残照  <十五>




お前はただ 一人だっただけだろう

お前が求めているのは,自分を認めてくれる理解者なんかじゃねェ
お前が欲しいものは…



「…!」

何かが激しく崩壊するような音が聞こえ,唐突に目が覚めた。
開いた眼に写ったのは,点滅する電灯の無機質な青白い光と,熱に溶け出した氷のように歪んだ
列車の天井だった。

「…ここは」

頭が痛い。
目覚める直前に見ていた夢の残響など,瞬時に吹き飛んでしまうくらいに。
闇に燻る土埃の中,吐き気をこらえながら周囲に視線を向ければ,

「…土方」

瓦礫の下に埋もれかけている隊士の腕が,視界に入った。
その崩れ折れた腕を見て,それが彼のものだと何故一瞬でもそう確信したのだろう。
おそらく僕は―――既に狂いかけていたのだ。

「そうか…僕は…勝った…
 僕はついに土方に勝っ……!!!」

冥い悦びを裂くかのように,再び何かが崩れさってゆく轟音が辺りに響いた。
息を飲んで音がした方を見ると,ぐしゃぐしゃに潰れた列車の座席や窓が闇の中に浮かび上がった。

(ここは…どこだ?)

僕は今―――伏しているのか。座っているのか。それとも立っているのか。
違う。
そのどれでもない。

僕の足は何をも踏んでおらず,唯々僕の体は宙吊りになっていた。
足元に広がる無慈悲な空間のもっと下には,冷たい闇が口を開いていた。
金属の残骸が落ちていって,崖下にあるらしき川で重々しい水音を立てて砕けた。

「…っ!!!」

驚愕してその闇に落ちるまいと身をすくめたその時―――


桜の蘂,ですね。くっついてましたよ


その時,どうしてだろう…唐突に。
に初めて左腕に触れられた時のことを思い出した。

僕の―――左腕に。

彼女と出会ったのは,たった1年程前の葉桜の季節のことなのに。
僕の左腕についた桜の蘂を,彼女がとってくれたのはそれほど昔のことじゃないのに。


僕の 左腕は―――


もう辿り着くことが出来るとは思えないほど あまりに遠い。


「うわァァァァァァァ!!!!」


ちぎれた自分の左腕を認識した瞬間,絶叫が喉の奥からほとばしった。
どれほど叫んでも,どれほど喉を涸らしても,足りる気がしなかった。
僕が失ったものには,到底足りない。
足りるわけがない。
僕の剣士としてのすべてが失われてしまった。

そして―――左腕が感じたあの温もりも。あの優しさも。



 僕は 彼女より大人だったけれど
 彼女より 温もりの価値を知らなかった。

 彼女は 僕より年下だったけれど
 僕より 優しさの意味を知っていた。



でも,今はもう僕も知っているんだ。
温もりの価値も。優しさの意味も。それなのに―――

「……!!!!」

ヘリの飛ぶ音が急速に近づいてきて,すぐに本体が姿を現した。
横付けされたヘリの側面から,凶暴な銃口がこちらに向けられ,僕は本能的に恐れ慄いた。

「や…やめてくれ」

やめてくれ。

無数の銃弾が僕のすぐ近くをかすめ,甲高い金属音を立てて弾け飛んでゆく。
その1つが,僕の体を唯一支えていた鉄屑を撃ち抜いた。
全ての重さから無慈悲に解放され,僕は為す術も無く滑り落ちる。


やめてくれ

僕は こんなところで死ぬ男じゃない


不様に奈落へと落ちかけながら,過去のあれこれが走馬灯のようにフラッシュバックし,
誰に対して何に対して懇願しているのか,自分でもよくわからなかった。


やめてくれ 僕はもっとできる男なんだ

もっと もっと


褒めてほしくて駆け寄った僕に見向きもせず,冷たく襖を閉めた母上にか。
子供じみた妬みから暴力を振るい,僕を泥まみれにした学友にか。
屈服させることが出来ないとみるや,憎しみの眼差しだけ残して去った同門の徒にか。


