誰かが わたしを呼んでいる




耳元でしきりに潮騒が鳴っていた。
まるで遠くの誰かを呼んでいるかのように切実で,狂おしく胸に訴えかける音だった。
目の前に広がる海は穏やかで,荒れているようには見えないのに,波音だけはとても
大きくわたしの耳に響いた。

せつなくなる程に 美しい砂浜だった。

日常の流れから隔離されて,そしてそのまま誰からも忘れ去られてしまったかのような
浜辺だった。
懐かしい風景のような気もしたし 初めて見る風景のような気もした。
銀色の糸で編まれたレースのような波が寄せては返し,真っ白な砂浜に幾何学模様を
描いた。
裸足の足を飲み込もうとするかのように砂がまとわりついては,波に洗われ散り散りに
離れていく。

空はどこまでも青く澄んでいて,雲ひとつ見当たらなかった。
あまりにも清廉で,あまりにも鮮やかな蒼穹だった。
直接日差しを見ているわけでもないのに,目が痛くなるほどに眩しく見事な大空で。
そして…こんなにも清々しく眩しい心持ちになることは,今生においては金輪際無い
気がした。


―――きれいな海ですね,伊東さん。


わたしの隣には,伊東さんが立っていた。
それを不思議とは微塵も思わなかった。
彼がわたしの傍にいることは,当たり前のことだと思った。


―――伊東さんは,この海と共に育ったんですね。


ここが,伊東さんの古里の浜辺だと信じて疑わなかった。
彼はわたしの歩調に合わせて,並んで歩いてくれていた。
伊東さんは何も話さず黙ったままだったけれど,とても柔らかい微笑を浮かべていた。


―――嬉しいです。ここに来ることができて。本当に。


喉元を柔らかく締め付けられたかのような悲しみにも似た幸福を感じた。

とても切なく,楽しい気持ちだった。
嬉しくて笑っているのに,心の底は「もうどうにもならないんだな」という悲しい
気持ちで満たされていた。
まるでとても長い間夢中になっていた物語を読み終える直前のようだった。


―――わたし,ずっと待っていたんですよ。


彼は何も言わない。
ただ 穏やかに笑っているだけだ。
すべてを諦め すべてを許し すべてを受け入れた微笑で。
手を伸ばせば届く距離にいるのに 決して触れることはできない気がした。
伊東さんが隣にいるのは当然と思っているのに,「もうこんなことは二度とない」と
胸の奥で圧倒的な痛みを感じてもいた。


―――ずっとずっと待っていた。


喜びと寂しさが混ぜこぜになったモザイク模様で,心臓を染め上げられた。
やるせなさと,とらえどころのない尊さを感じた。
この時は 敬虔な祈りの時間のように とても尊い。


  。


愛しさと悲しさで胸が裂けそうだった。
伊東さんが波打ち際で立ち止まったので,わたしも歩を止めた。
彼は沖の方をしばらく眺めた後,わたしの方に向き直った。
海のように深い色合いの眼差しが,わたしをどこまでも優しく包んでくれた。
ああ……この目だ。
こんなにも寂しそうで こんなにも優しい瞳をもつ人には きっともう会えない。


  。


伊東さんが わたしの名を呼んだ。
この声を―――ずっと憶えていようと思った。


  。


きっと―――これが最後だから。
彼がわたしの名を呼ぶのは。
これが 最後。


  。


さよならの言い方を教えるかのように,波音が切なくうら哀しく響き渡った。
潮騒は更に大きくなり,今にも心にかぶさってくるかのように思えた。
わたしの耳には,海が号泣しているようにも祝福しているようにも聞こえた。


