あどけない 笑顔と
紡ぐ言葉の 強さと
つかみどころのない 透明感
雨上がりの空が 似合う君に
僕は少しだけ 嫉妬した



残照  <二>



(…降って来たか)

ぽつりぽつりと滴を落とし始めた灰色の空を見上げ,僕は目を細めた。
武器商人たちとの商談を終えて,真選組屯所へ帰る道中のことだった。降り始めたと思ったらすぐに
雨脚は強くなり,『透明な点』に過ぎなかった水滴は,みるみる内に『透明な線』へと姿を変えた。
午前中は雲ひとつない晴天だったというのに――天気予報を見ておくべきだった。
僕としたことが迂闊だった…数日前に入梅したという情報は耳にしていたのだが。

通りを歩いていた人々の歩調が,駆け足へと変わる。皆一様に空への愚痴や不満を抱えた表情で走り
ぬけて行く。僕とてその1人だ。道にはところどころに水溜りができ,革靴がそれを踏んでしまい,
ズボンの裾が雨に濡れた。
かなりの激しい雨になり,僕は雨宿りをするために蕎麦屋の軒先に一旦非難した。
懐からハンカチを取り出して,濡れた隊服を拭いていく。それから眼鏡も外してレンズについた
雨粒をぬぐう。やれやれ…とんだ天気だな。

(一体いつ止むのだろう)

すっかり雲で覆われた空を睨み上げ,僕は嘆息した。ふと前を見ると,兄弟だろうか…2人の子供が
手を繋いで駆けて行った。急な雨だというのに,その子供らはとても楽しそうに笑い合っていた。

「…」

昔から雨が好きではなかった。
生来身体の弱かった兄上は,雨になると余計に病をこじらせた。
それこそ父上や母上・女中たちは兄上に付きっきりになって…
雨の降る日はいつもにも増して――僕はひとりだった。
雨音を聞きながら,僕はまるで自分がその家に存在していないかのように,ひっそりと息をしていた。

(もう…昔のことだ)
「あっ伊東さん」

鬱々とした回想をとり去るかのような,澄んだ声が耳に響いた。
自分でも知らぬ間に俯いていたらしい。僕は顔を上げて声の方を見た。

「…君」

僕の目の先数メートルほど前に,真選組の常駐医見習いの女性が立っていた。
雨の中傘をさした彼女は,僕と目が合うと白い歯並びを見せて笑った。

「どうぞ入ってください」

そう言いながら,君は自分の傘を少し僕の方へ差し出した。水滴がわずかに傘の先から零れた。
少しの躊躇いもない彼女の優しさに,僕はいささか戸惑った。

「そうしてもらえると助かるが…良いのかい?」

考えてみれば,僕は誰かと共に1つの傘を使ったことがなかった。

「はい,もちろん…屯所ですよね,行先は?」
「ああ」
「よかった。どうぞ」

君はホッとしたように息をつき,再度僕を促した。
そうか…彼女にとって『よかった』なのか。これは。
僕は差し出された傘の柄を静かに握って,君から傘を取った。その際わずかに触れた彼女の手は,
雨のせいか少しひんやりしていた。

「あっ」
「僕が持とう」

僕の方がかなり背が高い。彼女がさすとなると,爪先立ちで歩くことになってしまうだろう。
君も言われて初めてそれに気付いたようで(…なぜ最初に気付かない?),納得したように
「そっか」と小さく呟いた。それから頬にえくぼを浮かべて笑った。

「ありがとうございます」
「いや…礼を言うのは僕の方だろう」

思わず僕はひとつ苦笑し,彼女もちゃんと傘に入っていることを確認してから歩き始めた。
だが数分も経たない内に,1つの傘で2人が歩くというのは,なかなか難しいことだと僕は知った。
そもそも僕と彼女では歩幅や歩調が全く違う。たとえ傘が無かったとしても,一緒に歩くのは結構
難しいのかもしれない。最初はペースがわからなくていつも通り歩いていたのだが,彼女が必死に
とてとて歩いているのに気付いてからは,なるべく僕も遅めに歩くよう心掛けた。

(しかし…)

すっかり安心しきった様子でゆっくり歩いている君を,ちらりと見やる。
彼女は診察室では非常にてきぱき働いているのに,外に出ると何故こうものんびりなんだろう。
(せっかちなのかスローペースなのかわからないな)
僕は大抵の人間の性格を瞬時に『分類分け』することができるが,どうにも彼女にはまだラベルを
貼ることができずにいた。彼女は今までに会ったことのないタイプの人間だった。

