あなたがわたしの手を離しても
わたしは あなたを離さない。
そう決めているから
わたしはあなたに手を振ることができた。



残照  <十六>



伊東さんの遺体に対面した時,まるで自分の足元がすべて崩れ去ったかのような錯覚を
覚えた。
台上に横たわる彼に掛けられている布を取り,その真っ白な顔を見た瞬間,わたしの膝は
自然と折れ,その場にしゃがみ込んでしまった。

近藤さんが気を遣って人払いをしてくれていた。
その部屋には,冷たくなった伊東さんと,わたししかいなかった。

「伊東さん…」

目を開けてください,と。
そう願っても無駄だからやめるんだ,と欠けた左腕に諌められた気がした。
懇願の言葉も祈りの言葉も浮かばず,わたしは唯々彼の名を呼び続けた。

「伊東さん…」

恐ろしいほど白いその頬に触れると,あまりの冷たさと硬さに気が変になりそうだった。
すべての感覚がおかしくなってしまっていた。

わたしの耳には 何も聞こえず,
わたしの目には 彼しか見えず,
わたしの口は 彼の名しか呼ばず,
わたしの手は 彼の頬の冷たさしか感じず,

わたしの鼻には 彼が生前まとっていた香りが絡みついていた。

わたしの存在全てを根こそぎ薙ぎ倒してしまう程の深い喪失感に,いっそのこと呼吸
する方法も忘れてしまいたかった。


「伊東さん」


縋る呼び声に答えてくれる人はいない。

永遠に いなくなってしまった。





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「ちゃん,ちょっと良い?」
「山崎さん」

伊東さんがいなくなって十日が過ぎた。
一時は亡くなったと思われていた山崎さんが奇跡的な生還を遂げて,それと時を同じく
して土方さんも戻って来た。
どこまでも武士であり侍である彼らは,伊東さんの謀反により多くの仲間達を失っても,
決して歩みを止めることなく進み続けていた。

「ご体調はいかがですか?」
「うん。全然悪くないよ」

【伊東参謀,謀反】を隊内の誰よりも早く土方副長に報せようとした山崎さんは,その際
大怪我を負った―――伊東さんと攘夷浪士の手によって。
殺される寸前だった,とも聞いた。

本当に良かった……生きていてくれて。

「松本先生は,今日は幕府病院に?」
「はい。入院している隊士の皆さんに付きっきりです」
「それなら丁度良いや。君に,これを」
「…これは?」

山崎さんは薄紅色の和紙に包装された小さな袋を,わたしに差し出した。
不思議に思いながら受け取ると,

「伊東さんの部屋の引き出しから出てきたんだ」
「!」

危うく取り落としそうになった。
動揺して顔を上げると,山崎さんの静かな視線とぴたりと目が合って,思わず逸らした。

「きっと…君へのものだから」

穏やかな声音に泣きそうになるけれど,絶対にそうするまいと堪えた。
山崎さんは伊東さんに殺されかけたのだ。

わたしは彼の前で泣くことはできない。

「でも,最重要検閲対象者の物を無断で持ち出したら…」

冷静さを装って,わたしは理性的な意見を口にした。
謀反の日以降,伊東さんの部屋にあった書類や帳面類,衣服や調度品まで全ての物が
『検閲』の対象となっているはずだ。
彼の残した物から攘夷浪士の―――鬼兵隊の情報を少しでも得るために,監察班が血眼に
なって調べている。

「いいから。俺が全責任もつ」
「けれど…」
「受け取らないとダメだ」

伊東さんがわたしへ残してくれたものなら,是が非でも欲しかった。
でも…伊東さんに傷付けられた人を前にして,それを「欲しい」とは言えなかった。
心とは裏腹に反対しかけるわたしに,山崎さんははっきりと言った。


「君が持っているべきものだと思うんだ。他の誰でもなく」


診療所の窓から夏の気配を含んだ風が流れてきた。
その風の中に,伊東さんが身につけていた衣被香の匂いがする気がした。

(また,だ……)

