僕は 彼女より大人だったけれど
彼女より 温もりの価値を知らなかった。

彼女は 僕より年下だったけれど
僕より 優しさの意味を知っていた。



残照  <序>



花の装いが葉桜へと姿を変え始めた季節のことだった。
最近では桜の(しべ)が細かい粒となって,屯所の庭にこぼれ落ちるようになっていた。
蘂の散り敷く庭を横目に見ながら,僕は局長室へと足を急がせていた。

僕が真選組に入隊してから既に3ヶ月が過ぎようとしていた。
入隊してまもなく『参謀』という新しく用意された要職に就き,それと時を同じくして僕と共に
真選組入りした同門の者たちも,各々が幹部級の役職に任命された。
『異例の出世』と周囲から誉めそやされると同時に,激しい妬みや嫉みの視線を身に受けるようにも
なった――しかし僕の人生において,今までにも似たようなことは多々あった。
いつの時代も弱者は強者を羨み,妬み,そして卑屈になるものだ。
だから特に気に掛けていなかった。
むしろ無能な連中の評価など僕にとってはどうでも良いことだった。

手にした資料を確認しつつ歩を進め,廊下の角を曲がったところで『ある人物』と出くわした。
真選組監察方の山崎退――本来なら隠密任務につくはずの彼だが,今はお茶と茶請けの和菓子を
乗せた盆を手にして応接室の襖を開こうとしているところだった。

「山崎君。客人かい?」
「あ,伊東さん」

僕に気付いて,山崎君はごく小さく頭を下げた。
その動作のせいで盆上の湯呑が揺れ,彼は慌てて背筋をぴんと伸ばした――何をやっているんだか。
僕は胸中で鼻を鳴らしながら言った。

「近藤さんは今応接室かい?先月検挙した攘夷浪士たちに関する報告書を持って来たんだが…来客中
 なら後でにしようか」
「あ,いえ。局長は応接室ですが客人ではありません。新しい常駐医の先生とそのお弟子さんです」
「ああ…そうか,今日だったか」

山崎君の端的な説明に納得し,僕は軽く頷いた。
2ヶ月弱前,真選組の常駐医だった医師が亡くなった。
件の先生は真選組結成時から常駐で医師を務めていらしたそうだが,何分かなりお年を召した方で,
このほど大往生を遂げられたのだった。
長い間お世話になった先生への感謝と敬意を表し,四十九日の忌明けまでは常駐医を置くことは控え,
官医が交代で屯所に派遣されて来ていた。
そして忌明けの今日,後任の常駐医――松本了順がみえることになっていたのだった。
本来ならば参謀である自分も同席するべきだったが,今日の明け方まで僕は別件で京都にいた。
そのため松本氏がいらっしゃる時間に間に合うかが微妙なところで,とりあえず最初の対面だけは
局長と副長のみで行うことにしていたのだった。
もっとも,結果的にはこうして間に合ったわけだが。

(松本先生か…)

僕は眼鏡の中心を指先でくいっと押し上げた。
医師・松本了順といえば『神医』と評判の町医であったところを幕府に召し上げられ,御典医と
なった非常に高名な医師だ。しかも聞くところによると,徳の高い人格者でもあるという。
氏の噂を聞くにつれ,そのような立派な肩書きと経歴をもつ医師と,ぜひ一度話をしてみたいと
僕は常日頃から思っていた。
このたび松本先生が真選組の常駐医をお引き受けになったということを聞いた時「これも何か
の縁かもしれないな」と現実主義者の自分にしては夢想的なことを思いもした。

「後で隊士たち全員と面通りなされる予定ですけど…せっかくですから伊東さんは先に挨拶して
 いかれては?」
「…そうだな。そうしよう」

山崎君から勧められなくともそのつもりだったが,僕は1つ頷いて資料を小脇に抱え直した。
それとほぼ同時に山崎君は襖に手をかけて横に開いた。

「失礼しまーす」

根明な調子でそう言いながらさっさと応接間へ足を踏み入れる…呆れるほど無作法な男だ。
まあ真選組隊士は大概が彼と同じようなものなのだが。
僕は密かに眉をしかめ,格式にのっとった深礼をして部屋に入り,襖をゆっくり閉めた。

