街灯に照らし出された木々が風にざわめき,清澄な夜闇が首元に沁みる。
鈴を振るような虫の声が,澄んだ空気の中を響き渡っている。
人通りの少ない道を歩くわたしの爪先に,枯葉が1枚ことりと触れて砕けた。

(もうすっかり秋だなあ)

お香屋さんを出た後,わたしは書店へ寄ると言って近藤さん達と分かれた。
本当は彼らと一緒に帰るつもりだったけれど,もう少しだけ寄り道したい気持ちになったから。
もう少しだけ,この歌い踊るような気持ちを抱えていたかったから。
ひとりでこの気持ちを隠して,はにかんでいたかったから。
あてもなく街を散歩していた時も,時々立ち止まって空を見上げていた間も,そして夜道をこうして
ひとり帰っている今も…わたしの心はふわふわしていた。
それは,懐から微かに漂ってくる香りのせいに他ならなくて。

(バカだなあ,わたし)

似ている香りの物を持ったからといって,どうなるわけでもないのに。
なんだか心がウキウキしていて落ち着かない。
舞い上がっているというか,浮かれているというか。
自分でも変だと思うけれど…こういう自分も不思議と嫌いじゃなくて。

(これじゃホントに変なコだなあ)

色を持たない風が,通りに立ち並ぶ柳の葉を散らせていく。
…水の匂いがする。
春の艶めいた闇とは違い,秋の夜はどこか寂寥感が漂っている気がする。
それでも,わたしの足取りはすごく軽かった。

(あ。宵の明星)

紫紺の西天を見上げると,金星が白く煌いていた。
わたしは星や宇宙のことをあまりよく知らないけれど。
でも――伊東さんは天体のことも詳しく知っていそうだ。
実際に伊東さんの口からそのテの話を聞いたことはないけれど,彼が天体観測している姿を想像する
ことは不思議と簡単だから。星を見上げる姿が,不思議とよく似合っているから。

(今度聞いてみようかな)

そんなことを考えながら建物の角を曲がると,東の空に浮かぶ細い月が目に入った。
それは,墨の海を漂う白銀の氷柱のようで。

まるで――刀のようだと思った。

鋭くて美しいけれど,どこか冷たい。
触れてはいけない,心を奪われてはいけない美しさだ。

(…あれ?)

ふと違和感を覚え,わたしは立ち止まった。
背後から吹きつけてきた風に,髪の毛が乱される。ぼんやりとした不安が胸の鼓動を一気に早める。
警鐘。危険信号。虫の知らせ。
似たような言葉が次々と頭に浮かんで,そしてわたしは気が付いた。

(虫の声が…止んだ?)

先程まで辺りに響き渡っていた虫の声がぴたりと止んでいる。
それに気付いた途端,ほぼ同時に鉄のような匂いがわたしの鼻をかすめた。

「…血の匂い?」

声にすると緊張が体中を縛りつけ,冷や汗が額を伝った。
職業上,一般人よりも嗅ぐ機会の多い匂いだけれど,慣れることは無い。
屯所はもうすぐそこだ。そんな場所で血の匂いがするとは…どういったことを意味するのか。
舌の裏にたまった唾をごくりと飲み込んで,冷静になれと自分に言い聞かせる。
呼吸を整えながら周囲を見回し,匂いの出所を探した。そして――

…っ!!!

微かなうめき声が耳に入ってきた。
すべての神経を聴覚に集中させ,その声を辿って歩を進める。塀と塀の間にできた細い路地に入り,
大通りよりも心なしか気温の低い影道を進む。血の匂いがどんどん強くなっていき――

「…!」

『その男』はいた――月明かりさえも届かない闇の中に。

彼は塀に背中を預けて座り込んでいた。俯いていて顔は見えないけれど,大儀そうに肩が上下に動き,
荒い呼吸がその苦しさを物語っていた。
血の匂いをまとっているのは紛れもなくその男であり,おそらくその血は彼自身のそれだろう。
男はわたしの存在にまだ気付いていないようで,こちらを見ようとはしない。
彼の腰に下がった刀がわたしの目に映った。

「…」

帯刀しているけれど,幕臣ではないだろう。
屯所はすぐそこにあるのだ。怪我を負った幕臣ならば,屯所に駆け込むはずだ。
廃刀令のしかれたこのご時世,幕臣でもないのに刀を腰に下げた人間…。