「伊東さん,良い匂いがしますね」

君は僕の方に顔を向け,目を閉じて深く息を吸い込んだ。

「何か香水つけてます?」
「いや…でも箪笥に衣被香を入れてあるから。移り香だろうね」
「『えびこう』?…あ,匂い袋のことですか?」
「…ああ。そうだよ」

僕は頷きながら薄く笑った。彼女が『衣被香』と聞いて瞬時に匂い袋と理解したことに満足した。
もっとも,以前「源氏物語が好きだ」と言っていたからきっとわかるだろうと思ってはいたが。

「素敵な匂いですね。そこはかとなく香る感じがすごく雅で」
「…ありがとう」

嘆かわしいことに真選組にはこういった風雅を解する人間がいない…所詮は芋侍の集まりだ。
だからこうしてそれに気付いてもらえると殊更嬉しいものだった。
それに――彼女のような頭の良い人間との会話はやはり楽しい。
僕は隣りで笑う彼女を見,そして今自分が持っている傘を見た。

「それにしてもよく傘を持っていたね。午前中は晴れていたのに。予報を毎日見ているのかい?」
「いいえ~今日は見ていませんでした。降るとは思いませんでしたよ」
「?じゃあどうして傘を?」
「この傘わたしのじゃないんです。大江戸図書館のなんです。今日は了順先生に言われて書物を
 返却しに…それと,新しい本を借りに行ったんです」

ホラこれ,と君は手にした紙袋を掲げてみせた。中には分厚い書物が数冊と,巻物が入っている。
僕はそのタイトルを確認し「ふむ…『神医』はこういう本を読むのか」と考えを巡らせた。
しげしげとそれを見ていると,彼女は小さく笑った。

「仕事柄図書館をよく利用するので,職員の方々と顔なじみなんです。館内にいる間に空が曇って
 きたんですけど,『傘を持っていない』って言ったら『じゃあ持って行きなさい』って貸して
 くださったんです」
「ああ…なるほど」

すぐ横を歩く女性が図書館の職員へ礼を言っている場面を,僕は容易に想像することができた。
彼女はきっと――誰とでも仲良くなれるのだろう。
また,誰にでも好かれるのだろう。

「で,この傘を選んだのは君かい?」

僕は手にした傘を見上げた。実は最初に見た時から気になっていたのだ…この傘の柄が。
傘は柑子色を基調にしており,その上に猫のキャラクターがところどころにプリントされている。
可愛いのかもしれないが…成人した女性が持つには幼稚な柄だと思う。
すると君は「痛いところをつかれた」といった風に苦笑いした。

「いえ…職員の方です。お年を召した方で。『ちゃんに合うのはこれかねぃ』ってわざわざ
 選んでくださったんですけど」

彼女は困ったように微笑んで,人差し指で頬を掻いた。

「わたし幼く見えるんですかね…やっぱり」

正直言って,彼女がこの傘をさしていても大して違和感はなかった。
彼女は見かけが若いということもあるが,それ以上に中身が『人懐こい』のだ。
決して性格が子どもっぽいというわけではないが,人から可愛がられる空気を醸し出している。

真選組内でも君は『よく笑いよく働く医師の卵のお嬢さん』として慕われている。
近藤さんはもちろん,あの土方君や沖田君も彼女には気をゆるしている。
まあ土方君は…君のご飯にマヨネーズをかけまくって(本人は親切のつもりでやったらしいが),
めったに本気で怒りそうにない彼女を激怒させていたが。あれは明らかに土方君が悪かった。
『君を怒らせるとかなり怖い』ということが屯所内に知れ渡った事件だった。

…それはともかく。彼女のその人懐こい気性が外面にもにじみ出て,その結果『幼い』という
印象を周囲に与えるのではないだろうか。そしてそれは然程悪いことではない,と僕には思えた。

「君は嫌がるかもしれないけど…この傘は君に似合うと僕も思う」
「そうですか?」
「ああ」

僕は傘の中で好きなように遊んでいる猫達を見上げた。
彼らはブランコに乗っていたり,鯛焼きを食べていたり(なぜ魚ではなく鯛焼きなのだ),三日月を
見上げていたり…と様々なことをしているのだが。
どの猫にも共通するのは『笑っている』ということだ。
そのとことん緊張感がなくて無邪気で平和そうな笑顔は…なんというか…

