僕は『幸福』を感じたことがない
おそらく そういうものに
頑なに 耳を傾けて来なかったせいだ
目に見えぬ不確かなものに
意味など無い と思って来たせいだ
でも――
残照 <十三>
屯所の屋根を叩きつけるかのように激しい雨だれが,夜明け前から早朝の今に至るまで,ずっと鳴り響い
ている。
梅雨入りが発表されて以来,久しく太陽の光を見ていない。屯所内にこもる湿気もとっくに飽和状態で,
壁や天井のそこかしこがじっとりと濡れていた。日の光ではなく,人工的な照明の明かりの中に佇む
色々な物の影が,物言いたげにぼんやりと床に浮かび上がっていた。
雨の日がこうも続くと,なにもかもが薄暗く見えて仕方がなかった。
(…薄暗く見えるのは,本当に雨のせいか?)
気が付くと,僕は自分自身にそう問いかけていた。
突然頭に浮かんだ自問に驚き,僕は筆を持つ手をぎゅっと強く握りしめた。
なにを馬鹿なことを考えているのか…一体他に何のせいだというのか。
人が1人いなくなっただけで,まるで光が消えたかのような心持ちになっている,とでもいうのか。
(…)
彼女に謹慎処分を下し,ここから遠ざけたのは,他でも無い僕自身だ。
【真選組所属の医師でありながら攘夷浪士を幇助・治療し,それを報告しなかった責により,
3週間の謹慎処分とする】
にそう言い渡したのは局長の近藤だが,処分内容を実質検討,決定したのはこの僕だ。
僕自身が彼女を屯所から遠ざけた。
僕の隣から遠ざけた。
彼女がいなくなったことに心を痛める資格など,僕には有りはしない。
僕は――事が終わるまで,はここにいない方が良いと思った。
それには3つの理由があった。
1つ目に,は隊士への影響力を少なからず持っていて,『伊東派』か『土方派』か決めかねている
人間を,図らずも後者へ引き入れる力をもっていたからだ。
2つ目に,僕と親しい仲にありながら,そうやって土方を庇う発言をする彼女に対し,『伊東派』の
者達は反発・不満を強めていたからだ。
そして,最後に――ここにいない方が,が傷付かずに済むと思ったからだ。
真選組から離れていれば,僕の悲願が成就した際の,彼女にとって『仲間達』の死を,近くで見ずに済む。
そして,事がある程度片付いてから,呼び戻そうと思った。
それが――『3週間』だった。
(明日の夜…近藤は武州へ発つ)
僕の同志達と共に。
そして――近藤は2度と帰って来ない。
彼の右腕である土方も,いつ裏切るとも知れない沖田も,『伊東派』の周りを嗅ぎ回っている山崎も。
逆らう者は皆,粛清する。
彼らの死と同時に,これまでの真選組はこの世から消える。
あなたは,わたしに,ここにいて欲しくないのですね
(そう思ったことなど,一度としてない…!)
不意に,が僕を詰る声が甦り,頭の中で僕は激しく否定の声をあげた。
思わず筆先に力が入り,半紙に墨が散ってしまった。
この書簡は書き直ししなければならない,と深い溜息が溢れた。
「…酷い筆跡だ」
書簡を改めて見返すと,墨のとんだ箇所以外の文字も,自分が書いたとは思えない程乱れていた。
これではどのみち書き直しだったな,と再び深く息をついた。苦い思案がすべて凝縮されたかのような
重々しい吐息となった。
わたしが あなたの敵になると思いましたか。
そんなことは,思わない。
むしろ――君だけは,僕が何をしても,僕がどうなっても,僕の味方でいてくれる,と。
甘えにも近い信頼を抱いている。それなのに…
「…煩い」
自分の思考に向かって舌打ちし,僕は立ち上がった。書き損じた書簡を細かく割いて捨て,扉を開き
執務室から出る。廊下に立ち込める湿気の匂いを深く吸い込み,僕は道場へと足を向けた。
++++++++++++++++++++
雨音だけが滲む静謐な道場で,僕はひとり竹刀を振り続けた。
まだ朝早い時分,道場には僕ひとりだけだ。
竹刀を振っている間は,雑念のすべてを打ち払うことが出来た。
竹刀の空を切る音は,立ち込める雨音をもいとも簡単に裂いた。
僕の額に汗が少し浮かび始めた頃,道場の入口にひとつの気配があった。
その人物のまとう空気は,決して敵意とか憎悪などといった不穏なものではなく,むしろ穏やかに凪いだ
ものだったが,それでも僕にはすぐに感じ取ることができた。
僕が気配を感じない程に気をゆるしているのは,だけだ。
「おはよう,伊東先生。朝から精が出るなぁ」
その男――近藤勲は,静かな微笑を浮かべ,僕に話し掛けてきた。
「おはよう,近藤さん…何か用でも?」
