君に逢えたら
暦の上ではもう春を迎えたものの,空気の冷たい日々が根強く続いている。
今日は晴れているため底冷えするような寒さはないが,冷たく乾燥した空気が肌をぴりぴりと刺す。
とはいえ,少しずつではあるが日は長くなり始めていて,もうすぐ春がやって来るのだなあ,としみじみ
感じさせられる。冬は寒く厳しい季節だけれど,いざ終わるとなれば不思議とどこか惜しい気持ちもする。
春が来れば,今自分の傍で燃えているストーブの温もりに感謝することもなくなってしまうのだろう。
はそんなとりとめもないことを思いながら,揺り椅子に座って裁縫をしていた。すると,
「ねえ…」
神楽がおずおずと話しかけて来た。もの言いたげな上目遣いで,普段の元気でパワフルな彼女とはかなり
様子が違う。
「ん?どうしたの神楽ちゃん?」
布地を縫う手を止めてそちらを見ると,なにやらほんのり顔を赤らめている神楽と目が合った。
「あの…その…お腹撫でても良いアルか?」
口にされた神楽の小さな声を聞いて,の頬が自然と緩んだ。
作りかけのスタイをテーブルに置いて,
「もちろん。撫でてあげて」
手招きをしてやると,神楽の表情が途端にぱっと明るくなった。
いそいそと弾むような足取りで歩み寄って来て,の膨らんだお腹にそっと手を当てる。
彼女の白い手のひらが,丸みを帯びたお腹の上を優しく撫でる。
そこで確かに息づく――小さな命の鼓動。
「なんだか不思議アル。こうしてると…すごく落ち着くネ。すごく優しい気持ちになるヨ」
目を細めてはにかむ神楽に,は笑いかけた。
「神楽ちゃん,おねえちゃんになってあげてね」
「もちろんアル!いっぱい一緒に遊ぶネ!!」
満面の笑顔を浮かべ,ガッツポーズをしてみせる神楽はなんだか頼もしい。
もう『おねえちゃん』になる準備は万端のようだ。
「良かったね~。神楽おねえちゃんがたくさん遊んでくれるって」
が話しかけると,お腹がわずかにぴくりと動いた。
「うふふ。喜んでる」
「まじアルか!?」
「うん。動いてる」
「触っててもわかんなかったネ!もっかい動くヨロシ!」
お腹に向って必死に叫ぶ神楽を見て,がくすくす笑っていると「わふっ」という鳴き声と共に
白い巨体がヌッと姿を現した。
「定春,どうしたアルか?」
愛犬の呼びかけに神楽が振り向くと,定春は口にくわえた毛布をボフッと彼女に押し付けた。
「ぶはっ…何アルか?」
「あっ。お腹を冷やしちゃダメだものね。何かかけておかないとね」
「あーそういうことアルか。良い子ネ,定春」
こちらに毛布を手渡す神楽にお礼を言い,そして,
「ありがとう,定春君」
とても優しい眼差しで尻尾を振っている彼にも頭を下げた。
「定春もちゃんとわかってるアルな!」
神楽が得意気に定春の頭を撫でれば「わんっ」と彼も意気揚々と吠えた。
もつられて笑いながら,手渡された毛布をお腹から腰に巻きつけるようにぐるりと包み込んだ。
その時,玄関の扉が開く音が聞こえた。
「じゃまするよ」
聞き慣れた声がして,見慣れた着物姿の女性達が居間に顔を出した。
「お登勢さん。キャサリンさんに,たまさんも!」
「オジャマ~」
「おじゃま致します」
ぞろぞろと女性3人が部屋に入って来る。
お登勢は手にした白いビニール袋を,神楽に「オラ」と突きつけた。
「後でこれ食べな」
「なにアルか?」
すぐさまビニール袋をあさる神楽の横から,もそれを覗き込んだ。
「わっ…アサリですね!それにレモンも!こんなにたくさんいただいて良いんですか?」
「妊娠中は鉄分を多く摂らなきゃならないからねェ。アサリにゃ鉄分いっぱい入ってるんだよ。
けど,鉄分だけじゃ身体に吸収されにくい。ビタミンCと一緒に摂りな」
「あっそれでレモンも…なにからなにまでありがとうございます!」
「ひゃっほう!アサリっレモンっ,鉄ビタC~!」
「ハシャギスギダッツーノ,クソチャイナ」
「黙るネ,クソネコババァ!!」
ぎゃーぎゃーとつかみ合いを始めた2人の隣で,たまがのお腹にじっと視線を下ろしている。
それに気付いたは,にこっと笑って手を合わせてみせた。
「たまさん。今日もお願いしまーす」
「了解致しました」
そう返事すると同時に彼女の目がきらりと光った。
「解析中…解析中…」
カシャカシャという機械音に内心どきどきしながら,はお腹をそっと押さえた。
病院への定期健診にも勿論行っているが,毎日通うのは時間的にも経済的にも無理な話だ。
だから,こうしてたまが毎日お腹の様子を診てくれる。
頼んだわけじゃないのに自ら進んで「解析しましょうか」と最初に言ってくれたのだ。
