今まで 心から願ったことがあっただろうか。
誰かの幸せを。
心から望んだことがあっただろうか。
今まで 心から喜んだことがあっただろうか。
誰かの幸せを。
心から祝福したことがあっただろうか。



残照  <八>



初冬の青いたそがれの中,サザンカの淡紅色が木枯しにもがれて散ってゆく。ここ最近になって,急速に
気温が下がってきたように思う。ひょっとすると今夜あたりに初霜がおりるかもしれない。
僕は冷たくなった自分の左耳に触れ,それから風上の方へなんとはなしに視線をやった。

(…!)

乾いた北風の吹き渡る屯所の庭に,彼女は――はひとりしゃがみ込んでいた。
いや,正確には「ひとり」ではない。
の前には見覚えのある野良猫たちがたむろしていて,皆一様に餌らしきものに頭を垂れている。
彼女は食事に夢中になっている猫の背中をやんわりと撫でている…が。
ふと目線を天に上げ,物憂げに瞼を閉じた。

(…またか)

近頃,彼女はよくああいう表情をしている…ような気がする。
皆の前にいる時はいつも通り明るく振舞っているが,ふとした瞬間悲しげに俯いたり,苦しげに溜息を
ついたりしている…ように見える。

(曖昧過ぎるな。我ながら)

他人がどういったことを考えているのか,それを表情から読み取ることはたやすいと思っていたのに。
については…僕が「たやすい」と思えることなんて何一つ無かった。
それは,彼女が自分にとってたやすい存在ではなくなったからかもしれない。

(…ばかだな)

僕は自分自身に苦笑した――すると気配を察したのか,はこちらを肩越しに振り返った。

「あ…」

僕と視線が合うと,彼女はわずかに目を見開いた。



 ――あなたの泣き場所になってあげたのに



あの時以来――共に残照を見送ったあの時以来,が僕を見て以前のような屈託のない笑顔を
浮かべることはなくなった。でも…

「…」

かわりにこうして頬を赤らめて微笑むようになった。
そういう風な顔をされると,こちらまで面はゆくなる…けれども悪い気はしなかった。
彼女は猫の背から手のひらを離し,すっと背筋を伸ばすようにして立ち上がった。
そして,隊服ではない僕のいでたちに少し首を傾げた。

「お出かけですか」
「うん…人と会う約束が会ってね」

ぼかした表現でそう告げ,僕は言葉を切りかけた。
が,これではあまりに短過ぎて不審がられるかもしれない。そう思い直し,もう一言付け加えた。

「遅くなると思う…多分」
「そうですか。今夜はぐっと冷えるそうですよ。羽織はお持ちですか?」
「ああ,持っているよ」
「よかった」

は目を細めて笑うと,何を思ったのかもう一度屈み込んだ。そして「食事」を終えてまったり
し始めた猫達の中から,手前にいた1匹を抱え上げた。彼女はその野良猫の前足を軽く持ち上げると,
ひょこひょこと動かしてみせ,

「お気をつけて。いってらっしゃい」

幼い娘のようにいたずらっぽく笑った。
いってらっしゃい,の調子に合わせて猫の足が上下するのを,僕は戸惑いを覚えつつ見つめた。
彼女は僕を見送る時――もとい隊士なり松本先生なり,誰かを見送る時,必ず「いってらっしゃい」と
言う。本来ならそれに返すべき言葉は「いってきます」だろうが…それはよくわかっているのだが。

「…ああ,うん」

なぜか僕はちゃんと言葉を返せずにいる。
そして毎回曖昧に頷いてばかりいる。
そういえば彼女の「おかえり」に対して,「ただいま」とまともに返せた例がない気がした。
いや…一度だけあったか。



 ――おかえりなさい,伊東さん
 ――ああ…ただいま



あれもやはりあの時だった。
あの時はちゃんとそう答えられていたが…いささか酒が入っていた。

(酔っていないと言えないとは…)

