うそつき。
「おい。止まれ」
燻るような夜闇の中,突然低い声に呼びかけられ,はぴたりと歩を止めた。
月明かりのない暗い夜の,暗い路地裏で,暗いやりとりが始まろうとしていた。
あとほんの数十メートル歩けば大通りに出ることができるというのに。
(ついてないな)
内心で溜息をつきながらもそれを億尾にも出さず,は黙って背後を振り返った。
「…」
頭の編笠をほんの少しだけ上げ,声の主を確認し――本当についていないな,と舌打したくなった。
この新月の裏道にも,まったく光が無いというわけではない。眠らない街の屋根並みの向こう側から
こぼれてくる,文字通りおこぼれの人口灯がそれだ。非常に頼りない光だが,無いよりはマシだった。
墨汁の中に浸された煤のように,闇の中に黒い人影が浮かんだ。
「さっき,そこの旅籠で幕吏一行が何者かに襲撃された。死者も出ている」
淡々と言葉を紡ぎながらも,男の声には凄みのある鋭さがあり…殺気すら込められていた。
(鬼の牙が発する声だもの。当然よね)
は胸中で軽口を叩きつつ,ほんの数歩の間合いに入った鬼を――黒い制服を着た鬼を見据えた。
(土方十四郎…さすがは幕府の犬を束ねるボス犬ね)
どうりで随分と鼻が利くわけだ。
そっと――鯉口を切る。
「職務質問だ。編笠を取っ……!」
言葉の途中で,は刀を走らせた。
自分と土方との間に横たわる闇が,鮮やかに冷たくさざめいた。
刀は空を斬ったが,髪の先を僅かにかすめた感触があった。
「くっ」
土方が噛み締めた奥歯で唸るのを片耳に,は土を蹴って走り出した。
「待て!」
制止の命令が即座に追いかけてくる。は走る速度をそのままに,編笠の留め紐をかっ切って
左手でそれを掴んだ。そして,
「…ちっ!」
編笠が黒い円盤のように暗闇を飛ぶ――土方が反射的にそれを叩き落した次の瞬間,
「!」
短く息を吐き出すと同時には刀を彼に振り下ろした。が,寸手のところで避けられた。
すかさず剣をはね上げるが,土方は素早く足を引いていた…さすがに隙の無い動作だ。
彼は体勢をたて直すと,すぐさま刃唸りする太刀を連続して浴びせかけてきた。
は次々と襲い掛かってくる刃をかわし,足りないところのみ剣で払い流した。
まともに受け太刀をすれば,力負けすることは目に見えていた。
「ふっ!」
「…!お前…女か?」
なるほど。鼻だけでなく耳も利くらしい。
編笠を外しはしたが,顔を布で覆い隠しているのでこちらの面は見えないはずだ。の息遣いの
合間に洩れ出た微かな声を,土方はどうやら聞き咎めたらしかった。
わずかに…ごくわずかに,彼の太刀筋に躊躇いが見えた。
は一瞬の隙に土方の内懐に入り,鋭く肩を斬った。
「動きが鈍ったわよ,鬼の副長さん」
「…っ!」
冷やかな声で揶揄して飛びのくと,間を置かず土方の刀が再び襲い掛かってきた。それを軽々と避け,
「わたしが女だから手加減してくれるの?」
は体を沈めて,上体を屈伸しながら下から刀を薙ぎ上げた。ぎんっと鈍い音が煌き,夜空の下で
弾けた。刀と刀を合わせたまま,はにっこりと…あちらに自分の顔は見えないだろうが,楽しげに
笑ってみせた。
「ふふっ…女でよかった」
「っざけんな!」
激昂した声をあげ,土方が刀をはね退けた――やはり力では負ける。
動かし難い男と女の差だ。仕方無い。しかし,
(短気は損気よ,副長さん)
は後方に跳びさがりつつ,腰に忍ばせた苦無を抜き取った。
そして,それを土方の正面に投げつけた。
編笠を払った時と同じく,土方はそれを叩き落とす…が。
顔に投げつけたのは,フェイクだ。
「ぐっ…」
苦悶の声があがり,土方が膝をついた。大腿部に突き刺さった苦無から,赤い水が滴り落ちる。
これだけの闇の中で,色など判別できるはずがないのに。
それは鮮やかな赤だった。
「さよなら色男」
「っ!待て!」
震えた声で命令されるが,あいにくそれを聞くわけにはいかない。
また,その命令で女を従わせるだけの力は今のあの男にはない――先程の苦無には天人の特殊な薬が
塗られてあった。しばらくはまともに動けないだろう。
は夜の中ひたすら疾駆した。他の同志達と落ち合う場所まであと少しだった。覆面のおかげで
顔に風が当たることはなかったが,むきだしの眼球には凍えた空気が容赦なく吹き付けてくる。
目が乾くので必然的に瞬きの回数が増える。は走ったまま瞼をほんの数秒おろした。
ほんの数秒,だった。
「!」
瞼をあげた次の瞬間,すぐ目の前に小さな影が現われた。
(子ども!?)