僕を 一人にしないでくれ

隣にいてくれ 僕の隣で

この手を… 握ってくれ…


僕など生まれてこなければ良かったのに,と。
そうむせび泣いていた 僕を生んだ人にか。




わたし,伊東さんのお母さんになります




生にしがみつこうと伸ばした右腕が,躊躇いの無い力強き手に掴まれた。
惨めに落ちかけていた僕の身体はそれ以上の落下を止め,腕を支点にゆらゆらと揺れた。
僕は閉じかけた瞼を開き,自分を奈落から引き上げようとする誰かを見上げ,それが―――


「こ…近藤!?」


それが―――他でもない僕が殺そうとした人物であったことを知り驚愕した。

「な…何をしている!君は…今…何をしているのか…わかっているのか!?」

どうして責めるような言い方をするのか。
いや―――決して責めたいのではない。
ただ…あまりにも理解し難かっただけだ。
責めたいわけじゃない。

さらに上を見れば,近藤の体を支え連なる者達の姿が目に写った。
彼らも―――なぜ。
なぜ僕を助けようとする。
不安定な足場の中で,いつそこが崩れるかもしれないような場所で,まかり間違えば
自分も落ちてしまいそうな状況で。

なぜ自分を殺そうとした人間を助けようとしているのか。

「僕は…君を殺そうとした裏切者…!」

僕が最後まで口にする前に,近藤が遮るように言葉を放った。

謀反を起こされるのは将である自分の罪なのだ,と。
無能な将を斬るのは罪ではない,と。
力が足りず「すまない」―――と。

(…っ!!!)

自分よりも僕の方が将に向いている,と。
自分には隊士が死んでゆくのを見過ごすことはできない,と。
兵ではなく―――友として 僕に傍にいて欲しかった,と。
「まだまだたくさん色んな事教えてほしかった」と。

(……)

なにを言っているのだ…この男は。
彼が僕に一体何を教わりたいと言うのだろう。
今まさに…僕が知りえなかったものを,彼が僕に教えてくれているのに。
僕が彼に一体何を教えることができると言うのだろう。

彼の曇りなき眼に―――いつ如何なる時も真っ直ぐに人を見つめるその双眸に,自然と
の姿を重ね合わせていた。


もっといい人生があるかもしれない。
でも,これはわたしの人生だから


そう言い切る彼女を,どれほどうらやましいと思ったか。
どれほど眩しいと思ったか―――嫉妬したか。


 あどけない 笑顔と
 紡ぐ言葉の 強さと
 つかみどころのない 透明感
 雨上がりの空が 似合う君に
 僕は少しだけ 嫉妬した



自身の孤独を認めるには,僕はあまりにも支えが無さ過ぎた。
孤独を受け入れられる人間というのは,一時でも愛された記憶がある人間だ。
支えを持っていたことのある人間だ。
それがない僕は,孤独であることを他人のせいにした。

僕と奴等は住む世界が違う 僕は選ばれた人間なんだ

その「奴等と僕は違う」という感情の根底にあるのが,途方もない妬みであり羨みで
あることを,自分でも忘れていた。いや,考えないようにしていた。
心にできた壁が日増しに高くなっていくごとに,自己顕示欲もまた肥大していった。


思い知らせてやる 僕という存在を

僕を見て
僕はここにいる
僕を見て

僕はただ 誰かに隣にいてほしかった
ただ…誰かに見てほしかった
ただ ひとりが嫌だった

ただ―――絆がほしかった


再び銃弾が豪雨のように降り始め,耳をつんざくような凄まじい金属音に覆われた。
僕を離すまいと,僕を引き上げようと必死に苦闘する彼らのさらに上から,「なにをしてやがる!
さっさと逃げやがれ!!」という怒号が響くと共に―――

―――僕の最大の敵であり 最大の理解者でもある男が飛び降りてきた。
正面から僕を見,ぶつかってくる仲間が。

土方の振り下ろした刃は,僕らに銃弾を浴びせかけていたヘリのプロペラを両断した。
落ち始め傾いた機体を踏み込み,土方は咆哮をあげながらこちらに向かって高く跳躍した。
彼の伸ばした腕を,掴むための腕が僕にはまだ残っていた。

