君と僕との間には
ここまで という境目が あって
そこに 僕らは辿り着いてしまった
残照 <十二>
湿気を含んだ生温かい風が,屯所の回廊の木床を撫でつけている。皐月下旬の風は弱く,庭の木々を
揺り動かすことはせず,雨滴を孕んだ湿気でただ枝葉を包み込んでいるだけだ。空はまるで障子紙が
貼られてあるかのように白く平坦で,ところどころに薄灰色の雲がぼんやりと浮かんでいた。
虫でも捕らえたのだろうか,燕が地面すれすれのところまで滑空し,黒い曲線を描き急上昇していく
のが横目に映った。
(ついに…やったぞ。あの男を更迭してやった)
優越感が腹の内側で疼き,我知らず口角が上がりそうになる。「鬼の首をとったかのように嬉しい」
という言葉はあるが,『鬼の副長』と恐れられた男をクビにするのも相当愉快なことだ。
土方さえいなければ,あのお人好しの近藤を排除するのは造作も無い。既に隊士の半分は,僕の側に
ついている。残りの半分も,純粋な土方派かというとそうでもない。土方のここ最近の愚行に辟易
している者が少なくないし,彼を信じる者達も土方を失い動揺している。
それに――僕の後ろには鬼兵隊もいる。舞台は整った。
いよいよだ――近藤勲を暗殺し,真選組を我がものにする。
(…この伊東鴨太郎が 器を天下に示すための 方舟となってもらう)
「納得できません」
凛とした声が前方から響いてきて,僕は思わず歩を止めた。偶然ではあるが,その言葉はまるで僕の
考えを真っ向から否定するかのようなタイミングだったので,一瞬だけだが身も竦んだ。そして,
その声の持ち主から批判されたり,非難されたりすることは,僕にはとても痛手になるのだと思い知ら
されもした。
回廊の曲がり角より数メートル先で,一番隊隊長・沖田に食って掛かっているのは,紛れもなく
だった。僕は角を曲がることはせずに,壁に背をつけて彼らの会話に耳をすませた。
「どうして土方さんが更迭されなければならないんですか?今まであんなにも真選組のために尽くし
てきた方が…納得できません」
『食って掛かっている』というのは些か不適切な言い方だったかもしれない。の口調はそれほど
強いものでもなければ,厳しいものでもなかった。むしろ彼女の語気は落ち着いていて,教師が教科書を
丁寧に朗読しているかのようだった。しかし,口調こそ冷静だったが,声がいつもよりもだいぶ低く,
憤りや怒りといった感情で固くなっていた。
そんなの前で,沖田はいかにも軽くといった風に肩を竦めてみせた。
「仕方ねェよ。もう決まったことでさァ」
「でも,」
「待ちなせェ」
反論しかけたを片手で制すると,沖田は腕組みをして傍の壁に背中を預けた。
「なァ,嬢。あんたは土方さんの謹慎処分に不満を持ってるみてェだけど…冷静に考えてみなせェ。
この数週間で,あの野郎がいくつの局中法度を破ったと思ってんだ」
「それは…」
「本来なら即切腹もんだぜ,切腹。更迭で済んだだけマシってもんでさァ。実際…」
沖田は腹に刀を刺す動作をしてみせた後,少しだけ声を低くして続けた。
「実際,伊東さんは切腹を強く推していたしな」
「!」
その言葉を聞いた途端,は平手打ちでも喰らったかのような表情になった。そのことに僕は動揺を
禁じ得なかった。言葉こそ沖田の口から出たものだが,彼女にこんな表情をさせたのは他の誰でもなく
この僕だ。
違うんだ,と言いたかった。
君にそんな表情をさせたかったわけじゃないんだ,と。
は憤りを我慢するかのように唇を噛み,
「沖田さんも…変だとお思いなのでしょう?土方さんが,急にあんな風になったこと」
「…」
沖田の肩が僅かだがぴくりと跳ねた。見ようによっては,動揺したように見えなくもなかった。
僕は先日彼が言っていたことを思い出した。
――土方さん,妖刀に取り憑かれてあんなフヌケになっちまったみてェで。
まァ嘘みてェな話なんで,信じる信じねェは伊東さんに任せまさァ。
その時は何を馬鹿なと一笑にふしたが,確かにそういう突拍子もない理由でも無い限り,土方のあの
突拍子もない有り様は信じ難いものがある。
それに――僕は土方を疎ましく思いつつも,自らの好敵手と認めてもいる。
彼自身の意思ではなく,別の理由で腑抜けていてくれた方がマシだ。
「きっとなにかあったんです。きっとそうです。そうじゃなきゃ,あの土方さんが…」
「嬢」
再び沖田はの言葉を途中で無理やり切らせた。腕組みを解き,人差し指を自らの口につけて,
「悪いこたァ言わねェ。あんた,この件についてもう喋らねェ方が良い」
