君に 幸せでいて欲しい。
君が ひどく憎らしい。
どちらも 同じ思いから 生まれる感情なのに。
どうして こうも 形が違うのだろう。
どうして こうも 色が違うのだろう。



残照  <十>



砂とも埃ともつかない光の粒子のようなものが,春のまどろんだ陽気の中を漂っていた。庭園の池の畔に
植えられた枝垂れ桜は,薄紅色の滝のように見事に波打っている。春風に遊ばれた花弁が,ひらひらと池の
水面へと散っていった。苔むした淵石の上にのった何枚もの桜花は,まるで白い貝殻のようで。
旅館の窓から見える景色はすっかり春一色――いや『桜一色』だった。

「伊東さん?」
「…ん?」

携帯電話から聞こえてくる柔らかな声に,思考が桜から彼女へ――へと引き戻される。

「声が聞こえなくなったので。どうしたのかなって」
「ああ,ごめん。ちょっとぼんやりして」
「あ,ひどい」

電話している最中なのにぼんやりするなんて,と。
怒るというよりむしろからかうように,彼女はちょっとはすっぱな物言いをした。僕がそれに対して
「ごめん」と笑いながら謝ると,もくすくすと笑った。まるで耳のすぐ近くで笑われているかの
ようで,なんだかくすぐったい。

「京都(そちら)も桜は咲いていますか?」
「うん。満開だよ」

僕は今――武器商工組合との商談のために京都へ来ていた。
その前にも各地を飛び回り,なにかと忙しい毎日を送っていたが,週に1度くらいの頻度でこうして――
――こうしてと電話をするようになっていた。

「丁度旅館(ここ)からよく見える」
「今見ているんですか?わたしも見ていますよ,桜」
「君も?」

電話は,僕からかけることもあれば,彼女からかかってくることもあった。
かけようと思って僕が通話ボタンを押した瞬間,そのほんの数秒前にがこちらへ電話をかけて来て
いて,既に『通話中』であることにお互い気付かず数十秒間無言でいたこともあった。
気付いたのは「あれ…」という互いの呆けた声が重なった時で,その後しばらく笑いが止まらなかった。
「可笑しい」というのもあったけれど,「嬉しい」という気持ちの方が強かった。
離れている人間同士が,同じ瞬間に同じことを望んだってことが。
同じ時に,彼女が僕と話すことを望んでいたってことが。

「診療所の裏にある桜が満開なんです」
「ああ…あの庭桜か。背の低い」
「あら,いいじゃないですか。小さくても」
「ダメとは言ってないよ」
「いーえ,口調がなんだか小バカにした感じでした」
「…そんなことない」
「あります」
「ない」
「あります」
「ないよ,本当に」

と話をしていると,僕の口角は自然と上がってゆく…いつもだ。
以前彼女と電話している最中たまたま鏡を見てしまったのだが,そこに映っていた僕の顔は,自分でも
見たことがないくらい…なんというか…にやけていた。
自分のだらしない表情に頭を抱えたくなったが,それと同時に甘く幸せな気持ちになったのも事実で。
彼女と言葉のじゃれ合いをしている時間は,ひどく心地よかった。
僕は…笑うことができた。心から。

「伊東さん」
「ん?」

ひらりと薄紅の欠片が一枚,東風と共に迷い込んできた。

「今から一緒にお花見しませんか」

花弁は窓枠にのせた僕の手に一瞬触れ,指先に向かって滑り落ちていった。僕はその花弁をそっと摘み
上げながら,電話の向こうにいるへ聞き返した。

「今から?」
「はい!」

彼女の弾んだ声に苦笑し,僕は花弁を窓の外へ逃がした。

(…相変わらず突飛なことをいうコだな)

でも,そういうところも決して嫌じゃない。
僕の手から零れた花ひとひらは,他の花弁と共に青草の上へと舞いおりていった。それを見届けてから,
枝垂れ桜に視線を移し,僕はこっくり頷いた。

「うん。いいよ」
「…」

電話の向こうで,彼女が口をつぐんだのが気配でわかった。
このコのことだ…いとしそうに目を細めて,桜を眺めているに違いない。きっと。
僕も黙って,庭園の桜を見やった。花弁を惜しげもなく散らせる桜木は「自分に見惚れない者などいる
はずがない」とばかりに尊大に,けれども見事に美しく咲き誇っていた。

「…きれいですね」

が静かに呟いて,溜息をこぼした。
(…不思議なものだな)
彼女と僕は,今違う場所にいて,違うものをそれぞれ見ているはずなのに。

「そうだね…きれいだ」

違うものを見ていても,同じ景色を描くこともできる。
そういうこともあるのだ――人と人には。男と,女には。

「…」
「…」

また少しの間,柔らかな沈黙が僕らの唇と唇を繋いだ。

(なぜだろう…?)

