傘と香りと星空と
「…マジですかィ?」
沖田は灰色の空から降りしきるそれを見て,思わず呆けた声を出した。
朝,屯所を出発した時からどことなく怪しい雲行きだったが,傘を持ち歩くのが面倒で「大丈夫だろ」
と根拠もなく楽観視していたのが悪かった。
沖田が大江戸美術館を出ようとした時,透明な糸のような雨が館前の広場にさあさあと音を立てて
降り注いでいた。
「はぁ~ついてねェや」
閉館30分前の放送が鳴った時はまだ降っていなかったはずだ。
美術館の中からボーッと外を眺めていた時,その窓ガラスが濡れていなかったのを沖田は思い起こした。
ちなみに美術鑑賞なんて小洒落た趣味を沖田は持っていない。
それなのになぜ美術館にいるのかというと,今週末からここで開催されるという
『源氏物語絵巻展~マザコンでロリコンでオバコンで時々B専な平安プレイボーイの素顔~』
の警備を真選組が任せられた。その下見に今日は訪れたのだった(意外と面白そうだなと思った)。
本来なら数時間で下見は終わるはずなのだが…美術館の中は空調が効いていて居心地がよく,おまけに
非常に静かで,なんか特別な魔法(スリプルとかラリホーとかそのへん)でもかかってるんじゃないか
というくらい眠気を誘う場所で。
しかもちょうど御あつらえ向きにふかふかのソファもあって。
早い話サボって寝こけていた。
館長に揺り起こされた時には,閉館してからかなりの時間が経っていた。
「どーすっかねィ…」
出入り口前の屋根の下で,恨めしげに空を見上げて沖田は嘆息した。
ひんやりとした風が,濡れたアスファルトの匂いを運んで来た。
その湿った空気を思い切り吸い込み,そして苛立ちと一緒に吐き出す。
ふと…傘立にささっている一本の黒い傘が,沖田の目に入った。
いかにも「ずっと置きっぱなしにされています」と言わんばかりの古い傘だ。
(…使っちまうか)
黒い傘に手を伸ばしかけたその時,
「沖田さん?」
不意に背後から名を呼ばれた。
聞いたことがあるような無いような,微妙なところだがとにかく女の声であることは確かだ。
誰だったかと思いながら肩越しに振り返ると,そこには今日知り合ったばかりの女性の姿があった。
「ああ,どーも。さん」
確認するように,彼女の名前を呼んだ。
大江戸美術館で受付をしている学芸員のだ。
彼女はこちらを見て少し驚いたように目を見開いている。
「まだいらっしゃったんですか?傘は?」
沖田の方へと近づきながら,はそう訊いてきた。
沖田は彼女に肩をすくめてみせ,
「ん。見ての通りでさァ…さんは?」
同じ質問を返すと,
「ごめんなさい。わたしも持って来ていないんです」
はすまなそうに眉をひそめて首を横に振った。
「別に謝ることじゃねーでさァ」
それに持っていたからといって彼女の傘に入れてもらうのは…正直言って微妙だ。
下見の時に館長とは打ち合わせをしたものの,他の係員とは挨拶を交わしたくらいであまり喋っていない。
たいして話もしたことのない人間と相合傘をするのは御免こうむりたい。
「残業ですかィ?」
そのまま黙っているのも変なので,少し距離を空けて隣りに立っている彼女に話しかけた。
「え?」
目線を空から沖田の方へ向けて,は首を傾げた。
「閉館からかなり時間経っていやすんで残業かなァって。それともいつもこの時間なんですかィ?」
「あ,いえ…残業です。イベント前は搬入品が多くって。データ打ち込みに手間取ってしまったんです」
「なるほどねィ」
「沖田さんはどうしてこんな時間まで?たしか午前中から下見に来ていらっしゃってましたよね?」
「寝てやした」
「…え?」
「だから,寝てやした」
「…そ,そうですか」
頬を引きつらせて相槌を打つと,は黙った。
しとしとという雨の音だけが,二人の間を静かに流れていく。
特にすることもなかったので,沖田は適当な話題をふりつつ彼女を観察した。
はあまり目立つタイプの女性ではなさそうだ。
年は沖田と同じくらいか,もしくは少し年上かもしれない。
とびきりの美人というわけでもないし,かといってブスというわけでもない。
言ってしまえば十人前だ。
でも柔らかい雰囲気の持ち主で,声質も穏やかなせいか,話していると落ち着く気がする。
無口ではないようだが,かといってお喋りでもない。
もしかすると異性と喋るのが苦手なのかもしれない。
今日見ていた限りでは,他の隊士や男性職員とあまり会話をしていなかったようだ。
実際,沖田も挨拶以外で彼女と会話をしたのは今が初めてだ。
要するに…ごく普通の女だ。
は沖田が話さなければ特に何も喋らなかった。
沖田が話している時は微笑んで相槌を打っていたが,それ以外の時はぼんやりと空を見上げたり,
地面に出来た水溜りを見つめたりしていた。
数分もすると話すことがなくなって,沖田も黙った。
(暇でィ…)
なんか話題ねーかなァと考えていると,ゆるやかな風が吹いた。
それは微かなものだったが…ふわりと花の香りが鼻をかすめた。
(……!)
