「どこ…ここ?」
淀んだ意識の水底から浮上し瞼を開いてみれば,そこにあったのは見知らぬ天井だった。
ベージュ色の天井から蕾の形を模した照明がぶら下がり,シーリングファンが風車のようにくるくると
回っている。顔を下に向けると,ベッド正面の大理石の壁に大型プラズマTVが設置されており,その横の
柱には蔦が装飾的に絡み付いている…それらのいずれもわたしの知らないもの達ばかりだ。極めつけは,
「…誰これ」
わたしの横で寝息を立てている…この人。知らない人だ。
彼は白いバスローブを着てはいるものの,胸元が結構肌蹴ていて(寝相でそうなったのだと思いたい)
ご立派な胸板が見えていた。ほとんど反射的に顔を背けた途端,頭に激痛が走った。
「痛い…」
飲みすぎちゃったなあ…と額を押さえて,はたと気付く。
…昨夜の記憶がない。
正確には『ほとんど』ない。
気分的に自棄酒をしたくて,1人居酒屋デビューをしようとお店に入ったところまでは憶えている。
けれども,その後の記憶がどうにもはっきりしない…ていうか,
「わたし…襦袢しか身につけてないし」
あられもない自分の身なりを見下ろし,愕然としてしまう。ふと目線を横に向けると,革張りのソファの
背もたれに着物が掛けてあるのが目に入った。
(こ,これは…やはり…)
ちらりと隣で横たわる男を見る。やはり知らない人だ。つまりはこの人と…その…。
「!」
突然,携帯電話のバイブ音が部屋に響き渡り,肩を跳ねさせてしまう。音の出所を目で追うと,テーブル
の上に置かれているわたしのバッグからだった。こそこそとベッドから降り立ち,頭痛を我慢しながら
バッグの中を探り,携帯電話を開いた…『不在着信9件:未読メール3件』の表示。
おそるおそるメールを開くと,1件は父から(怖いので読むのは後回しにする),1件は母から(怖くは
ないけど後回し),1件は兄からだった。ドキドキしながら兄のメールを開くと,
<お前,今どこにいるんだ?帰らないならあらかじめ言っておけよ。
父上が心配しているぞ。手伝いの者達もお前の捜索に向かった。母上は割と呑気だが。
父上なんか発狂寸前で今にも討ち入りにでも行きそうな勢いだぞ(どこに討ち入るんだかな・笑)>
「いや全然笑えないんですけど!」
携帯電話に向かって思わず1人ツッコミしてしまう。
昔から心配性な父で,その父に習ってのことなのか,家の者達もわたしをいつまでも子ども扱いする…
…わたしもう結構良い年の大人なんですけど。
着信はほとんどが父からのもので(内1件は母・1件は兄),メールはやはり兄からの以外開かない
ことにする。と,とにかく帰らなければ…いやその前にまずは兄に返信を…。
「んー…」
「!」
やたら色っぽい吐息をついて,男が寝返りをうった。そして…硬直し動けないわたしを他所にぱちりと
瞼を開いた。彼は涼しげな目元を緩ませ,固まっているわたしを見上げた。
「あー……なんだ,起きたのか」
「…」
「何時だ,今?」
「ろ,6時過ぎです…」
「…そうか」
欠伸をしながら男は上半身を起こし,気だるげに首を回した。至って普通に話しかけてくるってことは,
わたしと違って彼は昨夜のことをちゃんと覚えているのだろう。バスローブを直しつつ彼はベッドから
降り,すたすたと壁際の冷蔵庫へと向かった。中からペットボトルのミネラルウォーターを取り出すと,
「あんたも何か飲むか?」
「………お,お水をお願いします」
「ん」
爽やかな音を立てて蓋を外し,2つのコップに水を注いだ。「ほらよ」と片方を手渡され,申し訳程度に
頭を下げ,わたしはそれに口をつけた。それから,
「あ,あの…」
「ん?」
「あなた,誰ですか?」
「…」
思い切って直球で質問をしてみた(直球過ぎたかもしれない)。すると男は細い目をきょとんと見開き,
続いて深く溜息をついた。
「…覚えてないのか,あんた」
「…」
そう言われ,わたしはなんとか記憶の修復を試みた……えっと。
――誰があんた達みたいなのについていくもんですか!