―――伊東さん。ありがとう。


ここに連れてきてくれて。
約束を守ってくれて。
本当に……


  ……


ああ…本当は 何度でも 聞きたい
どんな甘い囁きよりも
どんな愛の言葉よりも
わたしの名を あなたの声で
聞きたいな 
こうして聞いていたいな ずっと


わたしの願いとは裏腹に,伊東さんの声は 次第に波音へ飲み込まれていって―――


―――やがて 聞こえなくなった。




++++++++++++++++++++++++++++



吼え猛り迫って来るかのような波の音で目が覚めた。
見慣れた木目の天井がぼやけた視界に映り,でもそれが屯所の自室ではなく,大部屋の
それであることに気付き「なぜ自分がここで寝ているのか」と戸惑った。
夢の中で聞いていたはずの波音が,今もなお響いてくることが,さらにわたしを混乱
させた。
でも,よくよく聴覚に意識を傾けると,それが波音ではなく屯所の側に自生している
松林がさざめく音だと分かった。

(驚いた…波音にそっくり)

わたしは目の端に浮かぶ涙を拭いながら,布団をどかして上体を起こした。

「え…」

自分の周囲を見回して,唖然としてしまった。
わたしが寝ている布団の周りを取り囲むかのように,土方さんや沖田さん,山崎さんが
畳に突っ伏して眠っていた。
彼らはジャケットこそ脱いでいるものの,隊服のまま寝転がり,寝息を立てていた。
そして,そんな3人のお腹の上にはタオル地の毛布がかけられていた。
彼らがどうしてわたしの周囲で眠っているのか…それが分からない程鈍感ではない。

(本当に…とても心配をかけてしまった)

申し訳ない気持ちと同時に,不謹慎だけれど嬉しい気持ちが湧き上がった。
自分は幸せ者だと思った。
大切だと思う人たちから,こうして大切に思われて。
幸せな両思いだと思った。
3人に声をかけようかどうか迷っていると,廊下側の襖が静かに開いた。

「おっ。起きた?」
「…近藤さん」

コップと水差しをお盆に乗せて,近藤さんが部屋の中に入ってきた。
近藤さんは枕元に座ると,わたしの額に手のひらを当てて,

「気分はどう?頭が痛かったりムカムカしたりしない?」
「えっと…大丈夫です。どこも痛くありません」
「それは良かった。うん…熱も無いみたいだ」

にかっと歯を見せて笑ったので,わたしもつられて笑みを返した。近藤さんはコップに
水を注いでくれた。彼の優しい声音は,背中を撫でてくれているかのようだった。

「でも,まだ安静にした方が良い。とりあえず水を飲んで」
「…はい。ありがとうございます」

手渡された水をありがたく飲み干して,わたしは素直に再度横になった。掛け布団を
顎の下まで引っ張ってから近藤さんを見上げると,慈しむような視線と目が合った。
―――静かだった。
波音のような松林の音と,3人の寝息だけが空気に溶け込んでいた。


「昨夜のこと,覚えてる?」
「……はい」


布団の中で顎を引いて頷いた。
駅の改札口前で伊東さんを待っていたら,そこに坂田さんがやってきて…
わたしはみっともないくらいに泣きに泣いて……そして。

伊東さんは 帰って来てくれた。
そして 古里の海につれていってくれた。

幻覚だと人は言うだろう。
夢だと人は言うだろう。
でも,そんなことはどうでもよかった。

伊東さんに会えた。

わたしが―――わたしの心が そう信じている。
それこそが,大事なことだから。


「駅で倒れたちゃんを,万事屋がここまで運んでくれたんだよ」
「坂田さんが…」

あの人のおかげで―――わたしは泣くことができた。
他の誰かでは,たぶん不可能だった。
彼だから,わたしの涙腺を解くことができた。
坂田さんは……わたしの恩人だ。
近いうちに御礼を言いに行かなくては。
ふと障子の向こう側に滲む朱色の西日が気になって,わたしは近藤さんに尋ねた。

「近藤さん。今…何時ですか?」
「6時だよ。もうすぐ夕飯の時間だ」
「えっ…!」

予想を上回る時間の経過に,とても面食らった。
わたしは昨日の夕方に屯所を出発して,日付が変わるぎりぎりまで駅にいて,それ
から気絶してしまった。それからずっと眠っていたということは…

(は,半日以上…というかほぼ1日眠ってた!?)