正直言ってかなり驚いた。
思わず息を呑んだほどだ。
隣りで興味無さそうに…というか居心地悪そうにバッグの持ち手をいじっている彼女をまじまじと
見つめた。
薄めの化粧しかしていない彼女が―が香水をつけているとは思わなかった。
それは決して自己主張の強いものではなく,ほのかに甘くて透明感のある香りだった。
(いー匂いだなァ…)
他に考えることもないので「どこにつけているのだろう」などということを想像してしまう。
細い手首や肘の内側だろうか。
髪で隠れている白いうなじだろうか。
それとも胸元だろうか。
(姉上はハンカチにつけて持ち歩いていたっけ)
在りし日の姉の優しい香りを思い出して,沖田は懐かしさに微笑した。
「さん,香水つけてるんですかィ?」
その時は,ただ何気ない話題として訊いてみただけのことだった。
「あ。わかります?」
「いー匂いでさァ」
「本当?」
の瞳が一度見開かれて,そして緩やかに細められた。
「うれしいな」
彼女は少しはにかみながら笑った。
白くて綺麗な歯並びを見せて,
雨のせいか少し潤った唇を綻ばせて,
ほんのりと赤くなった頬の片側にえくぼを作って,
は笑った。
瞬間,雨音が聞こえなくなった。
雨音だけでなく全ての音という音が,遙か遠くへ飛んでいった気がした。
(…やべーな)
素で「可愛ェ」と思ってしまった。
心臓の動機がちょっとだけ速くなった気がする。
それを悟られないために,沖田はから目を反らして鼻をすすった。
気を鎮めようと他のことを考えようとしたが,またもや風が吹いてきて,あの花の香りが鼻孔をくすぐる。
そのせいでますます動機が増した。
(けど…この匂い,どっかで嗅いだことがあらァ)
ぼんやりと思考を巡らせる。
どっかで…
それに,この胸の動機も…
…
……
………
…………。
「あー。わかった」
「え?」
突然ぽんと手を打った沖田に驚いて,が目を丸くした。
「昔よく(偽造したアイスの当たりくじを持って)通った駄菓子屋があるんですがね。
そこのババァのお孫さんに別嬪なねーさんがいたんでさァ」
「?はい?」
「さん,そのねーさんと同じ匂いがしまさァ」
「…へえ」
どう相槌を打てば良いのかわからない,と言った風には曖昧に頷いた。
実はそのねーさんは沖田の淡い初恋の相手だったりするのだが…
…それは黙っておくことにする。
相変わらずきょとんとしている彼女を見て…なにを間違ったか,ドS心に火がついた。
「なァさん」
「なんですか?」
「これ使っちまいやせん?」
と,傘立から例の古くて黒い傘をスルッと取ってみせた。
「え…でも…それお客様のものかもしれないし」
あからさまに眉を潜める彼女に,沖田はニッと笑った。
「いや,これは結構前からあったやつでさァ。実は俺ァね,時々ここに来るんですけど半年前から
この傘はここに置きっぱなしでしたぜ」
大嘘だけど。
「え,そうなんですか?気付きませんでした…あ,でも…えっと…その…」
沖田の顔と傘とを見比べるように交互に見るは,明らかに戸惑っていた。
無理もない。
傘は一本しかないのだから。
「でも…えっと…その~…え~…」
は赤くなったり青くなったりしている。
(面白ェ)
沖田は玩具を見るような心境で必死に笑いを堪えて,を見続けた。
「『でも』なんですかィ?」
わざと訊くと,
「だ,だって…一本しかないですし…」
は小さな声でやっとそれだけを言った。
「ん。二人で使いやしょう」
「え…」
「嫌なんですかィ?」
「いえ!そういうわけじゃ…!」
