あの日 かわした約束を
今でもまだ 憶えている

ひらひら金魚みたいな 君の浴衣姿も
ふたりで座った 石段の熱さも
瞬きの間に 夜空へ散った花火も

それから

繋いだ手と手の
ぼくらの温度も



金魚姫


「晋ちゃん,晋ちゃん」

…うるさいやつがまた来た。
ぱたぱたと近づいて来る足音に,俺は溜息をつきそうになる。一緒に並んで歩いていたヅラと銀時は,
名指しされた俺より早く後ろを振り返った。呼ばれた以上,仕方なく俺もそっちに目を向ける。

「…」
「ね,3人でどこ行くの?」

右の頬にえくぼをつくって,は首を傾げている。おでことか鼻の頭に浮かんだ汗が,ぴかぴかと元気に
光っていた。斑模様の木々の影が,の髪の上でさらさらと踊っている。濃緑の葉を茂らせた木々が,
真夏の青を貫こうとするかのように枝々を空へ伸ばしていた。俺はフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

「男同士の秘密だ」
「裏山の洞窟へ探検に行くところだ」
「って,なに即座にバラしてんだよヅラ!」
「ヅラじゃない,桂だ!」

ヅラの胸倉を掴み上げると,ヅラも俺の髪をむんずと掴んできた…このやろう。
銀時はというと,ちらちらとのことを横目で窺っている…女なんかにデレデレして馬鹿じゃねェの。
は『冒険』という言葉に反応し,両手を合わせて目を輝かせた。

「わたしも行きたい!」
「は駄目だ」

俺はきっぱり言い放ち,の顔の中心あたりをぴっと指差した。

「女は来ちゃ駄目だ!」
「どうして!?わたしも晋ちゃん達と一緒に行きたい!」
「お前,すぐ泣くから駄目だ」
「泣かないもん!」

うそつけ。女はうそばかり言うからキライだ。すぐ泣くし。
この前だって「一緒に釣りしたい」って言うから,せっかくつれていってやったのに。
釣り針に餌(赤虫=アカムシユスリカの幼虫)つける方法を教えてやろうとしたら,すっげェ悲鳴を
あげて泣き出した。「虫がかわいそう!」だの「虫が気持ち悪い!」だの(矛盾してないかその感想)。
結果,俺が松陽先生に注意された。「大抵の女の子は虫が嫌いだから気をつけなさい」って。
…俺は悪くないのに。女って面倒くせェ。

「ね,小太郎くん。わたしも行っていいでしょ?」

首を縦に振らない俺をスルーし,は助けを求めるかのようにヅラを見た。目を向けられたヅラは,
うーむ…と腕組みをして唸った。

「駄目とは言わないが…結構歩くし,洞窟の中は暗いぞ。虫とかトカゲだって出るし」
「そんなのへっちゃらだよ!」

うそつけ。ちっせェ赤虫でさえ「気持ち悪いよ~」って泣き喚いてたじゃねーか。
爬虫類はヤモリ以外怖いって言ってたじゃねーか(ヤモリは『家を守ってくれるからいい』とのこと)。
俺は再度首を強く横に振った。

「駄目ったら駄目だ。お前みたいな弱虫の泣き虫は『あしでまとい』だ」
「やだ!晋ちゃんについてく!」

先生から教えてもらったばかりの単語を使ってみても,は一歩も退こうとしない。それどころか
さっきよりも必死な目で俺を真直ぐに見つめてくる。
…女はどうしてこんなにワガママなんだ。このままじゃ『らちがあかない』。
俺は汗で湿った髪をぐしゃぐしゃと掻いた。草履の下から熱砂の温度が伝わってきて,立ちっぱなしの
足がじわりじわりと熱を帯びていく。こんなところで押し問答し続けるより,早く探検しに行きたい。
どうすりゃいいんだよ,と苛々が募りに募ったその時,