1分も経たない内に解析は終わり,たまは結果を口にした。
「脈拍,血圧共に異常ありません。順調です」
「よかった!ありがとう,たまさん」
「いいえ。よかったですね」
心なしか彼女も安心したように微笑むと,帯の間からスッと何かのディスクを取り出した。
「様,これをどうぞ」
「え?なにこれ?」
「胎教音楽のCDです。母体にも胎児にも良い影響を与える曲を,大量にダウンロードしました」
「わあ!わざわざありがとう!」
たまがそこまで考えてくれたということが嬉しくて,はついはしゃいだ声を出した。
やはり彼女はただの機械じゃない。1人の人間だ。それも…とても優しい女性。
「ココロニクイコトスルジャネーノ,オマエモ」
神楽との取っ組み合いが一段落ついたキャサリンが,興味深そうにお腹を見つめてきた。
「タノシミデスネ。ドッチ二ニテイルコガウマレマスカネ?」
「う~ん…どっちなのかなあ?」
「ドッチ二ニルカ…テンパカストレートカ,ウンメイノワカレミチデスネ」
「あははは!そうだね!」
この子の『お父さん』の髪を思い浮かべ,は噴出した。
「やっぱりあいつに似た侍になるのかねェ…もうちょっと常識身に着けた侍に育てるんだよ」
「はい,お登勢さん。きっと元気で礼儀正しい男の子に育てます」
「まあ,あんたなら大丈夫。礼儀正しい子になるさ。…それに,」
そこで言葉を一端切って,お登勢はのお腹を撫でた。
「あいつに似て,元気いっぱいに決まってるさ」
「…はい」
――君が 君であることが こんなにも幸せで――
ストーブの上に乗ったヤカンから湯気が立ち上り,ふわふわと白くたなびいている。
まだ早春なのにこんなにも暖かいのは,見守ってくれる皆と『君』のおかげ。
そして『お父さん』のおかげ。
「どっちに似ててもさ,幸せに決まってるよ」
の肩をぽんと手で叩き,お登勢は静かに笑った。
ストーブの上に置かれたヤカンが,湯が沸いたたことを告げるかのように柔らかな湯気を吹き出した。
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お登勢達3人の来訪後にお昼ご飯を済ませ,その後片付けをしている最中に再び呼鈴が軽やかに鳴った。
「ごめんくださ~い」
「すいません」
玄関の引き戸を引いて,涼やかな声と共に訪れたのは,
「姉御!」
「九ちゃん!」
神楽もも口々に歓声をあげた。お妙は2人に朗らかな笑みを向けながら,部屋に足を踏み入れた。
その後ろで九兵衛が襖戸を閉め,続けて入って来る。
「こんにちは,神楽ちゃん,さん…あら?新ちゃんはいないのかしら?」
「新八は今銀ちゃんと一緒に仕事アル」
「まあ,そうなの。ねえ,ほらっ九ちゃん」
「ああ。これ」
九兵衛がとても真剣な顔つきで,大きなビニール袋を達に差し出した。神楽がそれを受け取って,
が横から袋の中を覗き込んだ。
「苺に蜜柑に林檎に柿に…こんなにたくさん果物もらって良いの?」
「すごいアル!果物晩餐会できるアル!!」
「妊婦はたくさんの種類の果物を食べた方が良いらしい。お妙ちゃんと一緒に買ったんだ。食べてくれ」
九兵衛は照れているのか,頬がふっくりと朱色に染まっている。は胸が暖かくなるのを感じながら,
お腹を撫でて笑った。
「九ちゃん,お妙さん,ありがとう」
「姉御も九ちゃんも座るアル!お茶持って来るヨ!」
張り切って台所へ駆けてゆく神楽の背中を,居間に残る3人は頼もしく感じながら見送った。
以前は「お手伝い」で家事を時々してくれていたけれど,今は違う。
ちゃんと自分の「役目」として,やってくれている。
本当に「おねえさん」になってくれている。
神楽のついでくれたお茶を飲みつつ,ガールズトークに花が咲いた。
「つわりはもう終わったの?」
「うん。わたしはそんなに何ヶ月もは続かなかったたよ。でも,続く人はお産の直前まで続くんだって」
「大変だな,それは」
「がつわり酷かった時は,男共がオロオロし過ぎてて笑えたアル。ごっさ気分悪そうにしてるの
横で,銀ちゃんが『山田さんの奥さんはつわりが軽くて普通に過ごしてるらしい』って,言ったんだけど,
『だから何!ていうか山田さんって誰!』ってに怒鳴り返されてしょぼくれてたヨ」
ずずっとお茶をすすりながら神楽が暴露すると,お妙は目を丸く見開いた。
「まあ!さんが怒鳴ったの?」
「珍しいな,それは」
余程苦しかったんだな,と頷く九兵衛に,は当時のことをつわりの辛さも含めて思い出し苦笑した。
「あれはね…『山田さんの奥さんは辛くないらしいからアドバイスをもらったら?』って言いたかったみたい。
