらしい」
「は?お前こそ何想像してんだよ」
高杉が重ねてからかうと,は今度こそ真っ赤になって背を向けてしまった。
…たぶん耳まで真っ赤なんだろう。
「……おい,怒んなよ」
怒らせたのが他でもない自分であることは重々承知の上で,高杉はの細い背中を抱きしめた。
「怒ってない」
隔たりを置くような,かといって突き放すわけではない声。
「怒ってんじゃねーか」
「怒ってない」
はなんだか,むきになっているようだ。
こうなると,長い。
ここは謝っておくか…と思った矢先。
「……恥ずかしいだけ」
……やっぱり可愛いな,こいつ。
高杉は胸をぐっと押さえられたような心持ちになった。
たぶん今は自分の顔も赤味を帯びているような気がした。
はごそごそと寝返りを打って再び高杉の方に向き直ると,少しだけ身を近付けてくれた。
漆黒の長い髪が,さらりと高杉の腕を撫でる。
「……ちょっとだけ好きになれたかも。
この,ほくろ。」
は嬉しそうに笑って,自分の右瞼を触る。
「そうかよ」
「うん。ありがとう」
「…ああ」
高杉が頷くとほぼ同時,
「お返し,ね」
そう言ったかと思うと,は高杉の頬にそっと手を沿え,右耳の後ろにかすめるような
素早いキスをした。
「……っ!!」
高杉の口から驚愕と照れと喜びが複雑に入り混じった声がもれる。
からキスしてくるのは初めてだった。
彼女の唇はすぐに右耳から離れてしまったけれども。
「ね,晋助知ってる?」
その声は努めて平静を装っているが,彼女が顔を真っ赤にしていることは明白だった。
かくいう高杉自身の顔も,やはり彼女を同じような色に染まっていた。
「…何をだ」
どもりそうになるのだけは,なんとかプライドで堪えた。
「晋助の,ここ。」
そう言いながら,は自分の右耳の後あたりを指で叩く。
「ほくろがあるよ」
「は?」
びっくりして,高杉は思わず自分の右耳に触れた。
今の今まで知らなかった。
「いかにも『してくれ』って見えるよ。そのほくろ」
仕返し,とばかりに自分と同じ言葉を返す,彼女。
精一杯強がっているんだろう。
そう思うと目の前の女が愛しくてしょうがなかった。
「…じゃ,あいこだな」
「うん」
は小さく頷いて,高杉の方に体を近付ける。
「なァ。今度からお前も寝る時俺のほくろにキスしろよ」
「……ばか」
口の中でぼそっとは言う。
高杉は笑いながら,すぐ側にいる彼女を抱きしめた。
それは,目印。
それは,合図。
それは,最高の媚薬。
…ただし,2人限定の。
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2008/11/04 up...
瞼へのキスって,良い。