「おお,伊東先生!お帰りになっていたか!」

僕を見て近藤さんは晴れやかに笑った――それに対して僕も小さく笑い返す。
…何の屈託もない彼の笑顔には,時折僕でも毒気を抜かれる。

「失礼します,近藤局長。それに土方君」
「…」

近藤さんの隣りには土方君が当然のように座していた。
彼は僕を見た途端あからさまに眉間をひくつかせ,その目に不信感や警戒心を浮かばせた。
…なんともわかりやすい男だ。
僕は両者の正反対な反応を見,それから彼らの向い側に座る2人の人物に目を向けた。

1人は五十路後半くらいの男性。白髪まじりの頭に,やはり白髪まじりの髭をゆったり伸ばしている。
顔に刻みこまれた数筋の皺からは,慈悲深さと厳格さの両方を感じ取ることができる。
緩やかな曲線を描く目元と唇はつとめて温和で,静かな光を宿した目で僕の方を見上げている。
そしてもう1人は――

(…女子のお弟子さんか)

僕は少しばかり驚いてわずかに目を見開いた。
松本医師の隣りに正座している娘は,見たところまだ若い…おそらく十代後半くらいか。
小柄で線の細い姿形をしており,長い黒髪を頭の上の方で1つに結っている。
凛とした双眸はなんとも涼しげで,見るからに『学識の深い少女』『教養豊かな娘』といった風だ。

天人らによる開国後,女性の知識人・研究者も増えてきているとはいえ,まだまだその地位は確か
なものではない。それにも関わらずこの若さで稀代の御典医・松本氏の弟子として医学を学んで
いるということは,おそらく非常に『切れ者』なのだろう。
その『学識と教養を兼ね備えた切れ者』の少女は,知性の光を宿した目で僕を見上げていた。

「松本先生,紹介しますよ!3ヶ月前に真選組へ入隊してくれた伊東君です!!」

近藤さんに必要以上の大声で紹介され,僕は2人に向って再び深々と頭を下げた。

「伊東鴨太郎と申します。松本先生の御高名はかねがね伺っていました。この度はお会いできて
 至極光栄に存じます」
「これはこれはどうもご丁寧に」

松本先生も僕に向って頭を垂れ,人好きのする笑顔を浮かべた。
かなりの高位である『御典医』にしては,非常に庶民的な…いや『打ち解けた』笑い方だった。

「松本了順です。いやはや…これから血気さかんな若者たちに囲まれる生活になるのを思うと,
 私も若返る心地ですよ」

そう言ってハッハッハッと声をあげて爽快に笑った…予想に反してくだけた気性の人物らしい。
『神医』と名高い医師だから,さぞ堅物な人物なのだろうと思っていたのだが。
僕はなんとなく『期待外れ』な心境になったが,それを決して顔には出さなかった。
そして近藤さんは,松本氏の隣りにいる少女に目を向けた。

「そして彼女はお弟子さんの―」
「と申します。まだまだ修行中の身ですが精一杯お勤めさせていただきます。よろしく
 お願い致します」

彼女――君は非常にはきはきした声で名乗ると,丁寧にお辞儀をした。
その拍子に後で束ねた黒髪がさらりと肩に流れ落ちた。君はそれを控えめに払いながら,頭を
上げて笑みをつくった。
きゅっと口角を引き締めるような笑い方は,利発で怜悧な印象をこちらに与えた。

「こちらこそよろしく」

僕も頭を下げて挨拶をした。その間に山崎君がお茶と茶請けを皆の前に置いて回り,土方君の横に
座布団を置いて僕の席を作った。

「んじゃ俺は伊東さんの分のお茶も持ってきますよ」
「ああ,それなら構わない。先程飲んできたばかりだから」
「えっ良いんですか?」
「ああ」
「わかりました。とりあえず俺は席を外させてもらいます。松本先生,さん,失礼します」

