(『横にいるだけ』…か。つまり,)

つまりは暗に「話しかけるな」と言われた以上,そう長々との方を見ているわけにもいかず,俺は
視線を前に戻した。カウンター内の壁に貼ってあるポスターの宣伝文句を見るともなしに見,煙草を
吸おうか吸うまいかしばし悩む。の手元近くに灰皿が見あたらないことから察するに,おそらく
彼女は喫煙者ではないのだろう。とりあえず今は吸わないことにし,代わりにグラスに再度口をつけた。

(随分と細ェ手してやがるな)

顔をじっと見られないかわりに,視界の隅に映るの白い右手を見つめた。の爪にマニキュア
の類は一切塗られておらず,潔癖な程に短く切られていた。そのストイックな指先が,時折思い出したか
のようにテーブルの上を滑り,グラスをついと持ち上げた。杯が元の位置に戻されるたびに,当然ながら
中のビールは着々と少なくなっていった。残り2割くらいまで水位が下がったところで,

「すみません,ジントニックで」

はさっと片手をあげ,速やかに自分の望む物を告げた。腕時計のチェーンが手首を流れ,皮下を
流れる血管がうっすらと現れた。白い皮膚に浮かぶその紫の線を,指先でなぞってみたい欲求に駆られ,
ひとり苦笑した――そういう欲情の仕方は初めてだった。
互いの肘と肘が触れ合いそうな程近いことに俺は気付いていたが,敢えて気付いていないふりをした。

(どうすっかな…)

声をかけるタイミングを見計らっているものの,なかなかどうして隙がない。
は何かの事務作業をこなすかのように淡々と,黙々と酒を飲み続けていた。たまに携帯電話を
開いたり,手ふきを指先でいじったりしていたが,視線がこちらに流れてくることはなかった。

(そもそも…なんでこいつ1人で飲んでんだ?)

その気になりさえすれば異性に不自由しなさそうだし,かといって同性を敵に回すタイプにも見えない。
一緒に飲む相手くらい腐る程いそうなのに,だ。なぜ敢えて1人で飲むのか。

(…失恋か?)

自分でも安直過ぎる発想だと思うが,俺の固い頭じゃそれくらいしか思い浮かばない。女の悩みなんて
男の俺にゃわからない。多分,一生だ。
とりあえず自分ももう一杯頼むか,と女将を呼びかけた時――それは起こった。
「…ん?」
なんとなく,だ。なんとなくただならない『気配』を感じ,横目ではなくまともにの方を見た。

「!!!」

の目に滴が溜まり,白熱灯の光を受けしめやかに煌めいていた。
俺はぎくりとして思わず仰け反ってしまった。彼女が瞬きをした途端,涙は頬を伝って零れ落ちた。
の涙はおそろしく透明で,清廉で,鮮やかで,安い居酒屋でそれを目にするのに違和感を覚えるほど
だった。
(な,なななな…!?)
見てはならないものを見た気分になり目をそらしたが,激しい動悸は治まらなかった。
頭の中では「なんでだ!?」という悲鳴じみた疑問が繰り返し響き渡った。
ふと,女将がカウンターの隅で手招きしているのが目に入り,これ幸いとばかりに俺は席を立った。

「…俺が泣かせたわけじゃないぞ」
「何言ってんだい。わたしだってわかってるよ,そのくらい」

開口一番無実を主張した俺を,女将は呆れたように半眼で見上げた。そして,やれやれと溜息をついて
小声で耳打ちしてきた。

「実は先週末もここに来てたんだよ,あのお嬢さん」
「そうなのか?」
「ただし,その時は男と一緒だったけどね」
「ふむ」
「2人して沈んだ雰囲気で飲んでたよ」
「ほう」
「ありゃきっと別れ話だったね」
「…ふむ」
「慰めてやんな,色男」
「…」

女将は言うだけ言って「持っていきな」と俺に刺身ののった皿とビール瓶を手渡し,背中を軽く叩いた。
俺はよろよろと覚束ない足取りで(酒のせいではない断じて)席に戻った。皿と瓶をテーブルに置いて,
引きつっている自分の口元を手拭で適当に拭いた。

(慰めるって…どうやってだよ?)