彼の遺体に対面した日から,時々わたしの近くでその香りがふと漂うようになった。
それが幻の香りに過ぎないことは,わかっている。
わたしの精神的な傷が,嗅覚をおかしくしてしまっているのだ。
でも……まるで伊東さんが傍にいるようで。
幻の香りにさえも 今は縋りたくなってしまう。

「受け取ります…ありがとうございます,山崎さん」
「ううん。ごめん…気のきいたこと言えなくて」
「そんなの…」

言葉の続かないわたしに,山崎さんは温かく笑ってくれた。


「あんまり…考え過ぎないで。君は楽しそうに笑ってる方が似合ってるよ」


それだけ言うと,山崎さんは診療所から出て行った。
きっと検閲作業の合間をぬって来てくれたのだろう。
その優しさがありがたく,また申し訳なくもあった。

(なんだろう…)

山崎さんから渡されたその紙袋を裏返してみると,京都の老舗工芸品店の名前が
印刷されていた。
伊東さんが京都へ出張に行った際買った物だろうか,と思いながら袋を開いた。

「…簪?」

三日月と三毛猫をかたどった可愛らしい透かし細工の簪が,袋の中に入っていた。
簪には猫の首輪を連想させる鈴が付いていて,揺らすと涼やかな音を立てた。

(…伊東さんが,これをわたしに?)

小物屋さんで一生懸命選んでくれたのだろうか。
伊東さんがこういう可愛らしい飾り物に囲まれて,眉間に皺を寄せて品物を選んで
くれているところを想像すると,思わず笑ってしまった。
笑った後に―――涙が出そうになり,わたしは慌てて天井を見上げて堪えた。


泣いてはいけない。
わたしは―――真選組の医師なのだから。
隊士を裏切り,隊士を死なせた人物のために泣くことは,ゆるされない。


簪を机に置いて,わたしはしばらくの間上を見て涙が引っ込むのを待った。
そうして涙が渇いて来た頃,窓の外でかたんと物音がした。
誰かいるのだろうか,と首を傾げつつ窓から身を乗り出すと,

「あら?沖田さん」
「…」

若き一番隊隊長が窓の外でしゃがみ込んでいた。
沖田さんは屈んだまま,こちらをじろりと上目遣いに見上げてくる。
不貞腐れたような仕草がまるで野良猫みたいだわ…などと思いながら,わたしも
彼を黙ってじっと見返した。

「…」
「…」
「…」
「…なんでィ」
「いや『なんでィ』って。あなたが何なんですか」

呆れて言い返すと,沖田さんはチッと舌打ちをして立ち上がった。そして,

「これ,やる」
「え?」

ずいっとビニール袋をわたしの眼前に差し出した。
反射的に受け取って中を覗くと,なにやら沢山のお菓子が入っていた。

「あら,珍しい。いつもは人の分のお菓子までかすめ取るくせに」
「うっせェな。『やる』って言ってんだから黙って貰いなせェ」
「…?はい。ありがとうございます」
「あと,これもやる」
「え?」

わたしが瞬きをする間に,沖田さんはさらにビニール袋を差し出した。
その中にもやはりお菓子が入っているようで…そのうえ彼の足元に置いていた
複数の袋までも次々に持ち上げて,