「…土方君。君に言いたい事が1つあったんだ」

僕の体を近藤が支え,その僕が伸ばした右腕に土方が掴まっている。
一歩間違えば全員が奈落に落ちてもおかしくはない。
こんな状況なのに―――なぜか不意に笑いが込み上げてきた。
すると,僕と似たような表情で,土方もまた同意した。

「僕は君が嫌いだ。いずれ殺してやる」

以前と同じ言葉を互いに言い合った。
―――彼は僕と同じものを持ちながら,僕にはないものも持っていた。

「だから…こんな所で死ぬな」

以前と違う言葉を互いに告げ合った。
どんなに望んでも,僕が手に入れることができなかったものを,彼らは持っていた―――もだ。
持たざる者だったのは,僕の方だ。


いいじゃないですか。ちょっとだけ。ねっ?


誰かに「皆で一緒に遊びましょうよ」と誘われたのは,僕の生涯であれが初めてだった。
僕にとっては初めてでも,彼女や彼らにとっては違っただろう。
きっと幼き頃に,当たり前のものとして何度も掛け合った言葉なのだろう。
それが悔しかった。
それが妬ましかった。
「また誘ってほしい」とは言えなかった。



 「救われたい」だなどと 思ったことはなかった
 自分を救えるのは自分だけだと そう信じてきた
 だからこそ 生きてこれた

 たとえ 誰に拒まれても
 たとえ 誰に望まれなくても
 自らの言葉に しがみつき
 やっとのことで 息をしていた

 でも…
 もし「助けてくれ」と 縋れていたのなら
 もし「ここにいたい」と 口にできていたのなら

 もっと未来は 違っていたのだろうか
 もっと未来は 幸福だったのだろうか



今更気づいても遅いのだろうか。
…きっと遅過ぎるのだろう。

それでも―――「取り戻したい」と強く思った。

体勢を立て直して応戦する僕らを撃ち抜こうと,ヘリから銃口が向けられるのを見た時―――
―――体が勝手に動いていた。

その瞬間,の泣き顔が見えた気がした。



 僕がこの手を離しても―――は去っていくことはない。
 そう信じられるから,僕は自分から彼女を離すことができた。



「先生ェェェェェェ!!!!」
「伊東ォォォォォォ!!!!」

仲間達の慟哭が,銃撃で煙る闇の中に響き渡った。
その叫びは悲痛さで満ちていて,撃ちぬかれた僕の体の隅々に響いていった。
「こんなのもの大したことではない」と,そう言いたかったのに…僕の口からは大量の血が噴き出した。
僕の体が倒れ込むのを,土方が庇った。
「すまない」という言葉も,「ありがとう」という言葉も,ただ呻き声となっただけだった。

不意にヘリの方から大きな衝撃音がして,皆が一斉にそちらに視線を飛ばした。
僕はずたずたになった身を引き摺り上げて,瓦礫に背を預けて座した。
窓の外へ視線を向ければ,僕らを銃撃したヘリが大きく傾いているのが見えた。

僕の知らない誰かが何事かを叫び,それに対して河上万斉が叫び返す―――そして。
僕以外は皆立ち上がり,ヘリが煙を上げて落ちてゆくのを見上げていた。
彼らの背中を見て,僕は悟った。



終わった―――すべて。



「何をしている」

皆の背中に向かって,腹から声を出して呼びかけた。
彼らはハッとしたように僕を振り返った。

「ボヤボヤするな。副長。指揮を…」

血まみれの僕を見下ろす彼らの視線には,どうとも形容しがたい感情が込められていた。

このままこいつをここに置いて行って良いのか。
真選組を真っ二つに裂いた 裏切者のこいつを。
裏切者でありながら 自分達を庇ったこいつを。

けれども「早く行け」と僕が促すと,彼らの目つきはすぐに狼狽の無い『戦う者達』のそれへと変わった。
彼らは僕を残して列車から降り,他の仲間達を鼓舞して敵の残党を追い始めた。

