楽しそうな あなたにも
泣きそうな あなたにも
わたしは 会ったことがある

誤解されやすい あなたのことも
寂しがりやな あなたのことも
わたしは ちゃんと知っている



残照  <十一>



薄い雲が何層にも重なって,皐月の空を煙のようにたなびいていた。霞の雲は日差しを完全に遮る程の
厚さはないけれど,薄手のカーテンのように光を分散させて,地上をおぼろな明かりで歪ませていた。
診療室の窓から空を見上げ,わたしは深く溜息をついた。溜息の理由はいくつかあったけれど,今一番の
原因は,外から響いてくる噂話の声だった。

「最近の副長,様子がおかしくねェか?」
「おかしいなんてモンじゃねェよ。お前知ってるか?昨日,見廻りの途中で突然帰ったらしいよ,副長」
「帰った!?なんでまた急に?」
「それが…何かのアニメの録画予約を忘れていたから,とかなんとか」
「はあ?嘘だろ?…一体どうしちまったんだ,副長」

机上に開いた医学書へ意識を集中させようとするけれど,聞かずにいるのはとてもじゃないけれど無理
だった。彼らの話す内容は,それほど新鮮なものではなかった。むしろ,ここ最近隊士達の間で噂されて
いる話と似たり寄ったりの内容で,細部こそ違うものの,趣旨はいずれも共通していた。

――“土方副長がおかしい”――

「…」
わたしは読んでいたページに栞を挟み,そっと書を閉じた。

(いけない気がする…このままでは)

なにかが――大切ななにかが傷つき,少しずつ膿んでゆく気がした。
外からは見えない腑の一部が傷ついていて,そこから血液が徐々に流れ出し,体の内部に溜まってゆく
かのように。早くなんとかしなければならないのに,損傷箇所がわからない。
いや――わかっている。
どこに傷がついているのかも,誰がその傷をつけたのかも。
傷をつけたのは…おそらく,あのひとだ。
けれども,わたしはそれを認めたくなかった。 

「伊東さん…」

半晴半陰の空を見上げ,わたしはそのひとの名前を呼んだ。
そして,伊東さんが京都から帰ってきたあの日,体を引き摺るようにして屯所へ戻ってきた土方さんの
ことを自然と思い出していた。


++++++++++++++++++++++++++++


「『包帯を巻くな』って…どういうことかね?」

椅子に座るなりそう言った土方さんに,了順先生は静かな声で問い返した。今まさに包帯を棚から取り
出しかけていたわたしも,思わず手を止めてしまった。2人の方を振り向くと,苦々しく目を伏せている
土方さんと,柔らかな瞳で彼を見つめる先生の姿があった。

「言葉通りだ。今夜の酒宴が終わるまでは,怪我を負ったことを隊士達に知られたくねェ」
「何を馬鹿な…」
「何バカなこと言ってるんですか」

了順先生が言い終わる前に,わたしはぴしゃりと言い放った。眉間に皺を寄せこちらを見返してくる
副長につかつかと歩み寄り,

「土方さんらしくありません。『戦いに怪我は付き物だ。怪我は己の士道のために戦った証だ』って
 以前はそうおっしゃっていたじゃありませんか」

座っている土方さんに目線を合わせるため,わたしは少しだけ屈んだ。正面から視線がぴたりと合うと,
副長はさっと目を逸らしてしまった。土方さんらしからぬ動作に,わたしは内心戸惑った。たぶん了順
先生も,彼のその動作を不可解に思ったはずだ。診療室の掛時計の秒針だけが,何の感情も持たないまま
淡々と進み続けていた。

「今回のは…違う…」
「…え?」
「この怪我は…証なんかじゃねェ。むしろ…」

膝の上にある土方さんの手が,ぐっと拳に握られた。

「むしろ,醜態だ」
「…」

噛み締めた歯の隙間から,土方さんは言葉を洩らした。それは,ふとしたきっかけで嗚咽にも慟哭にも
転じかねない声音だった。彼は,なにか耐え難い苦痛に苛まれているようだった。それは負傷による
痛みなどではなく,多分もっと別の…もっと深刻な,屈辱的な苦痛だ。

