オオカミさんは紳士的


長時間降り続いた夕立によって,適度に気温の下がった夏の日暮れ時,生ぬるい水溜りを草履の裏で踏み
しめ,俺は飲み屋の暖簾をくぐった。いらっしゃい,と笑う気心の知れた女将に軽く会釈し,人でごった
返しているテーブル席ではなく,人少なのカウンター席に座った。

「中生。ジョッキで」
「はいよっ」

小気味好い女将の返事を聞きつつ,俺は煙草に火をつけた。最近はどこもかしこも禁煙で,喫煙者には
住みづらい世の中になってしまったが,ここの居酒屋にはまだ禁煙の魔手(俺にとっては『魔』以外の
なにものでもない)が及んでいなかった。酸素と紫煙を肺に満たしながら,壁に掛けられている木製の
品書きをぼんやり眺めていると,お通しとビールが運ばれてきた。灰皿をほんの少し横にずらしそれら
を受け入れると,女将が意味ありげな笑みを浮かべ耳打ちしてきた。

「土方さん」
「ん?」
「左斜め後ろの女性陣が見てるよ,土方さんのこと」
「…」

振り向く気もさして起きず,俺はただ溜息をついた。それを見た女将はからからと笑い,

「色男は辛いねェ」
「隊服を着てくれば良かったか…」
「同じことじゃないかい?中身は変わらないんだから」
「いや,隊服着てる時に女から声かけられたことは無ェ」
「へえ。そういうもんかね」
「そういうもんだ……あ,刺身盛り合わせと揚げ出し豆腐」
「はいよっ」

まァゆっくりしていきな,と着流しの背をばしっと叩き,女将はカウンター内へと戻って行った。
俺は煙草を灰皿に押し付け,お通しの煮しめを一口食べた。乾いた喉へビールを流し込むと,心地よい
刺激が喉仏から体中へ,痺れるように広がっていった…夏はこれに限るな,うん。頭の中でひとり頷い
ていると,背後から甲高い笑い声が上がったので,自然とそちらを見やった…のが,間違いだった。
笑い声の主らしき女達と目が合ってしまい,自分の眉間に皺が寄るのがわかった。
(面倒くせェな…)
即座に目を逸らし,再度ビールに口をつけた。その時――派手に椅子の倒れる音が店内に響き渡った。

「!」

今度は背後のテーブル席ではなく,同じカウンター席の奥から上がった音だった。これには俺だけでは
なく,他の客達も一斉に音の主へと視線をさらわれた。既に酒に酔っている者も,さして酔ってはいない
者も,皆一様に目を丸めていた。
(なんだ?)
俺はグラスをテーブルに戻し,異変の元凶を注視した。
赤ら顔のおっさん2人に,若い女1人…どうやら椅子を倒したのは後者らしい。
女の左手首にはおっさんの手が一方的に絡みついている。しかも,笑っているのはおっさん達だけで,
女の方は力なく俯いており,ぱっと見でもあまり健全な雰囲気・フェアな関係でないことがわかった。
(ったく,非番だってのに…)
だからといって放っておくわけにもいかず,俺は舌打ちしながら立ち上がりかけた――が。

「触らないで!」
「!」

項垂れていた女が突然顔を上げ,鋭い大声をあげた。かと思うと,周りが止める間もなく,女はグラスの
水をおっさん達の鼻先にぶっかけた。さらに,

「離してよ!この禿おやじ!変態おやじ!誰があんた達みたいなのについていくもんですか!」
「冷たっ!痛っ!ごめんなさいごめんなさい!」

女は自分の手をつかんでいた方のおっさんの横面に,強烈な平手打ちをお見舞いした後,流れるような
動作でハンドバッグのチェーンを引っ付かみしたたか殴りつけた。
「…」
女による鮮やかな反撃モーションに,皆が呆気にとられて見入った――が,俺はいち早く我にかえった。
おっさん達を止めようと思っていたが,どうやら止めにゃならんのは,あの女の方らしい。
最近の女はえらく強いもんだ。いや…昔からか(思い当たる節はたくさんある)。