僕はひとりきりになったと思っていたが―――列車内に残った人物が2人いた。
真選組の制服を着ているが,見慣れない少年と少女だった。
隊士の顔と名前を僕は全員覚えていたので,彼らが真選組ではないとすぐにわかった。
人の良さそうな顔をした眼鏡の少年が,僕に問いかけてきた。
真選組を裏切ったあなたが,どうして自分達を庇ったのか…と。

「君達は…真選組ではないな」

なぜ彼らの盾になったのか―――その時胸に湧いた感情が何であったのか,自分でもうまく言えない。
僕は知識としては知っていても,実際には抱いたことのない感情が,あまりにも多過ぎた。
敢えてその感情,その行動に名前を付けるとしたら,『贖罪』だったのかもしれない。

「だが真選組と言葉では言いがたい絆で繋がっているようだ。
 友情とも違う。敵とも違う」

ただの腐れ縁です,と。少年が答えた。
知っている―――その言葉を,僕は知っている。でも…

「…そんな形の絆もあるのだな…知らなかった」


知らない。
僕は それを知らない。


わたしが伊東さんのお母さんだったら…そんな思い絶対にさせなかったのに


これ以上ないという程美しい残照の中,僕を優しく見つめてくれた双眸を思い出す。

(僕は…君みたいになりたかった)

その目に向かって,僕は心の中で呟いた。
君は僕の知らない感情を,すべて知っていた。
君は僕が持っていないものを,すべて持っていた。
僕は 君のように生きたかった。

だから―――だから どうしようもなく惹かれた。



 君はいつも 笑顔と息苦しさを 共につれてきた
 君と話すと 自分が『いいもの』になった気がした
 でも同時に ひどい自己嫌悪を抱いたりもした
 それは 快いことであり 時に苦痛でもあった
 けれどもこれだけは言える

あなたの泣き場所になってあげたのに

 君のくれた言葉が 一番嬉しかった



それなのに―――


「いや,知ろうとしなかっただけか…
 人と繋がりたいと願いながら,自ら人との絆を断ち切ってきた。
 拒絶されたくない,傷つきたくない…ちっぽけな自尊心を守るために
 本当にほしかったものさえ見失ってしまうとは」

これはきっと―――罰だ。
自分の孤独に,孤独ではないことに気づく機会は何度も与えられていたのに。
自ら背を背け,自ら捨ててきた。
そして,自尊心のためにそれを見過ごした。

「ようやく見つけた大切な絆さえ 自ら壊してしまうとは…」

持っていなかったのではない。
持たなかったのだ。
与えられたのに,自ら受け取ることを拒んできたのだ。
そうして失っていた,ということにすら今まで気づいていなかった。
自分の色は「黒」だと。
決して何ものにも染まらないし,全てを黒くぬりつぶしてしまう,と。
それこそが―――どうしようもなく愚かしい驕りであるのに。


「何故…何故いつだって,気づいた時には遅いんだ」


おかえりなさい。


あの夜,は攘夷浪士を助けたことを思い悩み,苦しんでいたのに。
自分の痛みを押し殺して,僕に向かって優しく微笑んでくれた。



 今まで 心から願ったことがあっただろうか。
 誰かの幸せを。
 心から望んだことがあっただろうか。
 今まで 心から喜んだことがあっただろうか。
 誰かの幸せを。
 心から祝福したことがあっただろうか。

 彼女の幸せを願っていた。
 それは 嘘じゃない。

 僕は 彼女の大切な存在を
 奪うかもしれないのに。



僕が局長達を屠っても,逆に僕が屠られても…どちらにしても,彼女から奪うことになってしまった。
彼女の大切な存在を。
僕は―――もう わかっている。
僕がを大切だと思っているように,もまた僕を大切だと思ってくれていることを。