我ながら情けないというか…ふがいないというか。
内心複雑に思いながらも,僕はに抱えられた猫の頭を撫でた。
すると猫は気持ち良さそうに目を閉じ,そしてなぜかもまた嬉しそうに微笑んだ。

その柔らかな表情を目にした途端――僕は彼女の頭も撫でてあげたくなった。

この手で頭を撫でてあげて,彼女が抱えている悩みや苦しみをすべて取り払ってあげたくなった。
その気持ちは「衝動」といっても過言じゃない程で,あまりの強さに一瞬自分自身を見失いそうになる
くらいだった。

「…」

けれども僕は,結局に指一本触れることなくそのまま手をおろした。
物足りなさと自制心の両方を痛烈に意識しながら,僕は彼女から離れた。

「じゃあ…また」
「はい」

小さく頭を下げるに,ゆっくりと背を向ける。
門に向かって一歩踏み出した僕の足元を,サザンカの花弁が通り過ぎた。

(『いってきます』…か)

いつか――自然とそう返せる日が来るのだろうか。
当たり前のように『いってらっしゃい』『いってきます』と。
そう言い合える日が来るのだろうか。
来て欲しい,と――強く思う。
僕はずっと長い間,その言葉を交わせる相手をもっていなかったから。
そしてずっと長い間,その相手を探し求め,渇望してきたから。

もっとも…そのことに気付いたのは,ごく最近になってからのことだったが。
彼女が自分にとって「たやすい存在ではない」と。
――そう確信してからのことだったが。



+++++++++++++++++++++++++++++



冴々えとした夜天の東側で,凍てる月が透徹した光を放っていた。静かに射抜くようなその光の中を,
三味線の音色が艶かしくさすらってゆく。
窓の桟に座したその男は,気だるげな姿勢にも関らず思いの外正確に,そして風雅に弦を弾いている。
彼が楽器を嗜むということを,僕は今の今まで知らずにいた。彼の側近――僕と彼のちょうど中間に
腰を下ろしているヘッドフォンをつけたこの男が,音楽を愛好していることは前々から知っていたが。
今この部屋で三味線を弾いているのは,いつもならば撥ではなく煙管を手にしている男――高杉晋助
だけだった。

「でけェ月だな」
「…」

何曲目かが終わったところで,高杉はつと顔を上げて窓の外を見やった。
月の光に縁取られたその横顔を見るともなしに見,特に何も答えずにいると,彼はこちらに視線を流し
てきた。

「どうした,伊東先生。今日はやけに大人しいじゃねェか」

揶揄するような声音に思わず眉をしかめそうになるがそれを堪え,僕はかわりに肩をすくめてみせた。

「いや…驚いているだけだ」

そう言いながら手前に置かれた酒盃を手にとり,おもむろに口をつけた。かなり辛口の酒が,喉元を
熱の潮となって滑っていった。

「君が楽器に造詣が深いとは思わなかったものでね」

僕の言葉に,高杉は小さく鼻を鳴らすようにして笑った。
――この男の笑い方はいつも勘にさわるが,なぜか今日は殊更そうだった。
まるで,わざと僕を苛立たせようとしているかのように。

「人を見かけで判断するもんじゃねェよ,先生」
「…その『先生』というのはやめてもらえないか」

僕は,持っていた盃を盆の上に押さえつけるようにして置いた。腹立たしい気持ちが込み上げたが,
高杉の人を侮った口調は今に始まったことではない。
とっくにわかってはいたのだ――僕とこの男が,本質的に『合わない』ということは。
利害が一致していなければ言葉を交わすのも避けたい程,僕と彼の人間性は相容れない。
若干の憤りを込めて放った僕の言葉に,高杉は今度は明確に鼻を鳴らした。

(…なにを考えている?)

