残照  <終>


屯所の屋根の向こう側にそびえる入道雲が,青空を背に深呼吸している。
今日も暑くなることを予感させる蒸し暑い日差しが,カーテンを開けたわたしの肌をじわりと焼く。
早起きな蝉達の声が,青く燃える木々の間から時雨となって診療所に降り注ぐ。

「。診察だよ」

どうやら早起きなのは,蝉達だけではないようだ。

「はーい」

了順先生の呼びかけに返事をして,わたしは診察室へ向かう。


いつもの夏の日常が始まる。




「相変わらず生傷が絶えませんね,土方さん。朝っぱらから何やってんですか」
「うるせェな……ちょっと階段から転んだだけだ」
「階段の上から落ちたのに,これだけの軽傷で済むのはさすがですけど。そもそもの
 原因は寝不足でしょう?怪我は薬塗れば治りますけれど,寝不足は眠らない限りは
 治りませんよ?」
「…そんくらいわかってる」
「だったら…」
「こちとら事務処理がめちゃくちゃ山積みで,マジで眠っている時間がねェんだよ。
 俺はさして得意じゃねーし,机に向かう作業はよ。俺が片付けるまさにその横で,
 総悟がさらに始末書増やしたりするしな」
「とりあえずパワハラで訴えたらどうです?部下から上司への嫌がらせの類だって,
 パワハラとして国が認めているんですよ。証拠として提出したいなら診断書出し
 ますよ。『部下からの嫌がらせが原因で寝不足になって階段から転落したことに
 より負った傷』って」
「…考えとく。とりあえずは結構だ」

土方さんは大きく溜息をついた後,首を左右に曲げながら肩をすくめる。

「まァ事務作業が苦手なのは俺だけじゃないけどな。隊士の大半は苦手だ」
「ええ,知ってます」

わたしがはっきり頷くと,土方さんは苦笑いをして―――
―――少しだけ間を開けて,再び口を開く。


「その点は甘えっぱなしだったからな,1年近く……伊東に」
「…そうでしょうね」


自分の口の端が自然と緩く上がるのを感じながら,わたしはやれやれと息を吐く。

「おかげさまで…皆さんが事務作業や交渉事を苦手なせいで,伊東さんの仕事が本当に
 多くて。出張も多かったし。わたしはろくに一緒にいられませんでしたからね。
 もう少し皆さんがやってくれたら良かったのにねぇ…」
「……すまん,としか言いようがねェな。こればっかりは」
「冗談ですよ」

苦虫を噛み潰したような表情の土方さんに,わたしは笑ってみせる。
きっと あの人は―――


「きっと伊東さんは―――皆さんの苦手なことを自分がやってのけることを,誇りに
 していたと思いますから」
「…そうか」


イジワルなところのあった人だから,心の中では「こんなことも出来ないのか」とか
「剣しか能がないのか」とか,もしかしたら思っていたかもしれない。
でも,きっと嬉しくもあったと思う。

自分の能力を活かせることを。
自分を必要としてくれることを。
自分に「ありがとう」と言ってくれることを。

「あいつは,本当に有能な男だった。心からそう思う」

土方さんの賛辞を,伊東さんに聞かせてあげたいと思う。
『最大の理解者』が―――あなたがいなくなった後も,あなたを認めてくれている。

「そうですね…有能な人でした」

わたしは土方さんの言葉に同意しながら,「けれど,孤独を恐れる人でもありましたよ」
と心の中だけで付け加えた。
とても冷静で有能な人だったけれど,自分の心に潜む孤独感を燃やして熱情に変えて
いる人でもあった。
伊東さんのあの瞳を…孤独感を強く抑え込むあまりに,余計に悲しみの熱が滲み出て
しまう瞳を思い出しただけで,胸が痛くなる―――今でも。


兄は子どもの頃非常に病弱でね。
だから僕はひとりでいることの方が多かったな。


 その冷静な瞳の奥に
 燃えたぎる熱情を垣間見て
 その孤独な壁の内に
 痛々しい切望を感じ取って

 胸が 痛い
 泣きたくなるほどに
 泣きじゃくるほどに


伊東さんの死後…どれほど泣いても泣きじゃくっても,涙には果てが無かった。
時を経て悲しみは胸の奥深いところに沈んでも,決して消えたわけではなかった。
なんでもない何かの拍子に悲しみは泡のように浮き上がり,自然と瞼に熱が宿った。
誰かの鼻歌が聞こえた時や,小さな優しさにふれた時,美しい夕焼けを見た時……
……無防備な気持ちになる時,なぜか無償に涙が込み上げてきた。

