喜びも,悲しみも,
温かさも,冷たさも,
美しい夕暮れも,曇り空も,

あなたがくれたものは すべて切ない



残照  <十四>



何をきっかけとしたのかはわからないけれど,ふとした拍子に浅い眠りから覚めた。
閉じた瞼の裏側に『現実』が少しずつ浸透してきて,それが飽和状態になった時,わたしはゆっくりと
目を開いた。
瞼を上げた瞬間,目尻から涙が一筋零れていった。
ここ最近の目覚めは常にこの調子だ。
悲しい夢でも見ていたからなのか,それとも悲しい現実を思い出したからなのか,目が覚めると必ず涙が
零れた。
今の私には,どちらが原因なのかわからなかった――どちらも原因になりうる。

「…良い天気」

御寺の窓から差し込む朝日に目を細めながら,わたしは布団をよけて身体を起こした。
まだ早朝と言っても良い時刻を掛時計は示していたけれど,もう起きることにした。
今のわたしは二度寝を楽しむような心の余裕はないし,そもそも夜の睡眠もいつも浅いのだ。
起きて体を動かしている方が,気が楽だった。
布団を早々に片付け,顔を洗って着替えを済ませて部屋を出た。

「…青い」

襖戸を開いてすぐ視界に飛び込んできたのは,雨上がりの澄んだ瑠璃色の空だった。
梅雨入りが発表されて以来ずっと雨が続いていて,おそらくつい先程までもそうだったのだろう。
青空には割れた雨雲が散り散りに浮かんでいた。御寺の屋根から滴る雨水が朝日を透して煌くのを,
わたしはしばらくの間じっと眺めていた。


  あなたは,わたしに,ここにいて欲しくないのですね


静かになじるような雨の降るあの日――わたしは伊東さんに初めて憎しみを感じた。
伊東さんが…わたしを邪魔に思い真選組から遠ざけたがったこと。
そのために,攘夷志士に治療を施したという半年以上も前の件をわざわざ持ち出したこと。
そして――わたしの行為を責めながらも,伊東さんの瞳の奥には深い悲しみがあったこと。

この人はわたしにゆるされたいのだな,と感じ取った時不思議と笑いがこみ上げてしまった。
わたしを傷つけながら,「それでも僕をゆるしてほしい」と泣くだなんて 本当にひどい。
あまりにも酷い人だ。
ひどくて――かわいそうなひと。


  わたしが あなたの敵になると思いましたか


伊東さんを「憎い」と確かに思った。
でも,それは厳密には「初めて」抱く感情ではなく…今までもわたしの中にあったものの変貌だった。
伊東さんを「愛しい」と思う慕情が,「憎い」という感情に姿を変えただけだった。
おそらく伊東さんを好いていなかったなら,こんなにも憎いとは思わなかったはずだ。
「愛情と憎悪は表裏一体」とか「可愛さ余って憎さ百倍」とかよく言うけれど――
――まさか自分がこれほど痛烈にそれを感じることになるとは思わなかった。


  君は身内の命を攘夷浪士に奪われたのだろう?
  なのに攘夷浪士の命を助けるだなど…お人好しにも程がある。
  お人好しも度が過ぎると,愚かな行為に――


「…ひどいひと」

あの攘夷志士を助けた夜――わたしは伊東さんのことを思い浮かべたからこそ,そうしたのに。
わたしは本心では,攘夷志士など助けたくはなかったのだ。母達を屠ったのは他でもない攘夷志士達だ。
彼らを一生ゆるすことはできない。
わたしは聖者にはなれない。でも…


――もし,僕が女性に生まれていたのなら…君のような女性になりたかった。


そう言ってくれた彼に,軽蔑されたくなかった。幻滅されたくなかった。
だから,助けた。
それでも自分のやったことが果たして正しかったのか,苦悩していたわたしを何も聞かずあの夜抱き
しめてくれたのは,他でもない彼ではなかったのか。
彼のために,わたしは清廉な人間でありたいと思った。
彼に誇れる自分でありたかった。
だから…それなのに…



「馬鹿な。全然『清廉』じゃないくせに…」



結局はただの わたしのひとりよがりだ。
わたしは自嘲をひとつ溢して,御寺の玄関へと足を運んだ。
いわゆる「自宅」を持たないわたしの謹慎先となったのは,真選組屯所から一駅ほど離れたところに
ある御寺だ。
なんでも,真選組と昔から懇意にしている御寺だそうで,わたしを預かることを御住職に頼んでくれた
のは近藤さんだった。屯所からそう遠くない場所を謹慎の場所としてくれたことに,近藤さんの深い
情けを感じた。
わたしは謹慎が解けるまでの3週間,この御寺の門を出てはいけないとされていた。
3週間ここで御住職の手伝いをし,それが無い時は写経をしたり座禅を組んだりして過ごすことになって
いた。


――ちゃんを,どうかよろしくお願いします。


柔和な微笑を浮かべる御住職の前で,近藤さんは深々と頭を下げてくれた。
わたしは謹慎を受けるのだからそれは少しおかしいのではないか,と思ったけれど…でも,その優しさは
とても嬉しかった。
近藤さんの顔に泥を塗らないように,わたしはここでしっかり働かなければ。