風に乱され散ってゆく花弁を見つめていると,胸の中心が小さく狭く,窮屈に痛んだ。
桜の舞い散る風景は,見る者をひどく物哀しい気持ちにさせる。
まるで記憶の水底を漂っているかのような…頭の中だけでしか描けない,今はもう手の届かなくなった
過去の景色を見ているかのような,そんな気持ちに。

「少し寂しくなりませんか。桜を見ていると」
「うん。わかるよ」

僕が思っていることと,丁度同じようなことを口にするに,僕は深く頷いた。
彼女と話していると,こういうことが多いように思う。思考が似ているようで,嬉しい。自分がこんな
些細なことにも喜びを見出せる人間だとは,思っていなかった――彼女に,会うまでは。

「でも,僕は今寂しくないよ。君と話しているから」
「…」
「…ん?」
「い,いえ」

なにやら「伊東さんは時々天然」とか「ずるい」とかごにょごにょ聞こえたが…一体何のことなのか
よくわからなかった。たまに彼女は突然しどろもどろになったり,何かを言いよどんだりすることが
あった。彼女とはだいぶ打ち解けているとは思うが,女性の感情の起伏はやはりどうも読みづらい。
しばらくの間,花見の席の話とか最近読んだ本の話とか,そういった他愛のない話をした。そして,

「それでは,また」
「うん」
「お電話ありがとうございました,お忙しいのに」
「いや…こちらこそ」

ありがとう。
互いにお礼を言い合って,僕らは電話を切った。
電話の終わった後も,甘酸っぱい余韻のようなものが僕の懐に長いこと留まっていた。
軽く首をふって,携帯電話を懐にしまいかけた瞬間,

「!」

再びの着信を知らせるべく,電話が派手に震えた。
ディスプレイに表示されているのは――『篠原進之進』。
僕の脳は,一気に己が野心のためのそれに切り替わった。

「…もしもし?」
「先生。何度かお電話をしたのですが,繋がらなくて」
「…すまない。他の電話に出ていた。それで,何だ?」
「ええ。こちらの準備はほぼ整いました。いつでも動けます。あとは…隙を窺うだけかと」
「わかった。僕が戻り次第,事を進めよう。必ず隙はある」

ふと窓の下を見ると,池の水面に浮かぶ花弁たちが,波紋の形に広がってゆくのが目に入った。
あの花弁たちは――これから徐々に朽ちてゆくのだろう。
朽ちて水の底へと沈むのだろう。
芽吹く季節である春にも,朽ちてゆくものもあれば,枯れてゆくものもある。
彼らは華やかに咲き誇るものの影に隠れ,見向きもされない。

残酷な季節だ――春は。


+++++++++++++++++++++


僕が江戸へ帰った時,季節は既に春から初夏へと移っていた。
久しぶりに降り立った江戸の町は,聳え立つ摩天楼の間に心地よい湿度をしのばせ,人々の足音や車の
エンジン音によって人工的な喧騒をつくり上げていた。
僕はそういった風景を眺めつつ,屯所への道すがらのことを思った。

(…今度こそ,ちゃんと『ただいま』と言おう)

自分でも馬鹿みたいだとは思うが,大真面目にそう決意する。こうやって固く心に決めておかねば,僕は
彼女に「ただいま」と自然に言うことができないのだ。
そもそも僕は――「ただいま」とか「おかえり」を言い慣れていないし,言われ慣れてもいないのだ。

「…」

僕は懐に忍ばせた簪にそっと触れた。
それは京都の小物屋で買ったもので,お土産としてに渡すつもりだった。
これを渡したら彼女はどういう表情をするだろうか。
びっくりするだろうか,喜んでくれるだろうか…そんなことに思いを巡らせているだけで,僕はとても
幸せな気持ちになれた。しかし――

