改札口のほぼ真正面の壁沿いに設置されたベンチに,わたしはひとり座っていた。 駅構内の雑踏の中で,運行情報アナウンスや,途切れることの無い靴音,大人達の 笑い声や子ども達の泣き声を聞いていると,心が空っぽに乾いてゆく気がした。 そうして沢山の人達が改札口に吸い込まれ,吐き出されてゆくのを,見るともなしに じっと見つめていた。 名前を知らない人達が次々と行き交う様を見ていると,まるで人形劇でも見ている かのような気持ちになった―――リアリティが無い,という点において。 考えてみれば,伊東さんがいなくなって以降,こうやって1人で外に出たのは初めて だった。 屯所にいる間も,いつも誰かしらが側にいた。 いや…多分,敢えて側にいてくれていたのだ。 真選組の皆は,わたしをひとりにしなかった。 (気遣われてばかりだなあ…) 自分に対して苦笑すると,ともすれば泣き笑いになりそうで鼻をすすった。 泣かない。 わたしは,泣かない。 泣いてあげるものか。 あんな人のために。 わたしを置いて,去っていった人のために……誰が泣くものか。 だから,君にも謝らない。 僕にはどうしても譲れないものがあるんだ。 結局のところ―――彼は わたしよりも 真選組のことの方が好きだったのだ。 どうしても手に入れたかったものは 真選組だったのだ。 わたしではなかった。 君が好きだ。 それなのに……どうしてわたしは彼を待っているのだろう。 できることならずっと待っていたい,と何故そう思っているのだろう。 決して来ない人なのに。 このまま ずっと 待っていたかった。 こうして石のように座り続けて,化石になってしまっても良かった。 (また……) 伊東さんの香りが馥郁と漂う。 彼の愛した香りだ―――わたしも。 わたしも好きだった。 彼の愛するものを わたしも愛していた。 心から。 「みーつけた」 かくれんぼの鬼役のような台詞が,間延びした男の声で発せられた。 不意にわたしの視界が薄暗くなって,それは目の前に人が立ったせいだと気付いた。 息を呑んで顔を上げると,思いがけない人物がそこに立っていた。 「あ…あなたは」 もっと仲良くなれると良いな。 この匂いつけてる奴と。 「おひさしぶり~」 「万事屋の……坂田さん」 お香屋で最初に会った時と同じく―――逆光の中淡く光る銀髪に,真っ先に目を 奪われた。 まるで,雨上がりの空に浮かぶ雲のような銀色の髪に。 「どうしてここに?」 意外な人との突然の再会に驚いて,悲しみや苦しさが俄かに引っ込んだ。 坂田さんはわたしの問い掛けに,欠伸まじりで頭を掻きながら答えた。 「依頼を受けたんだよ」 「依頼を?」 「そ。迷子の捜索依頼」 「迷子の?」 「迷子っつーか……真選組屯所を黙って抜け出したまま帰って来ない家出娘の捜索 依頼っつーか?」 「家出娘の……え!?」 途中までオウム返しで聞いていたけれど,迷子=家出娘=自分のことだと思い至り ぎょっとしてしまった。 迷子になったつもりも,家出したつもりもないけれど…坂田さんは「そゆこと」と 緊張感無くへらりと笑った。 「ま,依頼は『家出娘の捜索』だけじゃないんだけどな」 他にも仕事があるのだろう,伸びをして首をこきこきと左右に鳴らす坂田さんに, 「い,今何時ですか?」 「夜の9時ですよ~もう」 「く,9時!?」 予想外の時刻に驚愕した。はっとして周囲を見渡せば,駅の四角い窓から見える空が 真っ暗になっていた。まるで黒い折紙が壁に貼り付けてあるかのように。 わたしは夕方から駅にいたのに……そんなにも長い時間黙って屯所を抜けてしまって いたのか。 そして,万事屋さんに依頼を出させるほど皆に心配をかけてしまったのか。 「ごめんなさい…皆心配してますね」 「そだよー。早く帰らないといけませんよ,お嬢サン」 「…」 迎えに?君が? …ありがとう。 「本当にごめんなさい…まだ帰れません」 「なんで?」 「それは…」 理由を告げることに少しだけ躊躇したけれど,坂田さんの穏やかな目を見ていると, なぜか彼には言っても構わないように思えた。 「坂田さん,ご存知なんですよね?