浮浪児だろうか,ごみ溜を野良犬のように漁り始めた。が,自分の方へ走ってくる人影に気が付くと,
おびえたように短い叫び声をあげた。
全力疾走を即座に,なおかつ安全に停止させる術などあるわけがなかった。
は小さき者に対する本能的な情で,無理矢理に走る軌道を変えた――しかし,
(しまっ…)
突然の方向転換を強いた足が,自分でもよくわからない複雑さでもつれた。
胸中で嘆きを発した時には,もう既には派手に転倒していた。その元凶となった浮浪児は,今度は
長い悲鳴をあげて逃げていった。大声をあげるなと叱りとばしたくなると同時に,咄嗟に受身すらとれ
なかった自分を腹立たしく思った。体のあちこちに走る痛みをこらえ,はできる限り素早く上体を
起こそうとした。けれども背後からあがった声に,我知らず体がすくんだ。
「いたぞ!」
「こっちだ!」
複数の声が交差し,忙しない足音が近づいて来る――激しい焦燥感に駆られた。
唯一救いだったのは,それらの声の主がさっき刀を合わせた鬼の副長ではなかったということだ。
は立ち上がろうと膝をついたが,左の足首にずきりと痛みが響き,一瞬動作が遅れた。
やばい,と思った時には2名の隊士達が近くまで迫ってきていた。
「…!」
は無言の叫びをあげた。
それは,襲い掛かる隊士らに向けてではなく――
――唐突に空から降ってきた もう1つの影に対してだった。
その影はまるで烏か梟のように自分の前に降り立つと,極めて軽捷な動作で隊士達に斬りかかった。
地を滑るように足を運び,流れるように太刀を閃かせた。寸分の無駄も狂いも無い,迅い剣だった。
「…っ」
「はっ…」
呻き声をあげて,2つの影が闇に沈んだ。『彼』はそれに一瞥を投げかけた後,を振り返った。
「怪我はないか,殿」
「…万斉」
自分を助けたのが誰であるか,声をかけられる前から太刀筋でわかっていた…わかっては,いたのだが。
はぎゅっと拳を握り締め,奥歯を噛み締めた。砂埃に塗れた自分の体が,急速に冷えてゆくような
気がした。彼を見る目が鋭くならないようにするのに必死だった。
万斉はいまだに膝をついたままのに,すっと手を差しのべてきた。
「立てるか」
その声は,いたわりの情で満ちていた。少なくとも表面上は。
自分の前に差し出された彼の手には,血が一滴もついていなかった。万斉はほとんど返り血を浴びて
いなかった。剣技が迅過ぎるせいだろう…彼は太刀を振るう前後の姿が,いつも大方違わなかった。
「…」
はその『きれいな手』を寸秒見つめた。
しかし それに己の手をのせることはしなかった。
痛む足をかばいながら,自分ひとりで立ち上がる。
「大丈夫。立てるわ」
「…いや」
冬の夜気が 重たげに軋んだ。
「…」
「…」
万斉は手を静かに引っ込め,は彼から目を逸らした。
鮮血の匂いが漂い始めた裏道で,2人はほんの少しの間無言で佇んだ。
「作戦は成功でござる。これ以上の長居は無用」
先に口を開いたのは万斉の方だった。彼の声はあまりにも抑揚がなく,感情が読み取れなかった。
いや,そもそも特に何の感情も抱いてはいないのかもしれない。
「…ええ」
が乾いた頷きを返すと,万斉は背を向けてゆっくり歩き出した。あと2つ3つ程角を曲がれば
表通りに出るため,自然と人ごみに紛れるためにも走らない方が得策ではあった。でも,もしかすると
自分の左足の異常に気を遣っているのではないか,とは勘ぐった。この男に気遣われるのは,
にとってあまり気分のいいものではなかった。
(本当の本当に…ついてない)
今日は厄日かと溜息をつきたくなる。
