その冷静な瞳の奥に
燃えたぎる熱情を垣間見て
その孤独な壁の内に
痛々しい切望を感じ取って

胸が 痛い
泣きたくなるほどに
泣きじゃくるほどに



残照  <一>



「脱いで下さい」
「えっ」

わたしがそう言うと,目の前に座る男の人――山崎さんは顔を赤くしてしどろもどろに目を泳がせた。
彼のその反応に溜息をつきたくなったけれど,わたしはそこをぐっと堪えてもう1度繰り返す。

「だから,脱いで下さい。治療しますから」
「う,うん…」

頷きながらも山崎さんはいっこうに脱ごうとしない。
そして,わたしの背後にある衝立の向こう――医術書を読んでいる了順先生を,縋るような目で見た。
まるで『ちょっと~先生が診て下さいよ!』とでも言いたげな視線だ。
わたしは少しムッとして山崎さんを軽く睨んだ。

「山崎さん。わたしの診察はそんなに嫌ですか?」
「えっ?いいいいや,ちちち違うよ」
「ドモり過ぎです」
「ううっ」

ぴしゃりと言ってやると,山崎さんは唸るような声を出して俯いた。
――わたしが了順先生に付き従い,真選組内で学ぶようになって数週間が過ぎた。
最初は男所帯ってだけでかなり緊張していたけれど,隊士の方々は揃って気さくで優しくて,
おかげですぐに新しい生活に慣れることができた。
けれど逆に隊士の皆さんの方が慣れないこともあって…その1つが『診察』だったりする。
しかも『わたしの診察』限定だから,なんだか悲しくなってくる。
別に「女だからって特別視しないでよ!」だなんて言わないけど,わたしが女であるがゆえに
隊士の皆さんに気を遣わせてしまうのなら,「男に生まれていたらなあ」と思う時も,正直ある。
でもいくらそう思ったところで仕方ないことだから(だって女に生まれちゃったものは今更どう
しようもない),「皆さんが慣れてくれるのを待つしかない」って割り切ろうと努力している。
未だにまごついている山崎さんを,わたしは真直ぐに見据えた。

「これでもわたしは医者の卵ですよ。どうしてそんな態度をとるんですか」
「い,いや…だってさぁ」
「『だって』じゃありません。いい加減慣れてください」
「は,はあ…でもさぁ」
「それともなんですか。わたしに脱がしてもらいたいんですか?」
「今すぐ脱ぎます!」

ほんの冗談で言ったのに,山崎さんは即座に上着のボタンに手をかけた…って,それどういう意味?
ちょっとだけ青筋が出そうになったけれど,脱いでくれるんだし良いとしよう。
わたしは空気に晒された彼の左腕をとって,その上部から肩にかけてを観察した。
山崎さんは3日前に上腕を強打して診察に訪れた。強打の原因は,屋根瓦を補強しようとした時,
足を滑らせて地面に落下――うまく着地したものの,折悪しくも沖田隊長が土方さんにブッ放した
バズーカの衝撃風に煽られて転倒――庭石に左上腕をしたたかに打ち付けた。
診断結果はいわゆる打撲。
原因が原因なだけに「打撲で済んでよかった」てところ(というか,沖田隊長何してんですか…!)

「腫れはひいていますね。今どのくらい痛みます?」
「う~んと…重い物を持とうとすると少し痛む,かな」
「そうですか。治ってきていますけど,まだ激しく動かさないようにして下さいね。今日からは
 患部を温めるタイプの湿布を出しますのでそっちを貼るようにして下さい」
「えっと…風呂入る時,腕つけても大丈夫かな?『腫れがひくまでは湯船につけないように』って
 ことだったんだけど」
「もう腫れがひいているので,湯船につけても大丈夫ですよ。それと,炎症を取って血行をよくする
 内服薬も出しますね。前回出した分はもう無いでしょう?」
「うん。3日分だったから」
「じゃあ少し待ってて下さい。あ,どうぞ服を着て下さい」

