あなたと見た青
あなたと見た赤
何度でも 胸に焼きつけるから
何度でも 瞼の裏に思い描くから



残照  <九>



昨夜まで薄く積もっていた雪が,まだ庭の所々に残っていた。屋根瓦を縁取る雪解け水が,日差しを浴び
きらきらと落ちてゆく。氷雪の面影を残した水たまりが,冬空の青を鮮やかに映し出していた。それを
踏まないよう気をつけながら庭を横切り,わたしは後ろを振り返った。

「それでは,行って来ます」
「いってらっしゃい。私も行ければ良いのだが…屯所の医師が2人共いなくなるわけにはいかないか」

見送りに門の前までついてきてくれた了順先生が,残念そうに眉を垂らした。これからわたしが向かう
ある場所に対して,先生もまた同じように特別な思いを抱いてくれているということが,嬉しかった。
だから,わたしは感謝の気持ちを込めて笑ってみせた。

「ちゃんと挨拶しておきます。了順先生の分まで」
「頼むよ,。私も次の非番に行くことにしている…『遅くなるがゆるせ』と伝えておいてくれ」
「ふふふ。了解です」

牡鹿の角のような木々の間から,冬の白い風が吹いて来て,わたしは反射的に頭を押さえた。
今日はいつもと違って,髪をちゃんと綺麗にセットしているから,少しでもくずしたくなかった。

「では…」
「おや,伊東君」
「!」

わたしが門へと足を向けようとしたその時,了順先生が屯所の玄関の方を見た。そこに立っているのは
確かに伊東さんその人だった。けれども隊服ではなく,明るい茶色の紬着物に角帯,角袖コートという
冬の外出着だった――伊東さんもどこかへお出かけするつもりなのだろうか。
伊東さんは了順先生とわたしに気付くと,顎を引くように少しだけ頭を下げて微笑んでくれた。

「お疲れ様です,松本先生。それに…も」
「…こ,こんにちは」

へらりと笑ったわたしの顔は,すごくぎこちなかったと思う。伊東さんとまともに言葉を交わすのは,
久しぶりだったから…あの夜以来だったから。

初冬の夜――わたしは伊東さんに抱きしめられた。

あの夜,わたしはどうしても眠ることができなくて,屯所の中をあてもなく彷徨っていた。
『攘夷志士をこの手で助けた』という事実は,わたしの中に長いこと燻り続け,わたしの心を蝕んだ。
まるで…膿んだかさぶたのようだった。
何度考えても「あの時はああするしかなかった」「ああしなければ自分はもっと後悔した」と,頭では
そういう結論に達するのに…それでも,心のどこかが割り切れなかった。心は理屈じゃなかった。
眠れない日々が続き,あの夜もそうだった。そんな時――伊東さんが現われた。

「お2人でどこかへお出かけですか?」
「いや。出かけるのはだけだよ。伊東君こそラフな格好で珍しいじゃないか」
「ええ。今日は非番なのです。明日からまた,方々を飛び回らないとならないんですがね」

深夜過ぎに帰って来た伊東さんは,ひどく疲れた表情をしていた。ひどく苦しげで,ひどく辛そうで。
大切なものを落としてしまって泣いている幼子のように見えた。
わたしが「気分が悪いのか」と尋ねたら――何事か呟いて,彼はわたしを抱きしめた。

「ああ…そうだったか。君は本当に忙しいね…束の間の休日か」
「まあ,そんなところです。少し散歩にでも行こうかと」
「そうか,そうか」

――どきどきした。
男の人にあんなに強く抱きしめられたのは初めてで,すごくどきどきした。
どきどきした後――どうしてだろう,わたしは泣きそうになった。
この体温が 愛しくてたまらなかったから。
この匂いが 心地よくてたまらなかったから。
でも…身を離せば,すぐに消えてしまうことがわかっていたから。
ぬくもりは儚い。命の儚さと同じだ。

「おっと,こうしちゃいられないな。怪我人を待たせているから。失敬するよ,2人共」
「…え」
「…」

抱きしめられていたのは,ごく僅かな時間だった。伊東さんはすぐ身を離して,走り去ってしまった…
…呼び止める声も聞かずに。ぬくもりは消えてしまったけれど,伊東さんの身につけていた香の匂いや,
着物ごしに伝わってきた体温の残り火のようなものは,長い間わたしの胸の中心を熱く痺れさせ続けた。

(了順先生ったら…)