あの人はもういないのだ,と。

「が事務を手伝うってテもあるか」
「その分お給料を上乗せしてくださるなら,考えなくもないですよ」
「……お前って意外とリアリストだよな。そういうところ,伊東に似てる」
「褒め言葉だと受け取っておきます」
「褒め言葉だ」

土方さんは歯切れよく言い切って,ニッと口角を上げ笑ってみせる。
わたしも「ありがとうございます」と今度は素直にお礼を言う。



わたしと伊東さんは,もっと幸せになれたと思う。確信をもってそう思う。



「痛ェ!嬢,もっと優しく!」
「これでも十分優しくやっていますよ,沖田さん」

朝稽古が終わった直後の熱気が残る道場壁際にて―――沖田さんの右頬に薬を浸した
脱脂綿をつけると,飛び跳ねんばかりに彼は文句を言い連ねる。
薬を傷に当てる度に,ギャアギャアと騒ぐ彼を見ていると,まるで仔猫の手当てを…
…チビの手当てをしている時のような気持ちになる。

「今日の稽古相手は誰だったんですか」
「…近藤さん」
「あら」

局長自らが稽古相手になってくれるとは,ありがたい話ではないか。
しかも,沖田さんにとって,近藤さんは只の上司ではない。
沖田さんが敬愛してやまない人なのだから。

(それにしても……近藤さんと沖田さんだと,剣の腕は沖田さんに軍配が上がる,と
 聞いたことあったけど)

他の隊士が噂していた『沖田隊長真選組最強説』を思い出し,わたしは首を傾げる。
沖田さんの怪我を見る限り,今日の稽古での勝者は彼ではないようだ。
図らずもじーっと彼の横顔を見つめることになってしまって,わたしのその視線を
どう捉えたのか,沖田さんはぶつぶつと呟きだした。

「誰が相手でも容赦しねェよ。でも…」
「でも?」
「うまく言えねェけど,近藤さんは俺にとっては父親とか兄貴とかそういうの以上
 だから」
「…そうですか」

それって『容赦している』ってことなのだろうか。
そう聞こうかとも思ったけれど,近藤さんにも沖田さんにも失礼なので止めた。

ちなみに―――『沖田隊長最強説』には,別の側面もあって。
真選組最強の剣士である沖田隊長には,唯一頭の上がらない女性がいる。
それは彼の姉上様だ,と。
でも―――そのひとは,もうこの世にはいない。

だから……彼は最強なのだ,と。

「…と言っても,俺には父親も兄貴もいねェからよくわかんねェけど」
「沖田さんは姉上様が母様代わりだったんですよね?」
「ん。姉上と近藤さんがいたから,俺は落ちるとこまで落ちずに済んだんでィ」
「…」

こういう時,何と答えるのが一番良いのだろう。
「そうですね」と言えば,彼が時折戦場で見せるという羅刹の面を認めることに
なるし…
「そんなことない」と言えば,彼が大切だと言うふたりの存在を軽んじてしまう
ことになる気がして。
わたしが微妙な表情で黙ったのには気付かず(あるいはわたしの答えはそれほど
重要じゃなかったのかもしれない),沖田さんは乾いた笑いを浮かべた。


「伊東さんも,もっと早くに近藤さんに会ってりゃ…」
「…」


道場の入口に提げられた風鈴が,南風の中で涼しげな音色を奏でる。
釣鐘型のそれは,まるで死者の魂を弔うかのように哀しく美しい音をいつも送り
出している……隊士達の竹刀が鳴り響いている時も,そうでない時も。

「…なんでもねェ。忘れてくだせェ」
「…いいえ。忘れません」

謝罪するかのように項垂れる沖田さんの頬に,わたしは再び薬を押し当てる。
その途端ギャッと短く叫び声をあげて,沖田さんは目を白黒させた。


「わたしも,そう思いますから」


伊東さんがもっと早くに近藤さんと出会っていたら…
もっと早くに真選組に入隊していたら…
…『取り戻せていた』のかもしれない。
彼が幼い頃に得られなかったものたちを。
多くの人たちが,子どもの頃あたりまえに与えられ,享受してきたものを,伊東さんは
持っていなかった。


…母親が,小さな子どもに?