わたしは山崎さんにそう促して,薬の調合のために席を立った。
横で了順先生に見てもらいながら,種々の薬草を鉢に入れていく。

1番最初の診察は了順先生が行って,わたしはそれを横で見ている。
診察を終えた先生は症状に合わせて薬剤を調合――これには天人から伝わった薬のほか,江戸独自の
薬草等も使用する。この時もわたしは横でひたすら先生の手を見て,薬の調合法を覚える。
そして次回からの経過観察は,わたしがその人を診て,先生が前回したような治療を行う。
概ねこういう流れになっている――症状によってはこの流れも時々変わるけれど。
山崎さんは既に3日前に了順先生の初診を終えて,今日は経過観察の段階だからこうしてわたしが
診たわけなんだけど…なんだか落ち着かなかったみたい。

(やっぱりわたしが女だからなのかな)

それと,わたしが実年齢より下に見えることも原因なのかもしれない。
女としては年が若く見えるのは喜ぶべきことなんだけれど…職業的にはむしろ厄介だと思う。
年若く見えるということは,慣れていないように見える・危なっかしく見えるということだから。

(まあ…仕方ないけど)

女であるということも,年若に見えるということも。
自分の努力ではいかんともしがたいことだ。けれども,

――子どもを診察する時は若く見える医師の方が良いと思う。
――子どもは自分に近い年の人間に気を許しやすいから。

応接間で初めて対面した時,伊東さんに言われた言葉を,ふと思い出した。

(…ああいう風に言われたのは初めてだったなあ)

女性は若く見えた方が良い,ではなく。
「医師として」若く見えるのは良いことだ,と。
そういう風に言ってもらったことは今までなかったから…嬉しさで胸が熱くなった。
伊東さんは外回りの仕事が多いらしく,あれ以来まともに話をしていない。
それどころかここ数日間姿を見ていない。
でもいつかゆっくり話をしたいなあ,とわたしはぼんやり思った。
薬の調合を終えて診察室に戻ると,山崎さんが遠慮がちに口を開いた。

「あの…さん」
「はい?」
「どうもありがとうございましたっ」

突然山崎さんはわたしに頭を下げた。ぺこりっという擬音語がぴったりな礼だった。
わたしは少しびっくりして目を見開いてしまった。

「あのっ…さんに診察してもらうのが嫌ってわけじゃ全然ないんですよ!
 ただ…その…えっと…気恥ずかしいだけですから!…ホントすみません!」

そう言いながらまたもや山崎さんは頭を垂れた。しかも今度は両手を合わせて。
あまりに必死な様子だったから,わたしはつい声を立てて笑ってしまった。
――嬉しかった。
いくら「仕方ない」と割り切ろうとしても,辛くなる時はあるから。
そういう風に言ってもらえてすごく嬉しかった。
伊東さんといい山崎さんといい…真選組の人たちは皆良い人だ。

「謝らないでください」

わたしの言葉に山崎さんは顔を上げた。ちゃんと目が合って,わたしはもう一度笑った。

「こちらこそありがとうございます,山崎さん」
「あ,いや…その…え?お礼を言われるようなことは…あれ?」
「ふふふ」

わたしがクスクス笑うと,山崎さんは顔を真っ赤にして頭を掻いた。
とても和やかな空気が診察室に満ちた。

「それじゃあ,これ1日3回食後に飲んでくださいね。」
「ありがとうございます!」

処方箋と薬を渡すと,山崎さんはお礼を言いながらそれらを受け取った。
そして,彼の目が壁にかかっている時計へ自然と向った。

「あ。そろそろ野稽古の時間だ」
「あ,本当ですね。山崎さんは今日はまだ試合しちゃ駄目ですよ」
「わ,わかってるよ…」
「それなら良いんですけど」

今日は週に1度の『野稽古』の日だ。
剣術に限らず砲術や武術の稽古を,真選組は毎日欠かさず行っている。
けれども竹刀ではなく木刀を使用する野外での実戦的な試合稽古――野稽古は週に1度だ。
得物が木刀になるだけでなく,面や籠手などの防具を一切つけないため,普段の道場稽古よりも
怪我をする率,それも大怪我をする率が高くなるから,この野稽古はいつも了順先生の立会いの
下で行われている。