愕然として目を見開いた。冷や汗が額に浮かびそうになる。

「ごめんなさい……」
「いやいや,無理もない。君はここのところずっと働きっぱなしだったし。それに,
 かなり寝不足だったんだろう?」

近藤さんはあくまで明るく言ってくれた。わたしは周囲の3人に視線を向けて,

「皆さんにも随分心配かけたみたい…」
「そうそう。昨日からずっと起きていたんだよ,皆。3時を過ぎたあたりから限界が
 来たみたいだけどな。松本先生もここにいたんだよ。でも,幕府病院にいる隊士達
 を放っておくこともできなくて…1時間程前に病院へ戻って行ったよ」
「そうですか…本当に申し訳ないです。皆さんに…すごく心配をかけて」

居たたまれなくて思わず目を伏せたけれど,

「いや,気に病むことはないよ。大好きな人から心配されるのは幸せなことだけど,
 大好きな人の心配をすることも,幸せなことだから」

近藤さんは,一つ一つの言葉を,誠意という名の優しく強い綿でくるんでくれている
かのように言った。

「ちゃんもそうだろう?」


大好きな人の心配をすることが……幸せ?

心配なのは……大好きだから。


「…はい。大好きな人を心配するのは,幸せです」

頷き返すと,近藤さんは寝ているわたしの頭に手のひらを置いて,いたわるかのように
ゆっくり髪を撫でてくれた。
自分でも全く意図していなかったのに涙が浮かんで,目の端からぽろぽろ横滑りして
枕を濡らしていった。
…坂田さんがわたしの涙腺を壊したせいだ。
止めようと思っても全然止まらず,次々に涙が零れていった。

「これは…感動の涙です。皆さんがこんなにもわたしを心配してくれたことがすごく
 嬉しいんです。わたしは幸せ者です」
「ああ…皆心配しているよ。皆,君のことが大好きだからね」

近藤さんも何度も頷いて,赤くなった自分の目をこすった。

ダメですよ 近藤さん。
あなたは真選組の局長なんですから。
簡単に泣いたらダメですって。

心の中で苦笑しながら,彼の涙を見て見ぬふりをした。
わたしは自分の涙にだけ意識をそそいだ。
睫毛を縁取る涙の粒が,夕日を浴びオレンジ色に輝いているのが見えて,

「近藤さん…」
「ん?」
「…夕焼けが見たいです」
「うん。障子を開けよう。でも今日は風が強いから,窓は開けないよ」

近藤さんは鼻を啜りながら立ち上がり,窓の方へ歩いていった。
庭に面した障子は,夜の兆しで炎のような夕陽色に染まっていた。
赤い障子紙に木々の黒い葉影が映り込み,幻想的にゆらゆらと揺れていた。
近藤さんがそれを横に引いて開けると,窓硝子を射抜いて部屋の中に豪奢な紅色が
飛び込んで来た。
両の眼を突き通して,夕焼けが身体の中まで入って来るのを感じた。

「…きれい」

甚だしく華麗でありながら深い哀傷をも帯びた色彩が眩しくて,わたしの頬を涙が
さらに流れた。
黄金色の空には,真紅の蝶々を一面にまき散らしたかのような夕雲が漂っていた。

「とっても…きれい」



   この夕日と同じだよ。
   僕は天の夕日。兄は水面の夕日だ。



わたしには―――あなたの方が,水面の夕日に見えた。
強い風が吹けばたちどころに揺らいで崩れてしまう,美しくも儚い水面の夕日に。
わたしにとって「構わずにはいられない」のは,いつだってあなただった。