「行こ」
「!」

それまでずっと黙っていた銀時が,の手をきゅっと握った。
が驚いたように口をぽかんと開けると,銀時はいつもと同じ眠そうな目のまま,へらりと笑った。

「虫とかトカゲが出たら追い払うし。が疲れたら,俺おぶるよ」
「銀時くん…」
「,いつも優しいから。お礼」
「ありがとう!」
「…」

ふたりがきらきら光っているように見えた――真夏の青い木もれ日のいせいじゃなく。
それを見ていたら,さっきまでの苛々とは違う種類の苛々が,俺の心にムカムカと込み上げてきた。

「勝手にしろっ」

ふたりに対してそう怒鳴って,俺は背を向けて歩き出した。
洞窟には暗くなる前に行かなくちゃ駄目なんだ。
早く探検したいんだ。
だから急いでるんだ。
自分が早足になっている理由を,俺は心の中で唱え続けた。
それがうそっぱちの理由だってことは,自分でもよくわかっていたけれど。
でも,その時の俺は絶対にそれを認めようとしなかった。

頑なな俺の頭上で,青々とした木々が風に流され鳴いていた。
まるで大海原を駆ける波音のように。


+ + + + + + + + +


やっぱり泣いた。
予想通りは泣いた。
洞窟に入るまでは楽しそうにしていたけれど,いざ暗闇の中に足を踏み入れるともう駄目だった。
足を一歩踏み出すごとに「怖い」だの「暗い」だの「やっぱり危ない」だのとぐじぐじ呟き,洞窟の
天井の岩から雫が頭に落ちてきた途端,金切り声をあげて泣き出した。もう虫とかトカゲとか以前の
問題だった…だから「お前は駄目だ」と俺は言ったのに!
しかもぴーぴー泣き出したにヅラは「泣くな。たとえ女子でもこんなことで泣いちゃ駄目だ」と
口では厳しいことを言いながらも,頭を撫でてやっていたし。
銀時は「あげるよ…飴」と普段他人の菓子をくすねてばかりのくせに,袖に隠していた飴玉をに
惜しむことなく渡していたし。
ヅラも銀時も,女に甘い顔してバカじゃねェのか。みっともねェ。
その日は結局洞窟の探索なんて少しもできなくて,俺達はそのまま早々に家へ帰った。
(…つまんねーの)
それもこれも全部のせいだ。
あいつがウロチョロとついてくるから悪いんだ。

それに…

うるさく俺につきまとってくるかと思えば,急に違う奴の世話をやき出すし(銀時を主に)。
ちょっと優しくしてやろうかと思えば,急に説教じみたことを言い出すし(ヅラと一緒に)。
なんなんだよ,あいつ。
おんなってめんどくせェ。

「晋ちゃん,晋ちゃん」

今日もこれだ。
先生が来るまでの間,教室で本を読んでいたらが駆け寄ってきた。昨日俺達の冒険を邪魔したこと
なんかすっかり忘れたかのような笑顔で。
「…」
「晋ちゃんってば!」
知らんふりしていたら,今度は袖をぐいぐい引っ張られた。見かけによらず力強いんだよな…こいつ。
仕方なく本を閉じて,そっちの方を見た。

「なんだよ」
「晋ちゃん,明日のお祭り行くよね?」
「…」

が言う『祭り』とは,毎年この時季に町で行われている『のうりょう祭り』のことだ。
今年も例年通り,親とは一緒に祭へ行けない生徒達を,松陽先生が代わりに連れて行ってくれることに
なっていた。の家はこの界隈じゃ有名な菓子屋で,祭の日はまさに稼ぎ時だ。だから毎年は
松陽先生や他のやつらと一緒に祭へ行っていた。そして,それは俺やヅラも同じだった。