「了順先生。そろそろ野稽古のお時間です」
「うん…もうそんな時間か」

奥に向って声をかけると,先生は読んでいた医術書から目を上げた。
野稽古にいつも持って行く救護鞄に薬品や包帯を詰め込んで,わたしはそれを了順先生に渡す。

「どうぞ,先生」
「うん。ありがとう。ああ,そうだ。たまにはも一緒に来なさい」
「え…」

突然思いついたように了順先生が言った。
わたしは普段から先生と行動を共にしているけれど,野稽古にはついて行かなかった。
了順先生だけでなくわたしまで野稽古に行ってしまっては,診療所が空になってしまう。
先生が野稽古に行っている間にわたしは医術書を読んだり,雑用をこなしたりするのが常だった。
それに…わたしも野稽古を見てみたいって気持ちはあったけれど『剣を振るう場=男の場所』って
印象が強くて,女のわたしが行くと気が散るんじゃないかなって思って今まで行くことはなかった。
わたしが戸惑っていると,山崎さんが活き活きとした声を上げた。

「さん,見に行きましょうよ!さんが来たらきっと皆も気合が入ります!」
「ということはなにかね山崎君。私だけが行っても気合が入らないと言いたいのかね?」
「ええっ!?い,いいいやそういうわけじゃありませんよ!!!」

了順先生の意地悪なつっこみを,山崎さんは必死になって否定する。
先生は時々こうやって人をからかったりおちょくったりする癖がある。
『神医』とまで呼ばれているのに困った人なんだから,もう。

「先生,山崎さんみたいな真面目で優しい人をからかっちゃいけませんよ」
「はははっ冗談だよ,山崎君」
「へ…?は,はあ…よかった」

山崎さんは心底ほっとしたように息をついた。わたしが言うのもなんだけど,山崎さんってきっと
からかわれやすい人なんだろうなあ。

「と,とにかく…さんが野稽古に来たら隊士たちは喜ぶと俺は思いますよ」
「山崎君もこう言ってくれているし,。たまには一緒に来なさい。野稽古を見るのはとても
 面白いよ。色々と学ぶこともあるだろうから来なさい」
「…はい!」

わたしはいつもより元気に返事をして,さっき先生の鞄に入れたものと同じ包帯・薬品類を手持ちの
鞄に詰め込んだ。
天下の真選組の実戦剣術を実際に見られると思うと,自然とテンションが上がった。
あまり剣術には詳しくないけれど,すごく楽しみだった。
わたしはいそいそと鞄を持って,了順先生・山崎さんと一緒に診療所を後にした。


++++++++++++++++++++++++++++++++++++


「おー嬢じゃないですかィ」

野稽古が行われる場所――東側の庭に着いて1番に話しかけてくれたのは沖田隊長だった。
いつもの隊服ではない,薄い鳩羽色の着物に紺色の袴という稽古着姿はなんだかすごく(いき)だ。
木刀を肩に乗せてこちらへ歩いて来る沖田隊長に,わたしは笑って挨拶をした。

「こんにちは,沖田隊長。稽古着姿,格好いいですね」
「そうですかィ?そんなこと初めて言われやしたよ」

わたしが稽古着のことを言うと,隊長は嬉しそうに肩を揺らして笑った。
隊士の中で,沖田隊長とは比較的よく話す方だ。最初に話をした時はつっけんどんな喋り方を
されたけれど(付き合いの長い近藤さんいわく『総悟は未だに人見知りが激しいんだ』だとか)。
でもわたしが「年若に見られるのを悩んでいる」と話したら,どうやら彼も同じ悩みを持って
いるようで(たしかに隊長は…割と童顔だと思う)すごく親身になって励ましてくれた。
「そんな小せェこと気にしちゃいけねーや」とか「老け顔より100億倍ましでさァ」とか…色々。
ちなみに沖田隊長が誰かを慰めるというのは凄まじく珍しいことらしく,鬼副長の土方さんに
「あんたはマジですげェ女だな…」となぜかひどく感心された。
その沖田隊長は,後方の縁側で近藤さんと話をしている了順先生に「どーもっ」と若者らしい
明るい挨拶をして,それからわたしが手に持っている救護鞄を見た。
元々丸い隊長の瞳が,さらにまるまると見開かれる。

「あれ?今日は嬢も野稽古見るんですかィ?」
「はい,今日は了順先生と一緒に立ち会わせていただきます」
「ふーん…てことは怪我したらあんたが診てくれるんですかィ?」
「そうですね,場合によっては」
「ふーん…」