山崎君は2人に向ってぺこりと礼をすると,お盆を持って早々と出て行った。
おそらく監察方の仕事がこれから入っているのだろう。
…まさかあの『ミントン』とかいうお遊びのために出て行ったわけではあるまい。
彼が退場したことで数秒だけ間が空いたが,近藤さんが2回手を叩いたことで沈黙はすぐに消えた。

「ま,ま,形式的な挨拶はここまでにしときましょう。これから先毎日顔を合わせることになるん
 ですからな!」
「オイオイ近藤さん。あんたは生まれてこの方1度も形式的な挨拶なんてしたことねェだろうが」
「ん?そうだったか?はっはっはっ」

…たしかに。
僕はこの土方十四郎という男が嫌いで仕方ないのだが,彼の近藤さんへの指摘は毎回正当だと思う。
しかし土方君の指摘もなんのそので,近藤さんは大きく口を開けて笑った。
さぞ松本先生も呆れているだろうと思いきや……違った。

「いや~実は私も堅苦しい雰囲気は苦手なんですよ。元が下町の医者だったせいか格式ばったもんに
 いつまでも慣れませんで。式典の最中にはしょっちゅう居眠りしてしまうんですよ」

…天下の御典医がそれで良いのか。良いわけあるまい。
僕は目が点になりかけそうになるのを必死に我慢した。
どうもこの松本了順という人物は,思いの外『豪胆』というか『大胆』というか…ひょっとすると
近藤さんと気性が似ているのかもしれない。

「おやそうなんですか!はっはっはっ!!いや~俺もね,長い話は聞いてられんのですよ!!
 警察庁でイベントがある度にね,松平のとっつァんが長々と話すんですがね~聞いてられませんよ!
 だって9割は娘さんの話だしさ!ガン寝しちゃいますって!」
「たしかにそうだが,一応聞いてるフリくらいはしろっていつも言ってんだろーが近藤さん」
「いやいや私もよくわかりますよ,その気持ちは。お偉方の長話なんて子守唄と同義語ですからな」
「いや松本先生,明らかに同義語じゃねーですから」
「昔からトシは固いな~少しは肩の力を抜けって!」
「ハッハッハッ!」

近藤さん・土方君・松本先生はまるで旧知の友のように笑い合った。
たった短時間でなぜここまで打ち解けられるのだろうか…不思議で仕方が無い。
というより,僕にはこういう雰囲気が理解できない。そもそもこういう馴れ合いが好きではない。
僕は表面上は微笑を留めていたが,皮一枚の下では嘲笑を浮かべていた。
ふと――視線を感じてそちらに目を移した。

「…!」

視線を発している人は,君だった。いつからこちらを見ていたのだろう。
僕と目が合うと,彼女は糸が解けるかのようにゆるりと笑った。
それは…驚嘆に値するほどの柔和な笑顔だった。
透き通った瞳が,笑ったことによって細くなっている――まるで猫のように。
非常に親しげなのにも関わらず,媚びるような類のそれではなかった。
君が一体どういうつもりでそんな笑みを僕に向けたのか…それは分からなかったが,僕も
曖昧に笑顔を返した。

「ところで――サンよ」
「はい。なんでしょうか?」

土方君が彼女に呼びかけたことで,僕らの視線は再び離れた。
君は冷静な声音で返事をすると,土方君の方へ顔を向けた。
土方君はいささか鋭い目つきで彼女を見ている…なんだというのだろう。

「こんなことを言っちゃあ失礼かもしれねェが…あんたは見たところまだ年若い娘さんだ。
 このさいはっきり訊いとくが,うちみてェな男所帯でもちゃんとやっていけんのかい?」

相変わらず直球な男だ…随分と不躾な質問の仕方をする。もう少しオブラートに言うことが彼には
できないのだろうか。いささか不愉快に思い,僕は冷ややかな視線を彼に投げつけた。