……そうなのか。

いや…いいんだ。


もし伊東さんの母様に会うことがあったならば,わたしは彼女を平手で打っただろう。
そして,わたしはこう言うのだ。

伊東さんの母は,もう あなたじゃない。
わたしなのよ。
だから,わたしの子を傷付けたあなたを決してゆるしはしない。


『兄の全てを弟が奪って生まれてきた』と。

僕の母だ。


彼女にも深い事情があったのかもしれない。
もしかしたら 彼女も辛かったのかもしれない。
それでも,わたしは彼女を責めただろう。
たとえ,伊東さんから止められたとしても。
彼女は……伊東さんを「いらない」と言ったから。

伊東さんが孤独を深めたのは,母様のせいだ。
愛されて育ったならば至極あたりまえに持っているはずのものを,伊東さんが持たな
かったのは,母様が与えなかったからだ。


 あなたは時々 『あたりまえのこと』に目を丸くした
 あなたは時々 『あたりまえのこと』に首を傾げた
 あなたは時々 『あたりまえのこと』を恥ずかしがった

 あなたが『あたりまえのこと』に
 目を丸くしたり 首を傾げたり 恥ずかしがったり
 そういう瞬間に いっぱい立ち会えたこと
 わたしは すごく 嬉しかったのに。


伊東さんにとっては違ったのだろうか。
ありのままの自分を見せることは,ただ恥ずべきことだったのだろうか。

(そんなことないですよね…?)

わたしは道場の外に向かって問いかける。
そこには―――誰もいない。
風鈴の音が蜻蛉と共に漂うばかりだ。
答えが返って来なくても,もう平気だった。
もし,あの人が本当に嫌だったのなら,わたしのことを嫌いになっているはずだから。


もし,僕が女性に生まれていたのなら…君のような女性になりたかった。


あなたは わたしのようになりたい と言ってくれた。
それが,なによりの証だ。

「でも,あんたに会えたことは,きっと救いになったはずでさァ…伊東さんにとって」
「え?」

ぼんやりしていたところに,沖田さんの珍しく神妙な声が響く。
シャボン玉をぱちんと破られたかのように,思考が現実に戻って来る。
視線を前に戻すと,古くから湧き続けている泉のように澄んだ彼の双眸が,わたしの
姿を鏡のように映していた。


「伊東さんが嬢に会えたのは,幸運だった。
 遅いとか早いとか,そんなもん関係ねェ。絶対的に幸運だったはずでさァ」
「……沖田さん」


日頃の彼からは想像もつかない優しい言葉に,わたしは目を丸く見開いた。
彼の名を呼んだまま微動だにできずにいるわたしに,沖田さんはいつもと同じように
いたずらっぽく笑ってみせる。

「いいこと言ったんだから,今度からもうちょっと染みねェ薬にしてくだせェよ」
「…要検討します」

土方には同じやつで良いけどなー,などと言って沖田さんはごろんと横になった。
その様はまさに猫みたいで,わたしは思わず噴き出してしまったけれど。
(もっと良い薬を探してみよう)
…と,彼の希望を叶えようと真剣に考えてみることにした。




もっと早くに出会えていたら…と。考えなかったわけじゃない。
ただ 辛くなるだけだから。考えるのをやめた。それだけ。




「考えなくてもいいことは,考えずにいられるようになるものですね。この年齢に
 なると」
「はあ?いきなり何?」

太陽がいよいよ天の中央に鎮座し,地上を照り焦がさんと滾る真昼時―――屯所の
庭でバドミントンに興じる。相手は勿論,ミントンを愛してやまない監察サマだ。
山崎さんは掛け声を上げながら,リズムよくラケットを振り下ろす。

「『この年齢になると』って,君が言うとかなり違和感あるね。ていうか,まだまだ
 若いでしょ,君は」
「…山崎さんの年齢を聞いた時も衝撃でしたけどね,わたしとしては」
「監察はさ,いろんなところに入り込まなくちゃいけないからさ。年齢不詳な見た目
 の方が都合良いんだよね」
「天職ですね」
「ちゃんだってさ,若く見られるでしょ?」
「まあ…そうですけど」