「何か事情があるようだね」

了順先生もそれを察したのだろう,ゆっくり頷いてみせた。けれども,わたしの目から見ても土方さんの
怪我はかなり重いものだ。普通の人間であれば,こうして座って会話をするのだって無理なほどに。
刀傷こそなかったけれど,顔や体の随所に痣ができていたし,踏みつけられたという背中に至っては骨に
皹が入っていてもおかしくなかった。それにも関わらず,

「わかった」
「!…了順先生!?」

耳を疑う先生の言葉に,わたしは思わず叫び声をあげてしまった。しかし,了順先生は極めて落ち着いた
目で土方さんに確認した。

「『酒宴が終わるまで皆に知られたくない』と,そう言ったね。要は服で隠せない部分――顔や手に
 包帯やガーゼを当てなければ良いのだろう?」
「…ああ」
「服で隠れる部分については,相応の処置をさせてもらう。隠れない部分については,今は包帯や貼薬を
 付けないでおくが,酒宴が終わったらすぐここに来なさい。それと,お酒は飲んではいけない。恰好が
 つかないなら,水か何かでお酒を飲んだふりでもしていることだ。あと,空き時間にはなるべく氷嚢で
 患部を冷やすようにね。包帯を巻かなくても,腫れたらどっちみち怪我したことがばれるよ」
「…わかった」
「ちょっ…わたしは反対です!」

どんどん進んでゆく2人の話に,わたしは無理やり割って入った。

「お2人共どうかしています!そんないい加減な手当ての仕方をして,もし怪我が悪化でもしたらどう
 するんですか!そもそも…本来ならこのまま安静にしていなきゃいけない怪我なのに,酒宴に出るって
 こと自体,とんでもないことです!」
「怪我を治すばかりが医者の仕事じゃないよ,」
「でも!」
「患者の希望に沿った治療をすることも重要だ」
「それはそうかもしれませんが…!」
「」
「なんですか…!」

土方さんに名前を呼ばれ,わたしは憤慨した表情のまま彼を振り向いた。きっと何か言い返されるのだ
と思っていた。「余計なこと言うな」とか「お前は黙っていろ」とか。そういう風に返されるのだ,と。
でも,そこには――想像もしなかった,とても穏やかな眼差しがあった。

「…ありがとな」
「!」

ああ…男の人は なんてずるいのだろう。
そうやって,我侭に無邪気に微笑んで。
女がなにを言っても,結局そうして自分の意志を通すのね。

「お礼なら…」

わたしはどうしてか泣きたい気持ちになって,ぐっと目頭に力を込めた。開け放った窓の外から吹いて
くる春風が,今はとても疎ましかった。

「怪我を治してから言ってください」

そう言い返すのがやっとだった。了順先生とも,土方さんとも目を合わせず,わたしは彼らに背を向けた。
2人の視線が,とても優しい視線が自分の背中に向けられていることがわかったから,余計に辛かった。

「塗り薬,持って来ます」

必要以上にはきはきと宣言し,わたしは薬棚へと向かった。先生が土方さんに「いいコだろう?」と
誇らしげに耳打ちするのが聞こえてしまい,わたしはますます泣きたい気持ちになった。
なにに対して泣きたいのか,自分でもよくわからなかったけれど。


+++++++++++++++++++++++


(あの日,土方さんはきっと…自分の噂が流れるのを少しでも遅らせようと思って…)

もしくは怪我自体負っていないことにして,自分が浪士達に負けたことを無かったことにしたかったの
かもしれない。けれども,酒宴の後に土方さんが診療室を訪れた時,怪我の状態は芳しくないものだった。
包帯や貼薬を使用しないのは,もはやゆるされない状態だった。
そして――その日以降『副長の様子がおかしい』と噂が流れ始めた。