「このっ…よくも…!」
「あーもー近寄らないで!」
「いい加減にしろよ,このアマ!」

語気を荒げた男に俺は素早く歩み寄り,荒々しく振り上げられたその腕をがしりと掴んだ。

「おい」
「あ!?」

動きを止められた男は,驚きと苛立ちの入り混じった目で振り向いた。女にかけられた水が頭から顎に
かけて垂れ落ち,前髪がしなびたワカメのごとく額に貼り付いている。すっかりボリュームを無くした
髪は,ただでさえ薄いというのにさらに哀れなことになっている。男(の頭髪)に内心少し同情しつつ,
俺は男2人を交互に睨み付けた。

「このじゃじゃ馬も悪いが,お前さん達も悪い。女に断られたらすぐに退け…ダセェぞ。あと…」

掴んだ腕を軽く捻りながら下ろさせると,男は「痛ェ」と一言呻いた。もう1人の男の方は,バッグを
叩き付けられた頭をさすりつつ,怯えたような目で俺を見ている。女はというと,既にかなり酔っている
らしく,突然の出来事に頭がついて来ていないらしい。ふらふらと左右に肩を揺らし,焦点の定まらない
ぼやけた瞳で,俺を見たり男達を見たり,天井の明りを見たりした。一連の揉め事に,カウンターの内側
から今にも飛び出そうとしている女将を,俺は目で制したうえで,男達に視線を戻した。そして,

「女に手をあげるんじゃねェ」

元々低い声をさらに低めてそう命じれば,男は屈辱に顔を歪め鬱陶しそうに手を振り払った。
「若造が偉そうに…!」
さらに何か怒鳴ろうとした男の目前に,俺は懐から出した警察手帳を突きつけた。一瞬,怪訝そうに眉
を歪めた男達の顔が,みるみる間に青くなっていった。それまで黙っていた女が「お巡りさん…?」と
覚束ない声で呟くのが耳に入った。こちらの立場を理解したのを3名に確認させたところで,

「これでも警察だ。今はオフだが,これ以上騒ぐようならしょっぴく」

言い切ってぱしっと手帳を閉じた。騒ぎを起こした張本人達だけでなく,固唾を呑んで見ていた周囲の
客達も一様に押し黙った。人の声だけではなく,食器の音も消え,古いスピーカーから流れてくる一昔前の
流行歌のみが,居酒屋の音を保っていた。張り詰めた空気が鬱陶しく,俺は舌打ちをして懐に手を入れた。
今度出したのは手帳ではなく,

「ま,あんたらも被害者と言えなくもねェ。これで余所で飲み直せ。痛み分けだ」

財布から適当に紙幣を抜き,男の湿った手に握らせた。男は手のひらの札に視線を落とし,相方と一瞬
目を合わせ,それから俺を見た。黙って顎をしゃくって見せると,男は唸り声と共にぎくしゃくと頷いた。
「わ,わかったよ…行こう」
「…あ,ああ」
男達はカウンターに勘定をのせると,周囲の視線を避けるかのように縮こまってこそこそと店を出て
行った。俺は引き戸が閉まるのを見届けた後,壁に寄りかかるように立っている女の方へ向き直った。

「おい,あんた」

女はこちらの短い呼びかけにすぐには反応せず,酔っている者にありがちなことだが,ワンテンポ遅れて
視線を寄越した。その双眸はまるで羽虫かなにかを追っているかのように,ゆらゆらと定まらなかった。

「…なによ」
「いくら変な輩にしつこくされたからって,あたり構わず暴れんな」
「…」

この泥酔状態の女は,自分の言うことをどれ程理解できるだろうか。あまり期待せずに,しかし辛抱強く
俺は諭した。こちらの言葉を噛み砕くかのように女はこくこくと顎を数度引き,額に垂れた前髪の隙間
から上目遣いで俺を見上げた。それは,親にいたずらがばれた時の子供のような目で…言ってみれば
『にくめない』眼差しだった。