「おいおいトシ!そんな言い方は失礼だろう!」
「だから最初に『失礼かもしれねェが』って前置きしただろーが」
「前置きしたって失礼なもんは失礼だってば!」

近藤さんは慌てて注意をするが…無礼すぎる質問の仕方はさておき,意見自体は僕も土方君と同意見だ。
真選組屯所内にも女性はいるが,彼女たちが働くのは台所と食堂の中だけである。
『食』以外の掃除や洗濯などの家事は,隊士たちの間で交代で回すのが慣習だった。
しかも,現在屯所にいる女性はほとんどが既婚者だ。
彼女のような年若い娘がいると,下手をすると隊内の士気にも関わりかねない。
ここで働くのであれば,それ相応の自衛や自制をしてもらうのはやむをえないだろう。

「ふむ。どうだね,?」
「…」

松本先生は土方君の無礼な質問にも目くじらを立てず,それどころかかえって面白そうに笑って隣の
君に目を移した。彼女は俯いたまま硬直している。
学問の道に邁進する人間は総じて,己の頭脳や力量に高い矜持を持っているものだ。
…特に女の身ならば尚更のこと。
いまだ男社会である学問の世界で『男に負けまい』と殊更プライドを固持するのが普通だ。
医師の卵であるこのという娘も,自尊心を傷付けられ土方君に怒りを露にするのではないか
と僕は思ったが――意外にも彼女は困ったようにはにかんだ。

「えっと…実をいうと少し気後れしています。今までこんなにたくさんの男の人に囲まれる機会は
 なかったですし」

これを町娘が言ったのならば,なんら違和感も持たないだろうが…
仮にも『神医の弟子=選り抜きの逸材』の少女が言うのだから,非常に新鮮な響きがあった。

「………そ,そうか」

君のとても素直な物言いに,厳しい質問をした張本人である土方君も面食らったようだ。
おそらく彼女のことを『学識だけはある自尊心の強い少女』と思ったからこそ,彼もあのような
きつい言い方をしたのだろう。しかしこれでは『いたって素直な少女』に意地の悪い質問をした
だけになりかねない…というより,もうなっている。ばつが悪そうに土方君は咳払いをしている。

「でもわたしは子どもの頃から医師になることを志していましたし,そのための努力もしてきたと
 自負しています。そしてこれからも一生懸命頑張るつもりです…了順先生のような立派な医師に
 なれるように。だからたとえどんな場所であっても,道を貫く覚悟はできています」

飾らない言葉を紡ぎ,晴れやかに笑うその姿勢には,聞いている方も素直に好感を持てた。
男に対抗するでもなく,かといって男に依存するでもない君の言は,男女の別に関係なく
『人として』非常に好ましいものだった。

「そ,それでもやっぱり最初はまごつくと思うんですけど…でも頑張ります!習うより慣れろって
 やつですよね,きっと!」

なんなのだその理屈は,と言いたくなるのだが――でもなぜだろう。
根拠も条理もないのになぜか説得力があるから不思議だ。
彼女に対する自分の視線が,自然と柔らかくなるのを僕は頭の隅で感じた。
近藤さんもまるで自分の娘でも見るかのような温かい目になっているし…
土方君も気を許したのか先程よりも幾分か表情を和らげている。
松本先生はというと,そんな君の横で美味しそうにお茶をすすっている。
…彼女はいつもこんな感じなのだろうか。穏やかというか,のんびりしているというか。

「それに…『年若い』と言っていただいたのは嬉しいのですが,わたしはもう数年前に成人して
 いますので」
「「「えっ!?」」」

これには松本先生以外の全員が驚きの声を上げ(不覚にも僕もだ),そろって君を見つめた。
彼女は決して童顔というわけではなく,むしろ顔立ちは落ち着いている。
ただ小柄で華奢であり,女性特有の丸みがあまりないため『女人』というよりは『少女』といった
言葉の方が似合う。いわば『大人びた十代』という印象を受けるのだ。

「そそそそうなの!?いや~てっきり16・7歳くらいのお嬢さんだと思ってた!」
「近藤さん,アンタも大概失礼だぞ」

遠慮の無い近藤さんの驚きに土方君が冷静につっこむと,君はふるふると首を横に振った。

「いえ,わたし…(腰にくびれないし胸もお尻もぺったんこだし)…小柄なせいかよく年下に見られ
 るんです」
「(アレっ今なんか間がなかった?)いやいや良いことだよ!若く見えるのは!なあ,トシ?」
「(今なんか間があったな)俺にふるなよ。まあ…良いんじゃねーか?」
「ねえ!伊東先生もそう思うでしょ?」