「!」

しかし,甘やかな思考は唐突に遮断された――『血の気配』によって。
自分の目尻が自然と鋭利になるのを感じつつ,僕はあたりを素早く見回した。
常に刀を腰に下げ,刀によって活路を拓いてきた僕は…いや僕だけではなく,そうして生きてきた『侍』の
多くは,自分の近くで戦いが行われている『気配』のようなものを,鋭敏に感じ取ることができる。
摩天楼の群を離れたこの通りには,居酒屋や鍛冶屋など昔からの平屋が所狭しと並び立っていた。
真昼だというのに人通りはなく,風に舞い上げられた土埃が足元で煙っている。僕は『気配』の方向に
目処をつけ,足音を立てないように移動した。しばらくすると,男達の笑い声と怒号,そして何かを酷く
痛めつける音が響いてきた。建物の陰に身を潜め,僕はそちらを窺った。

(あれは…隊士じゃないか)

最初にまず認識したのは,見慣れた黒い隊服だった。真選組隊士が1人地べたに蹲っており,彼の周りを
編み笠の男達がぐるりと囲っていた。
次に認識したのは,彼ら全員が帯刀していること…つまりは攘夷浪士であることだった。一瞬,鬼兵隊の
ことが頭をよぎったが,この時機に自分に何の断りもなく隊士を襲うことはありえないと思い直した。
そして,最後に認識したのは,浪士相手に土下座している隊士の顔だった――が。

「ばかな…」

僕は我知らず言葉を零していた。
浪士達になす術もなく蹴られ,無抵抗に踏みつけられているのは――

「何をやっているんだ…あの男は」

――真選組副長 土方十四郎だった。


+++++++++++++++++++++


「「いずれ殺してやるよ」」

互いに肩越しに振り返り,死の宣告を下し合う。
端的な科白の中に呪詛めいた陰湿さはなく,ただ純粋な殺気だけが確固たる意思としてそこにあった。
「…」
宣告を最後に,僕も土方も足の静止を解き,それぞれ無言で反対方向へと回廊を再び歩き始めた。

(…頃合だな)

昼間の土方の失態を思い出すと,嘲笑と憤りの両方が,複雑に僕の中で絡み合った。
「あんな醜態を晒すだなんて恥知らずが」と嘲笑う気持ちと,「それでもお前は僕としのぎを削る武士
なのか」と憤る気持ち…その両方が,交互に湧き上がっては僕に溜息をつかせた。
しかし――ここが『頃合』だ,と。そう確信してもいた。
あの男に何が起こったのかはわからないが,何かあったのは確かだ。でなければ,あの高い矜持をもった
男が攘夷浪士相手に袋叩きにされるわけがないし,ましてや土下座などするはずがない。
土方の身に何かが起こっている,今が『事』を動かす時だ。

「…!」
「あ…伊東さん」

回廊を曲がったところで,唐突に彼女と――と出くわした。

(まずい…!)

慌てて自分の表情から鋭さを解いたが,遅かった。彼女は不思議そうに首を傾げ,僕を見上げた。

「どうしました?怖いお顔をして」
「いや…」

僕が曖昧に否定して微笑を浮かべてみせると,も頬を緩めた。柔らかな夜風が庭から流れてきて,
彼女の髪をふわりと撫でた。後れ毛が風の形をつくり,唇がゆっくりと綻んだ。

「おかえりなさい」
「…ただいま」

言えた――ちゃんと言えた。

「京都はいかがでしたか?」
「うん。相変わらずだよ,あそこは。時間の流れが江戸とは違う」
「まあ…時間の流れが?」
「ああ。それに,空気が違うよ。漂っている雰囲気がね」
「へえ…なんだか良いですね」

少しの間,僕らは近況を報告し合った。内容自体は電話で話したことと大差はなかったが,声だけでなく
実際にお互いの顔を見ながら会話ができるのは,電話よりもずっと幸せなことだった。僕の話に丁寧に
相槌を打つに「そうだ。簪を渡そう」と,僕は懐に手を伸ばしかけた――が。

「そういえば…伊東さんですよね?土方さんを助けた隊士って」
「…ああ」

彼女の口からあの男の名前が出たと同時に,僕の手はびくりと止まってしまった。平静を装って頷く
僕に,は眉根を寄せて問いかけてくる。

「土方さんがあんな怪我を負うだなんて…相手はよほどの剣技の持ち主だったのですね」
「いや。全然」
「え?」
「とるに足らない浪士達だったよ。むしろ弱い集団だった」
「そんな…それなら,なぜ土方さんが?」
「さあ」