僕は眉を上げた――今の彼の仕草ではっきりと確信した。
この男は,僕を怒らせようとしているのだ。
その目的が何なのかはわからないが,とにかく僕を挑発していることだけはたしかだ。
しかし,そんな揺さぶりにいちいち反応してみせるほど僕は幼稚な男ではない。それに,今日話し合う
べきことは既に済んでしまっていた。つまらない因縁に付き合わなければならない理由はなかった。

「なァ伊東」
「…なんだ」

暇を告げようとしたところに呼びかけられ,僕は渋々返事をした。
高杉は弦楽器を傍らの壁にたてかけ,窓の桟から腰を上げた。その身体の影によって,窓外の夜景が
一瞬遮られたが,彼はすぐ畳に座りなおしたため,四角い星天が再び目に映った。高杉は僕の前方の
席で胡坐をかくと,灰落しの上に置かれた煙管に指を伸ばした。
煙管に火をつけ,その煙を吸い込み,ゆっくり吐き出す…彼の一連の動作を,僕は黙って見つめた。
ちょうど3度目の煙が薄い唇から零れた時――奴はわらった。

「女ができたか」
「…!」

咄嗟に言葉が出なかった。
ひどく驚いていたのだ――高杉の言葉に,というよりむしろ『女』と言われ即座にの顔を思い
浮かべた自分に。ここまで誰かに心を侵食させている自分自身に。
動揺を悟られぬよう,僕は彼の片目をつとめて冷静に見返した。

「何の話だ」
「ナニの話だよ」
「晋助」

それまで黙っていた万斉殿が,咎めるように彼の名を口にした。呼ばれた張本人はなにが面白いのか,
喉の奥で笑った。胡坐した己の膝の上に肘をつき,高杉は艶やかでさえある笑みを零した。
下賤な話題をふるわりに,この男の品は少しも損なわれていなかった――そのことが余計に僕の神経を
逆撫でした。

「女に自分と同じ香を焚かせるたァ大した執着だな」
「香?…何を言っている?」
「知らねェのか?…まァいい」

僕が本心から不可解に思っているのを察したのか,高杉はわずかに目を開いた。しかしすぐに元通り
人を食った目付きになった。やはり――彼はどうしても僕を怒らせたいらしい。

「肝のすわった女だ。真選組にはもったいねェ」
「なにか勘違いをしているようだ。僕にはそんな女性は,」
「」
「!」

みぞおちを殴られたかのような衝撃が走った。
わずかにでも息を呑んでしまったことは,まったくもって不覚だった。高杉はそれを見逃さず,片側の
口角をゆるやかに上げた。

「伊東先生は頭の良い女がお好みらしいな」
「…彼女に何をした」

自分でもついぞ耳にしたことが無い程に,ひどく低い声が喉元から這い出た。
僕の脳髄は極めて冷静だった。しかしその一方で,僕の心臓は激しくたぎっていた。
目前にいるこの男が,もし彼女に何か害を与えていたのなら――
――すぐさまその喉笛をかっ斬ってやるつもりでさえいた。
しかし,高杉は笑みを崩さず首を左右に振った。

「何も。あのお嬢さんにゃ随分世話になったからな」
「…何のことだ?」
「あんな初そうな女を泣かせるたァ伊東先生も罪な男だねェ」
「…質問に答えろ」

鋭い視線でそう凄んでも,彼はほんの少し頭を傾けただけで答えようとしなかった。
かっと頭に血がのぼりそうになるのを堪え,僕は内心で自問した。

(泣いて,いた…?)

ここ最近よく見かけた,の憂い顔を思い出した。彼女の溜息の原因は…この高杉晋助なのだろうか。
彼女を傷つけたのは――こいつなのか。


 ――わたしは…自分の子供に涙を隠させる母親を,同じ女として許せません
 ――伊東さんにそんな思いをさせた人を許せません


(…僕もだ)