……すべて」 「…」 今回の事件で,万事屋さん達が土方さんを連れて現場へ駆けつけてくれた,と。 真選組動乱については戒厳令がしかれていて,万事屋さん達のことも「他言無用」 とされているけれど,近藤さんがわたしに教えてくれた。 万事屋の3人が共に戦ってくれた,と。 彼らの助けが無ければ真選組は壊滅していた,と。 「どうかわたしからもお礼を言わせてください。 真選組を…わたしの大切な人々を守っていただいて,ありがとうございました」 わたしはベンチから立ち上がって,深く頭を下げた。 坂田さんは慌てたように「いやいや良いって!そういうの,いらないから!」と 早口で言った。 お礼を言われるのが苦手なのだろうか…そういうところはなんだか土方さんに似て いると思った。 ゆっくり顔を上げると,まるで駄々っ子をあやすかのような優しい双眸があった。 「なんで帰れねーの?」 坂田さんは責めるような声音じゃないのに,むしろ穏やかに訊いてきてくれている のに…『帰らないことで皆に心配をかけている』という事実が,わたしを後ろめた くさせた。 でも―――たとえ責められたとしても,どれ程後ろめたくても,貫き通したいことが わたしにはあった。 「…伊東さんと約束したんです。『お帰りの日に駅まで迎えに行きます』って。 だから,待っていたいんです」 「…」 「心配しないでください。気がふれたわけじゃありませんから。伊東さんは,もう いません。決して帰っては来ない。それはわかっています。ただ…」 わたしは坂田さんから目を逸らし,改札口へ視線を向けた。人波は夕刻に比べれば 少し減った気もするけれど,まだまだ相当数が改札口を往き来していた。 その中に,望む人の姿は ない。 現実的な人混みの中において,非現実的な面影が滲む余地はどこにもなかった。 「ただ,もし伊東さんの魂がここを通り過ぎた時,わたしがいなかったら… 『あのコは約束もろくに守れないのか』って,伊東さんを呆れさせてしまう でしょう?」 真面目で几帳面なあの人は,約束を破る女など嫌いだろう。 「わたし…伊東さんにだけは幻滅されたくないんです」 あの人は,きっと呆れて……きっと悲しむだろう。 そして 寂しがるだろう。 「だから…今日は待っていたいんです。たとえ自己満足に過ぎなくても」 「…」 自己満足と自分で言っておいて,心が重く軋み沈んでゆくのを感じた。 これは,わたしだけの自己満足だ。 誰のためにもならない……伊東さんのためにも,きっとならない。 わたしが伊東さんにしてあげられることなんて,もう何も無い。 「お嬢サンの捜索依頼」 「え?」 「誰から頼まれたと思う?」 唐突に坂田さんが問い掛けてきたので,わたしは彼の方を向いた。いたわりの込め られた柔和な眼差しがそこにあった。わたしは少し考えて, 「…近藤さんですか?」 でも,坂田さんは意味ありげに肩をすくめてみせたので,わたしは思い当たる人達の 名を次々と羅列した。 「土方さん?それとも沖田さん?あ,山崎さん?」 坂田さんは,ちっちっと人差し指を立てて左右に振ってみせた。そして, 「どれも正解ですけど,不正解です」 「…え?」 「答えは,今言った全員です」 「…!」 呆気にとられ目を丸くしたわたしに,坂田さんは二カッと歯を見せて笑ってみせた。 「全員から別々に同じ依頼を受けたんだよ。『うちの医師見習いを探してくれ』 ってさ。おかげで1つ仕事こなしゃ4人から報酬貰えるという,ありがてェ話さ」 「…」 驚き過ぎて無言で凝視していると,坂田さんは再び教師が生徒を見守るかのような 目つきになって, 「皆あんたを心配してんだ。だから,とりあえず連絡しろや…あんたの家に」 「…あ」 わたしはハッとして袂から携帯電話を取り出した。 画面を開くと,およそ有り得ない程たくさんの不在着信がそこにあった…わたしの 捜索依頼を出してくれた4人から。 そうして履歴を見ている間に,本日何度目なのだろうか着信が入った。 振動する画面に表示されているのは―――土方さんの名前だ。 「そら来た。心配症のアニキからだ」 坂田さんは眉根を寄せて苦笑いして,「早くとれよ」とでも言うようにしっしっと 片手を振った。 