(攘夷浪士…)

心の中でそう呟いた瞬間,冥い感情が鎌首をもたげた。
彼らによって奪われた,わたしの大切な人達を思った。
母を思った。伯母を思った。祖母を思った。
3人の笑顔を思った。
それから――父の泣き顔も。

「誰だ…お前」
「…」

男はわたしの存在に気が付いたらしく,緩慢な動作で顔を上げた。
まず男の左目に巻かれた包帯が視界に入り,次に彼が着ている派手な着物に目を奪われた。

「わたしは…」
「…」
「…わたしは,」

3人が死んだあの日,わたしは初めて見た。
父上が 泣くところを。

「…失せろ」

男の低い声が暗闇を揺らす。
わたしの――心の闇も。黒い記憶も。目を伏せていたい感情も。
爆破テロを行ったその攘夷浪士達は,計画を実行した直後に自ら腹を斬った。
きっと,自分達のことを『正しい』と信じて疑わないまま死んだのだろう。

「…」

当時のわたしは,母上達の遺体と対面することをゆるされなかった。
…損傷が激しかったのだ。幼いわたしに見せることが憚られるほどに。
だから,3人が死んだことを聞かされてもまるで信じられなかった。
額に拳をあてて泣く父上の姿を見るまでは。
父上の涙を見て初めて…わたしは母上達の死を実感した。
もう2度と会えないことを知った。

「おい…聞こえねェのか。失せろと言ってんだ」

まったく去ろうとしない,それどころか何も返事をしないわたしに,苛立たし気に男は言った。
その口調は苦痛に揺れていたけれど,明確な殺気が込められていた。

「…」

攘夷浪士を憎む気持ちは…もう無かった。
激しい憎しみと,激しい悲しみが交互に繰り返されたのはもう遠い過去のことだ。

わたしはもう彼らを憎んではいなかった。

(でも…)

あの日わたしの心はばらばらに砕けてしまった。
わたしだけじゃない…父上の心も。
そして,それはもう一生元通りにはならない。
憎しみが消えて,悲しみが癒えても,そこにあるのは以前とは別のものだ。
わたしや父上が愛し愛された人々は,あの時永遠に失われてしまったのだから。
『喪失』という事実は,どうしたって消えやしないのだ。
もう憎んではいないけれど――きっと一生ゆるさない。

「わたしは…」

どうしたらいいのかわからない。
わたしは今,どうすればいい。
こんな時…どうすればいい。どういう顔をすればいい。


――もし,僕が女性に生まれていたのなら…君のような女性になりたかった。


「!…おい?」
「…っ」

どうしてかはわからない。
伊東さんの言葉を思い出した。
思い出した途端,理由はわからないけれど涙が零れた。

「…!」

あの人の言葉に縋り,そして深く謝った。
わたしは…伊東さんが思っているような立派な人間じゃないから。
そんなによくできた人間じゃないから。
でも――伊東さんが思っている『わたし』なら,こういう時どうするだろう。

あの人には軽蔑されたくない。
あの人には幻滅されたくない。
そう思った時,わたしの口から言葉が溢れた。

「わたしは…医者です」
「…医者?」
「ええ」

わたしは涙を袖口でぐいっと拭い,その男に近寄った。すると,怪我をしているとは思えないほどの
俊敏さで男は抜刀した。刃の切っ先が暗闇の中で揺れ,鈍く光った。

「それ以上近づいたら…斬る」
「刀はそのままで構いません。怪我の手当てをさせて下さい」
「…あ?」
「わたしが変な動きをしたら,その時は斬ればいい」
「…」

男は浅い呼吸を繰り返し,黙り込んだ。どうやらわたしの意図を測りかねているようだった。
突然現われたどこの誰とも知らぬ女を信用していいものか,逡巡しているらしかった。
わたしは刃を避けて男の傍に膝をつき,鞄を開いた。その一連の動作の間,彼の刀もわたしの首元
と共に動いた。突きつけられた刃にひやりと肝が冷えるけれど,そこはぐっと堪えた。
鞄から出したペンライトを点けると,闇に満たされていた小路が丸い光で切り取られた。

