僕は 彼らをあいしている君を あいした
途方もなく あいしていた








翌日になってもまだ雨は降り続いていた。一片の隙間も無く灰色の雲で覆われた空を見る限り,いよいよ
本格的に梅雨入りするのだろう。
蜘蛛の糸のように細く,柔らかな雨が無音で降り注ぎ,雨というよりも霧のようだった。こうして部屋で
座しているだけでも,畳や障子,座布団にまとわりついた湿気の匂いによって,梅雨の訪れを強く感じず
にはいられなかった。

「失礼する」
「失礼します」

一声と同時に襖が開かれ,2人の人物が部屋の中に入って来た。

「松本先生,それに…さん。どうぞ座ってください」

その2人に声をかけたのは僕ではなく,局長の近藤だった。これから話すことが事なだけに,彼の口調も
固く強張っていた。
今日ばかりは,いつもの『ちゃん』という親しげな呼び方ではなく,名字呼びになっていた。
が襖を閉め,松本先生の隣に座った。
この部屋にいるのは,僕と近藤,松本先生,そしての4人だけだ。
僕と近藤が横一列に並んで座り,座卓を挟んで向かい側に,松本先生とが座った。
近藤が咳払いをひとつして,おもむろに口を開いた。

「急にお呼び立てして申し訳ない。お忙しいのに」
「いえ,そちらこそ。色々と慌しいことになっているようで」

松本先生の言葉には,いくらか皮肉が含まれているのかもしれなかった。
先生は土方の更迭が決まった際,のように表立って反対するようなことはしなかった。
かといって,賛成したり同調したりするようなことも言わなかった。
だから,今の真選組の状況について,彼が心の中でどう思っているのかはわからない。
今の言葉にしても,純粋な労いの意味しかないのかもしれない。
しかし…皮肉や棘が無いという確信も持てない。
これが年の功というものなのか,松本先生は決して胸の内を誰にも悟らせなかった。

「お互いに多忙な身ですし,余計な前口上は無しにしましょう。私だけでなく,も呼ばれたという
 ことは…何か余程のことがあったのでしょう?」

松本先生が淡々と話を促すのに対して,その隣に座るはいくらか緊張した面持ちで背筋をぴんと
伸ばしていた。
これから起こることで,この表情がどう変わるのか――僕は予想することが出来なかった。
いや…予想したくなかっただけか。

「ああ…それが…」

近藤が言い淀み,僕に視線を寄越した。
僕は感情という感情を全て鎮め,真正面に座るをじっと見据えた。
は戸惑ったように瞬きをしたが,視線を外すようなことはしなかった。

「それでは,単刀直入に言います。さん」
「はい」

いっそのこと目を逸らしてくれた方が楽だったかもしれない…しかし,それは只の僕の身勝手だ。



「あなたが攘夷志士と内通している,と一般市民の方から通報がありました」



ああ やはり――こちらから目を逸らしておくべきだった。
の双眸が,困惑から驚愕へと色を変えてゆくのを,僕は直視せざるを得なかった。
そして,彼女の瞳に映っている僕自身の冷淡過ぎる貌に,軽く眩暈を覚えた。
こんな表情を,僕は彼女に向かって今しているのか。

「…え?」
「なにを馬鹿な」

吐き捨てるように言ったのは,他でも無い彼女の師だった。松本先生は腕組みをして大きく溜息をついた。

「馬鹿馬鹿しい。なにを根拠にそのようなことを。がそんなことするはずがないだろう」

自分の弟子にかけられそうになっている汚名を,松本先生は何の躊躇も無く一蹴した。
無条件に信じてくれる己が師の言葉に背中を押されたのか,も衝撃からいくらか立ち直って,首を
横にきっぱり振った。

「内通などしていません。なぜそのような通報があったのか,わかりかねます」
「…そうか」

僕はひとつ頷くと,自分の横の畳に置いていたファイルを座卓の上に乗せた。6つの目がファイルへ集中した
のを確認し,僕は静かな声音で切り出した。

「さん,去年の10月15日のことを憶えていますか」
「…いいえ」
「…急に言われても憶えているわけがない,伊東先生」

近藤がをそこはかとなく庇うような言い方をしたので,僕は顔を顰めそうになった。
我々は今,彼女を処断する側に立っているというのに,半端に庇うようなことを言うな,と。
そういう性格の甘さがこの男の命取りなのだ,と。
僕は近藤の言をほぼ無視するような形で言葉を続けた。