そそくさと診療所の方へ足早に駆けていく後姿に,わたしは苦笑いを零した。先生のことだから,きっと
変に気を回したに違いない。昔から人の恋愛事に敏感で,ほんの少しお節介なところがあった。でも,

「…」
「…」
(き,気まずい)

伊東さんもわたしも黙り込んでしまった。
ふたりきりにされたのが嫌というわけじゃない。むしろ嬉しいんだけど,なんだかくすぐったくて。

(どうしよう…伊東さんの顔,見れない)

抱きしめられた翌朝,既に伊東さんの姿は屯所にはなかった。夜が明けるのと同時に出張へ行ったとの
ことで「そんなに働いてばかりで身体は大丈夫かな」と,今度は違う意味でどきどきした。
そして…驚いたことに,篠原さんに「伊東先生から預かりました」と手紙を差し出されて――そこには
ごく短い一文が書かれていた。

   ごめん。僕が悪かった。本当にすまなかった。ごめん。

『真選組一 思慮深い』と言われているあの人が,この言葉を書くためにきっと四苦八苦したのだろうな
と思うと,失礼だけど笑ってしまった。
わたしにこの手紙を手渡した篠原さんの「先生はとても照れていましたよ。『にこれを渡して
おいてくれ』って。私にそうおっしゃった時」という言葉が,さらにわたしを喜ばせた。
その手紙は――わたしの大切な宝物になった。

「…今日はいつもと違うね」

俯いているわたしの頭上に,伊東さんの静かな声が注がれた。顔を上げると,思いのほか穏やかな視線と
目が合って,それだけで頬が赤く火照りそうになった…我ながら重症だ。

「きれいな着物でしょう?」

でも,そんな照れを伊東さんに悟られたくなくて,わたしは着物の袖をさも無邪気そうにひらひら振って
みせた。仕立てたのはもう10年くらい前になるから,色や柄は今流行しているものとは違うけれど…。
時代や年齢に左右されないシックな色柄だし,とても良い布地だからこの先何年間も着られるだろう。
ずっと着られる――この特別な着物を。それが嬉しい。
毎年この日は この特別な着物を着て,わたしは あの場所に 行くことにしていた。

「これは特別な着物なんです」
「へえ…」
「見せたい人がいるんです」
「見せたい人?一体誰だ――」

伊東さんは一瞬ぴくりと眉を吊り上げたけれど,ハッとしたように口元を押さえた。わたしもちょっと
驚いて伊東さんを見上げた。「誰だ」という伊東さんの口調には,怒りというか苛立ちのようなものが
はっきりと滲み出ていたから。わたしの言う『見せたい人』に対する焦燥のようなものを感じたから。

(自惚れても…良いのかな)

伊東さんは困ったように頭を二度掻くと,照れくさそうに目を伏せた。

「…すまない」
「…いいえ」

ねえ――それは嫉妬ですか。

冴え凍る空気に砂利の音が響き,伊東さんが少しだけ足の位置をずらしたことがわかった。張り詰めた
糸のようなものが,伊東さんとわたしの間に確かに存在していた。その糸は2人のことを縛りつけて,
甘い息苦しさをわたし達にもたらした。寒空の下だというのに,伊東さんの耳たぶは赤く染まっていた。
ちょっと悪戯心のようなものが湧いて,わたしはすまし顔をつくってみせた。

「デートなんです,これから」
「!」

途端に強張る伊東さんの顔を,わたしは真面目な表情で見上げ――にっこり笑った。

「もしよろしければ一緒に行きます?」
「…は?」
「少しだけ遠いですけれど」
「…??」

伊東さんが不思議そうに首を傾げるのと同時,北風が勢いよく屯所の庭を駆け抜けていった。
松葉をざわめかせながら,雪解けの水面を波立たせながら,風は進んでいく。
きっと――わたし達の気持ちも。一緒に。


+++++++++++++++++++++


「この着物はね,父上と母上が選んでくれたんですよ」

石造りの階段を上りながら,わたしは肩越しに少し振り返った。水桶と杓子と竹箒を持って,伊東さんも
こちらへ上って来る。先程墓地の隅にある井戸で水を汲んだ時,「力仕事は男のものだから」と,至って
なんでもないことのように,伊東さんは桶をひょいと持ち上げた。どちらかというと,伊東さんは力仕事
よりも知識を活用する仕事の方が似合う印象があったけれど,軽々と水桶を運ぶ姿を見ると,やっぱり
『男の人』なんだなと思う。ありがたいことに,わたしが今持っているのは菊の花束とお線香だけだ。
伊東さんは桶を持ち直しながら,わたしの着物の袖あたりを見た。