「…!」

その時,初めて男と目が合った。
美しい男だ――けれども彼の右目は鋭く細められ,凄まじい殺気で燻っている。
反射的にわたしは彼から目を離し,血の出所をペンライトで探した。
それはすぐに見つかった。男の左足のふくらはぎがざっくりと裂け,そこから血がだらだらと流れ
出てていた。他に深い傷がないか,男の体を一通り照らしてみたけれど,特には見当たらなかった。
でも男が纏っている着物のところどころに,赤黒い斑点が滲んでいた。
多分――これらは彼の血ではない。

「なんで…」
「え?」
「なんで…俺を助ける?」

朦朧とした声で男が再び話しかけてきたので,わたしは返り血から目を離した。そして傷の状態を
確認しつつ,

「民間人が攘夷浪士を助けるのは,珍しいことじゃないでしょう」

冷静な声音になるよう努力して答えた。
実際,民間人が攘夷浪士を助けるのは,たいして珍しいことじゃなかった。
天人の来訪で開国した現在,誰もが彼らの文明の恩恵を受けているけれど。
わたし達の文化を壊したのも他でもない彼らで。
皆,心の中では彼らに対して恨みをもっている。
「今更抵抗しても無駄だ」と思いながらも,「今更楯突くのは馬鹿げている」と諦めながらも。
皆,恨みを心の奥深くに抱えている。

「おかしな女だな…刀が怖くねェのか」
「屯所の近くに座り込む攘夷浪士だって充分おかしいでしょうに」

真選組に対して世間の目が冷ややかであるのも,心の底にある天人への恨みが主因となっている。
『自分達の文化を踏みにじった奴らをなぜ守るのだ』と。
だから…民間人が攘夷浪士を助けることも,そう不思議なことじゃない。
わたしの知り合いの医者の中にも,攘夷浪士の治療をすすんで受け付ける人達はたくさんいる。

「お前。真選組の人間か」
「!」

心臓が痛烈に跳ねた。
どうして,と思うよりも早く口が開いていた。

「えっ…わたしが?シンセングミ?」

さも不思議そうな声を出したわたしを,男は鼻で笑った。

「一般人は…あれを『屯所』とは,あまり呼ばねェ。普通に…『真選組』だ」

男のかすれた息が夜の中に響く。

「あれに,対して…身内意識のある奴の,呼び方だ…『屯所』は」
「随分と深読みしますね。攘夷浪士は皆そうなんですか」

平静を装いつつ止血作業に入ると,男は少しうめいたけれど特に言葉は発さなかった。
機敏に手を動かしながらも,わたしの心臓は早鐘のように鳴り響いていた。
真選組に属している医者であることがばれたら,この男は何をしてくるかわからない。
…絶対にばれるわけにはいかない。
自分が持ち得る限りの演技力を総動員して,わたしは落ち着いているように振舞った。

「わたしがもし真選組の医師だったらあなたを助けるはずがないでしょう」
「お前が…普通の奴なら,そうだろうな。だが,」

男はそこで一旦言葉を切り,笑みと共にフッと息を吐き出した。

「お前は酔狂な奴に見える」

枯葉の匂いが風と共に流れて来た。
ほころぶように滅んでいく葉っぱの匂いは,儚い命の香りがした。

「きっと…あなた程じゃありません」
「さァて」

何が面白いのか,男は喉の奥で笑った。
そして――今の今までわたしの首に突きつけていた刀を下ろした。

「…」

危険な男だと思った…色々な意味で。
人を惹きつけて止まないくせに,人を酷く傷つける種の人間だ。
破滅型の男だ。
わたしは彼の顔から目を外し,傷口にじっと見入った。

「ふくらはぎの裂創…これは太刀傷ですね」
「…ああ」
「あなたは強運の持ち主ですよ。斬られたのは動脈ではなく静脈です。あと5・6分圧迫すれば
 出血は止まります。止血さえしておけば命に別状はありません」
「…そうか」
「脈も血圧も…少し低いです。でもショック症状もないですし。動き回って貧血気味なのは仕方が
 ないですが,幸い大きな出血はありません」

坦々と言い募ると,男は顎を引いて頷いた。そして,わたしの顔を下から覗きこむようにして目を
無理矢理合わせてきた。

「なんで…真選組の医者が,俺を助ける?」
「どうして決めつけるんですか…違いますって」
「じゃあどうしてその香を焚いている?」
「!」

傷口を圧迫している自分の手が,びくりと跳ねたのがわかった。男はわたしのその反応を見て,至極
楽しそうに口の端を上げた。

「若い女の…つける匂いじゃねェ」
「…鼻が利きますね,攘夷浪士は。世間じゃ真選組は『幕府の犬』と呼ばれていますけど。さしずめ
 攘夷浪士は『野良犬』ですね」
「お前の男の匂いか」