「これとこれとこれも…」
「ちょ,ちょっと待っ…」
「やるって言ってんだ!」
「!」

叫ぶような大声をあげられて,わたしは硬直した。
沖田さんに差し出された大量のお菓子袋を抱えたまま,わたしは呆気にとられて
彼の名を呼んだ。

「…沖田さん?」
「…」

沖田さんはぷいと横を向いて,わたしの視線から逃れた。
ばつが悪そうに頭を掻いて,彼はぶっきらぼうに言った。

「それ。全部やる」
「…はい」

わたしがおとなしく頷くと,沖田さんはこっちを向いた。
幼さの残る澄んだ瞳の奥に―――深い同情の光が見えた気がした。


「俺は他人に菓子を恵んであげるだなんて滅多にしねェんだ。ありがたく大事に
 残さず食べろ」


にくまれ口とは全く真逆に,沖田さんもわたしを慰めようとしてくれているのだと
分かった。

彼は伊東さんが事を起こす前に「これ以上土方を庇わない方が良い」とわたしに
忠告してくれていた。
沖田さんは伊東さんの謀反に,いち早く気が付いていたのだろう。
彼は近藤さんと共に武州への列車に乗り,局長を守るために『伊東派』の隊士達の
大半を斬ったという。
いくら近藤さんの為とはいえ,かつての同志達の多くを斬らなくてはならなかった
のは,沖田さんにとって辛いことだったはずだ。
彼はそんな素振りを全く見せないけれど。
かなりしんどい思いをしたはずだ。
伊東さんのせいで,沖田さんは多くの仲間を斬るはめになった。

わたしは彼の前で泣くことはできない。

「用はそんだけでさァ」
「…沖田さん!」

去ろうとする背中を,呼び止めた。

「ありがとうございます。全部いただきます」

不器用な優しさに,わたしは心を込めてお礼を言った。
沖田さんは鬱陶しそうに軽く肩を竦めて,さっさと立ち去った。
その背中を見送ってから,大量のお菓子袋を机の上の簪の横に置いた。

「…本当に,たくさん」

思わずクスッと笑ってしまう。
袋には様々なお菓子がこれでもかと詰められていた。
その中に『んまい棒』が入っているのを見て,あることを思い出した。

以前,屯所の縁側で数人の隊士達とわたしが駄菓子を食べながらお喋りしていて,
そこに伊東さんが通りかかって…わたしが声を掛けて彼も一緒に食べることに
なったのだけれど。
伊東さんはほとんどの駄菓子の名前を知らなかったのだ。

隊士達は「伊東先生,『んまい棒』を知らないんですか!?」「伊東先生にも
知らないものってあるんですね!」と,しきりに驚いていた。
それに対して伊東さんは,

「こういう駄菓子は,子どもの頃親から与えられなかった」

とだけ答えていた。
どんなお菓子を食べていたのか聞いてみると,例えば近所の和菓子屋の大福とか
団子とかそういう所謂『ちゃんとしたお菓子』を与えられていたと言う。

「子どもの頃から高級な味に慣れてたんですね」と隊士から言われ,伊東さんは
「…どうかな」と言葉少なだった。

んまい棒を食べにくそうに少しずつ食べる伊東さんに,「美味しいですか?」と
わたしが尋ねると「品の無い味だ」と一言呟いた後,

「でも…人と一緒に食べるお菓子は,美味しいと思う」

と,わたしだけに聞こえる小声で答えてくれた。
もし…それをわたしだけにではなく,他の人達にも言っていたなら。
伊東さんのことを「有能だけど,とっつきづらい人だ」と陰口を言っていた人達の
評価も,きっと変わっていただろう。

本当に孤独を嫌う人だったな…と思い起こすと,再び涙が滲みそうになった。
天井を向いて,それが零れるのを阻止した。

(ダメだな…)

あらゆるのものを,伊東さんとの思い出に結び付けてしまう。
まるでわたしの心の深いところが,「泣け」と命じているかのようだ。

でも―――泣かない。
わたしは泣くわけにはいかない。
伊東さんは……多くの人達を傷付けた。
酷く 傷付けた。

伊東さんのために泣いたら……その彼に傷付けられた隊士達は?
彼のせいで,命を落とした隊士達は?
彼らの御霊に,わたしは何と言い訳すれば良い?