なにを考えているのか,沖田隊長のオーラがなんだか黒くなった気がする。
ひょっとして「お前なんかが診て大丈夫なのかよ,あーん?」とか思われてる?まさかそんな。
わたしはなるべく力強く見えるように,グッと握りこぶしをつくってみせた。

「大丈夫ですよーいつもしっかり勉強していますから!ちゃんと手当てできますから思いきり
 鍛錬に励んで下さいね」
「おー励む励む」

沖田隊長は木刀で軽く自分の肩をぽんぽんと叩いた…なんだかすごく楽しそうだ。
すると,それまで黙ってわたしの隣に立っていた山崎さんが半眼で呟いた。

「わざと怪我しないで下さいよ,沖田隊長」
「当たり前だろ。そんなことしねーよ。なに言ってんだ山崎死ね」
「えええええ!?」

いきなり隊長の声のトーンが下がり,山崎さんの頭目掛けて問答無用で木刀が振り下ろされた。
…って怖っ!瞳孔開いてますよ,隊長!!!

「総悟!なにしてやがる!!」

土方さんの怒号が飛んできて,思わずびくっとわたしの体は跳ねた。でも怒鳴られた当の隊長は
全く動じてなくて,なんだかわたしだけが損したというか,とばっちりを喰らった気分になる。
沖田隊長は面倒くさそうに小指で耳をかいた。

「あーあーうるさい姑が来たよ…んじゃまた後で」
「はい,頑張って下さいね(えっ姑?)」

ちょっと疑問に思いながらも,わたしは隊長にひらひらと手を振った。
なんとか沖田隊長の太刀を避けた山崎さんも,げんなりしながら弱々しく笑った。

「あー…じゃ,じゃあ俺も行くよ。色々雑用あるし。腕診てくれてありがと,さん」
「いえいえ。また3日後に来てくださいね」

というかこの3日間で新しく怪我をこさえないで下さいね,と。
わたしは切実に彼の息災を祈った。
―――と。


(あ…伊東さん)


庭に面した縁側に了順先生と近藤さん,そしてその横にいつの間にか伊東さんが座っていた。
伊東さんの姿を見るのは久しぶりだった。
稽古着を着ているということは,もちろん野稽古にも参加するのだろう。
さっき沖田隊長を見た時もそうだったけれど,伊東先生の稽古着姿も普段とは違う新鮮な印象
をわたしに与えた。

(伊東さんって…どのくらい強いのかな?)

ぼんやりとそんなことを考えた。
『北斗一刀流免許皆伝』と聞いてはいるけれど,実を言うとあまりぴんと来なかったから。
でも名門北斗流の塾頭を任せられていたそうだから,ものすごく強いに決まってる。
けれど…

(あの時の…あの目)

最初に会った時,了順先生と近藤局長・土方副長が笑い合っているのを目の前にして,伊東さんは
薄く微笑んでいた。微笑んではいたけれど…それが『嘘の笑顔』だとすぐにわたしはわかった。
わたしは町の診療所で働いていたこともある。というより,診療所で働いていた年数の方が長い。
診療所にはたくさんの子ども達が訪れるから,必然的に「仕草を読む」ことが上手くなる。
特に医者を怖がる子ども達がよくする「痛くないふり」を読むのが上手くなった。
伊東さんのあの微笑みは…痛みを隠す類の笑い方だった。
笑い合う3人を前にしながらもその輪に入らず,痛みを隠すような微笑を浮かべた人。
「…寂しいのかな」って,そう思った。
それで気になって伊東さんをじっと見ていたら目が合って,笑いかけたらなぜかひどく驚いた
顔をされた。

(伊東さんって――どんな人なんだろう)

政治的才覚に優れた真選組の参謀。北斗一刀流免許皆伝・塾頭。
まさに『文武両道』を身をもって体現化したような人物。
それだけ聞くと非の打ち所の無い完璧な人間に思えるけれど。
でもそういう肩書きのようなものじゃなくて,人柄とか性格とか…そういった意味合いで「どう
いう人なんだろう」ってすごく気になった。
わたしは――あの『嘘の笑顔』に気付いてしまったから。