「しかも…副長,先日攘夷浪士に襲撃された時,土下座して命乞いをしたらしい」

――思わず立ち上がっていた。自分でも驚くくらいの勢いで。
膝裏の直撃を受けた椅子が,派手な音を立てて倒れた。窓を開けているし,音は外にも響いたのだろう。
噂をしていた人達の声がぴたりと止まった。ハッと我に返り窓外に顔を出すと,びっくりしたように
肩を竦めている隊士2人と目があった。

「うるさくして,ごめんなさい。椅子を倒してしまって」
「い,いえいえ。大丈夫ですか?お怪我は?」
「倒れたのは椅子だけですか?何か他に物が壊れたりとか…」
「大丈夫です!ご心配なく!」

わたしが首を振ると,2人は安心したようににっこり笑ってくれた。そう…決して悪い人達じゃない
のだ。ただ自分の聞いたことを,ただ他人に話している。それだけなのだ。悪意があるわけじゃない。
…噂話とはそういうものだ。

「あの…さしでがましいことですけれど,」
「ん?なんですか,さん?」
「あまり噂話を真に受けない方が良いですよ」
「…え?」
「ごめんなさい,いきなり。その…聞こえてしまって。先程の話」
「…ああ」

2人は噂しているところを聞かれたのが気まずいのか,ばつが悪そうに苦笑した。「聞き苦しいことを
聞かせてしまいすみません」と頭を掻く彼らに,わたしはやんわりと自分の考えを口にした。

「わたしは,噂話を頭から信じるのは危険だと思うんです」
「は,はあ…」
「『火の無い所に煙は立たぬ』と言いますが,煙だけで火の大きさや形までは判断できないでしょう?
 噂話だけで真実を知ることはできませんよ」
「ま,まあ…」
「それに,そういう噂話は得てして出所がはっきりしないでしょ?」
「いや,それははっきりしています」

2人は曖昧に頷いていたけれど,そこでパッと顔をあげた。最初は2人で顔を見合わせていたけれど,
やがてなにかを決意したかのように,わたしと目をしっかり合わせた。

「篠原さんから聞きました」


――どうやって入ったんですか?
――どうやってもなにも…鍵で入りましたよ。

――篠原さんは真選組に入る前から伊東さんと交遊があったんですよね?
――そうですよ。

――伊東先生は素晴らしい才覚の持ち主なんです。

――篠原さんは伊東さんを心から尊敬しているんですね
――ははっ…


「…篠原さんから?」

あれは確か去年の晩夏のことだった――特別資料保管庫へ入ったあの日,篠原さんと初めて沢山言葉を
交わした。彼は伊東さんと真選組入隊前からの縁で,伊東さんをとても尊敬しているようだった。
その篠原さんが…土方さんにとって不利な噂を流している。

「ええ。それに…」


――伊東さんですよね?土方さんを助けた隊士って。
――…ああ。

――とるに足らない浪士達だったよ。むしろ弱い集団だった。
――そんな…それなら,なぜ土方さんが?

――土方君が弱くなったのでは?


「それに,最近の副長がおかしいのは本当ですよ。噂じゃなく。なあ?」
「うん…実際に副長を見ていてそう思う。変だよなあ」
「なにか…なにか,理由があるはずです」

口ではそう言いながらも,彼らの疑問に対してわたしは明確な答えを持っていなかった。土方さんの
様子がおかしいのは事実であり,それが隊内の士気を揺るがしていることもまた事実なのだ。
それでも,土方さんを貶めてしまう話を肯定する気にも,やはりなれなかった。

「わたしはここに来てまだ1年ですが,土方さんの矜恃の高さや士道への思いの強さを知っています。
 むしろ土方さんとお付き合いの長い皆さんの方が,そのことをご存じでしょう?」
「それは…」
「きっとなにか理由があるんですよ。もし土方さんの身になにか起こっているのなら,今こそ皆さんが
 補佐してあげなければ。それが武士の忠節でしょう?」