やがて人通りの多い街道に出た彼は,一度こちらを肩越しに見,何事もなかったかのように人ごみの
一部になった。は覆面をするりと外し,足の痛みを堪えて万斉の後に続いた。
引き攣る程の寒気に頬を刺され,は首をすくめた。
――明日は雪になるかもしれない。
++++++++++++++++++++++
「!」
幕吏暗殺を遂行した翌朝,鬼兵隊艦内の食堂で朝食をとっているところに同い年の同僚がばたばたと
駆け寄って来た。
「また子。おはよう」
「『おはよう』じゃないっスよ。大丈夫なんっスか!?怪我!」
彼女はテーブルにばんっと両手をついて叫んだ。朝から元気だなぁと微笑ましい気持ちになりつつ,
は沢庵をぱりっと噛んだ。
「大丈夫よ。ちょっと足を挫いただけなんだから」
「よかった!」
途端にホッと笑ったまた子を見て,もつられて笑みを浮かべた。
「怪我のこと誰から聞いたの?」
煮凝りを箸でつつきながら,なんとはなしに訊いた。すると,また子は皿の煮豆をひょいと口に放り
込んでもぐもぐと答えた。
「万斉先輩っス。超心配してたっスよ」
「…そ」
聞くんじゃなかった――そう思った。
の微妙に苦い返事に気付くことなく,また子は続けて言った。
「あの人,のことになると心配性になるんスよね」
「へえ。そうなの?」
「いや『そうなの?』じゃないっスよ!」
「…?」
「かーーーっ…鈍いっスね!!」
「失礼ね。鈍くないわよ」
「いーーや!鈍いっス!!」
はへんなところで鈍いっス,とかなり無礼なことを同僚は叫び散らし,大げさに溜息をついた。
一体なんだというのか。首を傾げるの前でまた子は何か思い出したのか,ぽんと手を打った。
「そうだ!晋助様が『朝飯食ったら部屋に来い』って」
「あー…そう」
今度は完全に苦い返事になってしまった。また子もの憂鬱そうな表情に気付き,にししっと歯を
みせて笑った。
「きっとお説教っスね」
「楽しそうに言わないでよ」
「だーって」
片肘をついてにやつく彼女を軽く睨み,は食後のお茶をすすった。
湯気の立つ湯呑を持つ両手が,ぽかぽかと熱を帯び始める。
――立てるか
温まりだした両手を見ていると,昨夜自分に差し出された彼の手を自然と思い出した。
刀で人を殺める手であり…弦で人を魅了する あの手を。
「…」
堪えた溜息で胸の中心が詰まる。
なぜ こんなにもあの男に苛々してしまうのか。
腹立たしく思う。
怒りの理由がよくわからないから。余計に。
「よォ。来たか」
「…失礼します」
は軽く頭を下げて『総督様』の部屋に足を踏み入れた。
戸を閉めて総督――高杉晋助の方に向き直ると,彼は気だるげに席から立ち上がった。煙管を片手に
こちらへ近づいて来る高杉に習い,もまたすたすたと彼に歩み寄った。ある程度の距離で高杉が
歩を止めたので,それとほぼ同時に自分も立ち止まった。
煙を深く吸い込み吐き出す――それを2度繰り返した後,彼はニヒルな笑みを浮かべた。
「昨夜はご苦労だったな。土方と一発ヤったらしいじゃねェか」
「晋助様,違う意味に聞こえます。ていうかわざと言ってるでしょ,あなた」
からかう気満々の高杉の言葉にが半眼になると,彼は愉快そうに喉の奥で笑い声を立てた。
高杉はほぼ毎回この調子で笑えない冗談を口にし,自分を困らせたり戸惑わせたりした。
どうやら彼にとっては,の反応がひどく面白いらしい…彼の笑いのツボはいまいちわからない。
それに何故いつも自分と喋る時,わざわざ立ち上がってこちらを見下ろしつつ話すのか。
そういえば以前「お前ちびだな」と彼に言われたことがあった。たしかにの身長はあまり高い