「すげーな。副長と参謀の直接対決って」
「今まで無かったもんな。伊東さんは野稽古自体にあまり出てなかったし」
「あの人は外回りの仕事が多いからなあ」

ふとそんな会話が耳に入ってきて,わたしはびっくりして彼らの方を振り向いた。

「今日の最初の試合って,伊東さんと土方さんがするんですか?」

わたしが話しかけると,喋っていた隊士2人組は少し驚いたように目を瞬かせたけれど,すぐに
快く答えてくれた。

「はい。そうみたいですよ。最初と最後は強者同士が試合うのが野稽古の慣習なんです」
「今日は久しぶりに伊東さんがいますからね。たぶん副長対参謀の試合が最初に来ますよ」
「そうなんですか…どっちが勝つんだろ」

わたしは彼らの言葉を聞きながら小さく呟いた。すると2人は顔を見合わせて,

「どうでしょうね…お2人共全く違うタイプの剣豪ですからね」
「でも個人的には土方さんに勝って欲しいよな」
「あー…そうだよな」

意味ありげに,というよりむしろ皮肉げに笑う彼らを見て,わたしは思わず眉を潜めた。

「…どうしてですか?」
「えっいやっ…その…やっぱり俺達は土方さんとの方が付き合い長いですし」
「そ,そうそう。それに隊内のバランス的にもね,土方さんが勝つ方がとなにかと…ね」

2人はしどろもどろに言い訳をするけれど,たいして『悪いことを言った』とは思っていない
みたいだ。むしろ『暗黙の了解』だったことを突付かれて参った,という感じだった。

なんとなく…真選組内での伊東さんの位置がわかった気がした。
そしてどうしてか――わたしはすごく不愉快な気持ちになった。

(なんか…いやだな)

そうこうしている間に野稽古が始まる時間になったため,わたしは2人に頭を下げて,了順先生
のいる縁側へと足を移した。

「…おや?何かあったのかい?」

黙々と救護鞄の中身を確認していると,了順先生から声をかけられた。

「いえ~特に何もないですよ」
「いやいやその顔は何かあった顔だね。むずがる赤ん坊と同じ顔をしているよ」
「…そ,そうですか?」

反射的に頬に手を当てると,先生は澄ました表情で片目を閉じた。

「私も元は町医だからね。仕草を読むのは長けているよ」
「…」

参りました,と頭の中でわたしは土下座した。全くもって先生には敵わない。
どう説明したものかなあ,とわたしは咳払いをした。

「たいしたことじゃないんです。ただ,人の功績や才覚を妬む男はみっともないなって思った
 だけです」
「ハハァ成る程ね。でも元来男は嫉妬深い生き物だよ。時には女性よりも」
「えっ…そうなんですか?」
「そうだよ。『嫉妬』の部首は『女』じゃなくて『男』にすべきだと私は常々思っているよ」
「うっ…でもそうだとしても,嫉妬をバネにして自分も成長するのが『良い男』なんじゃない
 ですか?」
「まあ理想上はね。あくまで理想上だよ,それは」
「ううっ……あ。先生そろそろ始まりますよ!」

なんだか不毛な現実を知ってしまった気がして,わたしは敢えて話を逸らした。
実際もう野稽古が始まりそうだったし。

それまでがやがやと騒がしかった庭が,しんと静まり返った。
皆が固唾を呑んで,中央に対峙する2人の人物を凝視していた。
一瞬の動作も見逃すまい,という隊士達の気迫が離れたこちらにまで伝わってくる。
それらの気迫よりもさらに凄まじい覇気を放つのは,向かい合った2人だ。

真選組副長・土方十四郎。
少しの曖昧さもゆるさない直情的な動作で木刀を構える。
一見荒々しく見えるけれど,その動きには寸分の無駄もない。
真選組参謀・伊東鴨太郎。
悠然と構えた木刀の切っ先が,常に静かに揺れている。
そうすることで変化にすぐさま応じられるようにしているのだろう。
鋭く細められた伊東さんの眼光は,ちょうど刃の煌きのように凶暴な光を宿している。
普段の冷静で思慮深い所作からは想像もつかない――一体その熱情をどこに潜めているのだろう。