わかったような口をきいて――わたしは武士ではないのに。
何の根拠もなく,尤もらしい言葉を紡いで人を説得することが,武に長けていない者の武器だとでも?
内心自嘲してしまったけれど,2人は素直に言葉を受け止めてくれたようだった。

「…そうですね」
「うん…副長が何の理由もなくあんな振る舞いをするはずがない」

お互いに頷き合って,こちらに向かい小さく頭を下げたので,わたしもまた慌てて頭を垂れた。
2人が土方さんを信じることにしたのも,ひとえに副長自身の築いてきた人徳によるものだろう。
そうでなければ,わたしのような隊士でもない末端の人間がなにを言っても,こうはならなかったはずだ。


――伊東さんは…土方さんを…お嫌いですか。
――嫌いじゃないさ。むしろ,彼は僕の最大の理解者だ。


「…」

稽古へ戻ってゆく隊士2人の後姿を見送りながら,わたしは伊東さんのことを思っていた。あの夜以来,
伊東さんとはあまり顔を合わせていなかった…というよりむしろ,わたしが彼を避けていた。
今までになく気まずい別れ方をしてしまったから,会ってどういう顔をすればいいのかわからなかった。
でも…そうして避けながらも,心はいつも彼の方を向いていた気がする。
避けようとすると余計に,彼が今どこにいるのかを深く考えたし,彼がこれからどこに行くだろうかと
思考を巡らせなければならなかった。

(…重症だ)

わたしは苦しくも甘い溜息を吐き,診療所の扉を開けた。初夏の銀色の風が,前髪を心地よく揺らした。
…せっかく伊東さんが屯所に長く留まっているのに,会えないのは寂しい。
自分でも驚くくらいに,心は矛盾してばかりだ。
こうも矛盾ばかりで,よく捻れてしまわないものだ。
苦笑しながら一歩足を踏み出す――行き先は,もう決まっていた。
迷うことは,ない。


+++++++++++++++++++++++


「伊東さん…わたしです。です」
「?」

その部屋の前に立ち,声をかけるまでに随分と長い時間を要してしまった。躊躇いの時間の長さに反し,
声をかけるとすぐにそのひとの声が返ってきた。それに焦り,戸惑いを覚えながらも,久しぶりに聞いた
伊東さんの声に,彼が呼ぶわたしの名前に,一気に顔が赤くなるのを感じた。いけないいけない,と頬を
擦るわたしの前で襖がスッと開いて,隊服姿の伊東さんが顔を出した。
正面から目が合い,胸が高鳴りつつもどこか安心する――避けていたのは,自分なのに。

「どうかしたのかい?」
「あの…少しお話があって」
「話?」
「はい。今,お手空きですか?お時間はとらせません」

わたしがそう言うと,伊東さんは逡巡するように部屋の中をちらっと振り返った。誰かいるのかと一瞬
思ったけれど,ただ単に部屋の状態を確認しただけのようで,彼はすぐにわたしに視線を戻した。

「かまわないよ。少し…散らかっているけれど」
「ありがとうございます」

伊東さんは体を横にずらし,わたしを部屋へ招き入れてくれた。部屋の中は,わたしにとっても馴染みの
深い,書物の香りで満ちていた。他の部屋には無い,背の高い本棚が4つあり,そこには隙間なく書物が
並べられていた。畳の上にも本が何冊か置いてあって,そのうちいくつかは開いていた。文机の上には
書類が几帳面に重ねられていて「これのどこが散らかっているんですか」と笑いそうになった。
本棚を見上げるわたしの背後で,伊東さんが襖を閉める音が静かに響いた。