色々考えていると,またもや伊東さんの香りが漂い始めた。

(違う…これは伊東さんの衣被香じゃない)

わたしの記憶が,脳に錯覚を起こさせているだけだ。
彼の香りがするからといって,彼が傍にいるわけじゃない。

伊東さんが帰って来たわけじゃない。
そんなことは ありえない。
死んだ人は 決して帰って来ない。



「」

机に突っ伏していると,診療所の入口から低い呼び声がした。
顔を上げてそちらを見ると,

「…土方さん」
「悪ィな休憩中に。今,少し良いか」
「はい。もちろん。どうされました?」

乱れた前髪を直しつつ,姿勢を正して……今日は千客万来だな,と心の中で苦笑した。
土方さんはわたしの前にある椅子に座り,机の上に視線を向けて目を見開いた。

「…えらく沢山の菓子だな」
「沖田さんがくれたんです」
「…意地汚ェあいつが?こりゃ明日は豪雨だな」


軽い口調で揶揄したけれど,沖田さんがわたしにこれだけのお菓子をくれた理由を,
土方さんなら即座に察したはずだ。
なんやかんで彼らはお互いのことをよくわかっているから。
わかったうえで,知らないふりをしてくれたのだ。
見返りを疎む 高潔で 不器用な優しさを―――
こうして無造作に与えてくれる彼らのことを―――わたしはとても慕わしく思う。
爽やかな風が窓から入ってきたタイミングで,

「…ちゃんと眠れているか,最近」
「!」

土方さんはゆるりと話を切り出した。
なんでもないことのように聞いて来るけれど,

「体調はどうだ?」

その真剣な眼差しが決して『なんでもないこと』ではない,と告げている。
鬼の副長と呼ばれ恐れられる彼が―――心からわたしを心配してくれている。
こんなに優しい鬼なんか 地獄のどこにもいないだろう。

「…何がおかしい?」
「いえ…なんだか土方さんの方が医師みたいだな,と思って」
「…バカ」

罵倒ではなく反射のように土方さんは二文字を口にした。
わたしの言葉が思ってもみないことだったのか,少しだけ焦ったらしい。
彼は煙草を取り出しかけ…ここが『診療所』であることを思い出し「すまん」と
咳払いをした。
そういう仕草の一つ一つから,本当に良い人だなとしみじみ感じる。

本当に……生きていてくれて良かった。
そう思うと同時に,いなくなってしまった人のことも自然と思い出されて,わたしの
笑みはとても曖昧なものとなった。
わたしのその不確かな表情を見て,土方さんの瞳が静謐な色合いを帯びた。
静かな,でも不動の意志を宿した強い眼差しに,彼がこれから何を言おうとしている
のか,わたしにはわかった。


「…伊東は俺が斬った」


怒るのでもなく 嘆くのでもなく。
謝るのでもなく 説き伏せるのでもなく。
起こったことを 起こったままに。
ただ あるがままの 事実を。

彼の揺らぎない,浮き沈みのない落ち着いた口調のおかげで,わたしはそれほど顔を
歪めずに聞き入れることができた。


「だから…怨むなら,俺を怨め」


抑揚のない,冷たいとさえ思える声音に―――もしかしたら,わたしに詰られることを
この人は望んでいるのかもしれないな,と思った。
「どうしてあの人を斬ったの」とわたしが喚き散らし,彼を口汚く罵ることを,望ん
でいるのかもしれない。
そうすることで,わたしは怒りでもって悲しみを誤魔化すことが,できるのかもしれ
ない。

(それで少しは楽になるのか…)

いや,ならない。決して。楽にはならない。

「伊東さんは…土方さんに斬られる前から,既に致命傷を受けていましたよね。
 線路爆発の際に左腕を切断,さらに銃撃を受けて大量に失血していました。
 それに…」

誰かを怨むことで楽になる悲しみがあるとしたら,
それはその誰かが『他人』である時だけだ。
わたしは土方さんを『他人』と呼ぶには,今まであまりにも彼の優しさに触れ過ぎ
ていた。

「…伊東さんは自ら望んで近藤さん達の盾になった,と聞いています」

伊東さんが死ぬかわりに,
土方さんや土方さんの守ろうとした人達が死ねばよかったのに,
とは,わたしには言えなかった。

それを口にするくらいなら,自分が死んだ方がましなくらいだった。

「…泣かないんだな」
「…」

憐憫と称揚の両方を半々ずつ含んだ双眸で,土方さんは呟くように言った。そして,

「泣くなよ。真選組の医師としては,泣くべきじゃねェ」
「……はい」

この人は―――さすがだ。
さすがは 人の上に立つ人だ。
目先の情に決して惑わされない人だ。

わたしの涙は,必然的に生き残った隊士達を責めることになる。
そのつもりがあろうと,なかろうと。

わたしが『真選組の医師』としてこれからも生きてゆくつもりなら,皆を裏切った
者への涙は,障害にこそなっても利益にはならない。
それを土方さんはよく分かっているのだ。