「いざ尋常に!」

審判をつとめる近藤さんが片手を挙げる。そして,

「勝負!」

木刀が日差しを鈍く反射した――と思った瞬間,
ガッ――
刃が鳴り響いた。
くぐもった音を発して木刀と木刀がぶつかり合う。そのままつば迫り合いが数秒続き,2人同時に
身を後退させる。しかし息をつく間もなく厳しい打ち合いが再開され,庭を剣戟の音が駆け巡る。
あまりの素早い動きと,あまりに凄まじい迫力に気圧されて,わたしは目が眩むような思いだった。
『鬼の副長』と称される土方さんは,その異名に違わぬ真の鬼のように力強い剣技を振るう。
それに対して,伊東さんも鬼神のように激しくも洗練された剣技を繰り出す。
それは――まるで剣を振るうために生まれて来たかのような身のこなしだった。

(…うわ)

わたしは真っ白な光でも見ているかのような気持ちになった。
あまりに強烈過ぎて,怖いとも思わない。
胸に湧き上がるのは『恐れ』ではなく『畏れ』だった。
どうしてこれ程の力を持った人たちが,こうして同じ時代の同じ場所に立っているのかが不思議だ。
「両雄並び立たず」という『史記』の言葉を,わたしはふと思い出した。
英雄が2人両立することはできない。
必ず2人は争って…どちらかは果てる。
不吉なことを思い浮かべてしまった自分が嫌になり,わたしは頭を強く横に振った。
その間にも打ち合いは苛烈さをさらに増していく。

(…凄い)

木刀が空を斬り裂く音,草履が砂地を踏みしめる音,そして隊士達の歓声。
湧き上がる熱気が渦となって,庭全体を轟かせているような気がした。
わたしはいつの間にか胸の前で手をギュッと握り締めていた。

「「おおおおお!!!」」

時に掛け声を奮わせながら,2人の侍は木刀を交差させる。
既に何本かはお互いの体をかすめているはずだけれど,彼らの勢いは少しも衰えない。

「おおおおお!!!!」

伊東さんが熱のこもった雄たけびをあげる。
その声はわたしの鼓膜を貫いて,わたしの脳裏で打ち震えて響いた。

(…どうして)

なぜ『どうして』という言葉が頭に浮かんだのか,わたし自身よくわからない。
わからないけれど『どうして』と。問いかけずにはいられなかった。
気品に溢れているのに 大胆不敵で。
冷静で頭脳明晰なのに 迸る熱情を抱えていて。
これほどまでに文武を兼ね備えた人なのに。

どうして……


――バキィィッ……!!!!


不穏な音と同時に,伊東さんと土方さんの頭上を2本の影がくるくると舞った。
ハッとして2人の得物を見ると,その切っ先は折れて無くなっていた。
しかし両者共それに構わず,柄だけになった木刀を互いに相手の喉元に突きつけ――

「それまで!」

近藤さんの野太い声が空を揺らした。
ひゅんひゅんっと旋風のような音を立てながら,2本の木刀の先が落ちてきた。
折れた切っ先は地面に叩きつけられ,乾いた音を立ててその身を跳ねさせた。

「…」
「…」

伊東さんも土方さんも,喉元に柄を突きつけたまま微動だにしなかった。
しばらくの間そのまま睨み合っていた。でも,

「引き分け!!」

近藤さんがそう叫び,隊士達が興奮した歓声を上げると,バッと稽古着を翻して互いに離れた。
そのまま2人は最初の位置に戻ると,向かい合って礼をした。
その際に大量の汗が,両者の額や首筋からぽたぽた流れ落ちて砂地に跡をのこした。
伊東さんは懐からハンカチを出して額を拭き,土方さんは稽古着の袖で顔を乱暴にぬぐった。
歓声の中,土方さんの周囲にたくさんの隊士達が集まる。伊東さんの周囲にも同門の仲間達が
集まった。彼らは皆高揚した様子で顔を上気させている。
伊東さんはそんな隊士たちに向って,ひどく涼しげな表情で笑みを返していた。
静かで冷たくて移ろいやすくて……脆い笑みを。

(どうして…)

これほどまでに才知の優れた人なのに。
これほどまでに羨望を集めている人なのに。


どうして―――孤独な人に見えるんだろう。


熱気冷めやらぬ庭で,わたしはひとりなぜか泣きそうになっていた。
なぜ涙を堪えているのか…やっぱり自分でもよくわからなかったけれど。



その冷静な瞳の奥に
燃えたぎる熱情を垣間見て
その孤独な壁の内に
痛々しい切望を感じ取って

胸が 痛い
泣きたくなるほどに
泣きじゃくるほどに

…胸がいたいよ。



2008/11/04 up...