「だって,すごくしつこかったんだもの」
「馬鹿。やりすぎだ」
「…ひとりで飲みたいって言ったのに,あまりにしつこかったから」
「あんたみてェな若い女が1人で飲んでりゃ,声かけられても文句言えねェよ」

実際のところ,女は結構整った顔立ちをしていたし,身なりもきれいだった。最初に声をかけたのが偶々
あのおっさん達だったというだけで,同じ年頃の男達から声をかけられてもおかしくない外見をして
いた。言ってみれば『別嬪』の部類に入る女だ。

「最初はわたしもやんわり断ったのよ,なのに…」

女は反論するというより,言い訳するような口調でぽつりぽつりと言葉をもらした。

「あなたも言っていたけど,『断られたらすぐに退く』のがナンパのマナーじゃない?それならこっち
 だって『あーナンパされた』って満更でもない気分で終われるのに。しかも,あの人達わたしの体に
 触ったのよ?全然知らないオッサン達から触られた時に女がどんなに気持ち悪いか,あなたわかる?
 怒鳴りつけたくもなるし,殴りたくもなるわ」
「あんたの言うことにも一理ある,が…」

言っていることはもっともで,決して理解できないわけではないが,推奨するわけにもいかないだろう。
案外頭ははっきりしているのだな,と女に対する認識を改めつつ,俺は閉まった引き戸と背後の客達を
親指でくいっとひとまとめに指した。

「あのおっさん達がヤバイ連中だったらどうするんだよ。危ないメに遭うのはあんただぞ」
「…」
「それになにより…周りのことを考えろ。気分良く飲んでるっつーのに。いい迷惑だ」
「…」

女は俺の声のみに神経を集中させるかのように目を閉じていたが,突如ぱちっと瞼を開いた。
かと思うと,なにやら酷く決意めいた双眸をして,事のなりゆきを見守っている客達を振り返った(なお,
彼女がそちらを向いた瞬間,彼らはいささかびくっと肩を揺らした)。そして,

「申し訳ありませんでした。騒々しくして」

すらりと背筋を伸ばした姿勢そのままに,深々ときっちりおじぎをした。
それに連なって,後ろで束ねてある髪が,墨のように首をつたって前に流れた。
それは,何かのお手本のような惚れ惚れとする礼で,もしかすると本当は育ちの良い人間なのではないか,
と俺はなんとなく思った。
見ていた周囲の人間も呆気にとられたような,見惚れたような,その中間のようななんとも曖昧な表情で
目を瞬かせた。誰もが互いの出方を窺っている緊張した雰囲気に終止符をうったのは,他でもない居酒
屋の主だった。

「はいっこれにて一件落着!皆さん,飲んで飲んで!」

稽古を仕切る師匠のように手を鳴らし,「見ると気持ちが明るくなる」と客に評判の笑顔を浮かべた。
それにより客の誰かが小さく笑い,連動して他の面々にも笑みが俄かに広がった。後は,何事もなかった
かのように,各々が箸を持ち直したり,グラスを持ち上げたり,会話を再開したり…つまり普通の居酒屋
の光景が広がった。
「…」
女は頭を上げると,胸あたりにのった髪を後ろへやんわり払った。俺と目を合わせ,

「迷惑かけて,ごめんなさい。ありがとうございました」

目を細めて微笑すると,元いたカウンター席に戻った…って,おい。

「…待て。まだここで飲むつもりかよ」

思わずつっこむと,女は肩越しに目線だけで振り返った。
グラスに残った液体に口を付け「ぬるくなっちゃった」と一言ぼやいた後,

「今夜はまだ帰りたくない」

男にそう言ってやればさぞ喜ぶだろうよ,な科白を臆面もなく言った。それから「まだそんなに酔って
ないし」とも付け足した。たしかに先程から言葉はしっかりしている…が,頬はだいぶ赤いし,頭が揺れ
ている。なにより酔っぱらいの言うことは当てにならない,死ぬほど。

「また声かけられるぞ」
「こんな『じゃじゃ馬』に誰も声かけないわよ,もう」
「(…根にもってんのか?)これから店に入って来る奴に絡まれるかもしれねェだろうが」
「あなたの方こそ声かけられるんじゃない?」
「は?」
「さっきから後ろの女のコ達,あなたに話しかけたそうにしてるわ」
「…」