僕は―――君から『僕』を奪ってしまう。

「何故共に戦いたいのに…立ちあがれない」

今こそ―――今こそ,仲間と共に戦いたいのに。
血を失ってゆくのと同時に,僕の命もまた流れ出していくのがわかった。
まどろむような暗闇が僕の肩を包み,ともすればそのまま僕を食らってしまいそうだった。
潮風が吹きぬける時のように,思い出が頭に過ぎってゆく。


わたしは…『自分の弱さを知ってくれている相手』を
『理解者』と言うと思います


今なら あの時君が言ったこともよくわかる。
君という存在は―――僕にとって 最大の幸福であり 最大の後悔だ。
君は僕を幸せにしてくれた。
だからこそ 僕のこの手で君を幸せにしたかったのに。



 君に 幸せでいて欲しい。
 君が ひどく憎らしい。
 どちらも 同じ思いから 生まれる感情なのに。
 どうして こうも 形が違うのだろう。
 どうして こうも 色が違うのだろう。

 どうして 僕は―――
 ―――ひとり 凍えているのだろう。



僕たちはきっと……もっと幸せになれたのに。


「何故剣を握りたいのに…腕がない」

今こそ仲間の為に剣を振るいたいと―――初めて強くそう思っているのに。
こんなはずではなかったのに,という後悔に押し潰されそうになる。

波が引いてゆく時のように,急速に僕の中の『なにか』が体から離れようとしていた。
一度離れたら……きっともう戻れないだろう。
唐突に 一気に僕は悟った―――もう「帰れない」ことを。

「何故ようやく気づいたのに…」



 僕は 死んでいく



「…死にたくない。…死ねば一人だ。どんな絆さえ届かない…もう一人は…」


わたしが あなたの敵になると思いましたか


(ああ……言えていない)

自分の親族を攘夷浪士に奪われたのに―――それでも,は攘夷浪士を…高杉晋助を助けた。
「君のしたことは,幕医としては間違いだったかもしれないけれど,とても尊いことだったよ」と。
「その行動を選ぶ君を,僕は誇りに思うよ」と。
立場上,僕は言えなかった。
それどころか―――僕は彼女を糾弾した。


 君は身内の命を攘夷浪士に奪われたのだろう?
 なのに攘夷浪士の命を助けるだなど…お人好しにも程がある。
 お人好しも度が過ぎると,愚かな行為に―――


僕がを真選組から遠ざけたのは,僕がひどく彼女を傷つけるようなことを言ったのは…
…事を起こす前に不安要素は一切取り除くだとか,彼女は屯所にいない方が傷付かずに済むだとか,
そういう尤もらしい理性的な理由ではなくて。
ただ―――腹を立てていただけだ。
が土方を庇ったことに。
嫉妬していただけだ。
癇癪を起こしていただけだ…まるで子供のように。
たったそれだけのことで,途方もなく彼女を傷つけた。



 君と僕との間には
 ここまで という境目が あって
 そこに 僕らは辿り着いてしまった

 こうなることは わかっていた
 きっと 出会ったその日から

 君をあいしたその日から



僕は おそらく初めから のことを好いていた。
そして,話すうちに 一緒にいるうちに もっと好きになった。


やがて複数の足音がこちらへ近寄ってきて,十番隊隊長の原田が僕を引き渡すよう少年達へ
厳格な口調で促した。
裏切者であり敗者の僕は,皆の前に晒され斬首されるのだろう。

少年は,先程の会話の中でなにかしら感じ取るものがあったのか,僕を連れてゆくことに反対
してくれたが―――決定は覆されない。
当然だ。
僕は それだけのことをしたのだ。
僕がしたことは そういうことだ。

原田が少年を諭し,少年がそれにさらに反対するが……最後には局長の近藤が「つれてゆけ」と
命じた。
その声が震えているように聞こえたのは,僕の気のせいだろう。

僕は2人の隊士から両脇を抱えられ,歩かされた。
彼らは,壊れる寸前の僕の歩行をほとんど介助する形となった。
もはや自分の足で歩くことも,極めて困難だった。

「……っ!」

暗い電車の中から外へ出ると,丁度山裾から東雲の光が滲み始めていた。
時が時,場合が場合なのに,とても美しいと感じた。
鮮やかで美しい―――僕にとって最後の朝空だ。
あの光が完全に姿を現す時 僕はもうこの世にいないだろう。