あなたは繊細で,危うくて,それでいて誇り高く輝いていた。
いつの日も。

「伊東さんとも…こうして夕日を眺めました」
「…うん」


なぜ 謀反など起こしたの。
なぜ 自分からひとりになる道を選んだの。
なぜ わたしを置いていったの。

「なぜ」という問いかけを 何度心の中で唱えただろうか。
そして 何度「わからない」という答えが返って来ただろうか。


「わたしね,伊東さんのお母さんになったんですよ」
「…そうか」

なぜなのかは もはや誰にもわからない。
でも きっと―――彼にとっては「これしかない」ことだった。
「これしかない」と。
彼がそう思い 決めた時から これしか結末はなかったのだろう。

誰にもどうにもならないことだった。
どれ程悲しくても どれ程受け入れがたくても こうなるしかなかったということが,
世の中にはたくさんある。

「仕方がない」と思うことでしか 救われないこともある。


「そうなんです。だからあの人が何をしても結局ゆるしてしまうんです。
 母親ってそういうものでしょう?」

こうして夕焼けを眺めていると,涙までが赤く燃え立ってゆくような気がした。
涙は燃えて,悲しみは灰になって,鳥のように空へと昇ってゆく気がした。
みずみずしい夕映えが,天女の羽衣のように鮮やかに空と雲を染め上げた。
たなびく雲は落日の光でもって深呼吸しているのかのようだった。

「母より先に逝くだなんて,伊東さんは親不孝者ですよ」

窓の外に生えている樹木の葉が,茜色の日差しを浴びて飛び火のように煌いていた。
身体も心も染められずにはいられないほどの凄まじい夕焼けは,瞬く間に色を濃く
変えてゆく。
焼け爛れた真っ赤な空から,徐々に薄く闇がかった紫色へ色を移ろわせてゆく様は,
この世の終末を見ているかのようだった。



「…さよなら」



言うつもりはなかったのに,気が付いたらわたしはそう呟いていた。
その途端,それを口にしたことへの後悔と怯えが心に湧いた。
…別れの言葉を口にしなければ,本当の別れにはならない,と。
どうやらわたしは,心のどこかでそう思っていたみたいだ。

でも―――また別のどこかでは 別れを受容してもいた。

(だからこそ……わたしは今,言った)

彼の香りは もうしなかった。
伊東さんの死後,あれほどわたしの周囲に流れていたのに。
もう 香らない。

あなたがもういないという残酷な現実を突きつけられて
それなのに わたしは生きていかないといけない。
あなたの死に涙を流して 「しかたがない」と絶望しながら
それでも わたしは前に進まなければならない。
たとえ あなたを置いていくことになるとしても。

……いや 置いてはいかない。

つれてゆく。あなたのことも。

わたしは生きているかぎり――あなたも 連れてゆく。
どこまでも。


夕空には朱色と鈍色を滲ませた紫陽花色の雲が,匂い立つ花弁のように舞っている。
外は本当に風がとても強いらしく,こうして夕日を眺めている間にも,風の鳴く音が
部屋に響いて来る。
太陽が雲に溶け込むかのように消えてもなお,名残の光を空は漂わせていた。
黄昏の光がぼんやりと たゆたう。


きっと伊東さんも―――あそこにいる。
そうに違いない。

あの美しい 残照の果てに。



「さよなら,伊東さん」



わたしはもう一度その言葉を言った。
今度は後悔も怯えもなかった。
さながら祈りの言葉を唱えるかのように,口にした。
それは彼への祈りであり,わたしに対しての祈りでもあった。



  どうか あなたに―――



空に残った夕明かりが,黒ずんだ萱草色に雲を塗り上げた。
日没よりもっと上空では,群青色に墨を混ぜたかのような夜が滲み始めていた。
暮れなずんだ空は,溜息が出るほど切なく美しい。


わたしが最後の涙を一筋流すと,赤紫色の風が轟とないた。




2016/05/18 up...