わざと傷付いたような声でそう尋ねると,彼女は首が外れるほどの勢いでヘッドハンキングした。
…マジで面白ェ。
「んじゃ問題ないでさァ」
沖田はさっさと傘を広げると,雨の中へと足を数歩進めて振り返った。
「あ…」
いまだにどうしようかと思案しているらしい彼女に,
「行きやしょう」
さもなんでもないことのように沖田は笑いかけた。
するとは意を決したように一人頷くと,躊躇いがちに傘の中に入ってきた。
「…お邪魔します」
「ど~ぞ。まァ俺のじゃねーですけど」
「あはは」
冗談を言うと少し緊張が解けたらしく,は声をたてて笑った。
それでもやはりちょっと身体を離していたのだが。
そこでまたもや沖田のドS心が燃えた。
「なァ,もうちょっと近寄ってくれやせん?」
「は!?」
今度こそ激しく赤面しては聞き返してきた。
丸く見開かれた目は『何を言ってるんだ,この人は』とでも言いたげだ。
沖田は笑いを堪えるのにいよいよ必死だったが,
「さんが離れてると,俺が傘からはみ出ちまうんでさァ」
ホラ,といってとは逆側の自分の肩を指差してみせる。
実際問題,離れているの方に傘をやると,必然的に沖田の肩が傘に入りきらないのだ。
「あ…そっか。ごめんなさい」
は納得したような,ほっとしたような,肩透かしを食らったかのような表情で素直に謝ってきた。
「ん。てなわけで寄ってくれやす?」
「…はい」
覚悟を決めたように強く頷いて,はそっと沖田に近づいた。
ふんわりとまたあの香りがした。
爽やかで奥ゆかしい花の香りが。
――水溜りを跳ねている雨の音が,今度はいやにクリアに聞こえた。
(…悪いけど本気になりやしたから)
すぐ横で必死に冷静さを取り繕うとしている女性に,心の中で宣言してみる。
しかし,頬にぽつりと落ちてきた水滴に,沖田の意識は傘へと向かった。
(なんでィ…傘さしてんのに…?)
見上げると,その理由はすぐにわかった。
その黒い傘はなかなか古い物らしく,ところどころ破けていたのだ。
無数の穴から白く淡い光が差し込んできていて,そうして見ている間にもう一滴,額に落ちた。
「星空みたいですね」
同じように傘を見上げているが呟いた。
(星空…ね)
沖田が微笑すると,彼女は不思議そうな顔をした。
「どうしたんですか?」
「いや別に」
にこっと笑ってみせ,彼女を見つめる。
「さんは女らしいですねェ」
「え,そ,そんなことは…」
途端には慌てたように首と手を振った。
…本当に面白ェ女だ。
「いいですねィ…そういうの」
しみじみ言ってやると,
「お,沖田さん…そ,そういうことはあまり言わない方が…」
あらぬ誤解を招く,だの(誤解じゃねェんだけど)
口説いているみたい,だの(まさにそーなんだけど)
すごく恥ずかしい,だの(それはあんたが照れ屋だからでさァ)
彼女はぶつぶつと小さく呟いている。
彼女の後ろには水滴で淡く光る紫陽花が咲き乱れ,ほんのりと赤くなっているの顔を縁取っていた。
傘の穴から漏れる潤いを含んだ光が,彼女の髪や頬や肩へと降り注いでいた。
(こんなにキレーな女だったっけ?)
それとも彼女に惚れて自分の目にフィルターがかかってしまったのか。
でもそれも悪くない。
決して悪くない。
むしろグッジョブ。
いつか本当の星空を彼女と一緒に見上げたい,と。
本気でそう思った。
でもとりあえず。
今はまだこの偽物の星空で我慢しておこう。
もう一度あの花の香りが鼻をくすぐって,沖田は一人ひっそりと笑った。
--------fin.
2008/11/04 up...
相合傘って窮屈です。ほのかに密室ですよ。