ちらりと隣を横目で盗み見る…の泣き方は静かだった。
時折鼻をすすりあげる以外は無言で――いや無音で,涙を流し続けた。
理由の知れない涙は,それを見ている俺をひどく困惑させ,同時に怯えさせもした。
得体の知れない事象は,ひとをおそれさせる。それが美しければ,よけいに。
「…」
かけるべき言葉が見つからず,また,言葉をかけるべきなのかさえ分からず,俺はただ黙っているしか
なかった。おぼろげながらも涙の原因らしきもの(失恋?)がわかった分,冷静さを取り戻すことが
できたものの,有効といえる対応策は依然思い浮かばなかった。
こういう時はどうするのが一番良いのだろうか。
黙っていた方が良いのか。何か言ってやるべきなのか。
声をかけるとするならば,何と言えば良いのか。
そもそも,他人である自分がああだこうだとここまで思い悩むのはどうなのか。
そこからして大きなお世話というものではないのか――と,
「…?」
がハンドバッグの中を探り始めた。携帯電話と財布を外に出し,手帳と鏡を出し,文庫本とキー
ホルダーを出し,目薬と扇子と畳まれたエコバッグを出し…って,いつまで出し続けるつもりだ。
というか,なにを探しているんだ。

(…ハンカチか!)

思い当たったものの,なかなかそれは出て来ない。むしろ,
「…」
の手が止まり,俯いた姿勢のままぴたりと動かなくなった。
どうやらバッグに入れて来るのを忘れたらしい(もしくは道中で紛失したか)。はテーブル上に
バザーのごとく並んだ品々を,ぽろぽろと涙を流しながら見下ろしていた。片付けが出来なくて途方に
暮れている幼子のようで,どうしても手を差し伸べずにはいられない雰囲気があった。
(…しょうがねェな)
俺は懐を探り,紺色のそれを取り出した。

「ほら」
「…え?」

差し出されたハンカチをは不思議そうに見つめ,それから俺の顔を見た。涙目で見つめられるのが
こそばゆく,敢えてぞんざいな口調で俺は促した。 

「使えよ」
「…でも」
「あいにく,横で泣いてる女を放置できる程,神経図太くできちゃいないんでな」
「…ありがとう」

はふにゃっと笑いながらハンカチを受け取り,両目にそれを押し当て深い溜息をついた。その吐息は
酷く痛々しく,膨大な疲労や苦痛が込められているような気がした。は一旦ハンカチを顔から外し,
充血した瞳でこちらを見た。

「あなた,本当にかっこいいのね。狼みたいで」
「その『狼みたい』ってのは何だ?」
「なんとなく,ね。一匹狼も似合うし,狼の群のボスも似合う感じ」
「…意味わかんねェ」
「褒めてるのよ」

言いながらの目に再び涙が浮かんだ(なんでだ)(女の涙腺スイッチはよくわからん)。
冷や汗をかきつつ目をそらせずにいる俺に,は何を勘違いしたのか手を小さく横に振った。

「ナンパじゃないから。安心して。ただ,純粋に褒めただけ」
「…」

いっそナンパ目的で褒められた方がいくらか気が楽なんだが。
泣いている女から純粋に褒められる方が,正直みぞおちにクる。
は再びハンカチを目に当てて俯いてしまった。

(まいった。マジでまいった)

こういう場合に何と言葉をかけるのが正解なのか,誰か教えてくれ。女1人の涙を止めてやるより,攘夷
浪士共100人を1人で相手どる方が余程簡単だ……とりあえず俺なりに慰めてみることにする。
「だ,大丈夫か?」
いや大丈夫じゃないから泣いてんだろ,と自分で自分につっこむ(けど他に言葉が思いつかねェし!)。
「なにかあったのか?」
いや何かあったから泣いてんだろ,とやはり胸中で自分につっこむ(けど他に言葉が以下略)。
なんだこれ結局全く慰めてないじゃねェか。なんだ。俺はバカなのか。バカなのか(2回言った)。
無様なほど混線しまくっている思考回路の俺に対し,

「…よくあることよ」

ハンカチの隙間からくぐもった声があがった。は鼻をすすりながら目元をぬぐい,唇を震わせて
息を吸い込んだ。と同時にしゃっくりのような音が喉から漏れ,それがなんとなく可愛らしかった。

「よくあることよ」

顔を上げてもう一度,さらにきっぱり言い切った。どうやらそれ以上詳しいことを言う気はないようだ。
はっきりした口調とは裏腹に涙の止まる気配はなく,瞬きをするたびに一筋また一筋と涙が零れた。

「…マスカラ落ちちゃう」
「そこんとこは冷静なわけな,泣いてても」
「化粧が落ちるのを気にしない泣き方なんて,小娘にしか出来ないのよ」
「…なるほど」

素直に感心すると同時に,面白いことを言う女だな,と噴き出しそうになった。笑う流れでないことは
わかっていたので,実際には堪えたが。

「よくわからんが,泣くな」
「…」

俺の言葉には顔を上げ,じっとこちらを見つめてきた。
そのうるうるした目を見ていると,ガキの頃一緒に遊んでいた野良犬のことを思い出した。
そいつは俺達が帰るそぶりを見せると,いつも悲しそうに目を潤ませて尾をしょんぼり垂らしていた。
ちなみにこの犬は後日地主の家にもらわれていき,いいものを毎日たらふく食べ,17歳で大往生した。
…それはともかく,だ。の涙目は昔可愛がっていた犬の目を彷彿させ,