「沢山書物を読んでいらっしゃるのですね」
「それなりに,だよ。昔はもっと読んでいたのだけれど…最近はあまり時間がなくてね」

伊東さんは文机の周囲に置かれた本をずらすと,そこに座布団を敷いて「どうぞ」と手で示してくれた。
わたしが「失礼します」と座ると,彼もまた机の前の座椅子に座った。一見,伊東さんの顔は冷静そうだ。
でも,わたしが突然部屋へ来たことに少なからず驚いているようで…その証拠に,文机にのせられた手の
指先が,落ち着きなく上下に動いていた。本人は気付いていないようだけれど。
わたしは逆にそれを見てホッとして――ふと,開かれた本の上に置いてある物に気が付いた。

「とてもきれいな栞をお使いなんですね」

白いページの真ん中で,青い栞が静かに佇んでいた。その栞は深い藍染めの上に,灰みがかった緑色で
さざ波模様が描かれていて,まるで遠浅の海のようだった。
伊東さんはわたしの視線を辿り,「ああ」と頷きながら栞を手にとって少しはにかんだ。

「…集めるのが結構好きなんだ,実は」
「え?」

わたしが首を傾げると,伊東さんはやはり照れくさそうに笑って,引き出しから栞を何枚か取り出して
机の上にきれいに並べてみせた。わたしは色とりどりの栞と,伊東さんの微笑を見比べ,

「栞を集めるのが,ですか?」
「…あまり男らしくないけれどね」
「そんなことありません!むしろとても素敵で……あっ」
「…」

丸くなった伊東さんの双眸に,拳を握り締めたわたしの姿が映っている。勢いでつくった拳の行き先
など決めていなかったので,わたしはそろそろとそれを下ろすしか,なく。べりっと剥がすように目を
逸らし,頬に両手を当てた。でも,なんとなくだけれど,伊東さんの視線はわたしに注がれ続けている
ような気がして,頬の熱は上昇するばかりだった。
蕾が開くのを見守る時のような,期待と祈り,そして焦れったさを帯びた沈黙が,2人の間に横たわる。

「…ありがとう」

ぱたんと本を閉じる音と同時に,優しい声が沈黙を解いた。顔を上げると再び視線が合って,伊東さんは
目を細めて笑った。お礼を口にした彼の頬もまたほんのり赤くなっていて,そのことになんだかとても
安心している自分がいた。伊東さんは机の上に並べた栞を,丁寧な手付きで重ね,引き出しにしまった。

「でも,あまり知られたくはないから,他の人達には言わないでおいてくれるかい?」
「他の人達には…?」
「ああ」
「…わかりました」
「…うん」


ふたりだけの秘密ですね。


「なにか気になる本があれば,持って行くといいよ」
「本当ですか?ありがとうございます」

この避けていた数日間が一体なんだったのだろう,と思える程普通に会話ができていて,わたしは内心
胸を撫で下ろした。
これなら――きちんと素直に謝れそうだと思った。

「あの…」
「ん?」
「この前は申し訳ありませんでした。生意気な態度をとって」


――伊東さんにとって『理解者』ってどういう人のことを言うんですか?

――『自分の能力や器を正しく見極めてくれている相手』…といったところかな

――わたしは…『自分の弱さを知ってくれている相手』を『理解者』と言うと思います

――価値観の違い,ですね


「いや…僕は何か君を不愉快にさせるようなことを言ってしまったかい?」
「違うんです…ただ…」

あの夜に抱いたあの気持ちを,言葉で表現するのはひどく困難だった。

(いや,簡単なのだけれど…)

端的に表現するのはむしろ簡単なのだ。
でも,自分の想いの核心に触れる部分を隠して表現するのが,難しかった。
ここに来るまでの間,それから襖の前で声をかけるまでの間も,あの時の気持ちをどう説明したらいいか,
ずっと考えていた…が。核心から上手く逸らせるような言い方は結局見つからなかった。
とどのつまり,わたしは直球以外の球をを投げられない人間なのだ,と改めて思い知らされた。
わたしは「よし」と腹をくくり,伊東さんを正面から見据えた。