――『虫除け』になってやる
――じゃあ,お互いに虫除けし合う,ってことで
――ナンパじゃないから,安心して
「お,おぼろげには」
…思い出した。断片的にだけど。この人と知り合った経緯はなんとなく思い出した。
なんなのよ,『虫除けし合う』って。
たしかにこの人はよく見たらイケメンだし,女の子群がって来そうだけど…わたしには寄って来ない
わよ,虫なんて(あ,禿親父は寄って来たけど)。
冷や汗をかき始めたわたしを尻目に,彼は「煙草吸っていいか」と訊いてきたので「どうぞ」と頷く。
わたし自身は吸わないけれど,煙草の匂いは別に嫌いじゃない。マイペースに煙を吹かしている彼に,
おずおずとわたしは尋ねた。
「あ,あの…わたし,どうしてこんな格好をしてるんでしょう?」
「…言っておくが,俺が脱がしたんじゃないぞ」
ちょっと慌てたように早口で彼は言った。
「部屋に入った途端,あんたが自分から脱ぎ始めたんだよ。『浴衣はどこだ』って言いながら」
「…」
ありえる。
ていうか,絶対にそうだ。
穴があったら入りたいって言葉,リアルに使う日が来るとは思わなかった。
「一応止めたぞ,俺は」
「はあ。ありがとうございます」
お礼を言いながらも「どうせなら『一応』じゃなくちゃんと止めて欲しかった」とこっそりぼやいた。
いや,でも,まあ裸ではないから『セーフ』なのかしら。けど…裸ではないけど…その…。
「あの…それで…あなたとわたし…その…」
ヤってしまったのですか,とはさすがに訊けない。
なんとかオブラートな言葉を選ぶものの,上手い表現が思いつかずにわたしは押し黙った。けれども
彼にはちゃんと通じたらしい。短くなった煙草を灰皿に押し付けつつ,いともあっさり答えた。
「ヤってねェよ」
「そうなの!?どうして?」
「…」
「あ,ううん,その方が良いんだけど…その…『ここ』はそういう場所でしょう?」
昨今のラブホテルは清潔で,ぱっと見では普通のビジネスホテルと大差ない。むしろ下手なビジネス
ホテルよりも綺麗だし,設備も整っている(あの大きなテレビもそうだ)。でも枕元のガラスケース
の中に,その…あれだ。避妊具が入っているのが見えている。これはある意味ラブホならではの特徴
と言えるだろう(なんてわかりやすい特徴なの)。
彼は「あー…」と唸りながら頭をがしがしと掻いた。どうやら言葉を探しているらしく,ゆっくりと
した口調で話し始めた。
「ここに入ったのはだな…飲み屋から一番近かったからだ。それに…ラブホの方がそのへんのビジネス
ホテルよりも大分安いしな」
「…ごもっともです」
「まあ,あんたの言う通りラブホは『そういう場所』だが…」
そこで彼は一旦言葉を切り,わたしを真直ぐに見つめた。その視線はなぜかとても熱いもので,わたしは
少しどきりとしてしまった。
「…こちとら古い男なんでな。泥酔してる女とは…特に,失恋直後の女とはヤらない」
ばつが悪そうに,あるいは照れくさそうに男は言った。
なんというか…ちょっとキュンとした。グッときた。
(この人,すごくかっこいいことを言っているのに,なぜ照れているのかしら)
彼の科白に感動を覚えながらも,わたしはハタと気が付いた……どうして??
「…どうしてわたしが『失恋直後』って?」
「違うのか?」
「違いませんけど…」
「昨日散々愚痴ってたからな」
「嘘!?」
「嘘だ」
「なっ」
「どっちかっつーと失恋直後にしちゃァ静かなもんだったよ。愚痴っつーか,少しぼやいてただけだな。
けど…泣いてたぞ,あんた」
「!」
――あいにく,横で泣いてる女を放置できる程,神経図太くできちゃいないんでな
――よくわからんが,泣くな
――少なくとも俺は放っておけねェよ,こんな危なっかしい女
――大丈夫だよ。あんたはそんままで十分良い女だ
「それで…見ず知らずの泣いてる酔払いのぼやきを,あなたは一晩聞いてくれてた,ってこと?」
「…まァ,そういうことだな」
「どうして?わたしが言うのもなんだけど,面倒くさかったでしょ?」
「ああ,面倒だったな。けど,泣いてる女は放っておけない性分だ」
「…」
わたしは彼にすすっと近寄って,正面から彼を見上げた。彼は何も言わず,静かな目でわたしの視線を
受け止め,やはり静かに見返してきた。じっと見つめ合うこと4秒,わたしはしみじみと言った。
「あなた,紳士なのね」
「…そりゃどーも」
「見た目は狼みたいなのに……って,あら?」
ふと彼の顔に既視感を覚え,わたしは声をあげた。知らない人だと思っていたけれど,彼の顔はどこかで
見たことがある気がした。知り合いではないのに,顔を見たことがあるって…??
「わたし,あなたをどこかで見た気が…」
呟きかけたその時,携帯のバイブ音が鳴った――今度のはわたしのものではない。
「悪ィ」
一言断りをいれ,彼は椅子の上に掛けてある自分の着流しを探った。着流しと似たような暗色の携帯
電話を開き,彼は話し始めた。
「近藤さん?…ああ。終電逃がしちまって。…今?スナック『竜宮城』の近くだ」
(…『こんどう』?)
彼の顔には見覚えがある。そして,彼の口にした名前にも聞き覚えがある。
彼の顔と,今の『こんどう』という名前には繋がりがある…記憶上。
どこかで見た…どこか…新聞で。
「――会議前には帰る…ああ。すまねェな」
「あ!し,真選組の…!?」
『会議』という単語を耳にした瞬間,パッと頭にひらめいた。
先週読んだ新聞に彼らの…真選組のことが写真付で掲載されていた。
そこに彼――『土方十四郎』が映っていた。
それから局長である『近藤勲』も。
(ってことはなに!?わたし,『鬼の副長』にへべれけで愚痴ったってこと?!)