僕は竹刀を一度完全に振り下ろし,道場の出入り口に立っている近藤を見やった。不意に汗が目に入り
そうになり,袖口で軽く瞼をおさえていると,
「少し,話せるかい?」
近藤はいつもの大らかな笑みを零し,僕に問いかけた。
それは,彼独特の人好きのする笑顔であったが,有無を言わせぬ強制力もはらんだものだった。
――そろそろ来ると思っていた。
「…ああ」
近藤は,決して馬鹿というわけではない。
土方の更迭,それに伴う『伊東派』と『土方派』の決定的な分裂,さらには僕と親しい仲にあるとされた
までもが謹慎処分をくだされた。
一連の流れが,すべて僕から発されているものであることくらい,人の良すぎるこの男でも察するだろう。
「構わない。そろそろ休憩しようと思っていた」
――しかし,僕の野望を,僕の渇きを察することは出来ないだろう。
この男には,わからない。
いつも,いかなる時も,明るい日の元を歩いてきたこの男には。
「すまないな,稽古の邪魔をして」
近藤は謝りながら,僕にタオルを差し出した。素直に礼を言ってそれを受け取り,顔を拭きつつ,
「いや。そろそろ休憩しようと思っていた」
「あ。さっきも同じことを言っていたな」
「…君が言わせたんだろう」
「ははっ。そうか?」
面白そうに破顔して,近藤は道場の隅にある長椅子に腰掛けたので,僕もそれにならって,隣に腰をおろした。
僕がタオルで首を拭いている間,近藤は黙っていた。
開いた道場の窓から,雨音と共に湿気た重い風が忍び足で入って来る。
「ちゃんから預かった。この本を君に返しておいて欲しい,って」
「…っ」
しばらくして,近藤はおもむろに紙袋を僕へ手渡した。
そう来るとは予想しておらず内心驚いたが,それを悟られたくなかったので,僕は努めて平静を装った。
「…ありがとう」
紙袋の中を見ると,十日程前にに貸した本が入っていた。
正確には,僕の部屋を訪ねてきた際に,自らが選んで持って行った本だ。
口づけを交わしたあの日から,まだそれほど日数は経っていないのに,もう随分と時が過ぎてしまった
ような気がした。彼女がこの本を読み終わったのが,謹慎処分を言い渡されるより前だったのか,それとも
後だったのか…それが気になった。
「本当はもっと早く渡すべきだったが,なかなかそういう機会が無かった。すまないな」
「…いや」
「松本先生も,今はいないからな」
「…ああ」
弟子であるの謹慎処分を受けて,松本先生も自らの意思で,自宅謹慎を申し出た。
「は私の愛弟子であり,部下だ。部下の責任は上司の私がとるのが必然だろう。責は私が受ける」
松本先生は淡々とそう言ってのけた。それを当然と思っているからこそ,平坦な口調で言い切ることが
出来たのだろう。
は自分の家を持たないため,真選組と懇意にしている寺に謹慎しているのに対し,松本先生は
自宅にて謹慎することになった。今,屯所内医療所には,臨時で別の医師が派遣されて来ているが,前の
2人の謹慎処分を知ってか知らずか,隊士達とは積極的に関わろうとはしなかった。
ただ,「身体の不調を診ること」だけに従事していた。
や松本先生がそれだけに従事してくれていたのではない,と改めて気が付いた。
「伊東先生は,ちゃんが出て行く時,見送りには出られなかったな」
「…仕事が立て込んでいた」
本当は――遠目には,見送ったけれど。
「ああ。わかっているよ」
「…」
あれは,一日中雨の降り止まぬ日だった。
雨煙に溶け込む彼女の背中は,遠目に見ても,痛々しい程真っ直ぐに伸びていた。
きっと 悲しいだろうに。
きっと 泣きたいだろうに。
「ちゃんが松本先生に言っていたよ」
「…え?」
きっと 僕を恨んでいるだろうに。
「『伊東さんを嫌うな』と」
「!」
――了順先生。伊東さんを嫌わないでくださいね。
――わたしは傷つきましたけれど…きっと,伊東さんも傷ついてる。
ひょっとしたら…わたしよりも。
なんとなく,そんな気がするんです。
――わたしは大丈夫です。伊東さんを嫌わないであげて下さい。
きっと 深く傷ついただろうに。傷つけられただろうに。
それでも,彼女は僕を見捨てないでいてくれるのか。
そんな存在を,僕は今まで持てなかった。
そんな愛情を,僕は今まで知らなかった。
「あいされているな,伊東先生」
「…」
近藤が僕の左肩を,手のひらでゆっくり2度叩いた。
さながら「俺もあんたを嫌いにはならないよ」とでも言われた気がした。
――そんなことを言ってもいいのか?