わたしはシャトルを打ち返しながら,遠い日に思いを馳せる。


子どもを診察する時は若く見える医師の方が良いと思う。
子どもは自分に近い年の人間に気を許しやすいから。


初めて伊東さんと会ったあの日,「年若に見える」と皆から評されたわたしに,彼は
そう言ってくれた。
「女性は若く見られた方が良い」ではなくて,「医師は若く見られた方が良い時も
ある」と。
伊東さんにしてみれば,なにげなく口にした言葉だったのかもしれない。
それほど思い入れをした科白ではなかったのかもしれない。
でも……わたしにとっては,掛け値なしの嬉しい言葉だった。


思い返してみれば 最初から―――わたしは伊東さんに好意を抱いていたのだ。
「この人を好きになりたい」と。
最初から そう思っていた気がする。
心のどこかで。


「それにしても…思い出すなあ」
「何をですか,山崎さん?」
「伊東さんや沖田隊長も一緒になって,ミントンしたこと」
「…ああ」


僕はいいよ。一浴びして来たばかりだから。

受けて立とう。


あの日も,今日みたいに暑い夏の昼間だった。
伊東さんはバドミントンをやることを最初渋っていたけれど,わたしがほんの少し
挑発してみたら,あっさりと受けて立ってくれた。

(楽しかったなあ…)

結局,伊東さんと皆で賑やかに遊んだのは,あれが最初で最後となってしまった。
もしもあれ以降もああして遊ぶ機会があったなら―――何かが違っていただろうか。

「あれはホントに意外だったよ。沖田隊長はともかく,まさかあの伊東さんが,
  やるとは思わなかった」
「でも,伊東さんは…皆と一緒にああいうことするの,嫌いじゃなかったと思います」


ずっと…思っていた。
誰かと一緒にいる時より,自分ひとりでいる時の方が好きだ,って。
自分はそういう人間だと思っていた。けど…

どうやらそうじゃなかったようだ。と出会って,わかった。


わたしの両親のお墓参りをした後に,伊東さんは夕暮れの浜辺でそう言ってくれた。
とても大切なことを告白してくれた。
他の人には決して見せなかった―――彼の心の奥底を。

ついに伊東さんは,自分の「心」を他人に見せることはなかった。
彼は,皆に自分の奥底を見せたがらなかった。
彼が皆へ自分をさらけ出したのは……最後のその時だけ。

でも,わたしには―――たくさん見せてくれた気がする。
これは 自惚れなんかじゃなくて。
たくさん会わせてくれた気がする―――本当の彼に。


 わたしの目に映る あなた
 他の人の目に映る あなた
 どちらも同じ「あなた」なのに 
 少しだけ ちがう
 少しだけ ちぐはぐ
 そして そのことが
 少しだけ 嬉しい

 ――そう感じていた,と。
 告げたらあなたは笑うだろうか。


(あなたはきっと苦笑いして言うんでしょうね…『君は随分おかしなことを嬉しいと
 思うんだね』って)

わたしがクスッと笑ったところで,山崎さんは「隙あり!」と大声で叫んで鋭い打球を
飛ばしてきた。
慌ててなんとか拾ったけれど,シャトルはラケットの上で珍妙な跳ね方をした後,熱い
地面に落下した。
山崎さんは落ちたシャトルをラケットで器用に掬い上げて,

「けど,よかったよ。君が伊東さんのこと,笑って話せるようになって」
「それだけ時が経ちましたから。時の流れは偉大です。それに―――」

安堵で緩んだような微笑を浮かべる山崎さんに,わたしも目を細める。
汗が溜まった瞼を拭って,


「わたしは 真選組の医師ですから」


わたしがそう言うと,山崎さんは真夏の日差しをかき集めたような顔で笑った。
真っ白な太陽の下,屋根瓦を焼いた熱風が庭を駆け抜けてゆく。




あなたがここにいたら良いのに,と。ふとした瞬間にそう思う。




「あ~…ここは冷房効いてて良いわ。あ,治療費はツケといてくれる?」
「坂田さん。あなた,払ったことないでしょう」

わたしと坂田さんとのやりとりに,了順先生が衝立の向こうで忍び笑いをするのが
聞こえる。
昼下がりの診察室で,わたしの向かい側に座る坂田さんはうちわで顔を扇ぎながら
お茶を飲む……って,リラックスし過ぎだと思う。