「……」

夜気を吸い込んだ冷たい大地に横たえられて,このまま身体が地面と同化し土塊になってしまい
そうだった。そして,その方が楽のように思えた。
穴だらけの体から血が止め処なく溢れ,黒い土を赤く染めてゆく。

うつ伏せになった僕の周囲を,隊士達が遠巻きに囲むのが気配で知れた。
その中から1人近付いて来る足音がして,僕の数十メートル先で止まった。

右手の先で,何か金属の落ちる重々しい音が鳴って,僕は緩慢に瞼を上げた。
抜き身の刀が 何故かそこにはあった。


「立て,伊東」


本格的な朝焼が始まろうとしている中,土方の低い声が響いた。


「決着つけようじゃねーか」


すべての感情の抑えられた静かな声音で,土方がそう言った。
何を言っているのか―――その言葉の意味がすぐにはわからず,驚きに目を開いた。

(『決着』だと……?)

震えながら体を起こすと,自分の前方に立つ土方の姿が,東雲色のぼやけた視界で揺れていた。
目の焦点を合わせることも,もはや難しいようだ。
しかし…僕を囲む真選組の空気自体が,1つの意思を強く伝えてきていた。



  これは『決闘』だ。
  罪人への斬首などではない。



(……馬鹿だな)


僕は―――もう 負けたのに。
君たちに。
とっくの昔に。
完全に 敗けてしまっていたんだよ。


自分の体とは思えないほど硬い両脚に力を込め,ぶるぶると膝を震えさせながら僕は立ち上がった。
残った右手で刀の柄を握り締めれば,傷口から血が零れて,足元を更に濃い赤で塗り上げた。

(本当に…バカなヤツらだな)

頬に 自然と笑みが浮かんだ。
僕は 先に逝くけれど。



  君たちは 一生そうやって生きてゆけば良いさ。



真っ白な朝日が昇り始め,薄紫色の空を清廉に照らし出した。
僕は一度土方の方に刃を向け 構えた―――震えは止まっていた。
土方も一度刃を横に薙ぎ払い 構えた―――迷いは微塵もない。