「ご両親が?」
「ええ。買ってもらった当時は,あんまり好きじゃなかったんです。子供って,こういうシックな色合や
 柄の良さがまだよくわからないでしょう?『もっと可愛いのがよかったのに』って思ってて。両親は,
 わたしが大人になっても着れるようなデザインのを選んでくれていたんですけど」

話している内に目的の場所に到着し,わたしは伊東さんと――両親の墓石に対して言った。

「今は1番好きな着物です。とっておきの」
「…そっか」
「ええ」

冬の青空を背に,墓石は北風の中で静かに佇んでいた。わたしは伊東さんの手から竹箒を受け取って,
とりあえず周囲を掃き始めることにした。伊東さんはというと,桶を隅に置いて首を軽く回してから
墓石に近寄って身を屈めた。かと思ったら,お墓の周りに生えた雑草を抜き始めたので,わたしは慌てて
止めた。でも「手持ち無沙汰だし。せっかくだから手伝うよ」と,穏やかでありながらも有無を言わせ
ない声音で押し切られてしまった。わたしの勝手でこんな所にまでついて来てもらって,重い物を持た
せて,しかも掃除まで手伝ってもらうだなんて,本当に心苦しい――感謝の気持ちでいっぱいになる。
それと――感謝以外の気持ちで。伊東さんへの気持ちで。いっぱいになる。

「毎年その着物でお墓参りするのかい?」

伊東さんは雑草を抜きながら,こちらを振り返らずに問いかけてきた。屈み込んでいてもすっと一筋に
伸ばされたその背を,しばらく見つめてからわたしも背を向けて掃除を再開した。

「はい。やっぱり…見てもらいたいですから。『わたしもこの着物と釣合がとれるくらいには成長して
 いますよ』って。そう報告したいですから」
「…なるほど」
「命日にはいつもこの着物です。今日は父の命日で。母と祖母の命日はもう少し後で。伯母は嫁ぎ先の
 家のお墓に眠っているので,ここにはいないけれど――」

伊東さんとわたしはそれぞれの作業をこなしながら,背中と背中で会話を続けた。
父のこと。母のこと。ふたりのこと。ふたりとわたしの,こと。
たわいもない思い出話をわたしはひたすら喋り続けた。
わたしが次から次に喋って,伊東さんがそれに静かに相槌をうつ――ずっとそれの繰り返し。
箒を掃く音,草をちぎる音,わたしの声,そして伊東さんの相槌が,墓地の清廉な空気の中に溶けていく。

「――それでわたしは駄々をこねて泣いてしまって,」
「うん」
「父上は困りきっておろおろするわ,母上は『甘えないの!』と声を張り上げるわで――」

遠くの方から鳶の高い鳴き声が響いてきて,わたしはハッと我に返った。
あまりにもお喋りし過ぎた,と思った。はしたないと思われたらどうしよう,と。
おそるおそる振り返ると,伊東さんも丁度こちらを振り向いたところで,ばちりと目が合った。
たったそれだけのことで赤面しそうになったことは…ヒミツだ。

「ごめんなさい,ぺらぺらと。うるさいですよね」
「そんなことはないよ」

伊東さんは肩をすくめて微笑んだ。

「君のことをうるさいと思ったことはないから」

何気ない口調で伊東さんはそう言ったけれど,わたしは無意識の内に,箒の柄をぎゅっと強く握り締めて
いた。胸の奥が,熱くて仕方なくて。まるで「君は特別だよ」って言われたような気がして。
うっとりと立ち竦んでいるわたしを,伊東さんは不思議そうな顔で見上げ,膝のあたりを払いながら立ち
上がった。そして,砂埃を纏う墓石に目を向け「そろそろ水を撒くかい?」と訊いてきたので,わたしは
こくこくと頷いた。早く動かないと伊東さんが水撒きを始めかねなかったから,わたしは素早く柄杓に
手を伸ばし,桶の中の水を掬い上げた。そんなわたしのなんとも忙しない動作を,伊東さんはとても優しい
眼差しで見守ってくれていた。