「どうして…」
問い返そうとした矢先,は何かに思い当たったのか,ふっと唇を歪めた。それは,いつも素直な
笑顔を浮かべる彼女には,大変珍しい自嘲気味な笑みだった。
「そう…ですよね。隊士でもないわたしが,隊内のことに口を挟んでも,皆さんを不愉快にさせるだけ
ですし…無駄なことで,」
「そうじゃねェ。逆だ」
「え?」
これで三度目になるが,沖田はの言葉を遮った。両手を腰に置き,彼は「わかってねェな」とでも
言いたげに溜息を吐いた。
「あんたは自分で思ってるより,隊士達に影響力を持ってんだよ。だからだ」
「そんなこと…」
「聞きやしたよ?土方さんの陰口叩いてた隊士に説教した,って。それでそいつらは反省した,って」
それは――僕の耳にも事前に届いていたことだった。
土方への不審を口にしていた隊士達に,が『武士の忠節』を説いていた,と。
また,それは1回のことでない,と。
その度に,隊士達は土方への忠義を呼び起こされている,と。
真選組に来て1年余りの間に,彼女は自分の予想以上に隊士達からの信頼を得ていたということだろう。
しかも,どこから広まったのかは定かでないが,僕との仲は,隊内で公認のものになりつつある。
僕と親密な間柄にある彼女が,僕と対立関係にある土方をかばうような言葉を唱えているとなると――
――その言葉の力は絶大だ。
彼女の言葉は極めて『公平』なものとして,隊士達に届く。届かざるをえない。
「説教なんて…わたしはただ,自分の思ったことを,」
「とにかく」
四度目――沖田はの言葉を阻んだ。
「とにかく,これ以上土方さんをかばわない方が良い。じゃねェと…」
彼は僅かだが言い澱んだ。なんでもかんでも歯に衣着せぬ言い方をする彼には,珍しいことだ。
2人共互いに珍しい言動をしているということが,いつもとは違う表情を見せているということが,
この言い合いの落としどころの無さを,2人の余裕の無さを表していた。
「あんたにとって一番大事な男と,対立しちまうことになるぜ」
「!」
はっきりと傷ついた表情をが浮かべたので,僕の胸はまたもや酷く痛んだ。
水面に墨が一滴落とされたかのように,じわじわと罪悪感や焦燥感が心に広がってゆく。
自分の信念に,自分の決断に後悔や未練は一切ないのに。
自分は間違ったことをしたとは思わないし,悪いことをしたとは全く思わないのに。
自分の行いのせいで彼女が苦しむことになってしまった,ということには良心の呵責を強く覚えた。
は体の中心に重りをつけられでもしたかのように項垂れ,やっとの思いと言った風に声を出した。
「それは…どういう意味でしょうか」
「嬢。あんたは頭の良い女だ。だから…わかるだろう?」
「…」
曇り空がここまで落ちてきたかのような,鉛色の沈黙が辺りを覆った。放たれた言葉は,全て地面に
沈んでしまった。あの雨雲の流れる音さえ聞こえるのではないか,と思える程の静けさだった。
押し黙った2人の間には,まるで大勢の溜息を凝縮させたかのように重苦しい空気が停滞していた。
そんな重い静寂の中で――はゆっくりと顔を上げた。
予想に反して,彼女の表情は悲しんだり打ちのめされたりはしていなかった。
むしろその眼差しはあまりに強く,尊い信念が込められているように見えた。
志をもって,己の戦いに挑んでゆく…気高い眼差しだ。
争い事を好みそうにない彼女が,そんな表情をするだなんて意外だった。
「沖田さんは,これで良いんですか?」
彼女の語気は,責めるようにも詰るようにも聞こえた。でも,決してヒステリックな声ではなかった。
浮き沈みのある感情ではなく,確固たる理性に裏打ちされた口調だった。
「土方副長を排して,近藤局長と伊東参謀の体制になることが1番良いとお考えなのですか?あなたが
そう思っているのだとしたら,とても意外です。あなたは,土方さんと仲が良さそうにはお世辞にも
見えませんでしたが,かと言って,伊東さんに気を許しているようにも見えませんでしたから」
――鋭いところを突いて来る。もはや感動すら覚える。
が男であったなら,と初めて惜しくなった。
が男であったなら,迷わず真選組に引き入れただろう。そして,自分の右腕にしただろう。
実際には,彼女が女でないと別の意味で僕はとても困るのだが,この時ばかりはそう思った。
直に責められた,否「攻められた」沖田も,驚いたように目を見張っていたが,やがて面白い物でも見つけ
たかのようにニヤリと笑った。
「あんた,ホントに頭良いねィ」