白金色の日光が 互いの顔に差し込んだのが 合図だった。


「土方ァァァァ!!!!」
「伊東ォォォォ!!!!」


己が血を踏みつけ,駆けた。

この壊れた体のどこにそんな力が残っていたのか。
きっと蝋燭の炎が消える寸前に再び大きく燃え上がるのと,同じなのだろう。
今ここに 武士としてのすべてを―――



―――駆け抜けて一閃。



鮮血が噴き出た。
斬られたまさにその瞬間 の微笑が頭をよぎった。


でも,決して嫌いにはなりません。ずっと好きです。


引導を渡してくれた仲間を振り返ってみれば―――
―――彼から金色の糸が 僕に向かって発せられていた。

その美しくも強い光を放つ糸は,たしかに僕と土方を繋いでいた。
彼だけではない。
近藤や沖田や他の隊士達も,眩しいばかりに輝く糸で強く僕と繋がっていた。

切らないでいてくれたのだ……その糸を。
僕の方から断ち切っても。
彼らは 切らないでいてくれた。

涙が 零れた。


「が…とう」


僕には得られないと思っていた『絆』の存在を,今なら確信できる。


「あり…がとう」


ありがとう―――やさしさを分けてくれて。
僕がいなくなっても きっと君達なら僕を忘れないでいてくれる。

憶えていてくれるね―――君も。



海に…つれていって下さい。伊東さんの故郷の



ああ―――帰りたい。
君の元へ。帰りたい。



 僕は『幸福』を感じたことがない
 おそらく そういうものに
 頑なに 耳を傾けて来なかったせいだ
 目に見えぬ不確かなものに
 意味など無い と思って来たせいだ


今 この時は 紛れもなく幸福だ


 でも―――

 でも 君になら
 僕の幸福を あげてしまってもいい
 そう本気で 思ったんだ

 もし僕がそう言ったなら
 君はきっと怒るだろうけれど

 僕の気持ちを わかって欲しい
 お願いだから

 君だけは わかって。



僕の幸福をすべて 君にあげるから。

だから どうか…
僕の死を知った君が 決してひとりで泣きませんように。
誰かに その涙を拭ってもらえますように。


昇る朝日が僕のすべてを照らし出した時―――僕は倒れ伏した。


どこからか―――波の音が聞こえてきた。


これは故郷の浜辺で聞いていた波の音だろうか…?
それとも,彼女と二人で共に歩いた海の…?


波音は徐々に僕の方へ近付いてくる。
いや―――ひょっとすると 僕が波の方へ近付いていっているのかもしれない。



きっとですよ



帰りたい。帰りたい。僕は―――



(僕は帰るよ…)


暗くなる視界の中,ぼんやりと彼女の姿が見えた気がした。
その姿に向かって僕は告げた。



 ただいま 。



穏やかで 懐かしい 波音の中へ。
僕は 永遠に 吸い込まれて行った。













誰かに呼ばれた気がした。

「…?」

遠くで誰かがわたしを呼んだような気がして,目が覚めた。
覚醒したばかりであるはずなのに,わたしの意識はとてもはっきりしていた。
布団から出て窓の外を窺うと,丁度朝日がこれから昇るところだった。そして,

「…チビ?」

朝日に向かって座っているサバトラ猫の後姿が見えた。
まるで日の出を見守っているかのように,チビはじっとそちらを見たまま動かない。

「どうして…」

わたしは身支度もほとんどせず庭に出て,チビの方へ近寄った。
隣にわたしが立っても,チビは少しも動こうとしなかった。
ただ白く輝く朝日に向かって,悲しそうな声で一度だけ鳴いた。


 ……。



「!」

ふいに優しい風に体を包み込まれた。
その温かな感覚には憶えがあった。

それに……
この香りは……


「…伊東さん?」

わたしが呆然とその名を呼んだ時,「さん」と後ろから突然声をかけられた。
びくりとして振り返ると,御寺の御住職が慌てた様子でこちらに駆けて来た。

「松本先生からお電話です。急ぎの御用みたいですよ」
「了順先生が…急ぎの?」

(謹慎中のわたしに入る急ぎの用って…それに…先生もまだ謹慎中のはずでは)

嫌な予感がした。
チビの方を見ると,彼女もまたこちらを見上げていた。
わたしと目が合うと「早く行って」とでも言うように,短く鳴いた。
胸が早鐘のように打つのを抑えながら,わたしは寺の中へと駆け戻った。
玄関のすぐ正面にある電話の受話器をとって,

「もしもし…了順先生?」
「。至急屯所に戻って来なさい」
「…え?」

了順先生の声は,酷く張り詰めたものだった。
言葉の意味がすぐには理解できずにいるわたしに,了順先生は重々しく続けた。

「今しがた戒厳令が出された。情報を他所に洩らさない,信用のおける医師のみが屯所に集め
 られている。負傷者の数に対して,医師の数が圧倒的に足りない。だから君も戻るんだ」
「何が…一体何があったのですか」
「こちらもまだ詳細な情報は来ていない。だが…局長一行が武州へ向かう道中,鬼兵隊の襲撃
 を受けたとの一報があった」
「そんな…!」

思わず息を飲んだわたしに,了順先生はさらに恐ろしい事実を告げた。

「そして,その鬼兵隊と内通していた者達がいた……伊東君だ」
「!」


  きっと君は…僕がなにをしても,僕を見放さないんだろうね


「それで…それで,近藤さんは?…伊東さんは!?」
「,落ち着くんだ。近藤局長は負傷しているが無事だ。伊東君は…」

聞きたくない。
そう 思ってしまった。

どうしてだろう―――聞く前から そう思った。

「伊東君は…」



伊東鴨太郎は 戦死した。




2016/04/17up...