「君がはしゃぐのも当然だよ。故郷にいるのだから」
「故郷のお墓,ですけどね」
「ははっ…たしかに。お墓だけど。故郷(ここ)には何歳まで住んでいたんだい?」
「7歳までです。その後は江戸に…だから,正直言うとあまりはっきりとは憶えていないんです。でも…」

墓石の頂で柄杓を裏返すと,水の弾ける無邪気な音があたりに響いた。
零れた水が,黒い珊瑚のような模様を描きながら,墓石の側面をゆるゆると流れ落ちてゆく。

「たくさん笑っていました,わたし」

――もう一度。桶から水を掬って,墓石の上からそれを流す。
最初は水の通ったところだけが日差しを照り返していたけれど,何度か繰り返す内に墓石全体が日光と
仲良しになっていった。

「どうしてそんなに笑っていたのか,よく憶えていないんですけど。毎日が楽しくて。毎日が嬉しくて」

墓石の周りにも水を撒くと,濡れた石の匂いがふんわりと鼻先をくすぐって,ますますわたしを感傷的な
気持ちにさせた。わたしは瞼を強く閉じて,深く息を吸い込んだ。
墓石の匂いだ――過去の弔いのために,現在の慰めのために,未来のいつかために存在する石の匂い。

「わたし,幸せでした」
「…いいね。そういうの」

しみじみと呟く声に,わたしは瞼を開いた。目の前にいる伊東さんと,目が合った。
今――ここに生きている大切な人と。

「そういう故郷の思い出を持っている人間は,幸せだと思う」
「…ええ」

眩しそうに目を細める伊東さんに,わたしは頷きを返した。
「伊東さんは?あなたの故郷での思い出は?」とは訊かなかった。
自分の故郷や家族のことを尋ねられるのが,あまり好きじゃないってこと――もう わかっていた。
ひとしきり水を撒いた後,わたしは花立に残る枯れた花を取り除いて,今日持って来た菊の花を活けた。
それからお線香に火をつけようとマッチを摺ろうとした時,伊東さんに止められた。

「マッチ。僕が摺るよ」
「え?どうしてですか?」
「火傷でもしたら大変だろう」
「…伊東さんって,」
「…ん?」
「伊東さんって優しいですよね」
「…え?」

わたしがくすくす笑うと,伊東さんは照れ隠しなのか何度も大きく咳払いした。彼の大きな手のひらの
中だと,マッチ箱は余計に小さく見える。伊東さんがマッチを摺って線香に火を移すと,安らかな芳香が,
わたし達の間を横切っていった。先端をオレンジ色に燻らせる線香が,伊東さんの手からわたしの手に
渡される――そして,わたしはそれを線香立にゆっくりと立てる。少し後ろに下がって屈み込み,両手を
合わせて目を閉じると,隣で伊東さんも屈み込んだのが,合掌したのが気配でわかった。
わたしの家族のために手を合わせてくれている人へ,わたしは心の中でありがとうと呟いた。


 そちらはどうですか。
 わたしはなんとか頑張って生きています。
 だから どうか 安心してください。
 それから…

 …このひとが わたしの大切なひとです。


「伊東さん?どうしました?」
「いや…ちょっと」

合掌を解いて立ち上がり,空になった桶や箒を片付けようとした時,伊東さんがふとなにかを探すように
辺りをきょろきょろ見回した。そして,

「…潮の香がすると思って」

鼻をすんと逸らして呟いた。眼鏡のレンズが日光を淡く跳ね返していたから,その目の奥を窺うことは
できなかった。でも,穏やかな声音に潮の香への親しみがひっそりと滲み出ていた――もしかして海が
好きなのだろうか。

「ここへ来る電車の中からも海が見えていたけど。かなり近いね…ここから」
「ええ。歩いて15分くらいで浜辺に行けますよ」
「そうなのか」

伊東さんは思案するように手を顎の下あたりにつけた。そして,わたしをちらりと見てはにかんだ。
照れくさそうに。少しだけ,おそるおそる。でも…逸る気持ちを抑えられないかのように。
まるで 子どものように。

「もしよかったら,行ってみないかい?」

どこにでも行きたい。あなたとなら。
そう口にしそうになるのを,わたしは必死に堪えてただ頷いた。


+++++++++++++++++++++


昼下がりよりも遅く,かといって夕暮れには少し早い時分,伊東さんとわたしは浜辺を並んで歩いていた。
露草色の空を海鳥達が低く飛び交い,透明な波音が寄せてはかえすたびに,飛沫が静かに煌いた。わたし達
以外に誰もいない浜は,砂漠のように広く乳白色に横たわり,いくつもの小船が潮風に晒され眠っていた。
遠くに灰色の島影がかすみ,薄いベールのような雲が沖の彼方へたなびいていた。