『今なぜか間があったな,そして僕にもふらないでくれ』と内心では思ったが…答えないわけには
いかない。僕は頭の中で言葉を選びつつ,

「たしかに。子どもを診察する時は若く見える医師の方が良いと思う。子どもは自分に近い年の
 人間に気を許しやすいから」

とりあえず当たり障りの無いことを言った。
僕の科白に君は澄んだ目を一瞬丸く開いて,それからくしゃっと顔を綻ばせた。

「ありがとうございます」

また『あの顔』で笑った。
驚嘆に値するほど柔和で,親しげなのに媚びない,猫のような笑顔。
どうすればこういう笑い方をすることができるのだろう。
心底不思議に感じながら,僕は彼女に対し笑みを返した。

僕の笑みは――おそらく似ても似つかない。
嘘と偽りで固められた笑みに過ぎないのだから。
ほんの少しだけ彼女を羨ましく思った。
…どうして羨ましいのかは,自分でもよくわからなかったが。



+++++++++++++++++++++++++++++++



それ以後,より心を打ち明けた会話が交わされるようになり応接間は笑いで満ちた。
時間が過ぎてそろそろお開きにしようということになり,僕らは立ち上がった。

「それでは診療室となる所へ案内させますんで」
「はい,お願いしますよ」
「山崎!山崎!…あの野郎どこへ行きやがった?もしかしてミントンやってやがるんじゃ…」

松本先生の前に近藤さんと土方君が立ち,その3人の後ろに僕と君が少し距離を空けて並んだ。

「あ,伊東さん」
「ん?」

ふと気が付いたように君は声を上げ,スッと僕の方へ手を伸ばした。
その掌が――なんの躊躇いもなく僕の左腕に触れる。

「…!」

予想外の彼女の行動に思わず僕の体は強張ったが,君はそんなことどこ吹く風だ。
何か細かい粒のようなものを,人差し指と親指の間に挟んでいる。
君は自分が摘んでいるそれをしげしげと見つめ,

「桜の蘂,ですね。くっついてましたよ」

そう言ってにこやかに笑った。
(…なんだそういうことか)
僕は心の中で胸を撫で下ろした。一体何事かと思ったら。ただ蘂を取ろうとしただけ,か。

「…ああ。ありがとう」
「いえいえ」

僕が礼を言うと,彼女は蘂に息を吹きかけて庭へと飛ばした。
小さな風にあおられた蘂は,ひらりと庭の土に飛び込んでいく。
特に何の考えもなく上を見ると,半晴半陰の花曇の空がそこに広がっていた。
巣立ちしたばかりの雀の子たちが,たどたどしい飛び方で空を横切っていくのが目に入る。

「雀の子を,犬君が逃がしつる,伏籠の中にこめたりつるものを」

突然君がそんなことを言い出したので,僕は「ああ」と頷いた。

「『若紫』だね」
「好きなんですよ『源氏物語』。昼ドラもびっくりなドロドロ具合が特に」
「ははっ確かに」

僕は思わず声をたてて笑って――そんな自分自身に少し驚いた。
何の利益や見返りを考えずに,ただ『面白くて声をあげた』のは久しぶりだった。

「……」

僕が笑いを引っ込めて君を見つめると,彼女は不思議そうに首を傾げた。
なんというか――本当に素直な気性の女性だ。彼女は湧き上がる感情を何のフィルターにかける
こともなくそのまま表に出しているようだ。
僕が小さく笑いかけると,彼女はその倍くらい明るい笑顔を返して来る。
…つくづく不思議な女性だ。
最初に抱いた『学識と教養を兼ね備えた切れ者』のイメージは見事に消え失せてしまった。


非常に聡明なのに素直で。
強い信念を持っているのにどこか隙がある。
「なんだか読めない女性だな」と。
それが彼女に対する僕の感想だった。


2008/11/04 up...