分かったうえで,敢えて厳しいことを言ってくれるのは,
わたしを認めてくれているからだ。
わたしに「真選組の医師としてこれからもここにいて欲しい」と,
そう思ってくれているからだ。

わたしは彼の前で泣くことはできない。

そのことに気付かず思い至らず,ただ泣いて恨み言を吐くような愚かしい女に為り
下がりたくなかった。
―――そんな小娘,伊東さんは嫌いだろう。


「お前は―――立派な医師だ。尊敬する」
「…もったいないです」


わたしが微笑すると,土方さんは一瞬だけ苦しげに眉を寄せた……本当に一瞬のこと
だったので,もしかしたら見間違いなのかもしれなかった。
土方さんは言いたいことが終わったのだろう,椅子から立ち上がりながら,

「今度,松平のとっつぁんが飯奢ってくれるってよ。都合ついたら,お前も来い」
「ありがとうございます」
「それじゃ…」
「土方さん」
「ん?」

こちらに背を向けようとしている彼に,わたしは敬礼をした。

「わたしも土方副長を尊敬しています」
「…バカ」
「本当ですよ」
「うるさい」

土方さんは軽く握った拳で,わたしの頭を小突いた。
そして,机上のお菓子の内の一つを荒っぽく掴んで「これ貰っとく」と呟いた。
止める間もなく足早に出て行ったのは,照れ隠しだろうか。
微笑ましい気持ちで見送って―――



  嫌いじゃないさ。
  むしろ,彼は僕の最大の理解者だ。



―――伊東さんの香りが 再び漂い始めた。
土方さんに伝えた方がよかっただろうか…伊東さんが,彼を『最大の理解者』と。
そう評していたことを。
いや,伝えなくても土方さんはわかっているはずだ。
なんとなくそういう気がした。
男の友情に,女が隙間からとやかく言うものじゃない。



 伊東は 俺が 斬った。
 だから 怨むなら 俺を怨め。



よせてはかえす波のように,悲しみが一日の内に何度もわたしの中を行ったり
来たりしていた。
伊東さんの香りに包まれて,わたしは右手で額を抑えた。

(朝焼けの中で,伊東さんは何を思ったのだろう…)

土方さんに斬られた伊東さんの最期の言葉は「ありがとう」だったという。
『最大の理解者』に引導を渡され,最後の最後に感謝の言葉を口にした彼は,薄れ
ゆく意識の中で一体何を思っていたのだろう。
最後に何を見て,誰を思っていたのだろう。

その『誰か』の中に―――わたしはいただろうか。



  予定では10日後に帰るつもりだよ。



なぜだろう……唐突に気付いた。
今日が『その日』であると。

「今日は,伊東さんが……帰って来るはずだった日?」

そして,わたしが「駅まで迎えに行く」と約束した日だ。
わたしは目を見開いて,壁のカレンダーと時計とを凝視した。



  いいものだね…誰かが自分を迎えに来てくれるってことは。



わたしは行かなくてはいけない。
…ちがう。そうではなくて。

わたしは行きたいんだ。
あの人を 迎えに行きたい。


「伊東さん…」


わたしは彼が残してくれた簪を髪にさして,診療所から足を踏み出した。
寝不足の状態で急に外に出たせいだろうか,立ちくらみがしたけれど,わたしはふら
つきながらも歩を進めた。
橘の花の香りが風の中に柔らかく漂っていた。
少しだけ涼しくなった空気で,徐々に夕刻に移り始めているのを感じた。
影の比率が幾分高くなった庭を通り抜けて,わたしは屯所から出た。



あなたを迎えに行くのは わたしだけなの。