方ではないが,あんなに嬉しそうに笑われるほどではない。というか何が嬉しいのか。
(この人は女を見下ろすのが好きなのね,きっと)
昼も夜も,と余計なことを考えつつは高杉を見上げた。すると,
「足はもういいのか」
彼の視線がちらりと自分の足に向けられたのを受け,は首を縦に振った。
「はい。ごく軽い捻挫です」
「万斉に助けられたな」
「…ええ。まあ」
ほんの少し口ごもっただけで,高杉はの心中を敏感に察知したらしく,目を楽しげに光らせた。
『猫は獲物を捕まえたら,すぐには仕留めず散々いたぶり尽くした後に捕食する』というが。
この総督殿の目は,今まさに獲物を前にした猫のごとく爛々と輝いていた。
「不本意そうだな」
「…そう見えます?」
「ああ。お前は存外わかりやすい女だ」
「…」
「見た目は雪女だが,中身は雪ん子だ」
「…(誰が雪ん子よ)」
「で,万斉に助けられたな」
「…2度も言わなくて良いですよ」
「嫌そうだな。ものすごく」
「そんなことないですよ」
「なァ…」
「(聞いてないなこの人)はい?」
「お前,なんで万斉を嫌ってんだ?」
散々回り道をした後,やっと直球で尋ねてきた。は思わず眉をしかめたが,高杉はあくまで
マイペースに煙管をふらりと揺らし,
「あいつを嫌う女は珍しいぜ」
「そうでしょうね。彼は人当たりが良いですから」
「じゃあなんで嫌ってんだよ?」
「そうですねぇ…」
言葉を淀ませ,あらためてちゃんと考えてみた。
特に何か嫌なことを言われたわけではないし,ましてやされたわけでもない。むしろ万斉は親切だ。
誰にでも穏やかな話し方をするし,発言は冷静で思慮深い。
彼に良い印象を抱く者はいっぱいいるが,彼を嫌う人間はほとんどいないだろう。
しかし――逆にそれがなんとなく鼻に付くのだ。
いつもきれいに飾った面しか見せないことが,腹立たしくて仕方ない。
本当は 違うくせに。
本当は きれいなんかじゃないくせに。
「とどのつまり嘘くさいからです,いろいろと」
「『嘘くさい』ねェ…」
高杉は肯定も否定もせずにこちらの言葉を反芻したので,先を促されているとは判断した。
同志の悪口を陰で言うのは気がひけたが,そう仕向けたのはこの総督様だ。
この際遠慮なく言葉を続けることにした。
「心の中では全く笑っていないのに笑顔をつくったり。嫌いな相手ともそつなく会話したり」
「ああ…あいつの特技だからな,それ」
「でも,わたしは彼を嫌いなわけではありませんよ。言ってみれば,ただの『妬み』です」
「あ?妬み?」
「ええ。わたしは不器用な人間ですから。彼の要領の良さや世渡りの上手さが妬ましいんです」
<妬み>という単語が口から出た時は自分でも内心驚いた。
が,言っている内に「そうかもしれない」と思えてきた。
彼を見ると,苦々しい感情を覚えると同時に…羨ましくも思っている気がする。
自分が彼に対して抱くのは<嫌悪>ではないし,かといって<憧憬>でもない。
どちらでも無いけれど,そのどちらの要素も少しずつ含んだ感情なのだ。
「彼の器用さは便利でしょうけど…羨ましく思いますけど…でも,わたしはそうなりたくないです」
「お前の言わんとすることはわからねェでもねーな」
やはり高杉は肯定することも否定することもしなかったが,一定の理解を示してくれた。
彼は 人間の本質的な情念を読み取ることに長けていた。
高杉は煙管の灰を傍らの火鉢の中へぞんざいに落とした。そして幾分か鋭い声で言った。
「けどな,任務は『したい』か『したくない』かじゃねェよ。『できる』か『できない』かだ」
「…」
「あの野郎は顔の使い分けが『できる』。よしんば『したくない』と思っていたといても,『できる』