僕は――君を 殺そうとしているのに。
「伊東先生は今,幸せか?」
「は?何を…随分,唐突に?」
立て続けに思い掛けないことを言われ,動揺を隠すことがもはや困難になってきた。
僕は,声が裏返りそうになるのだけは堪え,近藤に訊き返した。
自分の喉がからからに渇いていることに,今更ながら気付いた。
「俺は幸せだよ」
言葉に違わぬ明るい笑顔で,近藤は言った。
嘘偽りを全く感じさせない,ごく限られた人間にしか出来ない笑顔だ。
本当に幸福を感じている者にしか出来ない,真の笑顔だ。
「己の信じるものの為に剣を振るうことが出来て,大切な人達を守ることが出来て…それを支えてくれ
る仲間もいる。仲間というか悪友みたいな奴らだけどな,皆」
「…」
「俺は幸せ者だよ」
「…僕は,」
その後の言葉をすぐに続けることが出来なかった。
自分が幸福であるかそうでないか,今まで考えたこともなかった。
いや――考えないようにさえ していた。
たとえ幸福ではなくとも,己の才覚で頭角をあらわしてゆけるのなら…
…それで 僕は 本望だ。
「僕は…恵まれている」
それなのに,何故か焦点の合わないぼんやりとした声しか出せなかった。
「幼い頃は『神童』と呼ばれ,大人になった後も『俊士』と評価を得てきた。僕は…」
うむ 見事だ 鴨太郎!!
まったくたいしたものだな
お前は我が学問所始まって以来の神童だ!!
調子に乗ってんじゃねーぞ 勉強しかできないボンボンがよ!!
この齢にしてこの剣筋……努力したな
鴨!!江戸へゆけ
私が名門北斗一刀流の道場に推挙してやる!!
こんな田舎ではお前の才気が潰れてしまう
お前なら かの剣豪 宮本武蔵を超えるのも不可能ではないぞ!!
僕と奴等は住む世界が違う
僕は選ばれた人間なんだ
なんでみんな 僕を見てくれない
こんなに 頑張ってるのに
僕は何も悪くないのに
あんな子 生まれてこなければ 良かったのに
「僕は…才能もあったが,それに見合う努力もしてきた」
「ああ…伊東先生は立派な人だ。皆が皆,努力を出来るわけではない。努力をすることが出来るのも
才能だし,その努力を実らせたなら尚更見事だ」
よく理解しているよ,という風に,近藤は深く頷いた。
(…やめてくれ)
僕は 君を 殺そうとしているんだ。
僕は 君の 敵なんだ。
君は 僕の 敵なんだ。
何故――気付かない?
「それで…幸せになれそうかい?伊東先生」
近藤は突如笑みを引っ込めて,酷く真剣な眼差しを僕に向けてきた。
その眼差しで,人の眼を貫けそうな。
そして,自分の眼もまた傷を負いそうな。
酷く差し迫った,強い眼差しだった。
「伊東先生が,心から望んできた幸せは…本当に『それ』だったのか?」
この男は――気付いているのか?