わたしは叱られる前のような気持ちになりながら,びくびくと通話ボタンを押した。 「…はい」 「!お前っ…今どこにいるんだ!」 電話越しに聞く土方さんの大声は,酷く切羽づまっていて,自分がどれほど彼に心配 をかけたのか瞬時に悟った。 「ごめんなさい…心配をおかけして」 「…謝るな。お前はなにも悪くねェ」 でけぇ声を出して悪かったな,と土方さんの方が謝って来るので,余計に申し訳ない 気持ちになった。 この優しい人は,わたしの突然の失踪にどれほど心を波立たせてくれたのだろう… …本当に恐縮で,本当に申し訳なかった。 それなのに――― 「いいえ,ごめんなさい。わたし…まだ帰れません」 ―――わたしは まだ ここから動けない。 「…なんでだ?」 「それは―――あっ」 そっと果実をもぎ取るかのように,携帯電話を奪われた。 びっくりして隣を見上げると,わたしの携帯電話を持った坂田さんは, 「もしもーし。万事屋ですけど。俺が付き添ってやっから心配すんな」 「えっ」 全く思いもしなかったことを言い始めたので,ぎょっとして思わず叫んでしまった。 「坂田さん!?」 「見つけたに決まってんだろ,こちとらプロだっつーの……ああ。ちゃーんと無事に 送り届けてやるって」 いかにも面倒くさそうに,さっさと電話を切りたそうに坂田さんは溜息をついた。 でも,宥めるかのようにわたしの頭をぽんぽんと撫でてくれた。 「わかってるわかってる。もう1つの依頼も忘れてねーよ。言っておくけどお代は しっかりいただくからな」 んじゃな,と短い別れの挨拶と共に坂田さんは携帯電話を切った。 わたしの手に携帯電話を乗せて,いたずらを成功させた子供のように彼は笑った。 「はい。アニキの了解も得たから,これで大丈夫」 「あの…」 「ん?」 「…ごめんなさい」 坂田さんは瞬時に察してくれたのだろう。 わたしが『伊東さんを待っていたい』と…それを土方さん達に言いづらいと思って いることを。 だから,わたしが帰れない理由を言い始める前に,敢えて無理やり会話を奪ってくれ たのだ。 理由を言わなくても済むように『自分がついているから』と…土方さん達が心配に ならないようにも配慮してくれた。 彼は傷付いている人間の気持ちに,とても鋭い人なのだろう。 「謝るなって。あんたなにも悪いことしてねーだろ。悪いことしてねーのに 謝っちゃダメだ。つけ込む男もいっぱいいるんだからね,言っとくけど」 坂田さんが戯れた言い方をしてくれたので,わたしも深刻になり過ぎずに済んで… …むしろ少し笑ってしまった。 以前会った時にも思ったけれど,彼は他人の心の壁を取り払うのが,本当に上手い。 「あ。ちょっと待ってな」 何に気付いたのか一言声をかけて,坂田さんは向こうへ駆けていった。 どうしたのだろう,と思いながらもそこでじっと待っていると,坂田さんは何分も 経たない内に駆けて戻ってきた。 彼の手にある物を見て,わたしは目を見開いた。 「ほい」 「あ…ありがとうございます」 「どういたしまして」 坂田さんは自動販売機で買って来たらしきお茶を,わたしに軽く投げて寄越した。 彼自身はとても甘そうなミルクティーの缶を開けて,すとんとベンチに座った。 わたしも隣に座りながら, 「お代を…」 「野暮なこと言わないでくれる?空気読んで,こういうのは」 「…はい。ごちそうさまです」 ここで食い下がるのも大人気ないので,お言葉に甘え奢っていただくことにした。 蓋を開けお茶を口に含み,そこで初めて喉がからからに渇いていることに気付いた。 「喉の渇き」という生き物にとって根源的な欲求にさえ,今のわたしは鈍くなって しまっているのかと愕然となった。 考えてみれば,食欲も無ければ睡眠欲も無いわたしを見て,皆が心配するのも当然だ。 心配かけたくないと思っているのに,心配かけるようなことばかりしている矛盾した 我儘女だ。 本当に,余裕が無いのだ……今のわたしは。 「坂田さん,憶えていますか?」 「ん?なにを?」 「お香屋さんで,わたしがハンカチに薫いていただいた香りのこと」 坂田さんは記憶を辿るように目を泳がせて,やがてゆっくり頷いた。 