「ただ…ヤキモチを妬いてしまったのです,土方さんに」
「…は?」

先程より目を大きく見開いた伊東さんは,きっと全く予想だにしていなかったのだろう。
ひょっとすると,物凄く色々と考えさせてしまっていたのかもしれない…真面目な人だから。
でも,なんのことはない。
あの夜わたしが「価値観の違い」という言葉でごまかそうとした感情は――ただの『嫉妬』だ。
口を「は」の形のままで固まっている伊東さんに,わたしは勢いに任せて喋った。

「伊東さんが土方さんを『自分の最大の理解者』とおっしゃったから。あの…ちょっと寂しくなって…
 えっと…その…だから…」
「…」

無言で自分を見つめ続ける眼鏡の奥の目を見ていると,わたしの言葉は自然と霧散していってしまった。
最後の方はもごもごと言葉にもならない音で終わってしまった。堪えていた恥ずかしさが,ぶわっと体の
中から湧き出てきて,わたしは伊東さんから目を逸らして俯いた。

「…変ですよね。男の人にヤキモチ妬くだなんて」


わたしがあなたの1番の理解者じゃないの?
他の人を1番の理解者だと あなたはそんなことを言うの?
そんなのイヤだ。そんなのムカつく。そんなの…さびしい。


「…嬉しいよ」
「!」

頭の上に温かい手のひらの感触がして,わたしはハッと顔を上げた。
伊東さんはわたしの頭を撫でながら,もう一度はっきりとした声で言ってくれた。

「嬉しいよ」
「…はい」

頷くしかなかった。
本当は,もっと可愛い反応をしたかったのに。
いっぱいいっぱいで余裕など皆無なわたしは,ただ頷いて笑むことしかできなかった。
伊東さんは頭から手を離すと,わたしの肩にかかっている髪の束を緩く握った。しばらくの間,感触を
楽しむかのように,彼はわたしの髪を握ったり撫でたりしていた。でも,わたしがそれをじっと見つめ
続けていることに気付くと,ぴたりと動きを止めた。

「…」

伊東さんの双眸が,わたしの瞳を捕らえていた。
それは「捕える」という言葉がぴったりの眼差しで,決して優しいものでもなければ,生易しいものでも
なかった。
捕えられている,と――そう 思った。

「…」

伊東さんが,わたしの名を呼ぶ。
その瞬間,不意にどうしようもなく逃げ出したい気持ちに駆られたけれど,わたしはそこに留まった。
彼の傍に 留まった。
髪を弄んでいた手が,わたしの頬へと添えられて少しだけ顔を上向きにされた。
近づいて来る伊東さんの唇を前に,わたしは自然と瞼を閉じていた。
そうすることを,もう随分前から知っていたような気がした。
まるで ずっと昔からの約束事のように。


本当は――他にも聞きたいことがあった。


伊東さんは 最近の真選組をどうお考えですか,と。
伊東さんは 隊士達の士気の揺らぎをどう思いますか,と。
伊東さんは――


でも,初めて感じた彼の唇の熱さに,わたしはそれ以上何も考えられなくなってしまった。
一瞬の熱の前に,わたしの冷静さは散り散りになった。


あなたは――真選組をどうするおつもりなのですか。


わたしは,そう尋ねるはずだったのだ。そうすべきだったのだ。それなのに…

「…」

唇を離した伊東さんが,至極愛しそうにわたしの名を囁いたから。
何の迷いもなく,再び唇を重ね合わせたから。
どうしようもなく『女』であるわたしは,この甘い感情に理性をいとも簡単に乗っ取らせてしまった。
決壊した慕情を前に,わたしはただの『小娘』でしかなかった。



そして――理性を蔑ろにした代償は,数日後に思わぬ形で払わされた。


土方さんは 更迭された。
伊東さんの言によって。





楽しそうな あなたにも
泣きそうな あなたにも
わたしは 会ったことがある

誤解されやすい あなたのことも
寂しがりやな あなたのことも
わたしは ちゃんと知っている

だから…間違えてしまったの。
なんでもわかり合えるのだ,と。
そう思ってしまったの。


2011/10/30 up...