彼女は医師の卵だ――隊士の怪我を心配するのは当たり前のことだ。いや,たとえ医師ではなかったと
しても,怪我を負った仲間を心配するのは人として当然だろう…理性では,わかっている。合理的な論や
理屈によって,自分や他者を納得させるのは,僕の得意分野であるはずなのに。なのに――

「土方君が弱くなったのでは?」
「…え?」

――があの男の心配をするのは,ひどく不快だった。
それに,土方の剣技に尊敬と信頼を寄せているらしい口ぶりも,僕の神経を強く波打たせた。
僕の冷たい口調には目を見開いていたけれど,ふと逡巡するかのように手を口に当てて俯いた。
障子の向こう側から漏れてくる白い光が,庭の地面に縫い付けられた僕らの影を冷たく照らした。

「伊東さんは…土方さんを…お嫌いですか」

言葉を選びながら問いかけているのだろう,は極めてゆっくりと声を紡いだ。彼女のこういう思慮
深いところを,僕は高く評価していた。

「嫌いじゃないさ。むしろ,彼は僕の最大の理解者だ」

ほんの少し肩を竦め,僕ははっきりと言った。自分の言葉に嘘はない。
土方十四郎という人間を,僕は決して嫌いではなかった。もっとも,彼の方は僕を嫌っているだろうが…。
土方は気付いている――僕の渇望を。僕の野望を。
僕が,真選組におさまって満足するような人間ではないことを。

「…理解者?」
「ああ」
「…」

が呆けたような声で問い返してきたので,僕は静かに頷いた。すると,彼女は再び考え込むように
俯いた。伏し目になったの瞼が,睫毛が,瞬きをするたびに小さく震えた。

「…伊東さんにとって『理解者』ってどういう人のことを言うんですか?」
「え…?」

予想外の質問に,僕は少々面食らってしまった。彼女は顔を上げ,真直ぐな眼差しで僕を見つめてきた。
その強い眼差しは,一切のごまかしや嘘を認めない,確固たる意思を宿していた。にも関わらず,眉根が
きゅっと寄せられていて,そのせいで泣くのを我慢している幼子のように見えた。
がどうしてそんな表情をしているのかがわからなかったので,僕は内心ひどくうろたえていた。

「そうだな…」

狼狽を隠し,僕はしばし彼女から目を外して考えた。
僕にとっての『理解者』とは――…それは――

「『自分の能力や器を正しく見極めてくれている相手』…といったところかな」

そう口にした瞬間,僕との間を羽虫が横切った。
虫はカツンと音を立てて障子にぶつかり,その後も光を求めて何度も障子へ体当たりを繰り返した。
その力では障子を突き破ることはできない――羽を痛めるだけだろうに。

「そう,ですか…」
「…?」

彼女の声が震えていることに気付き,僕は驚いてその細い肩に触れようとした。でも,

「わたしは…」

は僕の手を避けるかのように,わずかに身をひいた。
それは本当にほんの微かな動きだったけれど,僕の手を止まらせるには十分だった。

「わたしは…『自分の弱さを知ってくれている相手』を『理解者』と言うと思います」

羽虫は光を乞うのを諦めたのだろうか――ふらふらと方向転換し,の髪へと浮遊した。
彼女は頭を静かに振ることで,それをやんわりと拒絶した。そして,

「価値観の違い,ですね」

寂しそうに僕に笑いかけた。
その微笑はひどく弱々しくて,僕は自分の言ったことを少なからず後悔した。
自分の言ったことに間違いは無いと思うし,意見を変えるつもりはない。
『自分の器を見極めてくれる相手』を理解者だと,僕はそう思う。
それが――僕の考えなのだ。
僕はこういう人間なのだ。
それでも,にこんな表情をさせるくらいなら,嘘でもなんでもつけばよかった,と。
そう後悔していた。
彼女がどうしてこんなにも傷ついているのか…それはわからなかったけれど。

「それでは,失礼します。怪我人を待たせているので」
「…ああ」
「また明日」
「…うん」

が無理して笑うから,僕も笑みを返すしかなかった。
本当は…強い後悔を抱いていたのに。
彼女が会釈して僕の横を通り過ぎ,診療室の方へと消えてゆくのを見ながら,僕はふと思い出した。

――簪を 渡せなかった。





君に 幸せでいて欲しい。
君が ひどく憎らしい。
どちらも 同じ思いから 生まれる感情なのに。
どうして こうも 形が違うのだろう。
どうして こうも 色が違うのだろう。

どうして 僕は――
――ひとり 凍えているのだろう。



2011/06/20 up...