「ああ…憶えてる。結構渋い匂いだったから,あんたには似合わねェな,って思った。 あん時『彼氏の香りか』って,俺は訊いたよな」 「あのお香は,伊東さんの着けていた匂いにとても似ていたんです。『彼氏』じゃ なかったけれど…」 わたしはあの時もう彼を好きだったから,という言葉は飲み込んだ。 「あの香りが…今もするんです。伊東さんが亡くなった朝から,時々」 ―――どうぞ入ってください。 ―――そうしてもらえると助かるが…良いのかい? ―――はい,もちろん…屯所ですよね,行先は? ―――ああ。 ―――よかった。どうぞ。 あれはもう…1年近く前のことになるのか。 にわか雨の降りしきる中,2人で1つの傘に入って屯所までの道を歩いた。 傘の中は伊東さんの衣披香の匂いが,しっとりと香っていた。 わたしは彼の匂いを素敵だと言い,彼は嬉しそうにありがとうと言ってくれた。 10日前最後に彼と会った時も,汗の匂いに混じってほんのりと深い香りがした。 その香りに包まれて,わたしは生まれて初めて幸福で泣いた。 幸せでも人は泣けるのだ。 もし僕が女性に生まれていたのなら,君のような女性になりたかった。 彼の匂いが―――消えない。 「わたし……おかしくなってるのかも」 「おかしくねーよ」 それは厳しくも冷たくもない口調だった。むしろ穏やかで温かい声音だったけれど, きっぱりと坂田さんは否定してくれた。 「大事なヤツが死んじまったんだ。いつもと同じって方が余程変だ。あんたは,何も おかしくねェよ」 幼い子にもわかるだろうシンプルな科白が,胸の内側に溶け込むかのように温かく 広がった。 坂田さんになら…言っても良い気がした。 真選組には属さず,でも真選組と強く繋がっているこの人になら。 「土方さんに…うちの副長に,言われたんです。『伊東を斬ったのは俺だ。だから 怨むなら,俺を怨め』って」 「…誰かを怨めば,楽になる気持ちもあるからな」 「ええ。そうでしょうね…でも…」 お茶を持つわたしの手に,ぎゅっと力がこもった。 無意識の内に噛み締めた奥歯を無理やり引き離し,わたしは言葉を続けた。 「わたし…こうなる前から,なんとなく知っていました。伊東さんが真選組を…」 伊東さんと土方さんの野稽古を見た時「両雄並び立たず」という言葉を思い出し, 不吉な思いに駆られた。 わたししかいないはずの特別資料保管庫に,伊東さんの右腕である篠原さんがいる のを不審に思ったことがあった。 そして,その篠原さんが土方さんを貶める噂を流していることを知り,更に不可解さ が増した。 伊東さんが土方さんを「弱くなった」と評するのを聞いて――― ―――あなたは彼を嫌いですか,と。わたしはそう伊東さんに訊いた。 「そうではない」と伊東さんは否定していた。 「彼は最大の理解者だ」と,そう言っていた。 あの言葉が嘘だったとは思わない。きっと本心だった。でも…… ……たとえ相手を嫌いでなくても,相手と理解し合っていても,殺意は抱ける。 「なんとなく予感はしていたんです。でも…黙ってた」 初めて伊東さんの部屋を訪ねた時,わたしは彼に訊きたいことがあったのだ。 あなたは真選組をどうするおつもりですか。 そう問いたかった。 問うべきだった。 問うたからといって,本当の答えは返って来なかったかもしれない。 結果は何も変わらなかったかもしれない。 それでも…わたしは問わなくてはならなかったのに。 「黙っていました…伊東さんに嫌われたくなかったから」 伊東さんがとても愛しそうにわたしの名を呼ぶから。 あまりにも甘い接吻を与えるから。 わたしを何もできない小娘にさせるから。 あの時胸に湧いた おそろしく甘く愚かしい感情を。 わたしは 一生後悔するだろう。 「『悪いことしたら叱る』って…『あなたの母親になる』って言ったのに… …結局叱れなかった。ダメな母親です」 「…」 わたしの独白を,坂田さんはただ黙って聞いていた。 相槌をうつことも頷くこともしなかったけれど,彼は真剣に聞いてくれているのだと なぜか確信できた。 ともすれば震えそうになる喉を堪え,わたしは顔を上げた。 