「では,説明しましょう。10月15日,さんは午後から半休でした。
 それで昔馴染みの患者さんを訪ねた後,団子屋で近藤局長,土方元副長,沖田隊長の3人と偶々会った」
「…思い出しました」

そこまで言われたところで,は数度頷いた。
空間に浮かぶ記憶のパズルピースを集めるかのように目を泳がせて,

「昔の患者さんからお葉書をいただいて,半ドンの日に往診がてらその方のお宅にお邪魔させていただ
 いて…その後,局長達に会いました」
「局長達と会った後は,どうした?」

誰かを追及することが,こんなにも苦しいと思ったことは未だかつて無い。
でも,僕には苦悩を抱く資格も権利も無い,ということはよくわかっていた。
だから,少しの迷いも容赦も無く彼女を責めているように,そう見えるように振る舞うしかなかった。

「お団子を食べて…それから…そう,お香屋さんに。局長達とお知り合いの万事屋さんがお店番をして
 いらっしゃるお香屋さんに行きました」
「その後は?」
「書店に寄って…夜には屯所に帰りました」

ほんの一瞬,の瞳が不自然に震えた。
そこには『嘘』による揺らめきが確かにあった。
彼女も――思い当たったらしい。
その夜の行動に,責められる可能性のある行為が含まれていることに。
だからこそ,彼女はそれを口にしなかった。
僕はの目の動揺を確認し,先程座卓の上に置いたファイルを開いた。
そのファイルに挟まれていたのは――10月15日の医療用品管理表だ。

「これは,10月15日の外出の際,君が持って行った医療用品のリストだ」

真選組は武闘派集団とはいえど腐っても『公僕』であるがゆえに,備品の管理・出納については厳密に行われ
ている。医療用品についても例外ではなく,いつどこで誰に何の為にどれだけの量を使ったか,記帳しておく
ことになっている。今回のように屯所外へ医療用品を持ち出した場合も,同様だ。

「…包帯と生理食塩水,白色ワセリンがかなり減っている。何故だ?」
「…」
「それについては,往診の際に緊急で使ったと私は聞いている」

口をつぐんだの代わりに,松本先生が答えた。

「緊急のこととはいえ,真選組のために支給された医療用品を,民間人に使ったとなると問題がある。だから,
 使ってしまった分の用品については,後でが自費で補充したはずだ。管理表にもそう書いてあるだろう」

立板に水とはこのことだろう,すらすらと答える松本先生の隣で,は押し黙ったままだ。
先程に比べて彼女の顔色は青ざめているが,横に並んでいるため松本先生はそれに気付かないらしい。
は自分のついた嘘を,師が信じて疑っていないことに多大な罪悪感を抱いているに違いなかった。

「確かに書いてあります。往診の際に緊急で使った…と。しかし,それは妙だ」

僕はから視線を外し,弟子の為に矢面に立たんとしている松本先生に向き合った。

「往診先の方に確認しました。その日どこか怪我をしたのか,と。しかし,特に怪我などしていない,というお話
 でした。それどころか,ここ1年間には特に怪我や病気もしていない,と」
「…なに?」

松本先生は心底不可解だとでも言うように,眉間にくっきり皺を寄せた。そして,そのままの方を見やり,
彼女の顔色の悪さに気付いて目を見開いた。近藤は僕の隣で,を見たり松本先生を見たり僕を見たりと,
落ち着き無く視線を散らばしていた。

「通報の内容は,正確にはこうだ」



    
    怪我を負っていたところを助けてもらった。それだけだ。
     



「『真選組の医師見習いが,攘夷志士の手当てをしているところを目撃した。彼女は内通しているのではないか』」
「馬鹿な…!」

殆ど悲鳴に近い声をあげた松本先生には構わず,僕はを視線で縫い付けるかのような心持ちで見据えた。

「攘夷志士の怪我を治療したね?」
「…」

閉じた唇の中では,歯を食いしばっているのかもしれない。
はきゅっと口を一文字に結んだまま,何も言わない。
俯いたまま,僕と目を合わせようとしない。
逃げ場の無い息苦しい沈黙の中,雨の音が先程よりも強くなった気がした。