わたしの精一杯の嫌味を受け流して,男は嘲笑するように目を細めた。
彼が口にした『お前の男』という言葉は,こちらをあからさまに耶喩する響きを帯びていた。

「違います」

わたしは事実を告げた。
所詮は行きずりの人なのだから,適当な相槌を打てば良かったのかもしれないけれど。
彼の言うことを肯定するのが恐ろしく癪で,わたしはきっぱり首を振った。

「片恋か」
「…あなたには関係のないことでしょう」
「違ェねー」

くくっと男は肩を震わせ,神経を逆撫でする酷い科白を吐いた。

「…真選組だったら,男も食い放題だろ」

獣の匂いが鼻をかすめた。
この辺りを犬か猫かがうろついているのかもしれない。

「言葉に気をつけた方が良いですよ」

わたしは彼の目を真正面から睨みつけた。

「手当てしていると見せかけて…後で壊死するよう施すこともできるんですから」
「ほォ…怖いねェ」

ちっとも恐怖を感じているとは思えない声音だ――嫌な男。
この手のタイプの男性とは,一生仲良くなれそうにない。わたしがそう思った矢先,男はまるで逆の
ことを言った。

「気丈な女は…嫌いじゃねェ」
「わたしは嫌いですよ。あなたみたいな人」

語調を強めてはね付けると,彼は薄く笑った。

「そりゃ残念だ」

やはり少しも残念そうじゃない――つくづく腹立たしい男だ。

「…」

わたしと彼は,そのまましばらくの間じっと黙り込んだ。
彼は幾らかぼんやりとした瞳で虚空を見上げ,わたしは彼の傷口に黙々と包帯を巻きつけた。
犬の遠吠えが塀の向こう側から響いて来たその時,男は再び口を開いた。

「最初に,ここに来た時…」
「はい?」
「どうして泣いた?」
「!」

はっとして顔を上げると,彼の真直ぐな眼差しがそこにあった。
その目には先程のような嘲りも揶揄もなく…むしろ『情け』に近い色合いが宿っていた。

「それは…」

突然そんな色を宿されても戸惑ってしまう――瞳の温度があまりに違い過ぎる。
まだ微かに頬に残る涙の感触を,わたしは手でそっと押さえた。

「昔を…思い出しただけです」
「昔,ねェ…」

彼は詠うようにわたしの言葉を繰り返した。
そして――息を零すようにして笑った。

「思い出は大事にするもんだ」
「えっ?」
「…なんでもねェ」
「…」

先刻より少し高くに昇った月が,霧のような白光を投げかけてくる。天に散らばる星の輝きが,大気を
突き通して地上を照らす。

(この人にも…思い出すと涙の出るような過去が?)

汗に湿った彼の髪が秋気の中で揺れるのを見ながら,わたしはごく自然な気持ちで問いかけていた。

「あなたはどうして攘夷を?」
「…」

彼は少しだけ目を丸く見開いたけれど,すぐに瞼を閉じた。
世界を拒絶するかのように。
すべてを断ち切るかのように。

「理由なんて無ェよ」

老いた木々の葉を揺らしていた風が,わたし達の間を通り抜けた。
枯れていくもの達の声が 耳の奥で響く。
朽ちていくもの達の影が 瞼の裏に浮かぶ。

「ただ…壊すだけだ」

微かな風にさえ掻き消されそうな脆い声で,彼はそう言った。

「そうですか…」

わたしはひどく静かな気持ちで頷いた。
きっと――この人も苦しいのだろう。
大切なものを理不尽に奪われて。
もう二度とそれを取り戻すことが叶わなくて。
なんとなく…なんとなくだけれど,わかった。

「じゃあ…壊した後は?どうするおつもりですか?」
「…さあな」

どうでもよさそうに彼は言葉を放った。
きっと――本当にどうでもよいのだろう。
壊した後は…どうなっても構わないのだろう。自分自身も。

「…」
「…」

わたし達はお互いに俯いたまま,同じ空間の同じ空気を長いこと分け合っていた。
そこには『連帯感』とまではいかないけれど,似たような痛みを抱える者同士の『情け』があった。
ひょっとするとわたしも…彼のようになっていたかもしれないのだ。
大切な家族を失って,憎しみのまま人を傷つけて,自分もまた傷ついて。
何かが微かに作用し合って,わたしはその道を選ばなかっただけだ。
ただ――それだけだ。