「わたしは真選組の医師です。わたしは伊東さんのために泣くわけにはいきません」 わたしは改札口を睨みつける勢いで真っ直ぐに見つめた。 坂田さんの方を見ることはできなかった。 もし彼が憐憫の目でわたしを見ていたらと思うと堪え難かった。 殊これに関しては,可哀想だと思われることは恥辱だった。 「伊東さんの謀反で,たくさんの隊士達が命を落としました。伊東さんが謀反を 起こさなければ,長らえた命だったかもしれな,」 「止せ」 坂田さんは言葉を遮って,わたしの握りしめる空缶をやんわりと取り上げた。 掴む対象を失った手は,わたしの意思とは無関係に心もとなく揺れていて, 「そういうことは,言いっこなしだ。深く考えるな」 「…ええ」 坂田さんは震えているわたしの手の上に,自分の掌を重ねた。 彼の大きな手は,わたしがみっともなく狂気に落ちてゆくのを,引き止めてくれた ような気がした。わたしは深呼吸をして, 「…わたしは,土方さんを怨むことはできない」 そもそも,わたしには彼を怨む資格も無い。 薄々気付いていながら謀反を止めなかったという点においては,伊東さんと同罪で… …その伊東さんを死に追いやったという点においては,土方さんとも五分だ。 「あんたって,随分背負い込むのな。責任感じなくて良いとこにまで,責任感じてる。 しんどいだろ,そんなんじゃ」 ぽつりと坂田さんが呟いた。 眈々とした口調から,それが同情とも哀れみとも違う,ただの素直な感想の吐露だと わかった。 坂田さんの方を見ると,彼もまたこちらを見ていた。 偽善的な肩入れをしない,とても中立的で心地良い眼差しがそこにあった。 「『もう1つの依頼』は何だと思う?」 「…え?」 「『依頼は家出娘の捜索だけじゃない』って言っただろ」 そういえば…坂田さんは確かに最初そう言っていた。 その時は「他にも仕事があるのだろう」と思ったけれど,坂田さんは今もなおここに 一緒にいてくれている。 それに,先程土方さんと電話で話していた時にも言っていた。 「もう1つの依頼も忘れていない」と。 ということは「他の仕事」=「もう1つの依頼」であり,それは土方さん…あるいは 真選組から依頼されたものなのだろう。 「もう1つの依頼は何だと思う?」 「……わかりません。何ですか?」 「これもさ,4人全員から頼まれたんだけど…」 坂田さんは前置きをして,大切な秘密事を打ち明けるかのように一つ一つの言葉を ゆっくりと紡いだ。 「『を,泣かせてやってくれ。 は,俺達の前では絶対に泣けないから。 ちゃんと泣かせてやってくれ』ってさ」 「……!」 彼の…いや,彼らの言葉に込められた熱が,わたしの青ざめた心に行き渡るまでに 少し時間を要した。 その熱はあまりに優し過ぎて,わたしをひどく戸惑わせた。 ―――君が持っているべきものだと思うんだ。他の誰でもなく。 ―――俺は他人に菓子を恵んであげるだなんて滅多にしねェんだ。 ありがたく大事に残さず食べろ ―――泣くなよ。真選組の医師としては,泣くべきじゃねェ。 昼間に彼らがわたしにしてくれたこと,わたしにかけてくれた言葉が次々と胸に 甦ってきた。 (『泣くな』と言ったじゃないですか…土方さん) 矛盾していますよ,と頭の中で彼に呼びかけた。 「本当はね……皆,悲しいんです」 わたしには わかっていた。 わたしが伊東さんの不在を悲しむのと同様に,彼らもまた悲しんでいるということを。 誰もが 彼を失いたくなかったということを。 「皆,泣きたいの。 でも…立場上,泣くことがゆるされないから。皆,必死に我慢してる。 それなのに…わたしには『泣け』って言うんですね」 責めるような口調になるのは,決して攻撃したいわけではなくて。 そうでもしないと,決壊しそうだった―――滑稽なほど必死になって築き上げた心の 堤防が。 わたしは膝の上に置いた両手を,ぎゅっと握りしめた。 「わたしが女だから…でしょうか」 「違ェんじゃね?」 「じゃあ,どうしてですか?」 坂田さんは間髪いれずいとも簡単に否定したので,わたしも即座に問い返した。 すると, 「アンタが可愛いからじゃね?」 「……はい?」 