竹の皮で編まれた草履が,全力疾走を強いられた結果悲鳴をあげている。
真選組屯所から寺までの約一駅分をひたすらに駆けたのだから,無理もなかった。
僕自身も汗が目に入って沁みるし,呼吸が酷く乱れているしで散々な有り様だった。
思い返してみれば,何も考えずにただ衝動だけでこんなにも走ったことなど,元服して以降とんと無かった
気がする。
僕は苦しい呼吸の最中だったが,それに反して頭の中は非常にクリアになっていて,それでいて胸の奧が
高揚もしていた。不思議な感覚だった。
目的地の前に辿り着いて,身なりを整える時間も惜しんで寺の門を足早にくぐった。そして――
「!!」
――会いたくて仕方がなかった人をみつけた。
まさか門を入ってすぐに会えるとは思っていなかったので,僕の声はさながら絶叫のように境内に響き
渡った。
前栽の側に屈み込んでいたは,びくっと肩を跳ねさせてこちらを向いた。
「伊東さん…?」
信じられないものを見た,と。
彼女の双眸が驚きの色で染まった。
の唇が僕の名を紡ぐことに,なぜか途方もない感動を覚えて,情けなくも泣きそうになった。
そうだった,と僕は再認識する。
彼女は ただそこにいるだけで 僕をはっとさせてくれる人だった――いつの日も。
「ど,どうして…」
は瞬きすらせずに,真っ直ぐに僕を見つめた。まるで,一度でも瞼を閉じれば,僕がたちまち
消える幻だとでも思っているかのようだった。
彼女は立ち上がり,僕は前へ進んだ。
僕たちの距離は,手を伸ばせば届く近さとなった。
雨後の朝日に照らされたの髪が,頬が,睫毛が鮮やかな輪郭を帯びていた。
今朝のような雨上がりの透明な日差しが,にはとてもよく似合う。
いつだったか…2人で1つの傘に入って歩いた日にも,今と同じことを思った。
「僕は…」
彼女に言いたいことが沢山あった。
しかし,何を言うかまでは決めていなかった。
それでも――
「僕は武士だ」
――くるおしいほど伝えたい思いは,自分自身よくわかっている。
「僕には望むものがある。それを手に入れるためなら,どんな労も厭わないし,どんな犠牲だって払う。
いつだってそうだった。きっと…きっと,これからもそうだ。だから…」
真っ直ぐに僕を見つめてくれるその目から,今度は逃げない。
もう二度と 逃げるものか。
「だから,君にも謝らない。僕にはどうしても譲れないものがあるんだ」
「…」
「後悔がないわけじゃない。しかし,ここで止まるわけにはいかない。僕の望みは,もう僕だけのもの
じゃないんだ。僕は…」
いつだって 何だって 受け止めてみせる。
「僕は…また君を傷つけるかもしれない。でも…それでも――」
ああ本当に…雨上がりの空が,本当によく似合うひとだ。僕の――
「君が好きだ」
――僕の いとしい君は。
「『わたしが伊東さんのお母さんだったら…』って。以前,そう言ったのを憶えていますか?」
「憶えているよ」
即答だった。屯所の外回廊に2人並んで残照を眺めたあの日を,僕が忘れるはずがない。
『彼女のようなひとが母だったら良かったのに』と思うと同時に,自分にとって『特別な女性』として
を意識したあの夕暮れを。
「わたし,伊東さんのお母さんになります」
は僕の両手を握って,泣き出す前のような顔で,笑った。
右手に感じる彼女の左手は,左手に感じる彼女の右手は,温かくて柔らかかった。
「伊東さんがなにか悪いことをしたら,叱りとばしますよ。叱って叱って叱りまくります」
人は温かい生き物なのだな,と。
当たり前のことに目頭が熱くなった。
「でも,決して嫌いにはなりません。ずっと好きです」
それが母親ってものでしょう?