――僕の野望を。僕の渇きを。
「僕の幸せなど…君には,」
「俺に関係は無いとしても,ちゃんにはあるだろう」
「…っ」
鳩尾を突かれたような気がした。
意思とは無関係に目蓋が自ずと開かれ,息が喉に詰まった。
思わず近藤から目をそらしたが,彼の強い視線が僕の横顔を射抜き続けているということは,痛い程に
感じ取ることが出来た。
「関係無いとは言わせないぞ,いくら伊東先生でも」
「…」
わたしが伊東さんのお母さんだったら…そんな思い絶対にさせなかったのに
涙を拭ってあげたのに。一緒に泣いてあげたのに
あなたの泣き場所になってあげたのに
屯所の回廊に2人並んで座ったあの日の夕暮れを,僕は思い出していた。
僕らは,天に浮かんだ夕日と,水面に映った夕日を,双子の太陽になぞらえた。
「僕は天の夕日。兄は水面の夕日だ」と,あの時僕は彼女に言ったが…果たして本当にそうだったの
だろうか,と今は思う。
本当は,逆なのではないか…と。
兄が天の夕日で,僕は水面の夕日だったのではないのか。
風に撫でられたら揺らめくしかない,儚い水面の夕日なのは,むしろ僕の方ではなかったか。
そして――彼女は,そんな弱い僕のことも受け入れてくれたのではなかったか。
肯定してくれたのではなかったか。
残照に照らされ朱に染まったの微笑が,一瞬の光のように胸を過ぎった。
「松本先生からの伝言だ」
「…?」
「『私はを自分の娘のように思っている』」
それを聞いた瞬間,胸の奥底が重く冷え込んだ。
松本先生もさぞや僕に怒りを抱いているだろう,と…こうなることは分かっていたのに,そんな気持ちを
もつ資格も僕には無いのに,大きな苦しみが押し寄せてきた。
そんな僕の心を知ってか知らずか,近藤は一度だけ首を横に振り,言葉を続けた。
「『伊東君が幸せでないと,も幸せではないだろう。だから…』」
近藤の浮かべた微笑が,松本先生のそれと重なって見えた。
「『だから,私は伊東君の幸せも祈っているよ』だそうだ」
…そうか。
そういう形の祈りも,この世にはあるのか。
そういう形の優しさも,この世にはあるのだな。
僕は――知らないことばかりなのだな。
殊に 「愛情」に関しては。
「稽古の邪魔をしてすまなかったな,伊東先生」
近藤は先程と同じように僕の肩を叩き,立ち上がった。そうして振り返ることなく,道場から静かに出て
行った。
彼が去ってしまった後も,しばらくの間僕はそのまま座っていた。
「それでも もう 後戻りは出来ない」という強い思いが,僕の身も心もがんじがらめにした。
僕には,野心があるのだ。
そのために自分に出来る最大限の実行を常にして来たし,それに賛同してくれた多くの同志達もいる。
自分の力を世に知らしめたいという野心は,武士として生きてきたからには…いや,男に生まれたからには,
誰もが一度は思い描く夢だろう。しかし――
「…」
僕は,先程手渡された紙袋から書物を1冊取り出して,何とはなしにページをぱらぱらとめくった。
そして,その手は『あること』に気付いた瞬間ぴたりと止まった。
(僕が引いた線の上に…また別の線が引かれている?)
僕は,本を読んでいる時に「良い」と思った文章や言葉の横に,鉛筆で薄く線をつけるようにしていた。
この本も例に漏れずそうしていたのだが,僕が書いた線の更に上に,薄くではあるが鉛筆で線が引かれていた。
まるで,僕の引いた線を,なぞるかのように。
こんなことをする人物は,ひとりしかいない。
「?」
ここにいない彼女の名を呼んで,思う。
が本を借りていったのは,ただそれを読みたかったからという理由だけではなく…
僕という人間が,何に心を動かされるのかを理解したかったからではないか…と。
それは,自惚れなどではないはずだ。
「…栞が?」
更にページをめくると,見覚えの無い栞が挟まれていた。
その栞はいかにも『お手製』といった風で,少しいびつな形をしていた。そして,
「これは…桜か?」
栞の真ん中に,薄紅色の花弁が1枚貼られていた。
――今から一緒にお花見しませんか
(あの時の…?)
僕が出張で京都にいて,彼女は屯所に残っていた時に,電話で共に『花見』をしたことがあった。
あの時の桜を,彼女はこうして押し花にして残していたのだろうか。
それを使って栞を作ったのだろうか。
そして,その栞を…僕に。
どんな思いで――
両足がバネにでもなったかのように,僕は勢いよく立ち上がっていた。
足元にタオルが落ちたが,拾っている時間も惜しかった。
すぐに―― 今 すぐに。
背中を押されたかのように,僕は一気に走り出した。
道場を飛び出し,中庭を駆け抜けて,正門から屯所の外へと転がり出た。
門番の2人が何かしら叫んだような気がしたが,構ってはいられなかった。
たとえ心臓が破裂することになっても,肺が潰れてしまっても,そのまま全力で走るつもりだった。
僕に愛情をくれた その人のもとへ。
のもとへ。
すぐに 今すぐに
会いたい
彼女に
会いたくて 仕方がない
それしか考えられなかった。
こうして駆け抜けていると,身体が風の中へ散り散りに溶けてゆくような気がした。
少し前まではあんなに激しく降っていたのに,いつの間にか雨はすっかり止んでいた。
雨上がりの夏めいた青空は,氷を粉々に砕いて散りばめたかのように,鮮やかに美しかった。
僕は『幸福』を感じたことがない
でも――
でも 君になら
僕の幸福を あげてしまってもいい
そう本気で 思ったんだ
もし僕がそう言ったなら
君はきっと怒るだろうけれど
僕の気持ちを わかって欲しい
お願いだから
君だけは わかって。
2015/08/16up...