この重い空気の中で,あまりにも軽々しい口調と内容に呆気にとられた。 完全に予想外の発言だった。 坂田さんは,その場の雰囲気や他人の気持ちを推し量れない人間ではない…極々短い 時間の付き合いだけれど,そう感じた。 だから,彼が無意味に空気を乱すような発言をするはずがないとは思う…おそらく。 しかし,彼の言葉の真意をわたしには測りかねた。 不審で眉を寄せかけるわたしに,坂田さんは何の頓着もなく破顔してみせた。 「男はさ,バカで単純な生き物なんだよ。可愛い女が泣くの我慢してんのを見ると 『俺の胸で泣け!』って言いたくなる生き物なの。あいつらも,本当は自分で そう言いたいんだろうけど。立場的にちょっと不味いから我慢してるわけよ」 「…」 「てなわけで,」 坂田さんはベンチから腰をあげて,わたしの目の前に立った。 つられて,わたしも真正面の彼を見上げた。 手品の種明かしでもするかのように,坂田さんは両手を広げて, 「可愛い女が泣くのはむしろ男は大歓迎。役得な銀さんの胸で,好きなだけ存分に お泣きなさい」 白い雲間から現れたお日様のように,顔いっぱいに笑みを広げた。 それは,どんなに固く凍り付いた湖も溶けずにはいられない,心を明け渡さずには いられない笑顔だった。 悲しみも寂しさも虚しさも,その一瞬は吹き飛ばされた。 本当に一瞬だったけれど,その瞬間は確かにあった。 代わりに,わたしの胸に隙間風のごとくこみ上げてきたものは, 「…ふっ」 「ん?」 「あはははは!坂田さんって本当に変な人!」 徐々に人が減り出し静かになり始めている駅構内で,わたしの笑い声は電光掲示板を 揺らさんばかりに響いた。 栓の外れてしまった噴水のように,後から後から笑いが噴き上がってきた。 坂田さんは,きょとんと鳩のように目を点にして首を傾げた。 「…あれ?『笑え』じゃなくて『泣け』って言ったはずなんだけどな,俺は」 「変!本当に変ですよ!わたし,あなたみたいな人,会ったことないです!」 「…腹が立ってくるから止めてくれない?人を指差して笑うんじゃありません!」 ムッとした様子で目を吊り上げる坂田さんの前に,わたしも立ち上がった。 彼の胸ぐらをぐっと両手で握りしめ, 「……もういいや。泣きますよ,わたし。本当に。泣いちゃいますよ」 乱暴に宣言して,自分の額を坂田さんの胸に強く押し当てた。 「せっかく固く締めていた涙腺を無理矢理ぶっ壊してくれた責任,ちゃんととって ください」 「おーよ。いくらでもお泣きなさい」 そう言って坂田さんがわたしの頭を撫でてくれた途端,涙が堰を切ったように溢れ 出た。 鼻の奧が窮屈に痛くなって,舌の付け根が重く震えた。 瞼が焼けるのではと思えるくらいの熱い涙が,次から次へと頬を濡らしてゆく。 泣き始めてから,わたしはやっと自分の本心に気付いた。 泣きたかった。 わたしは こうして泣きたかった。 本当は ずっと 泣きたかったんだ。 「最後に伊東さん…泣いてた,って。笑いながら泣いてた,って。『ありがとう』と 言った,って…」 嗚咽の隙間からぐしゃぐしゃに言葉を紡ぐと,坂田さんは乳飲み子にそうする時の ように,わたしの背中をとんとんと軽く叩いた。 「俺ァあの伊東って男のことも,あんたのこともよくは知らねェし,ましてや2人の 間柄なんて全然知らねェけど。でも…」 坂田さんの穏やかな声が,初夏の陽射しのように頭上から降ってくる。 「あいつが最後に言った『ありがとう』の中に,きっとあんたも入ってるよ」 そんなの わからないじゃない。 本当のところは 誰にもわからないじゃない。 わたしがぐじぐじと詰ると,「わからないんだからどう思おうと自由だろ。好きな ように思っとけ,この際」と坂田さんはあくまで軽く返してきた。 ぼろぼろと零れてゆく涙は止まることを全く知らず,わたしは沢山しゃくりあげた。 「伊東さんは…幸せだったんでしょうか」 「さァな。けど,笑って死んで逝ける侍はそんなに多くねェよ」 「伊東さんが幸せだったなら…わたしは,それでいいんです」 坂田さんの胸ぐらを掴む両手に,更に力を込めた。 着物に強烈な皺が寄ったけれど,彼はされるがままになっていた。 