「前々から言っていますけど,こちらは真選組専門の診療所なんですから。隊士じゃ
 ない方の利用には,それ相応の手続きってものが本当は必要なんですよ?それに,
 あなたは怪我が多過ぎで…」
「あれ。茶葉変えた?美味いね,このお茶」
「あ,はい。美味しいでしょう?枇杷茶に変えたんですよ…って,話を逸らさないで
 くださいよ,もう」

言っても聞きやしないだろうな,と思いながらも毎回言う。
とは言え,わたしとて本心から毎回注意しているわけではない。
とりあえず……注意だけは,する。
明らかに規則違反な治療だけれど,坂田さんの頼みを無下にはできない。
駅で伊東さんを待ったあの日以降,坂田さんはなにかと怪我をしたり風邪をひいたり
すると,こうして診療所を訪ねて来るようになった。
伊東さんの死を泣けずにいたわたしを,坂田さんは救ってくれた。

いや―――彼だけじゃない。
坂田さんに「の泣き場所になってあげて」と依頼してくれた近藤さん達も。
わたしを救ってくれた。
感謝してもしきれない…そう思うから,彼の頼みを断るのは心情的に至難の業だ。
それに,彼がこうして真選組の診療所へ足を運んで来るのは,伊東さんの死に号泣して
いたわたしを慮ってのことなのではないか……と。

(それはさすがに考え過ぎかな?)

苦笑しながら溜息をつくと,それをどう受け取ったのか,坂田さんは早口で言い訳を
始めた。

「いやいや今回の怪我は別に物騒なもんじゃないんだよ?町内会の盆踊り大会が今夜
 あってさ。準備中に櫓から落っこちちまったんだよね~……いきなり定春が梯子に
 突進してくるもんだから」
「たしかすごく大きな犬なんですよね,定春君って?幾ら『ペットは家族』とはいえ,
 駄目ですよ。そういう場ではちゃんと誰かがリードを持っていないと……今日って,
 盆踊り大会なんですか?」

坂田さんが持っている団扇をよくよく見れば,たしかに『かぶき町☆盆踊り大会』と
えらく達筆な筆字で大きく書いてある。
わたしの問いかけに,坂田さんは団扇をぱたぱた振りながら,

「そうだよーかぶき町盆踊り大会。準備すんの面倒くさいけど,ご町内のお付き合い
 って大事だからね。面倒くさいけど」
「2回も言わなくたって良いでしょ。盆踊りかあ…風流で良いですねぇ。わたしも
 子供の頃は父上や母上に連れられて,参加しましたよ。すっごく楽しかったな…」

わたしの故郷の盆踊り大会は,それほど大きな規模のそれではなかったけれど。
今は亡き父上や母上と一緒に屋台を見て回って,櫓の周りで盆踊りをして,打ち上げ
花火を見上げて……今となってはあまりにも遠く,遠いからこそより幸福な輝きを
放つ日々を思い出して,わたしは笑った。
すると,坂田さんはじんわりと蜜が滲み出たかのような微笑を頬に浮かべて,

「幸せだよな。子供の頃のそういう思い出を持ってる奴って」
「!」


そういう故郷の思い出を持っている人間は,幸せだと思う。


「俺,ガキん時にあんまりそういうのに参加しなかったもんだから。正直言って
 よくわかんねーんだよ」
「…え?」
「すげぇ短かったんだよね。俺が『素直なガキんちょ』でいられた時って」
「…」

純粋で素直なままでいられるのは,誰かに守られている時だけだ。
きっと……伊東さんも短かっただろう―――無垢な『子ども時代』が。
予想もしなかった坂田さんの哀しい昔話に,自然と思い出すのは……
……どうしても 伊東さんのことで。


