ヒバナの碁



「そんなところでいいのかい?」
「え?」

碁石から指を離した瞬間,向かい側に座る伊東先生が口を開いた。わたしは碁盤をしばし見つめ直した
けれど,自分では間違いを
見つけることができなかった。それで再度顔を上げると,伊東先生は閉じた扇子の先で碁盤を静かに
指した。

「そこに打つと,ここの白が下方の黒地に入ってくる。そうすると黒は上方の白地に入っていく。白地
 の減りの方が大きいのは明らかだろう」
「まあ…本当。気付けませんでした」

懇切丁寧な解説に,わたしの口からは溜息が出る。不快な意味の溜息ではなくて,感心の意味の溜息だ。
それをちゃんとわかってくれているのか,伊東先生は緩やかに口角を上げた。そして,傍らに座っている
彼の部下に声をかけた。

「篠原君。この局面,君ならどう打つ?」
「そうですね…私なら,」

2人の真剣な,でも楽しそうな声が居間を流れていく。
ちょっと前までは,お2人の会話を聞いていてもちんぷんかんぷんだったけれど。
今は何を話しているのかなんとなくわかるから,わたしも少しは進歩できたの…かな?

「ん?どうかしたかい?」
「いえ…面白いですよね,囲碁って。教えていただく前まではものすごく難しいゲームだと思い込んで
 いたんですけど」

わたしがそう言うと,伊東先生は篠原さんと顔を見合わせて笑った。

「そう言ってくれると教えた甲斐があるよ。囲碁は実に面白い遊びだ…日常生活とも密接に結びついて
 いるからね」
「そうなんですか?」
「うん。囲碁はね,右脳と左脳の両方をバランスよく使わなければならない遊びなんだ。囲碁を打つと
 頭がよくなる,とも言われているんだよ」
「まあ…」

じゃあわたしでも頭よくなれるのかしら。
ぽつりとそう溢すと,伊東先生は「君は元から知性的な女性だよ」と微笑してくれた。

「そうそう。日常生活の中にも碁にまつわる言葉はいっぱいあるよ」
「そうなんですか?なんだろう…ぱっと思いつかないです」
「よく使う言葉で色々あるよ。『一目置く』とか『手を打つ』とか…あれは全部囲碁の用語だ」
「あっ…なるほど。ひょっとして『駄目』も?」
「そうそう。君は飲み込みが早いね」
「おい」
「?」

聞き慣れた声が,この場にはいなかった方の低い声が突然響き渡った。

「土方副長」

わたしが小さく会釈すると副長は少しだけ頷いて,伊東先生と篠原さん,そして最後に碁盤を見下ろした。
どうしてだろう,空気が緊張で張り詰めている気がする。

「…囲碁か」
「はい。伊東先生に碁を教えていただいているんです」
「こんな晴れた日に若い女が外にも出ずに,かよ。もったいねーな」

ご機嫌があまりよくないのか,副長の口調はなんだかやたらと刺々しい。
でも,たしかにせっかくの良いお天気なんだから,こんな日くらい外に出かけた方が良いのかもしれない。
普段は屯所の中にこもりっぱなしだし。わたしの体があまり強くないことが原因なのだけれど。

「わたし,体力がなくて…すみません」
「休日をどう過ごそうが彼女の勝手だろう。言いがかりはよせ,土方君」
「あ?」
「…」
「…」

あろうことか睨み合いが始まってしまった。
わたしのせいでお2人が喧嘩するだなんて…いたたまれない。
篠原さんはというと,マイペースにお茶をすすっている(意外と図太い人なんですね)。

「あの,わたし…お邪魔なようなら,今日はこれで」
「いや(君は)邪魔じゃないよ」
「でも土方副長は伊東先生に御用があって話しかけられたんでしょう?」
「…俺が話しかけたのは伊東じゃなくて,お前だ」
「え?」
「…なんでもねーよ」

副長はやれやれと溜息をついて,どっかりと胡坐をかいて畳に座った。そして,

「俺にも教えてくれよ,伊東『先生』?」
「はあ?…君に?」

土方副長は(気のせいか)やたらと挑戦的な目付きで伊東先生を見た。
それに対して先生は(気のせいか)ものすごく嫌そうに顔をしかめた。

「ま,俺も囲碁くれェ打てるけどな」
「え…土方副長も囲碁を打つんですか?」
「まァな。言っとくけど,近藤さんも打てるぞ。田舎じゃ雨ん日の遊びっつったら囲碁か将棋くれェ
 だったからな」
「なるほど…」
「だから,俺だって教えてやれる。お前に」
「…え?」
「とりあえず,そこどけ」
「は,はい!」

わたしは慌てて自分の席を副長にお譲りした。土方副長と伊東先生は碁盤を挟んで向かい合って座り,
ばちばちと火花を散らし合っている。
囲碁試合――副長VS参謀。
ひょっとして…なかなか貴重なものを見てる?

「何か賭けるものがあった方が面白いんじゃないですか?」

激しくガンを飛ばし合うお2人の横で,突如篠原さんが軽い口調で提案した。

「賭けるもの,かい?」
「例えばなんだよ?」
「そうですね…例えば」

篠原さんは少し考えるように指を顎に当て,やがてぽんと手を打った。それからわたしの肩に手をのせ,

「勝った方にはお嬢さんが頬にキスしてくれる,とかどうでしょう」
「「!」」
「…え?」

あまりに唐突といえば唐突な発言の意味がわからず,わたしは篠原さんを凝視した。

「篠原さん…『お嬢さん』って?」
「あなた以外にいませんよ」
「そんな!だって,そんなの景品にならな」
「伊東」

わたしの言葉を遮って,土方副長が口を開いた。
なんだか目がめらめらと燃えています……って,あれ?

「なんだ,土方君」

あれ?
伊東先生の目も爛々と輝いている気がします……あれ?

「…勝負だ」
「…受けて立とう」

土方副長はばきぼきと指を鳴らし,伊東先生は扇子をばっと開き,篠原さんはぐっと親指を立てた。
…って,ええええええええ!!!????

「ちょっ,待ってください!そんな勝手に!」
「決まりですね。勝った方にはお嬢さんがキスしてハグして『大好き』と囁いてくれる,で」
「いろいろ増えてます,篠原さん!!」


 ・
 ・
 ・


その後。
某ヒカルと某アキラの試合ばりに熱い死闘が繰り広げられ。
ものすごーく長時間に渡る戦いになりまして。
騒ぎを聞きつけた隊士の方々がどんどん集まって,「どっちが勝つか」でやんややんやと盛り上がり。
最終的に,『勝った方と…ごにょごにょ』はお流れになりました。
とてもはらはらして胃が痛くなったので,しばらく囲碁を打つのをやめようとわたしは思いました。

…あれ?作文?



下心VS下心=恋VS恋。


2011/5/08 up...
九代目・拍手お礼夢その2。