「…もう行く」

彼は低い声で宣言すると,よろめきながら右足で立ち上がった。わたしはそれに手を貸しながらも,
1人の医師として首を振った。

「まだ…あまり動き回らない方が」
「そういうわけにもいかねェ」

しかし彼は左足を引き摺って,なおも歩を進めようとする。
出来る限りの応急処置は既に済んでいる。安静にさえしていれば数日でふさがるような傷だ。
でも,あくまで『安静にしていれば』の話だ。今動き回ってしまっては,傷口が開きかねない。

「誰かに迎えに来てもらうことは…」
「晋助」
「!」

突如耳に入った知らない男の声に,咄嗟にわたしは小さな叫び声をあげた。肩を貸したまま声の方を
振り返ると,ほんの数メートル後方にサングラスをかけた長身の男が立っていた。見知らぬ謎の男の
登場にわたしは息を呑んだけれど,包帯の彼は違った。サングラスの男を見,その男の名前を呼んだ。

「…万斉」
「探したでござる。無事でなにより」
「遅ェ」

会話から察するに,どうやら知り合いらしい。こちらへ近寄ってきたその男に,わたしは包帯の彼の
肩を任せた。サングラスの男は,わたしと包帯の彼を交互に見て問いかけてきた。

「手当てをしてくれたのは…ぬしか?」
「…はい」
「かたじけないでござる」
「…いえ」

わたしが小さく首を左右に振ると,サングラスの向こうにある目が少しだけ笑ったような気がした。

「では,」
「待て」

立ち去ろうとしたサングラスの男を,包帯の彼が制止して…もう一度わたしを振り返った。
そして――

「お前,名前は?」

静かな声音で わたしの名を尋ねた。

「です」

名字を答えず名前のみを答えたわたしに,彼はわずかに目を細めた。

「。泣くなら惚れた男の前で泣け」
「…え?」

思わずきょとんとしてしまった。まさかそんなことを言われるとは思わなかった。
わたしの目が点になっているのにも構わず,男は艶やかな声を立てて笑った。

「それが女の涙の正しい使い道だろうよ」
「…そうですね」

わたしが苦笑を零すと,彼は肩をすくめて微笑した。夜風に吹かれ,2人の男の影がたなびいた。
 
「世話になった。礼を言う」
「いえ…」
「じゃあな」
「さようなら」

きっと――もう二度と会うことはないだろう。
お互いの別離の言葉が闇に溶けた時,既に2人の姿は消えていた。
あとには銀色の月光だけが残された。
涼やかな虫の声が,周囲のいたるところから響き始めた。

「…!」

その瞬間,体が崩れ落ちそうになった。
張り詰めていた緊張の糸が,一気に弾け飛んだかのような気分だった。
悲鳴をあげる心臓を押さえながら,わたしは塀に背中を預けた。汗が噴き出る額を拭おうと,懐から
震える指でハンカチを取り出した――でも,

「あ…!」

風に煽られて 手を離してしまった。
ひらひらと花弁のように舞い,ハンカチは地べたへと落ちた。

「やだ…」

地面のハンカチを拾い上げると,先程の男の血がべっとりとついていた。

(せっかく…同じ香りだったのに)

血の匂いに 染まってしまった。
あの人の香りが 赤で染まってしまった。

わたしは――しばらくの間ハンカチを握り締め,呆然と立ち尽くしていた。
今夜わたしのしたことは…本当に正しかったのだろうか。
それとも…

「伊東さん…」

あの人の名前を呼んだ。
助けて欲しかった。
肯定して欲しかった。
君は正しいことをしたのだ,と。
そう 言ってもらいたかった。

「伊東さん」

鋭い月が遥か彼方からわたしを見下ろしていた。
無言の光がわたしのすべてを照らし出した気がした。
わたしの過去と 現在と 未来を。
途方もなく 曝け出して。

わたしはなぜか もう一度泣いた。
ひとりで 泣いた。





あなたのことばかり 考えていた
あなたのことばかり 思っていた

だから 振り向いて
遠くへ 行かないで
ひとりで 行ってしまわないで。


2009/10/05 up...