 誰といても
 どこにいても
 あなたのことばかり 考えていた
 笑っていても
 泣いていても
 あなたのことばかり おもっていた


「キレイなもん見て『キレイ』とはしゃいだり,怖いもん見て『怖い』と震えたり。
 そういうのを出来るガキじゃなかったんだよね。ひねくれてたから」
「…」

坂田さんの過去は,伊東さんの過去に不思議と重なる部分があるように思えた。
そして,たとえ伊東さんの過去がどんなに悲しいものであったとしても……わたしは
彼を「守ってあげたい」と思ったし,「守ることができる」とも思っていた。
彼の生前,本気でそう信じていた。


 だから 振り向いて
 遠くへ 行かないで
 ひとりで 行ってしまわないで。


どんなに強く願っても もう届かない。
彼は もういない。
結局―――わたしは守れなかった。


「とは言っても,別に悲しいことばっかじゃなかったけどな。世話んなった先生も
 ダチもいたし」
「そうですか…」

わたしが言葉少なになったことに気付いたのか,坂田さんは目元を緩めて笑った。
冷房の機械音が響くほどの沈黙が数秒間だけ落ちた。そして,

「ま,誰でもひとつはあるもんさ。故郷には,良い思い出が」
「…そうですよね」


いつか君にも見せてあげたい。

約束するよ。


伊東さんの故郷にも,『良い思い出』はちゃんとあった。
わたしは確かにそれも 彼の口から聞いた。
病弱な兄上と決して仲が悪くはなかった,とも彼は言っていた。
そして,母上の優しい腕の代わりに―――伊東さんには 海があった。
それはとても悲しいことだけれど,それでも「良かった」と思う。
伊東さんの故郷の思い出に,優しい瞬間がちゃんとあって。
人に「見せたい」と思う場所が,ちゃんとあって。

「盆踊り,時間あったら来てみれば?別に特別なもんはないけど,毎年まあまあ盛り
 上がってるし」
「情報ありがとうございます。都合ついたら,行ってみます」

坂田さんは湯呑に残ったお茶をぐいっと一気に飲み干して「んじゃ」と短い挨拶と
共に団扇を振った。
彼が扉を開けた途端,熱い風が重たげに部屋へなだれ込んで来た。
もうすぐ夕方だというのに,外はまだまだ暑いらしい。



ふとした瞬間に 自然と思い浮かべてしまう。
あなたが見たら 何と言うだろうか,と。



 あなたと見た青
 あなたと見た赤
 何度でも 胸に焼きつけるから
 何度でも 瞼の裏に思い描くから

 もう一度 あいたい
 あいたい。
 あなたに。



でも,僕は今寂しくないよ。君と話しているから。


わたしは あなたと話せなくて 寂しい。


「へぇ~!かぶき町の盆踊りには初めて来たけど,屋台もたくさん出てるんだね!」
「近藤さん,お妙さんに会っても飛びついたらダメですよ。ストーカー飛び越えて,
 痴漢行為で一発逮捕レッドカードです」
「わかってるって!」

想い人を探して落ち着き無くきょろきょろしている近藤さんを見ていると,本当に
わかっているのだろうかと今ひとつ不安だ。
坂田さんから盆踊り大会のことを聞いて,なんの気無しにそれを近藤さんに話した
ところ「それってお妙さん来るかな?」と期待に満ちた目で見られてしまい…。
丁度居合わせた土方さんから,
「近藤さんと一緒に行ってくれ。で,万が一の場合はお前が止めろ」
と依頼(および命令)を受けて,ついて来た次第だ。
真夏の夕暮の光が,かぶき町という名の海水に溶け込むかのようにそこら中に淡く
漂っている。
その空気の中を浴衣姿で歩く人々は,ひらひらと泳ぐ華やかな熱帯魚のようだ。

「ちゃんは何が食べたい?」
「そうですね…まずはりんご飴を食べたいです」
「お!いいね!」

中央広場での盆踊りにはまだ少し時間があるので,お妙さんを探しながら(わたしと
しては見つからない方が楽だし平和)屋台を見て回ることになった。
わたしは局長の一歩後に付き従う位置を歩いていたけれど……急に近藤さんが立ち
止まって,こちらを振り返った。


「その簪,きれいだね」
「!」


ご両親の目利きは素晴らしいね。
その着物,によく似合っている。


両親の墓参りへ一緒に行った時,伊東さんがわたしの着物を褒めてくれたのを唐突に
思い出した。
そして,わたしが今髪にさしている簪は,山崎さんが「君が持っているべきものだ」と
渡してくれた―――伊東さんがわたしに買ってくれた簪だ。