「……なんて,言うわけないでしょ。『伊東さんが幸せならそれでいい』だなんて, そんなの…嘘」 坂田さんの胸に,わたしは何度も額を打ちつけた。 その度に大粒の涙が地面に散っていった。 わたしに頭突きをされて,彼は痛いに決まっているのに,やはり何も抗わなかった。 何をされても,何を言われても,全て受け止める覚悟でいてくれているらしかった。 それが更にわたしの涙を加速させた。 「わたしは嫌です。すごく嫌です。どんなに伊東さんが幸せだったとしても… …置いていかれるなんて絶対に嫌です」 「誰だってそうだ。それが普通だ」 よくわかるという風に頷きながら,坂田さんはわたしの頭を静かに撫でてくれた。 「大事な奴から置いていかれんのは嫌だよな」 しみじみとした声音に,わたしも鼻を啜りながら頷きを返した。 涙が流れてゆくごとに,胸にあったわだかまりや後悔が体の外に排出されてゆく気が した。 心の底に沈んでいた氷の塊が,あとからあとから水泡になって溶けてゆく。 今 ここで ひとりで泣かずにすんで良かった。 やさしい人が 傍にいてくれて 良かった。 「…どうして置いてゆくの?」 もう会えないなんて…わたしは嫌なのに。 たとえ,あなたの最期がどんなに幸福で,どんなに満たされたものであったとしても。 それでも,また会いたかった。 わたしは あなたに また会いたかった。 また何度でも あなたに,会って。 「さよなら」を言えないわたしを,困ったコだねと苦笑して欲しかった。 「伊東さんは大バカ野郎ですよ。伊東さんのことをこんなにも想ってる可愛い女が 側にいたのに…自分は独りぼっちだと勝手に決めつけて」 「ホント。大バカな男だな,あいつ。こんなに可愛い嬢ちゃん置いていくなんてな。 もったいねーことしたな」 「あんな人のために泣くのは癪なんですよ。あんなわからず屋の頑固者」 「そうだろうな。そういう顔してたわ。頑固者の顔」 「それに,嘘つきです。帰って来るって言ったくせに。帰ったら,わたしを故郷の 海に連れていってくれるって,言ったくせに。嘘つき,嘘つき,嘘つき!」 「嘘ついて女泣かせる男はダメだな。1番ダメだわ。どうせ嘘つくなら,笑える嘘を つけって話だな」 坂田さんは,肯定も否定も躊躇わない。 わたしももう躊躇わなかった。 心から泣くことも,本音を剥き出しにすることも。 「伊東さんはね,きっとわたしに『泣かないで』って言いますよ。 でも,本当にわたしが泣かなかったら,きっとすごく寂しそうな顔をするんです。 そういう人なんです。伊東さんは,そういう愛情に飢えていたから。 子供の頃から,ずっと…我慢してばっかり」 「面倒くせェ野郎だな。やめといた方がイイんじゃね?」 呆れたように…けれども何処までも優しい口調で坂田さんは言った。 泣き続けながら…けれどもはっきりとした意思をもってわたしは言った。 「でも,好きだったの。とても。大好きだったの」 過去形にするしかない。 だって……あなたはもういないんだもの。 今でも好きだけど。好きなのに。 あなたはもう過去にしか いないんだもの。 泣いて 泣いて 泣いて……このまま身体中の水分が,すべて涙となって流れていって しまってもよかった。 わたしの泣き声が,駅構内に響き渡った―――その時, 「!!」 懐かしい呼び声がした。 わたしは反射的に坂田さんの胸から手を離し,涙で真っ赤になった顔を上げて――― ―――あの香りを感じ取った。 伊東さんの 香りを。 今までで1番 はっきりと受け取った。 改札口の方を凝視して――― 「……伊東さん!!」 わたしは―――確かに 見た。 伊東さんがいつもと同じ静かな微笑を浮かべて,改札口を抜けて来るのを。 わたしに向かって手を振るのを。 (ああ…なんだ) 帰って来てくれたんだ。 ごめんなさい。 嘘つきなんて 言ってしまって。 おかえりなさい 伊東さん。 もう どこにも行かないで。 「…おい!」 坂田さんの慌てたような声が遠くに聞こえて…わたしの目の前は,一気に真っ暗に なった。 もう わたしを離さないで。 置いていかれるのは もう嫌なの。