そう遠くない記憶の中のに,僕は頷きを返していた。
僕も そうだ。
彼女に苦しい思いをさせる奴を 許せない。
彼女を傷つける存在を 許すことはできない。

「もうヤったのか」
「晋助。よさぬか」

総督のみだらな物言いを,彼の右腕が咎めた。
行灯の油の燃える匂いが不穏に漂い,仄暗い部屋の空気が物騒にさざめいた。

「…不愉快だ」

僕の口からは短い科白しか出なかったが,その一言だけで十分だった。
人は吐き出したい感情があまりに多すぎると,実際に紡ぐ言葉はかえって少なくなるのかもしれない。
僕は苛立ち紛れに眼鏡を乱暴に押し上げ,部屋から出ようと腰を浮かしかけた――が。
次に僕の耳に入った言葉は,他のありとあらゆる音をかき消した。

「ああいう女にかぎって寝床じゃ売女みてェなんだろ」

鋭い熱が空を切り裂いた。
ぎんっという鈍い金属音が部屋中に鳴り響き,刃と刃の競り合う振動が腕を走った。

「晋助!伊東殿!」

せっぱづまった声で万斉殿が叫んだ。僕の手で抜刀された刃は高杉の目の先数十センチのところで,
ほぼ同時に抜き放たれた彼の刃によって受け止められていた。
ぎりぎりと互いの刃が軋み合う――僕は刃の向こうにある右目を,自身の眼差しで貫くことを望んだ。

「僕を見くびるな」
「ほォ…怖いねェ」

高杉は少しも恐れを感じていない声でせせら笑った。
僕は自分の頭に上る怒りの奔流を,抑えようとはもう思わなかった。
――許せなかった。どうしても。
彼女を貶める言葉を。聞き流すことはできなかった。
彼女を侮辱するものを。許してはおけなかった。

「普段堅ェ男ほど一度女に溺れたら果てしねェもんだな」
「なにを…!」
「呉の夫差しかり,唐の玄宗しかり…女に溺れ,志を忘れ,己の国や軍を傾けた男共は多い」
「!」

暴怒しそうになる僕を,高杉は極めて冷静な表情で見返してきた。
先程までの人を小馬鹿にした笑みは,消えていた。
彼はこちらの真意をはかろうとするかのように,もしくはこちらの覚悟を問い正そうとするかのように,
強靭で鋭利な目で僕の目の奥を見据えていた。

「お前もそのクチか?伊東」
「…」

このためか,と僕は心の内で項垂れた。
この男がわざと僕を挑発したのは…このためか。
「お前は女ごときで志を捨てるのか」という言葉に僕が「そうではない」と激昂するように。
そう仕向けるために,わざと彼女を貶めるような発言をしたのか。

「…今日はこれで帰らせてもらう」

もしそうだとしたらその作戦は成功だ。
僕は…未だかつて感じたことが無いほどの激しい怒りを抱いているから。
一呼吸置いて,僕はゆっくりと刃を引いた。
それに合わせて高杉も刃を鞘に戻し,そしてたった今思い出したかのように言った。

「ああ。心配せずとも,お前のお嬢さんにはなにもしちゃいねェよ。こちとらいろんな連中から首を
 狙われている身でな。怪我を負っていたところを助けてもらった。それだけだ」
「…まさか」

思わずそう呟いていた。は…の母君や伯母君,祖母君は攘夷浪士の爆破テロによって命を
落としたはずだ。彼らを憎みこそすれ,助けるなどということは有り得ないだろう。
それになにより,彼女は今は『真選組の医師』なのだ。
幕府に仕える医師が,幕府に敵対する人間の手当てをするなどということはあってはならないことだ。
でも,もし高杉の言っていることが本当だとしたら…なぜ助けたのか。
高杉が攘夷浪士だということがわからなかったのだろうか。
いや,しかしこのご時世に帯刀している負傷した男となると,幕臣か攘夷浪士しか考えられない。
それに彼女は聡い女性だ…高杉を攘夷浪士だと見抜けないわけがない。

(なぜ…)


 ――もっといい人生があるかもしれない。でも,これはわたしの人生だから
 ――だからこれで良いんです…これが良いんです


彼女がそう言って笑ったのは,いつのことだっただろう。
女性の身でありながら,父君の遺志を継ぎ生きていくことを誓った――彼女はそういう女性なのだ。
いつだって真剣に生きているひとなのだ。