「…ある人から,いただきました。とても気に入っています」
「よく似合ってるよ。人に似合う物を……しかもその人に気に入ってもらえる物を
 選ぶってのは,なかなか大変なことだ」

近藤さんは温かな声音でそう言ってくれたけれど,わたしは「伊東さんから貰ったん
です」とは言えなかった。
この簪は,検閲対象物となった彼の遺品の中から,山崎さんが誰にも告げず取って来て
くれた物だから。
近藤さんは些末なことにとらわれる人ではないし,情も懐も深い人だけれど,やはり
『立場』というものがあるから。でも,

「きっと,彼はちゃんのことをよく見ていたし,よく分かっていたんだね」
「…」

近藤さんは―――たぶん気付いている。
この簪が,伊東さんからわたしに与えられた物だということを。
わたしは簪をくれたのが男性とは言っていないのに,近藤さんは『彼』と呼んだし,
それに……過去形で 言った。

(伊東さんが…わたしのことをよく見ていた?わかっていた?)

本当にそうなのだろうか。
わたしも伊東さんをよく見ているつもりだったし,わかっているつもりだった。
でも―――


 楽しそうな あなたにも
 泣きそうな あなたにも
 わたしは 会ったことがある

 誤解されやすい あなたのことも
 寂しがりやな あなたのことも
 わたしは ちゃんと知っている

 だから…間違えてしまったの。
 なんでもわかり合えるのだ,と。
 そう思ってしまったの。


「君も彼を一生懸命わかろうとしていた。彼はきっと嬉しかったはずだよ」
「…そう,でしょうか」
「俺はそう思う」


…嬉しいよ。


わたしがヤキモチをやくのを,伊東さんが「嬉しい」と言ってくれたことを無意識に
思い出した。
そして,その後に初めて交わした口づけの柔らかさも。熱さも。

瞬間,あまりにも強い悲しみが波のようにわたしの胸に押し寄せて来て,息が詰まり
そうになった。

「お!りんご飴売ってるよ。随分と並んでるな……買って来るから,ちょっとここで
 待ってて!」
「あ…」

近藤さんは優しく気付かないふりをしてくれて,先の方に見えるりんご飴の屋台へと
ひとりで走っていった。
わたしは滲みそうになった涙を指先で拭い,他の人達の邪魔にならないよう道の端に
寄って待つことにした。
夕陽で赤く塗りあげられた地面に,一歩足を踏み出そうとしたところで,ぽつりと頭に
冷たい水滴の感触が染みた。


「えっ……雨?」


陽が照っているのに,とその場にいる人達の多くがほぼ同時に天を仰いだ。
夕焼けの中,朱金色に輝く光の雫が砂金のように空から落ちて来る。
西の空が鮮やかな夕空であるのに対し,東の空は暗い雨雲で覆われている…
…あの黒雲から風に運ばれてきた雨なのだろうか。
珍しい天気雨は1分も経たない内に止み,空の一部が黄色と灰色を重ね合わせたかの
ような不思議な色に染まった。
どこで雨宿りをしようと迷ったけれど,どうやら悩む必要はもう無さそうだ。

「突然降って,突然止むのね…」


あの日から,僕は雨を少し好きになったよ。



…わたしは嫌いよ  雨なんて。



天泣は もう止んだのに。
わたしの目から涙が一筋流れた。

「…っ!」

道の真ん中で俯いたので,こちらへ歩いて来た誰かと肩がぶつかってしまった。
わたしは咄嗟に,

「…すみません」

下を向いたまま,突き当たった相手に謝罪した。
知っている人にも,知らない誰かにも涙を見られたくはなかった。
けれども,通常ならば謝り合ってすぐに立ち去るであろう相手の気配が消えない。
それどころか―――


「。泣くなら惚れた男の前で泣け」


―――通り雨の後の逢魔が時に 男の低い声が耳元で響く。

(この声は……)