「…君に似ているよ」
「え?この猫にですか?」

当の本人は全くの予想外だったらしく,君は心底驚いたように肩を跳ねさせた。
彼女は傘をじっと見上げ,どう反応すれば良いのか迷っているらしく,難しそうに唸り声をあげた。

「う~ん…喜んで良いのかな?」
「たぶんね」

僕が頷くと,君は目をぱちぱちと瞬かせた。それから,

「ふふ。じゃあ嬉しいです」

にこにこと素直に笑った…やっぱり似ている。
きっと職員の方もそう思ったからこそ,敢えてこの傘を貸したのだろう。僕が頬を緩めると,彼女は
僕と傘とを交互に見上げてクスクスと笑った。

「どうかしたかい?」
「いえ…伊東さんがこの傘持ってると可愛いなあ,て思って」
「…」

…そうだった。
今傘を持っているのは,持っていても違和感のない彼女ではなく,この僕だった。
猫柄の傘をさす真選組参謀・伊東鴨太郎…自分で自分の姿を見ることは叶わないが(いやむしろ
見たくないが)可愛らしい傘をさしている自分を想像してしまい,僕は軽く眩暈がした。

「あ,ごめんなさい。変なこと言いました?」
「いや…」

密かに精神的なダメージを受けたが,なんとか僕は平静を保って返事をした。
君に悪気は無いのだから。全くと言って良いほど無いのだから。
僕はこほんと咳払いをして,眼鏡の中心を指で押し上げた。

「たしかに僕は普段こういうのを持たないからね」
「持ってたらびっくりしちゃいますよ」
「ははっそうだな」

無意識に笑ってしまって――はっとした。
(…まただ)
またもや『つい』笑ってしまった。
こっそり君を見やると,彼女は僕が笑ったことが嬉しいのか顔を綻ばせている。
どうやら彼女は僕を不意打ちで笑わせる名人らしい。
(やはり…君は決して幼くはないな)
むしろ頭の回転が早くユーモアもある。だから話をしていて非常に面白い。

「…」

純粋に興味が湧いた。
君が何をどう感じ,何をどう受け止め,何をどう考えているのか。
僕は彼女の笑顔から目を外し,雨に濡れた街並みを真直ぐに見た。ぬかるんだ道を踏む感触が,
革靴の底を通して足に伝わってくる。

「君…ひとつ聞いても構わないかな?」
「なんですか?」

自分の発した声が雨に滲んでゆくのを感じながら,僕は彼女に問いかけた。

「君はなぜ医師になろうと思ったんだい?」
「えっ?」

突然の質問に驚いたのだろう。君のまとう空気がにわかに緊張した…少し唐突過ぎたか。

「不躾な質問だったかな。すまない」
「いえっそんなことないです。でも,どうしてですか?」

僕が謝ると,彼女は慌てたように首を振った。僕は注意深く言葉を選びながら,質問を続けた。

「こんなことを言うとまた失礼かもしれないが…天人の来訪以来,女流知識人も増えてきている
 とはいえ,このご時世に女性が学問の道へ進むのは決して楽なことではないだろう?」

屋根の上に降り溜まった雨水が,どっと音を立てて軒先に流れ落ちていくのが見えた。
その屋根の反対側からメジロの声が響いて来て,言葉と言葉の間にできた空間を埋め合わせた。

「君は気立てが良いし,快活な気性の持ち主だ。なにも医師を目指さなくとも…良縁に
 めぐり合う可能性だって高いだろうに,何故わざわざ困難な道を選んだんだい?」

僕ら2人は通りを抜けて,木造の橋にさしかかった。川の両岸に等間隔に植えられている柳の木々が,
雨煙の中で青くくすぶっていた。すれ違う人々はもう慌ててはおらず,皆傘を手に悠々と歩いている。
君はしばらく黙り込んでいたが,それは決して重たい沈黙ではなかった。
こちらの質問にどう答えようか,彼女が真剣に考えてくれているということが,なんとなく伝わってきた。