ならやってもらう。それが適材適所ってやつだ。俺はお前に奴と同じことしろとは言ってねェだろ。
お前になら『できる』と思ったことを,そしてお前も『できる』と頷いたことを俺はやらせている」
「…はい」
「昨日のお前は『できなかった』。そうだろう?」
「…」
ぐうの音も出なかった。昨夜は…本当に危なかったのだ。もし万斉が来ていなかったら,自分の首には
縄が掛けられていただろう。
一瞬の不注意や判断ミスが命の危険に繋がる――そういう世界で自分は生きているのだ。
(…)
が心底反省しているのを察知したらしく,高杉は少し声を和らげて軽く言った。
「油断すんなよ。これ以上あいつに恩着せられんのが嫌なら」
「はい…申し訳ありませんでした」
その志についていくと誓った鬼兵隊総督へ,は深く頭を下げた。
低くなった細い肩を高杉は静かに叩き,に顔を上げさせた。
「こいつはもしもの話だが…」
「…?」
目が合うと彼は薄い笑みを浮かべた。
それは自分をからかう前に決まって見せる微笑であり,すなわち説教の終了を意味していた。
案の定高杉はいつものように揶揄を口にした。
「俺が女だったとして,お前みてェな別嬪から妬まれたとしたら…さぞ良い気分だろうよ」
「ご冗談を。晋助様が女だったら妬むに決まってます。傾国の美姫でしょうから」
「フッ…言うな,お前も」
高杉は可笑しそうに片方の口端を上げたが,不意に真面目な表情になった。
「けど,男が女から妬まれんのは妙な気分だろうな」
「え?」
「万斉は尚更な。妬んでるのがお前なだけに」
「…?それはどういう意味です?」
「…お前,へんなところで鈍いな」
「それさっきまた子にも言われました」
「言いたくもなるだろうよ」
溜息まじりに彼は言い,「同情する」とひとり言のように呟いた。
(同情って…誰に?)
はもう少し質問したかったが,高杉はそれ以上話す気が無さそうだった。彼は背中を向けて
元々座していたところへ戻っていった。深く追求するのを諦め,は辞去を告げた。
「では,失礼します」
「ああ」
もう一度しっかり頭を下げ,は踵を返して出口へと向かった。そして取っ手に指をかけようと
した瞬間,すっと戸が横に開いたので反射的に肩が跳ねた。
「!」
「殿?」
そこには総督お墨付きの『顔の使い分けができる男』が立っていた。がここにいるとは思って
いなかったらしく,万斉の声音には驚きが含まれていた。
「…」
彼に対する自分の感情が『妬み』であって『嫌悪』ではないと確信したものの,それが彼への反感を
拭い去る理由にはならなかった。
しかし,だからといって無意味に突っかかるような真似をするのも,子どものようで嫌だった。
はなんでもない風に彼を見上げて言った。
「昨日は悪かったわね」
「いや…足はもう平気か」
「ええ。おかげさまで」
「そうか…」
万斉はまだ何か言いたげだったが,は彼の横をすり抜けて部屋から出た。
「それじゃあ」
「…ああ」
彼の短い返事を背中で受け取り,は振り返らずに廊下を進んだ。
(…この態度も子どもじみてるわね,十分)
自分自身に苦笑してしまう――やはり自分には難しいかもしれない。
顔を使い分けることも。
感情を顔に出さないことも。
(それにしても…いつもポーカーフェイスで疲れないのかしら,あの人)
万斉を心配している自分に気付き,はあらためて「嫌いなわけじゃないわね」と思った。
でも――万斉が自分の背をしばらく見つめていたことには気付かなかった。
そして高杉が「お前も大変だな」などと万斉に声をかけていることも,もちろん知らなかった。