「風が少し強いですね」
「…」
「…?伊東さん?」
「え?」

わたしの呼び声に,ひどく驚いたように伊東さんは肩を跳ねさせた。伊東さんは目を瞬かせてこちらを
見下ろしてくるけれど,むしろびっくりしたのはわたしの方だ。目を丸くして見つめ返すと,伊東さんは
耳の裏を指先で掻いて俯いた。つられてわたしも下を向くと,ふたりお揃いの浜下駄が視界に入った。
この桐の浜下駄は,先程浜辺へ下りる前に,堤防の所にあった貸下駄屋さんで借りた物だった。

「どうかしました?ぼんやりして」
「いや…」

伊東さんは顔を上げ,口の端だけ震わせるようにして笑った。そして,

「故郷の海を思い出していたんだ」
「!」

海風に髪を遊ばせながら,伊東さんは目を細めて海の彼方を見やった。その眼差しは途方もなく遠く,
胸が痛くなる程に澄んでいた。

「…」

わたしも彼と同じものを見たくて,その視線を辿った。
晴れた空の下で,冬の海は群青色の大平原のように見えた。幾億もの波が白く散らばって,氷雪のように
何度も砕けてゆく様子は,尊く気高かった。わたしが再び伊東さんに目を戻した時も,彼はまだ沖の方を
じっと眺めていた。まるでそこに遠い日々の景色を思い描くかのように。
ああ――そうか。
たとえ同じものを見ていても,同じ景色を描けないこともあるのだ。

「故郷の海…ですか?」
「ああ」

わたしの声に頷きを返しながらも,伊東さんの視線は動かない。遠い水平線を眺めたままだ。
きっと彼の心は今,ここには無い。わたしの知らない過去のどこかにあるのだろう。

「故郷では海によく行ったんですか?」
「うん。行ったよ」

それでも,わたしは彼に話しかけた。
そうすべきだったし,そうしたかった。
この人の心には深い傷跡があって,それは…幼い頃に負ったもので。昔話をするのは苦手なはずなのに。
それなのに,こうしてわたしに話してくれているのだから。
心から聞きたいと思った。たとえ彼の心がここになくても。
砂が風の軌跡で流水のような紋を描き,誰もいない浜には,蒼い潮騒の音が響き渡っていた。

「なにか嫌なことがあると,浜辺に座ってずっと海を眺めていたな」
「そう…ですか」

伊東さんが『嫌なこと』と口にした瞬間わずかに眉をひそめたから,わたしも悲しい気持ちになった。

(きっと…誰にも言えなかったのね)

誰にも自分の苦悩を打ち明けられずに,浜辺でひとり蹲っている幼い伊東さんを思い浮かべただけで,
胸が痛くなった。

「海を見ていると…潮風に吹かれていると…嫌なことを忘れられた。寂しさも虚しさも,すべて」
「…」
「いいな…ここの海も」
「…そうですね」

それからしばらくの間,わたし達は無言で青い海原を見つめていた。
空が海を照らし,海が空を映す――交わっているように見えても,触れ合うことさえない2つの青色が,
徐々に赤色へ染まり合ってゆくのを,伊東さんとわたしは黙って眺めていた。

(…不思議だな)

小さかった頃,わたしはこの浜辺によく来たはずなのだけれど,こうして海や空を眺めた記憶があまり
残っていなかった。たぶんわたしは海に来ると遊び回ってばかりだったから,静かに風景を眺めること
がなかったのだろう。でも,風景はあまり憶えていないけれど,潮風の匂いと味はなぜかよく憶えていた。
呼吸する度に鼻の奥まで満ちた潮気や,走り回った後に口の周りを舐めるとしょっぱい味がしたことを。

「ひとりで見る海が好きだったけれど…君とふたりで見る海も,いいね」
「えっ…」

囁きのような柔らかい声音によって,突如過去から現在に思考を引き戻された。ハッとして隣を見ると,
西陽に照らし出された伊東さんの微笑があった。オレンジ色に染まった彼の髪を見て,それだけの時間が
流れていたということに気付いた。いや,そんなことよりも…

(今…なんて?)