「待ってくれ」

堪り兼ねたかのように松本先生が声をあげた。

「仮にがどこの馬の骨とも知れない人物の怪我を手当てしたとしても…そいつが攘夷志士だと知らずに
 治療したということも考えられるだろう」
「お言葉を返すようですが,通報者によるとその男は帯刀していたとのことです。帯刀している以上,そいつは
 幕臣か攘夷浪士かの二択しか有り得ない。怪我をしていたのが幕臣だったのなら,さんは我々にすぐに
 連絡するでしょう。しかし,そんな連絡はなかった。それは…その男が幕臣ではなかったからだ」

僕にとっては想定内の弁解だったので,それに対する反論はすぐに出来た。
松本先生は言葉に詰まって口を閉じ,の方を伺った。
はじっと目を伏せていたが,先生の視線を受け取ったかのようなタイミングでゆっくりと顔をあげた。
数分ぶりに合った彼女の目は静かに凪いでいて,僕に感情を読ませなかった。

「2つ質問をしても良いでしょうか」
「なんだい,さん」

応じたのは近藤だ。「君が違うと言うのなら俺は信じるよ」とでも言いたげな,極めて気遣わしげな声音だ。
は近藤と僕の両方を見て,

「通報者の方は,何故わたしが真選組の医師見習いだとわかったのですか?」

感情的な訴えの含まれない落ち着いた口調だったし,質問の内容もそうだった。狼狽えて取り乱してもおかし
くないのに,顔色の悪さを除けばは少しも動じていないように見えた。
今日こうして糾弾されることなど全く予想もしていなかっただろうに,どうしてそこまで冷静でいられるのか
問うてみたいくらいだ。

「通報者は以前,届け物をした時に屯所内に入ったことがあり,その時に君を見ていたそうだ」

近藤は寄り添うかのように穏やかな声風で,彼女の1つ目の問いに答えた。

「『真選組に若い女性がいるのは珍しい』とかなり驚いたそうだ。隊士に『あれは一体誰か』と訊くほどに。
 隊士から医師見習いであることを聞いて,さらに強く印象に残ったそうだ」
「そうですか…」

無感動な頷きを返し,はひとつ息をついた。溜息は一層強まった雨音の中に沈み,消えていった。

「では,もう1つの質問を。その方は何故今になって通報をしてきたのですか?10月15日なんて,半年以上も
 前のことを」

2つ目の質問も,驚くほど理性的なものだった。突然告げられた話において不自然な点や曖昧な点を瞬時に
洗い出し,それらを問いただす…誰にでも出来ることではない。
それに対して,僕はあらかじめそういう質問がされることも想定していたので,用意していた回答をただ述べる
だけだ…卑劣と罵られても文句は言えまい。
は一切の感情を封じ込めた視線を,少しの揺らぎもなく僕に注いでいた。
僕はせめてその視線から逃げるまい,と目を決して逸らさずに言った。

「その時すぐに通報しようとしたらしいが…目撃した後,通報者のお身内に突然の不幸があったとのことだ。
 それで慌しくしていて,忘れてしまっていたと…」

僕のその答えを耳にした瞬間,の目に熱が宿り,食い入るように凄烈な眼つきになった。

「そして,今になって思い出して通報してきたということですか?半年以上も経っているのに,わざわざ?」

不意に――はけたたましい声をあげて笑った。
首を後ろに反らし,肩を上下に揺らし,片手で口元を押さえ,痙攣まで起こしかねないような高笑いだった。
彼女がそんな風に笑うなど,思ってもみなかった。
僕ら3人は唖然として彼女を見つめていたが,

「…」
「ごめんなさい,了順先生…可笑しくなっちゃって」

一足先に我に返った松本先生に声をかけられると,は噛み捨てるかのように笑いを止めた。そして,

「江戸の住人の皆さんも,存外おせっかいですこと。最近の人々は指名手配犯の顔も名前も知らない,
 それどころか隣に住んでいる人のことも知らない,犯罪にも政治にも無関心な人々で溢れ返っている
 …と。そんなニュースを見たことありますけど。半年以上も前に見かけた攘夷浪士のことを,わざわざ,
 今になって通報してくださるだなんて。見上げた正義感ですね」