「すまぬな,伊東殿」

万斉殿の呼び声にハッと我に返り,僕は彼の方に目をやった。彼は僕に向かってスッと頭を下げると,
静かな声で言った。

「晋助の言葉はいささか無礼だった…すまぬ。しかし,これだけは理解していただきたいのだが,」

自分のかわりに謝罪する部下を横目に,高杉は小さく舌打ちをした。
万斉殿は彼のそういう態度に特に何も言うことなく,淡々と言葉を続けた。

「あの女子が原因で伊東殿の志が揺らぐようであれば,拙者達にとってはあまり良い話ではない」
「…」


 ――わたしが伊東さんのお母さんだったら…そんな思い絶対にさせなかったのに
 ――涙を拭ってあげたのに。一緒に泣いてあげたのに
 ――あなたの泣き場所になってあげたのに


 ――いってらっしゃい


「彼女は,関係ない」

記憶の中の温かな声を振り払うために,一瞬間強く目を閉じた。
瞼の裏の闇は冷たくて,僕の世界は黒く凍えた。

「僕の決意に変わりはない。ゆさぶりも挑発も無意味だ」
「フン…それならいい」

目を開くと,高杉は僕に背中を向けていた。
彼の吐き出した煙管の紫煙だけが,夜気と同化して僕の方に流れて来る。
高杉はこちらを振り返らずに,煙管を持った方の手を軽く上げた。

「またな,伊東『先生』」

彼の皮肉が僕を苛立たせることはもうなかった。
それよりも――圧倒的な『喪失』が,胸の内に焼きついていた。
自分は今大切なものを失ってしまったのだ,と。
自分からそれを手放してしまったのだ,と。
己の志を通すことに,未練も後悔も抱いてはいないはずなのに。
どうしようもないほどの『空虚』が僕の未来を一瞬にして支配した気がした。

「…失礼する」

僕は『喪失』からも『空虚』からも目をそらし,部屋を後にした。

屯所までの帰り道――あらゆることを思い出さないように努めた。
あらゆる温かなものに。
僕は目を固く閉じて…決して振り返らないようにした。



+++++++++++++++++++++++++++++



真選組の門をくぐった時,既に深夜と呼んで差し支えない時間帯になっていた。
ただし,夜勤当番の者達は一晩中起きていなければならないため,屯所の中が完全な闇に閉ざされる
ようなことはないし,水を打ったような静寂に包まれるということもない。
しかし,それでもやはり昼間とは比べ物にならない程に辺りは静まり返っていた。
もっとも[昼間が必要以上に騒がしすぎる]という要因も勿論あるのだが。

「…」

僕は土に伸びた自身の薄い影を見下ろし,その影を作り出している月を見上げた。
今夜の月はほぼ満ちた形をしていたが,まるで氷の壁越しに見ているかのように不確かで,ぼんやりと
冷たく歪んでいた。
本来美しいはずのそれを,美しいと思えないほどに今の僕は…ひどく疲れきっていた。
今日はもう何も考えたくなかったし,もう誰とも話したくなかった。
僕は夜空に向かって白い溜息をついて,屯所の入り口へと進んだ――が。

「伊東さん…?」
「…」

あろうことか,今一番あいたくなかった人物と鉢合わせした。
思わず身を竦ませるような不自然な立ち止まり方をしてしまった。しかし,彼女が僕のその動作に
疑問を感じた様子はなく,ただこうして顔を合わせたことに対して驚いたように目を丸くしていた。
そして――

「おかえりなさい」

――すぐに柔らかく微笑んでくれた。

「…うん」

その笑みを見て僕は気付いた…決して「あいたくなかったわけではない」ということに。
実際にこうして彼女を目の前にすると,僕の心臓は呆れるほど正直に早い鼓動を刻み出した。
あいたくなかったわけではない。むしろ多分…