わたしがじっと見つめ返すと,伊東さんはこちらへ手を伸ばしかけて――やめた。取り繕うように手を
何度か開いては閉じ,苦笑を零した。でもすぐに目をすっと細めて,真剣な深い眼差しになった。

「ずっと…思っていた。誰かと一緒にいる時より,自分ひとりでいる時の方が好きだ,って。自分はそう
 いう人間だと思っていた。けど…」

海の彼方から風が寄せてきて,わたし達の髪の毛を波立たせた。潮騒がうるさいほどに鳴り響き,海鳥の
鳴き声が空から落ちてくる。伊東さんの声は,そんな音の群の中でも殊更真直ぐにわたしの元へ届いた。

「どうやらそうじゃなかったようだ。と出会って,わかった」
「…伊東さん」

もう一度,伊東さんの手がわたしの方へ伸びてきて――触れた。
風のせいで唇にくっ付いた髪の毛をとって,わたしの耳の後ろにかけてくれた。伊東さんの熱い指先が
わずかに唇に触れた瞬間,自分の全身が赤く染まった気がした。実際,伊東さんの全身も夕日の光で赤く
染まっていたから,わたしもきっとそうなんだろう。

(でも…違う)

赤いのは夕暮れのせいじゃない。伊東さんも,わたしも。

「…」

伊東さんはわたしの手を控えめに握った。それは,わたしが少し手を引けばすぐに擦り抜けてしまう程
弱い握り方だった。だから…わたしはゆっくりと手に力をこめて,その優しい手のひらを握り返した。
すると,伊東さんはどこかホッとしたように小さく笑って,わたしの手を引いて歩き始めた。
ふたつの影が,茜色の砂浜の上を寄り添って移動してゆくのが,なんだかくすぐったかった。

「伊東さんの故郷の海…きれいなんでしょうね,きっと」
「うん。ここの海もとてもきれいだけれど…故郷の海は,ぼくにとって特別だから」

きっとこのひとは子どもの頃,人の手の温もりのかわりに,潮風の香にくるまれていたのだろう。
人が紡ぐ優しい言葉のかわりに,潮騒の音色に心を慰められていたのだろう。
その時に傍にいてあげたかったと,わたしは強くそう思う。過去を変えることは決してできないけれど。
でも,今この瞬間の,そしてこれから生きてゆく先のこのひとへ,温もりを与えることはできるはずだ。
優しい言葉をかけてあげることだって,抱きしめてあげることだって,いくらでもできるはずだ。

「いつか君にも見せてあげたい」


――あの海を。


「本当に…見せてくれますか?」

わたしは立ち止まって,伊東さんを見上げた。伊東さんも足を止めて,わたしを見下ろした。
朱色の波音がわたし達の周囲で,遠くで,あるいはとても近くで,ずっと鳴り続けていた。

「いつか連れて行ってくれますか?」
「…うん」

視線を逸らすことなく,それどころか瞬きすらせずに,伊東さんはわたしの目を真直ぐに見て頷いた。

「約束するよ」

熱の篭った声でそう言って,伊東さんはわたしの手をぎゅっと握り締めた。波音と同じくらいに力強い
伊東さんの鼓動が,手のひらから伝わってくるような気がした。その鼓動があまりにも激し過ぎたから,
わたしは熱に浮かされた時のように,一瞬ふらりと体を崩しかけた。でも,そのたった一瞬を彼が見逃す
ことはなく,もう片方の手で咄嗟にわたしの肩を支えてくれた。

「転ばないようにね。せっかくきれいな着物を着ているのだから」
「…はい」
「それから,言い忘れていたけれど…」
「え?」

伊東さんは,とても眩しそうに目を細めてわたしを見下ろしていた。
水平線の向こうを眺めていた時よりも,ずっと。
ずっと――眩しそうに。

「ご両親の目利きは素晴らしいね。その着物,にとてもよく似合っている」

どうしてこんなにも 嬉しくなるのだろう。
どうしてこんなにも 胸が潰れそうになるほどに喜びが溢れてくるのだろう。
どうして――ねえ どうして。
とても幸せなのに どうして 泣き出しそうになっているのだろう…わたしは。

「ありがとうございます…伊東さん」

涙を流すかわりに,わたしは真直ぐに笑顔を向けた。
彼だけに向かって。彼だけのために。
わたしは笑った。





あなたと見た青
あなたと見た赤
何度でも 胸に焼きつけるから
何度でも 瞼の裏に思い描くから

もう一度 あいたい
あいたい。
あなたに。

2011/03/21 up...