「さてと…」

玄関で草履を履いて,着物の袖をたすき掛けにして境内に出た。
何気なく息を吸い込むと,雨の名残を感じさせる湿った空気が鼻腔を満たした。雨に濡れた石畳の匂いを
美味しいものとして感じられることに,安堵した。
数日前の張り詰めた自分は,そんな気持ちすら持ち合わせていなかったのだから。
わたしは填めた軍手の裾をぐっと引き下げて,寺の門の側にある前栽まで歩を進めた。
前栽の下の雑草がかなり伸びてしまっていたので,雨上がりで土が柔らかくなっている今むしってしま
おうと考えていた。

(…この木,桜なんだ)

しゃがみ込んで雑草を少しずつ取っている内に,目の前に植えられた木が桜であることに気付いた。
背の低さや幹の細さを見るにまだ若い木なのだろうけれど,それは確かに桜だった。
真っ白な朝日の中,雨に濡れた葉桜は雫をさらさらと散らしながら輝いていた。

「桜の栞…伊東さん,見たかな」

そう独りごちた自身の声は,自分でも驚くくらい心細そうだった。

謹慎処分を下された後,その場所として指定された御寺で暮らすため,わたしは必要最低限のものを
バッグに詰め込んだ。
荷物の整頓をする際に最も思い悩んだのは…伊東さんから借りた本をどうするべきかということだった。
もう既に全て読み終わっていて,近日中に返そうと思っていた矢先の謹慎処分だ。
とてもではないが,伊東さんに直接手渡しで返すことは実情的にも心情的にも出来そうになかった。
かといって,そのまま部屋に放置しておくのも,なんとなく気が滅入った。

(どうしよう…)

荷物整理の手を止めて,わたしは本を開いた。
ぱらぱらとページをめくると,文章のところどころに線が引いてあるのが目に入った。
伊東さんが引いた線の上に,わたしもまた線を引いたのだった。
物語を追いながらも,鉛筆で真っ直ぐに引かれた線を見かける度に…あの人はこういう文章を良いと
思うのだ,と。
あの人は こういう文章に心を動かされるのだ,と。
あの人は こういうことを美しいと思うのだ,と。

そしてそのことを知るたびに…ああ 愛しいな,と。



「馬鹿…!」



嗚咽の隙間から漏れた罵りの言葉が,頬を伝う涙が,彼に対してのものなのか,自分に対してのものなのか,
それともこの状況そのものに対してなのか,自分でもわからなかった。
涙は何の答えも与えてはくれなかった。

わたしはひとしきり泣いた後,桜の花弁で作った栞を本に挟んだ。
伊東さんが京都に出張し,わたしが屯所に留まっていた際に,電話で共に『花見』をしたことがあった。
その時にわたしが眺めていた診療所裏の桜の花を,押し花にして残しておいたのだ。
後日,伊東さんが栞を集めるのが実は好きだと知って,その押し花を使って栞を作った。
本を返す時に栞も一緒に手渡そうと思っていたのだが…
…わたしは結局,近藤さんに本ごと全て預けることにした。
栞を見た伊東さんが,少しでもわたしの気持ちを汲み取ってくれたら良い――そう切望した。

「…」

わたしは溜息をついて首を横に振った。
診療所裏の桜とちょうど同じくらいの背丈の葉桜を見て,つい栞のことを思い出してしまった。
気を取り直して草むしりを再開し,抜いた雑草が桶の半分くらいまで溜まったその時,

「…えっ?」

前栽と前栽の間から小さな影がふらりと現れ,思わず声をあげた。
よく目を凝らして見ると,草葉の隙間からこちらを窺う2つの黄色い目があった。
鼈甲飴のような眼の持ち主は,「にゃーん」と桃色の舌をのぞかせて鳴き声をあげた。

「…チビよね?どうしてここに?」

その猫は,屯所の庭へ足繁く通って来るサバトラ猫だった。
以前,彼女がまだ子猫だった頃,足の裏に棘が刺さっていたのを,伊東さんと一緒に抜いてあげたことが
あった。
それ以来,他の猫達共々よく屯所へ来るようになり,時々ご飯をあげたり頭を撫でたりもしていた。
飼っているわけではないのだけれど,伊東さんもわたしも,子猫だった彼女のことをいつの間にか「チビ」
と呼ぶようになっていて,立派な成猫となった今もそう呼び続けていた。
チビは1~2m先の前栽の間から,わたしの方をじっと見て,もう一度喉を鳴らして鳴いた。
…ここも彼女の縄張りなのだろうか。
屯所とこの御寺はそれほど遠いわけでもないので,十分有り得た。
自由に屯所と御寺を行き来できる彼女が,謹慎の身にはとても羨ましく思えた。

「チビ…おいで」

わたしは軍手を外して手を差し伸べたけれど,どうしてかチビは踵を返して走り去ってしまった。
その瞬間,



「!!」
「…っ」



ここでは決して聞けるはずのない声が,わたしの名を呼んだ。