笑い方はいくらか捻くれていたが,言葉自体は極めて素直な賛辞だった。
それから――彼は僕の予想の斜め上をゆく行動に及んだ。
「!」
「俺はもうちょっと頭弱い女の方が好きですぜ」
あろうことか沖田はの手をぐいと引っ張り,彼女の耳元で吐息たっぷりに囁いた。
即座に飛び出していって,2人の間に割って入りたい衝動に駆られたが,僕がそれを実行するよりも
先に,はやんわりと沖田を手で押して遠ざけた…どうやら僕よりも彼女の方が冷静らしい。
極めて淡々とした声音で,拒否の言葉を口にした。
「色仕掛けで誤魔化さないでください」
「ありゃバレた」
沖田は「おかしいねェ,他の女には割と効果あるんだけど」とどこまで本気かわからないことを呟き,
「けど,これは本当に忠告。これ以上,土方をかばわない方が良い。あんたは自分が思ってる以上に
頭良いし,隊士達から信頼もされている。あんたの言うことに耳を傾ける奴らも多い」
ぴっと人差し指をに向け,彼は双眸を細めた。
それは,人を斬る時と同じくらいに冷たい眼差しで,本気の『警告』ということがよく知れた。
「目をつけられやすぜ。アンチ土方に」
最後にそれだけ言うと,沖田は踵を返して僕がいる所とは反対側に去っていった。
後に残されたは,しばらく彼の背中を見送っていたが,じきに俯いた。
その横顔は,長い髪に隠れてよく見えなかったが,決して明るい表情ではないことはわかった。
そして――彼女にそんな表情をさせているのが,紛れもなく僕であるということも。
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数時間後,空は不穏な影を深め,濃い灰色へ染まり始めた。さざ波のような音を立てて,湿気をたっぷり
抱いた風が庭の樹々を渡ってく。その湿った生温い風の中で,顎を上向かせて匂いを鼻腔に入れると,
どうしてかやけに感傷的な気持ちになった。僕は縁側に座り,膝の上で伸びをしている猫の背中を撫でた。
(…梅雨がもうすぐ来そうだな)
「お前ももう帰った方がいいよ」
猫にそう促してみるが,彼女は(雌だ)知らんふりを決め込んで僕の膝に寝転んだままだ。
彼女に出会ったばかりの頃はまだぼんやりとした縞模様だったが,1年経った今では,黒色と薄灰色に
くっきり縞の入った立派な大人のサバトラ猫だ。
(そうか…もう1年弱経ったのか)
去年の梅雨明け頃,まだ子猫だった彼女の足に棘が刺さって,その手当てをに依頼したことを
思い出した。それは,遠い昔のことのようにも思えたし,つい最近のことのようにも思えた。
「伊東さん」
「…!?」
名前を呼ばれて目をそちらに上げると,今しがた考えていた女性がすぐ傍に立っていた。
こんなに近づかれるまで気付かないだなんてどうかしている,と自分自身に対して驚いた。
彼女の気配に慣れてしまったのだろうか。
これが「気をゆるす」ということだとすると,「気をゆるす」とはなんて無防備な状態なのだろう。
「あっチビちゃんだ」
は僕の膝の上に居座る猫を見つけて,にっこり笑った。しかし,その人懐こい笑顔を向けられた
猫はというと,ちらりと一瞥をくれただけですぐに元通りに伏せった。
「…チビってわたしのこと,嫌いみたい」
唇を尖らせてぼやくと,は僕の隣にすとんと座った。すると,猫は邪魔なものでも払うかのように,
尻尾をゆらゆらと揺らした。
…たしかに。嫌っているのかもしれない。
僕はちょっと可笑しくなって,猫の頭をくしゃくしゃと撫でて言った。
「に棘を抜いてもらった恩を忘れたのか,お前は」
「というより,ヤキモチ妬いてるのよね,チビは。伊東さんとわたしが仲良しだから」
「…そうなのか?」
「伊東さん,鈍いですね」
真顔で訊いた僕を,は「女心わかってないなあ」とクスクス笑った。
この僕を「鈍い」と評せるのは,おそらく彼女くらいだろう。でも,べつに嫌じゃなかった。
それにしても…猫の『女心』なんてわかる方が稀なのではなかろうか。
「…もう1年前になるね」
「早いですね」
何が,と問い返すこともなくは頷いた。
特に限定しなくても,思い出をちゃんと共有出来ていることがとても嬉しかった。
「そういえば,一つの傘に入って屯所へ帰って来たことが以前あったね」
「そんなこともありましたね」
「あれからもう1年過ぎたんだな…」
どうしてだろう。
どうして今日は――昔のことばかり僕は思い出しているのだろう。
彼女と口づけを交わした翌日は,お互い照れ臭いやら恥ずかしいやらでギクシャクしてしまったが…