は照れくさそうにはにかんで,握った僕の手を離そうとした。
僕はそれよりも早く両手を引っ張って,彼女が前のめりになった勢いのまま強く抱きしめた。
「伊東さん!わたし,草むしりをしていたので…着物に泥が…!」
「君がお母さんになったら,きっと怖いだろうな。怒った君は,とても怖いから」
「なっ…」
「でも,決して嫌いにはならないよ。ずっと好きだ」
「!」
今僕の腕に抱かれている小さな体は,僕にとって一番大きな存在だ。
生涯それは変わらないだろう。
たとえこの身が滅んでも,彼女が幸せでいてくれるのなら本望だと思えた。
そう思えることに,僕自身も喩えようのない幸福を感じた。
「もし僕がなにか良からぬことをしたら,きっと君は怒るだろう。でもそれは優しさを含んだ怒りだ。
怒っていても君は優しい。君は誰かのために怒るから。僕のために…叱るから」
ずっと長い間,僕は彼女のような人を――いや「彼女のような人」ではなくて。
を,ずっと待ち続けていた気がした。
と会うことを,焦がれるほどに待ち望んでいた。
故郷の浜辺でひとり泣いていた幼い頃の自分に「大丈夫だ」と今言ってあげたかった。
君はこれから先,素晴らしい人と必ず出会うから。
優しくて温かくて 愛しくて仕方がないと思う人と 必ず出会えるから。
だから――泣かないで。
「きっと君は…僕がなにをしても,僕を見放さないんだろうね」
そう言った瞬間,僕の目から涙が流れ落ちた。
僕の涙は,の髪の毛にぽたりと落ちて丸く光った。
「もし僕が女性に生まれていたのなら,君のような女性になりたかった」
「…前にもそう言ってくれましたね」
の腕が僕の背中に回されて,ぎゅっと抱きしめてくれた。
背に感じる彼女の手のひらは,慈しみに満ちていて,僕をもっと泣きたい気持ちにさせた。
「最高の褒め言葉です」
震えて上擦った声が,彼女もまた泣いていることを伝えていた。
2人共泣いてしまっていることが,面映いような照れくさいような,なんともいえない心地だった。
でも,2人一緒なのだから嬉しいとも思えた。
の体の方が僕より小さいし…年だって僕よりも若いのに。
こうして彼女に抱かれていると,僕はまるで親鳥の羽にくるまれている雛鳥になったかのように思えた。
これ以上ないくらいに『安寧な場所』にいる――そういう風に思えた。
やがて――が体を少しだけ離して,涙で赤くなった目で僕を見上げた。
「伊東さん…やっぱり良い香りがしますね…ずっと同じ衣被香を?」
「うん。同じ香りをずっと使っているけれど…でも今日は…汗臭いんじゃないかな。早朝稽古の後,
ここまで走って来たから」
我ながら随分と思い切ったことをしたものだ。
思い切ったというか…考えなしというか。
ちょっと冷静になってみると,恥ずかしくて顔が赤くなってきた。
はそんな僕をくすっと笑って,
「たしか…明日から武州へ行かれるんですよね?」
「…うん」
明日のことを思うと顔が歪みそうになるが,なんとか踏みとどまった。
明日の僕は――にとって大切な者達を殺すだろう。
「いつお帰りになります?」
「どうだろう…予定がずれ込むこともあるから,はっきりしたことは言えないが…」
近藤や土方らを亡き者にし,全て鬼兵隊の襲撃によるものであると偽装し,帰還する――
「予定では10日後に帰るつもりだよ」
「…わたしの謹慎もちょうど終わっていますね」
それもそのはずだ。事がある程度片付いてから,が屯所に戻るようにと謹慎期間を設定したのだから。
「わたし――駅までお迎えに行きます」
「迎えに?君が?」
「はい」
「…ありがとう」
僕の腕の中で微笑むに,僕もまた笑い返した。
「いいものだね…誰かが自分を迎えに来てくれるってことは」
今まで誰にもしてもらったことがなかった。
そして,それがどれほど悲しいことなのか――僕はもうわかっていた。
「あ!それから…武州からお帰りになったら,」
は目を輝かせて,でも少し躊躇いがちに僕を見上げた。
「海に…つれていって下さい。伊東さんの故郷の」
「!」
幼い頃の泣いている自分は,今もなおあの浜辺にひとりで座り込んでいる気がした。
彼女と一緒に行ってあげれば――きっと泣き止んでくれるだろう。
きっと笑ってくれるだろう。
「前に言ってくれたでしょう?いつかわたしにも見せてあげたい,て」
「…うん」
故郷の海は,僕にとって特別だった。
でも――と一緒に行けば,また違う『特別』になるだろう。
「色々なことが一段落したら,休みをとって行こう」
とても善い意味の――『特別』に。
「一緒に行こう」
「きっとですよ」
ゆびきりのかわりに――僕らはどちらからともなく口付けを交わした。
そうすることで,お互いの思いを,言葉などよりもずっと早く,ずっと深く届けることができた。
僕がこの手を離しても――は去っていくことはない。
そう信じられるから,僕は自分から彼女を離すことができた。
「じゃあ…また」
「はい。お気をつけて」
雨上がりの空の下,が笑って手を振った。
僕も手を振り返して――
それが――最後になった。
あなたがくれたものは すべて切ない
あなたは いなくなってしまったから
もう 帰っては来ないから。
2016/02/10up...