「まだ眠っていなかったのかい?」
「ええ…でも,もう眠るところだったんですよ。眠る前にお水をいただこうかと思って」
「…そうか」

話しながら「ああ,また『ただいま』と言えなかったな」と悔いる気持ちが湧き上がってきた。
そんな後悔と同時に,昼間とは異なるの格好に僕は目を奪われていた。紗綾形の地紋が入った
白い夜着の上に紺色の半纏を羽織っており,髪は結われぬまま肩や背中の方に黒々と流れていた。

「伊東さん?どうしました?」

は不思議そうに首を傾げた。そして,その際に月光の当たり具合が変わったからか,彼女の目の
下にうっすらと隈のようなものが浮かび上がった。よくよく見ると顔色もどことなく青ざめていて,
お世辞にも健康そうには見えなかった。

(…あまり眠れていないのか)

青白い顔をしたには,壊れやすいもの独特の儚い美しさがあった。
それは僕の心を痛いほどにひきつけた。でも…
…彼女に似合う美しさは,もっと別のもののはずだ。
彼女には――幸せに満ちた明るい美しさの方がふさわしい。
月の下で静かに光る美しさより,太陽の下で朗らかに輝く美しさの方が似合うはずだ。

(どうして…助けた?)

そんなに悩んでまで何故。
高杉晋助を…攘夷浪士を助けたことが,この細い体にどれほどの苦悩を与えたことだろう。
親の敵と同じ立場にいる人間を,そして現在の仲間達と敵対している人間を…
…彼を助けたことに,彼女はどれほどの重みを感じ,それを受け止めたのだろう。
押し潰されることを考えなかったのだろうか。

(君はなぜ,彼を助けた?)

心の中だけで僕はそう問いかけた。
言葉にして問うこともできなければ,慰めることもできない。
苦しみの内容をよく知っているのに。

「ご気分でも悪いんですか?」
「君の方が…余程…」
「え?……!」

月の光が――見えなくなった。

ほとんど覆いかぶさるようにして 僕はを強く抱いていた。
しなやかに細い骨とそれを包む柔らかな肉の感触は,まるで自分とは全く異なる生き物のようだった。
僕の指の間をさらりと零れる髪の毛からは,湯上りの甘く温かな匂いがした。彼女の息遣いが鼓膜を
震わせ,呼吸と共にその胸元が窮屈そうに上下するのを身体でじかに感じとった。
固く閉じた自分の瞼の裏が,赤く燃え上がったような錯覚をおぼえる。

もっと…近くにいきたいと思った。
他の誰も近づけないほどに 近く。
彼女の一番近くに行くことを 僕は強く願っていた。

「い,伊東さん」
「!」

戸惑いと怖れの入り混じったの小声が耳をかすめ,僕は瞬時に我に返った。
ほとんど反射的に腕を解き,跳びさがるように彼女から身を離した。
は「何が起こったのかよくわからない」とでもいった目でしきりに瞬きを繰り返し,僕の顔をじっと
見上げていた。そして状況を頭の中で整理したのか,みるみる間にその頬が赤く染まった。

「…すまない」

ひどく悪いことをしてしまったような気がした。
ひどく…わるいことを。
今まで感じたことがない程の後ろめたさが襲い掛かってきて,僕は素早く踵を返した。

「あっ…伊東さん!」

駆け足に近い早足でその場から逃げる僕の背中に,彼女の呼び止める声が響いたが…足を止めることは
できなかった。
耐えられなかった――今日は もう。
様々な感情がぐしゃぐしゃの糸になって,僕の脳裏で絡み合っていた。

でも,最も僕を苦悩させ,最も僕に恥辱を与えたのは…
…この腕に抱いた彼女の身体の感触に,少しも後悔を抱けないことだった。





今まで 心から願ったことがあっただろうか。
誰かの幸せを。
心から望んだことがあっただろうか。
今まで 心から喜んだことがあっただろうか。
誰かの幸せを。
心から祝福したことがあっただろうか。

彼女の幸せを願っていた。
それは 嘘じゃない。

僕は 彼女の大切な存在を
奪うかもしれないのに。


2010/03/08 up...