その数日後に土方の更迭が決定したことで,そういう甘く面映い雰囲気に酔うことも無くなった。
は僕を見て顔を赤らめるのではなく,物言いたげな眼差しで訴えてくるようになっていた。
今日こうして話しかけてくれたのも,きっと…きっと僕に聞きたいことがあるからなのだろう。
「伊東さん,あの頃からずっと同じ香りを身につけていらっしゃいますね」
「うん。衣被香は長年同じ物を買い続けているよ。自分に合った匂いだと思うから」
「はい。よくお似合いですよ」
が僕に何を聞きたいのか――何を 聞きたくないのか。
僕にはわかっていた。
そのくらいは,彼女のことを理解しているつもりだった。
「君はあの可愛らしい傘をもう使わないのかい?猫の柄の。よく似合っていたよ」
「からかわないでくださいよ。あの傘は借り物でしたし」
「ああ,そうだったね。残念だな。似合っていたのに」
「…いじわる」
彼女は 真選組を あいしている。
局長の近藤がいて 副長の土方がいる真選組を。
一番隊隊長の沖田がいて 監察の山崎がいる真選組を。
皆がいる 真選組を。
そして僕は――彼女のあいするものを 今まさに壊そうとしている。
でも――
「あの日から,僕は雨を少し好きになったよ」
――譲ることは出来ない。たとえ,彼女を泣かせることになったとしても。
「あの日,君は言ったね。『もっといい人生があるかもしれない。でも,これはわたしの人生だから』」
これで良いんです。これが良いんです。
「僕もそうありたい。心からそう思うよ」
これが――僕の 生き方だ。
「伊東さん…」
「伊東先生!」
雨が一粒落ちてきた。
膝上の猫はぴくりと片耳を動かし,すっくと立ち上がって庭の方を見やった。そうしてまるで暇でも
告げるかのように一声だけ鳴き声を発すると,軽やかに跳ねるようにして庭の植込みへと走り去って
いった。
「…篠原君。どうした?」
唐突に声をかけてきた部下を振り返ると,なにやら切羽づまった表情をしてこちらに駆け寄って来た
ところだった。
雨滴はすぐにまた一粒,また一粒と落ちてきて,庭の土を濡らしだんだんと濃い灰色に染めてゆく。
「お話し中に申し訳ありません。実は至急の案件が…」
そう言いながら,篠原君はをちらりと横目で見た。その視線を受けた彼女は,気をきかせてすぐに
立ち上がった。
「わたしも診療所へ戻ります。洗濯物,取り込まないといけないですし」
「すまない,」
「いいえ。では」
は僕に笑いかけた後,篠原君にも小さく礼をして,名残惜しさを感じさせないきびきびとした
動作で去っていった。その後姿は,先程の猫と少し似ているような気がした。
「…」
「伊東先生」
彼女の背が完全に見えなくなったのを見届けた後,思い余ったかのように固い声音で篠原君が切り出した。
「単刀直入に言います。さんは危険です。
さんの考え方は,我々の目指すものとは相容れません」
彼の口からそういう言葉が出るのは,さして驚くようなことでもなければ意外なことでもなかった。
篠原君は以前から,彼女に対して懸念を抱いているようだった。
当初はの知性や勘の良さを認めていたし,勤勉さや真面目さに感心もしていた。
「伊東先生にはああいう聡明な女性がお似合いです」と応援までしてくれていた。
しかし,彼女が盲目的に僕を慕っているわけではないと知って…『伊東先生と恋仲であるにも関わらず
土方派に与する女性』と認識して,「裏切られた」に近い感情をどうやら抱いているらしかった。
「彼女はただ自分の考えを口にしているだけだろう。僕達に敵意を抱いているわけではいない」
「しかし,我々の味方でもありません」
篠原君は,僕の言葉に鼻息荒く反論した。彼にしては珍しく少々頭に血が上っているようだ。
「隊士の中には,彼女の言葉を聞いたことで,土方への不信感を消し,忠義を強めた者もいると聞きます。
さんが土方をかばう以上,彼女は紛れもなく『土方派』です」
「…」
「事の前に遠ざけておくべきだと思います」
「…そうか」
いきり立つ篠原君を前に,僕は無感動に頷いた。
いや「無感動」というのとは,少し違うか。
篠原君に言われるよりも前に――僕の肚はもう決まっていた。
だから,彼が僕にどうこう言おうとあまり関係がなかった。
どのみち,僕はもう――決めていた。
「そうだな」
彼女のあいするものを 壊すと決めた僕は
せめて 彼女が出来る限り傷つかずに済むように。
僕は出来る限りのことをする。
出来る限りのことを,したい。
曇天が 落ちて来る。