皮肉をたっぷり込めて早口に言い連ねると,燃えるような激しい眼差しで僕を見据えた。
情けない話だが,僕は初めて目にした彼女の激情に,その時はただただ度肝を抜かれていたのだが,つい先程
までの彼女の静かさは『弓引き』の間のそれだったことに思い至った。
『怒り』という名の『矢』をつがえ,放つまでの――あの静かさだったことに。

「あの日の包帯や薬の減り方まで調べていらっしゃるなんて,本当に念入りですね。そこまでしなくたって,
 あなたから訊かれていたら,わたしは素直に答えていたと思いますよ」


   あなたから 訊かれていたら


その強烈な矢は,僕の心臓の中心を痛烈に射抜いた。
矢には「あなたを深く信頼していたのに」という恨みの毒が,これでもかというくらい塗り込められていた。
胸に広がる毒の苦痛に堪えながら,僕はなんとか科白を吐き出した――先程も言った,その科白を。

「攘夷浪士を……治療したね」
「はい。治療しました」

呟きを少し大きくしたくらいの声しか出せない僕に,は凛とした声ではっきりと頷いてみせた。
先程までの死人のように青白かった頬が,今は赤子のように紅潮していた。
それは僕への怒りのためか,憎しみのためか…彼女の双眸は赤く染まってさえ見えた。
こういう激しさをもった女性でもあったのだ,と今更ながらに気付いた。

「ちゃん!」
「!」
「たとえどんな人でも,血を流している人を放ってはおけません。それに,刀を突きつけられていました。
 治療しないわけにはいかない状況でした」

の告白に,近藤と松本先生が口々に悲鳴を上げたが,彼女は動じなかった。
自分の信念を宣言すると同時に,冷静な弁明もやってのけた。
それは,今この状況で彼女が出来うる最善の返答だ。
しかし――僕は彼女を潰さなくてはならない。

「だが,その後屯所へ戻った時に報告すべきだったのではないか」
「そうでしょうね」
「それなら……!」

僕が言葉を繋げようとした瞬間,の目がふっと翳った。
そして,自嘲と嘲笑のどちらをも含んだ,世界の理すべてを馬鹿にするかのような笑みを浮かべた。
かと思えば,怒りの炎と悲しみの涙の両方を滲ませた目で,僕を真っ直ぐ見据えた。
限度を超えた悲しみが怒りへと変わったのか。
それとも,限度を超えた怒りが悲しみへと変わったのか。


…やめてくれ。
そんな目で 僕を見ないでくれ。


「伊東先生は,わたしを追い出したいのですね」


やめてくれ
そんなことは ないから
そんなこと 思っていないから


「あなたは,わたしに,ここにいて欲しくないのですね」


ここにいて欲しい

僕を 1人にしないでくれ
隣にいてくれ


「わたしが あなたの敵になると思いましたか」



僕の隣で
この手を
握ってくれ



「君は身内の命を攘夷浪士に奪われたのだろう?」



雨音が あんなにも 激しい
空はどれほど曇っているのだろう

空を 見たい
天を 見上げたい

君と共に
雲ひとつない 天を

ふたりで



「なのに攘夷浪士の命を助けるだなど…お人好しにも程がある。お人好しも度が過ぎると,愚かな行為に――」
「伊東君!」

松本先生の鋭い声が飛んだ。
はっと我に返って目を見開く。
僕は今――何を言った?

「…」

の顔色は蒼白になっていた。
驚愕したとか打ちひしがれたとかを超越して,感情全てが抜け落ちたかのような,空洞のような目で僕を見ていた。
いや,僕を見ているのかどうかも怪しかった。
彼女は完全な虚脱状態になっていて,ただ光の反射により自身の眼に僕の像を映しているだけだった。

「医師として…」

それでも――彼女の唇は一切の誇りを捨てなかった。

「医師として,恥ずべき行為は何もしていません」

言い切る彼女は,本当に立派だった。
おそらくこの場にいる誰よりも。
見事だった。



「処分をお受けします」










君のことを思い出すと 後悔することがたくさんある。
もっと 色々なことを話したかった。
もっと 君のことを知りたかった。
所詮は 人の人生なんて 悔いることばかりなのかもしれない。
でも――君と出会ったことは 少しも後悔していない。

後悔しないことが1つでもあって よかった。
それが君で 本当によかった。



君と僕との間には
ここまで という境目が あって
そこに 僕らは辿り着いてしまった

こうなることは わかっていた
きっと 出会ったその日から

君をあいしたその日から



2015/02/27up...