忘れはしない。
艶やかな着流しを纏った 美しい隻眼の獣。


「それが女の涙の正しい使い道だろうよ」
「……っ!」


顔を上げた時―――そこには誰もいなかった。
お祭を楽しむ人達が次々と行き交う,至って平和な光景が広がるばかりだ。
幻聴だったのだろうか……それとも……


「惚れた男は―――先に逝きました」



僕は武士だ。


僕は…また君を傷つけるかもしれない。
でも…それでも――


君が好きだ。



 喜びも,悲しみも,
 温かさも,冷たさも,
 美しい夕暮れも,曇り空も,
 あなたがくれたものは すべて切ない。

 あなたは いなくなってしまったから。
 もう 帰っては来ないから。


「ちゃん」

低音の中にも親しさを滲ませた声で,名前を呼ばれる。
はっとして振り返ると,そこにはりんご飴を手に持った近藤さんと,

「屋台に並んでたら,ばったり皆と会ってさ」
「よくよく考えてみたらお前だけで近藤さんを止められるかわかんねーな,って話に
 なってな」
「姐さんに向かっていく時の近藤さんは,稽古の時よりも凄まじいんでさァ。嬢
 だけじゃ心もと無いんで」
「とかなんとか理由をつけて,祭に来たかっただけなんだけどね」

土方さん,沖田さん,山崎さんが口々に言い並べるのがなんだか可笑しくて,わたしは
噴き出してしまう。

「結局来ちゃったんですか,皆さんも」

人を避けながら歩み寄ってみれば,4人共手に手に綿菓子やらタコ焼きやらを持って
いるので,尚更笑ってしまった。

「はい,ちゃんの分のりんご飴。これ,無農薬・無着色のりんご飴なんだって」
「ありがとうございます,近藤さん。珍しいですね,ヘルシーなりんご飴って」
「さっきまで2人だったのに,なんだか大所帯になっちゃったねぇ」
「そうですね。皆さんが楽しんでいらっしゃるようでなによりです」
「なんだそりゃ嫌味か?」
「違いますよ,本心ですってば土方さん」
「気にすんな,嬢。土方さんは性根が曲がってるから人の言葉を穿った意味で
 捉えがちなんでさァ」
「殴られてェのかてめーは!」
「はいはい,こんな人の多いところで取っ組み合いしちゃダメですよ,お二人とも」
「ちゃんは,いよいよお母さんじみてきたねぇ…」
「山崎さんのお母さんになった覚えはありません」
「ひど!!なんか,冷たくない!?」



君がお母さんになったら,きっと怖いだろうな。
怒った君は,とても怖いから。

でも,決して嫌いにはならないよ。ずっと好きだ。



あなたがのこしてくれたものが たくさんあるから。
わたしは前を向いて歩いてゆける。
たとえ 悲しい日があっても。寂しい時があっても。

まっすぐに生きてゆける。
あなたの心を 継いで。


「ほらっ,きっともうすぐ盆踊りが始まりますよ。メインは盆踊りなんですからね,
 屋台でなく。近藤さん,お妙さんも盆踊りの会場にいるんじゃないですか?」
「それは言えてる!よし,いこう!」
「転ぶなよ,」
「転びませんよ,土方さん」
「いやちゃんは意外と鈍なとこあるから。気を付けて」
「とかなんとか言って,嬢の手とか腰とか触る口実にするつもりじゃねーのか,山崎。
 エロ崎かこのやろー」
「テキトーなこと言わんでください,沖田隊長!」
「さあ,行きますよ。皆さんこそ,転ばないでくださいね」



いつかまた あなたと残照を眺めたい。



「」


残照が消えた夜空に光る一番星を,一緒に見守っていたい。
夜空に輝く星たちの下で,一緒に寝息を重ね合わせたい。
夜が明けて東雲色になってゆく朝焼けの中で,一緒に目を覚ましたい。
そうして昼になって,白い太陽が輝く青空の下で,一緒に駆けてゆきたい。
夕方になったら,また,一緒に残照を―――

それを,繰り返したい。
ずっとずっと繰り返したい。


「……虹だ」


雨煙に燃え立つ残照とは反対側に,群青色の雲を突き抜けて虹が架かっていた。
地上から雲の波まで昇る虹は,まるで常世まで繋がっているかのようだった。
わたしは虹を見上げ,虹はわたしを見守っていた。



 あなたがわたしの手を離しても
 わたしは あなたを離さない。
 そう決めているから
 わたしはあなたに手を振ることができた。



わたしは いつまでも 手を振り続ける。






-------------------完

2016/07/10 up...