「わたしの父は町医でした」

橋の真ん中あたりまで歩いたところで,彼女は口を開いた。

「父は了順先生と2人で町の診療所を経営していたんです。
 わたしも,小さい頃からずっとそこでお手伝いをしていました」
「…そうだったのか」

当然のことながら初耳だった。ひょっとすると,局長の近藤さんも聞いていないかもしれない。
君は遠い日のことを思い出したのか,懐かしそうに目を細めて笑った。

「わたしが言うのもなんですけど,腕が良いって評判の町医だったんですよ。
 了順先生と父上――両方に幕府から『官医にならないか』というお召しがあったんです」

彼女は少し手が痺れたのか,本の入った紙袋を右手から左手に持ち替えた。
雨水に浸された橋は,僕らが足を踏み出すたびにくすぐったそうな音を発した。

「でも父は『2人共お上の元へあがってしまっては町の皆さんが困るだろう』と辞退したんです。
 『町はわたしが診る。だからお上は君が診ろ』って了順先生に言って」

そこで彼女の足がぴたりと止まった…それにつられて僕も足を止める。
君は流れるような動作で,僕に真直ぐな視線を向けた。
雨で水量を増した川の音が,僕と彼女を緩やかに包み込んだ。

「わたし…父上が大好きでした」

川の匂いを含んだ風が,しめやかに彼女の黒髪を撫でた。
ふわりと笑う君は,とても誇らしげだった。
それは――絵に残しておきたいと強く願ってしまうほど,清廉な笑顔だった。

「父君は…」
「わたしが17の時に病で亡くなりました。まさに『医者の不養生』ってやつですよ」

彼女の口ぶりからは,悲しみとか寂しさとかいった類の感情は感じられなかった。
その穏やかな口調が「もう昔のことだ」と暗に告げていた。
再び歩を再開し,僕らは橋を渡り終えた。

「伊東さんのおっしゃるとおりです。きっと…もっと楽な生き方もできます。そっちの方が幸せ
 なのかもしれません。誰かと結ばれて子供を生んで育てる…それはとても尊い生き方ですよね」

君の声は静かなリズムを持っていて,心地よく僕の耳を揺らした。
色とりどりの傘が,僕らの周囲を次々に通り過ぎて行く。
しとしとと小降りになった雨が,町を軽やかに滑っていった。

「もっといい人生があるかもしれない。でも,これはわたしの人生だから」

歌のようだ――彼女の紡ぐ言葉は。
まるで童歌のように素直で,あどけなくて,透明で。
……『真理』を内包している。

「だからこれで良いんです…これが良いんです」

少しの曇りもなく,君は晴れやかに笑った。
どこまでも透き通っていて,しなやかで強い微笑みだった。
この小さな体の一体どこにここまでの強さを秘めているのだろうか。
羨ましいと思う。
それに…少しだけ妬ましいとも思う。

「君」
「はい?」
「君は…」

言葉を発しようとして,ふと止まる。
(…なにを言おうとしたのだろう?)
不思議なことに直前まで僕が思っていたことは,弱まった雨音の中に溶け出してしまった。
だから,違うことを口にした。
たった今――僕がたしかに思っていることを。

「うまく言えないが……君のような女性が江戸にいることを,僕は誇りに思うよ」

滅多に他人を褒めることのない僕にとって,この言葉は最大の賛辞だった。
君の目が大きく見開かれた。
いつの間にか雨だれの音が消え,周囲を白っぽい光が照らし始めていた。
彼女はその光の中で,照れたようにはにかんだ。

「ありがとうございます,伊東さん」

君はちょこんと小さくお辞儀をすると,ふいに気が付いたように傘の外へ顔を出した。

「あ。雨止みましたね」
「…ああ。本当だ」

彼女に言われ,僕も傘から顔を出して空を見上げた。
ぼんやりとした雲の波間から,和らいだ日差しが覗いている。
雨に濡れた屯所の門が,雨上がりの日光を浴びてきらきらと輝いていた。
門の上で雀たちが身をふるふると揺らし,羽繕いを始めていた。

「屯所に着いた途端に止むとはね…」
「意地悪な雨ですね」
「ははっ…まったくだ」

口を尖らせた彼女の科白に,僕は笑いを零して傘を閉じた。
乳白色の雲の壁が砕けて,その隙間から爽快な青色が見えた。
雨で洗われてすっきりとした空気の中で,君は空を見上げて笑っていた。

透明な日差しが驚くほど彼女によく似合っていて,
僕の心は再び羨望と嫉妬――彼女の中にある『何か』への切望で,
苦いようで 甘いような
痛いようで 心地良いような
そんな矛盾した感情で 蒼く満たされた。  




2008/11/11 up...