「…よしよし」

気付いたら俺はの頭を撫でていた。
たぶん俺もいささか酔いが回ってきたのだ。そうでもなきゃ多分こんなことはしなかったと思う。
頭を撫でられている当のは,目をぱちぱちと瞬かせて眉間に皺を寄せた。

「…あなたバカでしょう」
「慰めてんのに,酷い言い様だな」
「だって…こんなに優しくされたら,余計に泣けてくるじゃないの」
「…どうしろっつーんだ」
「わかんないわよ,わたしだって」

駄々をこねるように首を振って,はハンカチに顔を突っ伏した。
(一体どんな野郎なんだ…この気の強ェ女を泣かせたのは)
と思った瞬間,なぜだかとんでもなく腹が立った。
泣かせてんじゃねェよ,お前が泣け。泣いて土下座して詫びろ馬鹿死ね,と思った。
ちなみに俺の頭に浮かんだの元彼像は,いかにも若い女遊びに長けていそうなチョイ悪中年紳士
だった。この良い女には間違ってもチャラついた若い男(ラッパー風)には引っかかっていて欲しく
なかったがために生まれたイメージだった(我ながら馬鹿か)。

「あー…とにかく,大丈夫だ。あんたなら」
「…どうしてよ」
「えーと…あれだ。あんた,別嬪さんだし。頭も良いみてェだし」
「最初わたしのこと『馬鹿』って言ったじゃない,あなた」
「(よく覚えてんな)あれは言葉のあやだ。こうして話してても,あんた面白ェし。飽きねェし」
「…」
「あんたみてェな美人,男が放っておかねェよ」
「…放っておくわよ,こんな酔払い」
「少なくとも俺は放っておけねェよ,こんな危なっかしい女」
「…」
「あんたを放っておくとしたら,あれだ。その野郎共はクズだな。そんな奴らは葛餅にでもして食え」
「…ふふっ」

やっと笑ってくれた,と心からホッとしている自分に少し驚いた。
俺は,とにかく思いつく限り褒めた。
手がきれいだの,気が強いだの(褒め言葉だ),品があるだの…それほど特別なことは言えなかったが。
ただ,お世辞を言っているつもりはなかった。
本心から思うの良い所をあげた。
ついさっき会ったばかりの女になんでここまで必死になってるんだよ,と自分でも思ったが。
けど,まァなんというか――

「大丈夫だよ。あんたはそんままで十分良い女だ」

――気に入ってしまったのだからしょうがないだろう。この女を。

「…ありがとう,狼さん」
「!」

突如,はぐいっと顔を近づけてきた。ちょっと近過ぎるんじゃないか,と焦るくらいの近さだ。
至近距離で涙目に見つめられ,俺は思わず目を大きく見開いた。水鏡の瞳に俺の間抜け面が映っていた。
は少し目を細めると,吐息まじりに囁いた。

「あなたがいてくれてよかった」

その声は小さなものであったにも関わらず,いやにはっきりと耳に響いた。むしろ他の一切の雑音が,
俺との周囲から遠のいたような気がした。無音の世界の中で,彼女の声だけが熱を帯びていた。

「もしひとりで泣いたら,きっと凄くみじめな気持ちになってたと思うわ…ありがとう」
「…」

囁きながら更に近づいて来るの顔に,俺は金縛りにでもあったかのように動けずにいた…が。
互いの唇があと少しで触れ合う,というところでぴたりとは止まった。
なにやら考え込むように眉を寄せ,目を忙しなく瞬かせた。そして,

「あなたの顔,見たことあるわ」
「…は」

ふっと瞼を下ろした瞬間,こてんと俺の肩に頭をのせてきた。いや,これは『のせた』と言うより,むしろ
『倒した』というか『落とした』というか…糸の切れた人形よろしく。って,こいつ…!

「おい!寝るな!」
「…ナンパじゃないから安心して」
「安心できるか!寝るなっつーの!」

怒鳴りながらその細い肩を揺するが,はぜんまいの切れた玩具のように動かなかった。かわりに
「すーすー」と気持ち良さそうな寝息が聞こえてきて,俺は頭を抱えたくなった。
少しでも期待した俺が馬鹿だった…いやいやいや。

(期待なんかしてねェけど!…してねェけど!!)

首筋にふれるの髪の毛が気持ち良いわ,
シトラス系の香水の匂いがしてこそばゆいわ,
微笑んでいるような寝顔がちょっと可愛いわ…って。

(…ここまで迷惑かけられてんのに,悪い印象がないってすごくね?)

俺は誰でもない誰かに対し同意を求め,この愛すべき迷惑女の肩を抱え上げた。
――昔から上にも下にも問題児を抱えてんだ。
今更女のひとりくらい平気だ。