でも,タイミングが…なんか比較されたみたいで。まるで『他の奥さんは大丈夫なのになんでお前は苦しんで
いるんだ』って言われた気がして。銀時がそんなこと言うわけないのにね。その時は本当に余裕なくって。
わたしが悪かったの」
「いやいや,そんだけ苦しい時によその女と比べるようなこと言ってくる方が悪いアル」
「そうよねぇ。『所詮あんたには一生わかんない苦しみよ』くらい言ってやりたくなるわ」
「うん。たしか『◯◯の奥さんは妊婦でも普通に過ごしてるらしいぞ』は,『つわりの辛い妻に夫が言っては
いけないフレーズ5選』に含まれてた」
「「「…九ちゃん,どこでそれ読んだの?」」」
ひとしきり笑った後,神楽がまた過去の別の妊婦珍エピソードを引っ張り出した。
「そういえばは一時期『甘い物症候群』にかかったアルな」
「うん。そうだったね」
「甘い物ばかり食べたくなったのか?」
「そう。ケーキとかシュークリームとかドーナツとか,食べたくて仕方なくて。あの銀ちゃんに止められる
くらいで」
「それはすごいわね」
あの糖尿寸前侍から止められるなんて,とお妙は片頬に手をあてて唸った。そして,
「ねえ。妊婦さんは煉瓦が食べたくなることがあるって聞いたんだけど…それは本当?」
「煉瓦はなかったけど…なんかね,鉄っぽい味が食べたくなった時はあったよ」
「鉄っぽい味…ごめんなさいね,真っ先に血を思い浮かべちゃうわ」
「血の味を求めるなんて吸血鬼みたいアル」
「本当よね。鉄分への欲求が強くなってたのかも」
吸血鬼のごとく歯をイーッとすると,神楽もお妙も顔いっぱいに笑顔を広げた。
そんな賑やかに笑う2人の横で,九兵衛は腕組みをしてなにやら考え込んでいて,が「どうしたの?」と
声をかけようとした時,自分から顔をあげた。
「あの…」
「どうしたの,九ちゃん?」
頬に熱をもたせて真っ直ぐを見据える九兵衛に,神妙さを感じ取ったお妙と神楽も黙って彼女を見つめた。
九兵衛はたくさんの思考を煮詰めに煮詰めて,ようやく言葉にして取り出しましたといった風に,
「母になるとは…その…どんな感じなんだ?」
とてもひたむきな表情で,に問いかけてきた。
「母になるということ」。
女の子でありながら,柳生家の跡取りとして,男として育てられた彼女の口から出たその質問は,他の誰から
問われるよりも,一層清廉で真剣な重みを帯びているように聞こえた。
「そうねぇ…」
実際,他の人達から似たような質問を受けたことも何度かあったけれど,は改めて深く考え込んだ。
お妙や神楽も茶化すことは決してせずに,恩師からの謹言を待つ生徒のような表情でが話し出すのを
待っている。胸の奥に灯がともったかのような温かい気持ちになって,ははにかんだ。
「うまく言えないけど,今までで一番『安定』してるよ」
「「「あんてい?」」」
つわりや甘い物症候群といった苦労話の後だったからか,「安定」と聞いた3人が3人共揃って面食らった顔を
した。まるでよく似た三姉妹を見ているかのようで,は噴き出した。
「うん。最初にお医者様から妊娠してるって言われた時はね,正直よくわからなかったの。お腹もぺたんこ
だったし。でも,だんだんお腹が膨らんできて,赤ちゃんの鼓動を感じるようになってきて…『わたしは
この子を守るためなら何でもやる』って気持ちが自然と湧いてきたの。なんかね,自然と心が強くなるの」
とくとくとく…と時々お腹から伝わってくる鼓動の愛しさに,涙が込み上げてくることがある。
生命は温かいものなのだと,生命は愛おしいものなのだと。
「心が強くなるとね,優しくもなれるの。今ね,毎日すごく優しい気持ちなの」
人が人を産み,人が人を育ててきて。
その連鎖がずっと昔から続いてきて。
ずっと 昔から繋がれてきて。
こんな平凡な自分でも,歴史を継いでゆくものの一部になれるのだ,と。
「だから,すごく『安定』してるよ」
このお腹にいる生命を愛おしく思うと同様に,自分自身のことも誇りに思う。
「幸せそうね」
眩しい光を見つめる時のように目を細めて,お妙がに微笑んだ。
もお妙に笑い返した。お腹に手のひらをあてて,
「うん…毎日幸せ。それに,この子も。だって…」
お妙に,神楽に,九兵衛に。
3人の大切な友人へ,「ありがとう」の気持ちを込めた眼差しを向けた。
「生まれて来る前から,こんなにもたくさんの人から祝福されてるんだもの」
母の言葉に頷くかのように,お腹がぴくぴくと動いた。
(いい子ね…)
囁きながらゆっくりお腹をさするに「こちらこそ,ありがとう」の気持ちを込めて,3人はにっこり微笑んだ。
馥郁と香るお茶の匂いが,部屋を若葉色にゆっくりと染めていった。