わたしの頭の中を銅鑼の音のようなものが,ぐわ~んぐわ~んと鈍く(そしてバカっぽく)響き渡った。
それが二日酔いのせいでないことは明らかで…。
呆然とするわたしの横で,彼は――土方さんは「ん?どうした?」と不思議そうな表情で携帯を閉じた。
+++++++++++++++++++++++
「あの…お世話になりました」
ホテルから離れた駅前広場で,わたしは土方さんに深々と頭を下げた。摩天楼の隙間から差し込む朝日
が広場のアスファルトを白々と照らしていた。世間一般の多くの人々にとっては文句なしの爽やかな朝,
なのだろうけれど,わたしには散々な朝だ。
「本当にごめんなさい。ご迷惑おかけして」
「…いや」
「今度からは,その…1人で自棄酒なんてしません。ていうか,信じてもらえないでしょうけど,普段は
こんなことしないのよ,わたし。説得力皆無だろうけど,普段はもう少ししっかりしてるの,これでも」
「知っている」
「え?」
思わず頭を上げると,とても穏やかな眼差しがそこにあった。土方さんは肩を竦め,
「飲み方見てりゃ分かる。あんた,結構良い所のお嬢さんだろ?」
「そんなことは……旧い家ではありますけど」
「フン…気ィつけて帰れよ」
「…はい」
――このまま別れてしまうのか。
胸に湧いた一抹の寂しさに,自分自身で驚いた。なにを考えているのだろう,わたしは。
土方さんはこんなハタ迷惑な酔払い女に,最悪の印象しか持っていないだろうし…そもそも彼は『警察』
という立場上わたしの面倒をみてくれただけだろう。これが別の変な男だったなら,と考えるだけでも
怖い…土方さんには感謝しなければ。
「…ありがとうございました」
わたしはもう一度頭を下げ,彼に背を向けた。湧き上がった寂しさには,気付かないふりをすることに
した。気付かなくても良い感情に蓋をするのには,慣れていた。考えなくていいことを,考えずにいる
ことにも。
(…そうだ,返信しないと)
頭を切り替え,わたしはバッグの中を探った。その時,
「これ…?」
底の方に見慣れない紺色のハンカチが入っているのに気が付いた。引き出してみると,それには沢山の
皺が寄っていて,さらによくよく見るとファンデとマスカラがうっすらとついていた。でも,どう見ても
それは男物のハンカチだった。誰のかすぐに思い当たり,わたしは振り返って叫んだ。
「ねえ!待って!」
土方さんの後ろ姿は思ったよりまだ遠ざかっていなかった。呼び声に足を止めてこちらを向いた彼に,
小走りでわたしは近寄った。ハンカチを見せながら,
「これ,土方さんのでしょう?」
「…ああ」
土方さんは特に驚いた様子もなくあっさり頷いた…それに少し違和感を憶えた。
(…わざと入れたままにしたのかしら?)
などという考えが一瞬頭をよぎったけれど,「まさかね」と思い直す。
「ごめんなさい,すっかりしわくちゃにしちゃって。洗って返すから」
「…」
無言で見下ろされ,わたしは慌ててハンカチごと手を横に振った。
「あ,ナンパじゃ,」
「ないから安心しろ,って?」
「…ええ」
「そりゃ残念だ」
「は?」
ぽかんと口を開けるわたしの前で,土方さんは懐から何かカードのようなものを取り出すと,こちらに
ぴっとそれを差し出した。わたしは反射的にその紙を手にとった。
「洗って返すついでに,飯に付き合え。その時」
「え?」
受け取ったそれは――名刺だった。
『土方十四郎』と印刷された名前の下に,ボールペンで携帯の番号とメールアドレスが走り書きされ
ていた。彼の言葉の意味と,名刺に書かれた個人連絡先を頭の中で並べ…自分の顔が赤くなっていく
のがわかった。頬の紅潮を感じつつ,土方さんを見上げると――
「ナンパだから,安心しろ」
――彼はにやりとワルい笑顔を…最高に魅力的な笑みを浮かべた。
まるで オオカミのような。
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2011/08/21 up...
ちえこ様リクエスト
『泥酔したヒロインを面倒くさがりながらも優しく介抱する土方さんの夢。大人なトレンディドラマ風で』でした♪
わたしが『トレンディドラマ』なるものをよく知らないがために,こうなりました(笑)。
特に社会人の夢乙女の皆様の癒しになれば幸いです。
ちなみに土方さんとヒロインのいた居酒屋は,乙姫の店です。
なお,ヒロインの失恋の詳細は,読者様それぞれの一番苦しかった失恋の詳細を当てはめて読んでいただければ,と思います。
そんでもって土方さんに慰めてもらってくだされば,幸いです。
リクエストをありがとうございました!どうぞお受け取りくださいませ☆(by RICO)