女の言葉に,俺はほぼ反射的にぴたりと動きを止めてしまった。
最初に女将から耳打ちされたのと同一グループだろうか…やはり振り向く気には全くならなかったが。
苦々しく溜息をついた俺を,女はからかうかのように笑った。

「あなた,かっこいいものね」
「…警察とわかってて逆ナンしてくる女はいねェだろ」
「いるでしょ?不景気だし。今年の『結婚したい男の職業ランキング』1位は公務員。よかったわね」
「…」

もはや溜息すらつけず無言になる。
決して女嫌いというわけではないが,居酒屋で逆ナンしてくる類の女は俺のタイプではない。侍がそんな
チャラついた女にひっかかるものか(いや侍は関係ないか)(とにかくタイプじゃないのだ)。
俺はふと思いついて,素早く女の隣席に座った。女は驚いたように目を丸くし,「おっと」といった風に
肩を少し仰け反らせた。

「…なんのつもり?」
「『虫除け』になってやる」
「…?」
「俺が横にいれば,誰もあんたに声かけねェだろ」
「虫除け,って…」

女はこちらをまじまじと見,息を噴き出すようにして笑った。手元にあった箸の包み紙が飛びそうに
なるのを指先でピッと押さえ,

「虫除けになるのはあなたじゃなくて,わたしでしょう?」
「同じようなもんだ。俺はあんたを,あんたは俺を『虫』から遠ざける。ギブアンドテイクだ」
「…なるほど」
「俺も今夜はひとりで飲みたかったんだよ…けど,」
「けど,肉食系の女のコ達はそれを許してくれそうにない,と」
「…」
「あなた,かっこいいものね。狼みたいで」
「…はあ?」

先程と同じ言葉に不可解な科白を付け足し,女はくすくす笑いながら「いいわよ」と明るく頷いた。

「あなたみたいなイケメンの隣で飲むのは気分がいいし」

契約が成立したところで,女将が気を利かせ,俺の元々座っていた席からグラスと皿を運んできた。
その際に女は,「お騒がせして本当にごめんなさい」と丁寧に謝った。女将はというと「モテる女は
辛いねェ」と笑い飛ばしただけで,特に嫌な表情をすることもなくカウンター内へと戻っていった。
俺がグラスを持つと,女は自分のグラスを軽く掲げた。

「じゃあ,お互いに虫除けし合う,ってことで。わたし,……あ」

しっかり名乗った直後に女は――は「しまった」とでも言うように口に手をあてた。一体何事
かと首を傾げて見返すと,は唇の下に人差し指をのせて唸った。

「ただの『虫除け』なのに名乗るなんて,変だったわね。忘れて,わたしの名前」

これ程までにインパクトのある女の名前を誰が忘れるか,と思ったが敢えてつっこまなかった。は
酒に火照った頬を緩ませて笑い,

「ナンパじゃないから,安心して」

蓮っ葉な口調でそう言ったが,グラスの持ち方はやたらと上品だった――やはり良い所の『お嬢さん』
なのかもしれない。俺の勝手な考察など知る由もなく,はにこにこと言葉を続けた。

「ただの乾杯。それも,この1回だけ。あなた,ひとりで飲みたいんでしょ?」
「まァ…そうだな」
「わたしもよ」

よくわかるという風に深く頷き,は少し寂しげに眉を寄せて微笑した。

「わたしも,本当にひとりで飲みたいの。だからあなたに興味本位で話しかけたりしない。横にいる
 だけってことで…ね?」
「…おう」
「じゃ,乾杯」

気持ちの良い音を立ててグラスとグラスがぶつかった。ビールに口をつけたの白い喉が上下に
動くのを長めつつ,
(俺は興味あるんだがな,あんたに)
と,内心でひとり苦笑した。
まァ…話しかける機会はあるだろう,たぶん。
もはや使い古された言い方だが――「夜は長い」のだ。