「…だったらなんだよ」
「一緒に縁日回ろうね」
「いやだ」
「ど,どうして!?」

は眉を八の字にして,いかにも悲しそうに問い返してくる。けど…

「…銀時と回ればいいだろ」

昨日銀時に「おぶってやる」と言われて,が嬉しそうに笑っていたのを思い出した。
銀時は――警戒心の強い奴だ,と俺は思う。
それは,あいつの生まれが生まれだから仕方ないことだとも思う。
滅多に他人に触らないし触らせない。
けれどもは『ぼせいほんのう』とか言う女特有の感情(松陽先生からの受け売り)から,銀時が
どんなに無表情でも無反応でも優しく世話をやいていた。
そのせいか,最近では銀時もには心を開いているようだった。
銀時との様子を見ていると,俺は――
――急に苛立ちが込み上げてきて,悲しいのか腹立つのか自分でもよくわからなくなった。
でもはきょとんとして聞き返してきた。

「えっ…銀時くん?どうして?」
「どうして,って…」
「わたしは晋ちゃんと回りたい」
「!」

本の上に置いていた俺の手の上に,は自分のそれを重ねて身を乗り出してきた。

「ね,一緒に回ろ。お願い!」
「…」

息がかかるくらい間近での目がきらきらしていて,思わず俺は生唾を飲み込んだ。
垂れ下がっているの長い髪が,手に触れてくすっぐったい。

「…気が向いたらな」
「…!うん!」

俺は目を逸らしながら返事したのに,の声は明るく弾んでいた。
(なんで…こいつは俺と一緒に行きたがるんだろう)
わけがわかんねー。なに祭くらいではしゃいでんだよ。バカじゃねーのか,ったく。
頭の中でたくさん毒づきながらも,心の中はなんだかふわふわ浮ついていた。
明日が楽しみだな,って。
素直じゃないからそうは思わなかったが,「明日を楽しみに待ってやってもいい」くらいには思った。

…つくづくひねくれたガキだった。


+ + + + + + + + +


夜空から闇がにじんでくるかのように,夏の夕暮れが始まった。
道のいたる所に篝火が焚かれ,いつもだったらとっくに閉まっている商店が,表戸を開け放ったまま
燈火を出していた。また,軒下には掛け行灯が煌々と吊るされていたから,夏夜は幻想的な明るさに
満ちていた。待ち合わせ場所には,ヅラや銀時,そして他にも数人の学童が松陽先生の周りを囲んで
立っていた。その中にはの姿もあったけれど,俺は皆から少しだけ離れたところに立ち,向かいの
店の品々を眺めているふりをしていた。
をなるべく視界にいれたくなかったからだ。視界にいれたら…

「晋ちゃん!」

一度視界にいれたら,目が離せなくなりそうだったから。
だから,なるべくそっちを見ないようにしていたのに。
そんな俺の努力もむなしく,はからんころんと下駄を鳴らしながら駆けて来て,俺の目の前に立った。

「…どう?」

はいつものにこにこした明るい笑顔じゃなくて,ちょっと照れくさそうなはにかみを顔に浮かべて,
くるくるっとその場で回ってみせた。浴衣の袂が舞い踊って,蝶々結びの兵児帯が水の中を泳ぐ金魚
みたいに揺れ動いた。
「…べつに」
「『べつに』って?」
「…」
「ね,似合う?」
俺がいまひとつ反応を見せないから不安になったのか,は緊張した面持ちで首を傾げた。
袂や帯が夜風にあおられて,涼しそうにひらひらそよいでいる。
「…金魚みてェ」
「きんぎょ?」
は同じ言葉を繰り返して,ますます首を深く傾げてしまった。
褒められているのかそうでないのか,ぴんと来なかったようだ。
…バーカ。わかれよ,ちくしょう。

「金魚は,可愛い…と思う」
「!」

初めて見た。
金魚が 照れているとこ。
俺も同じくらい照れていたけれど。

「…金魚みたい?」
「二度は言わないっ」
「あっ…」

顔が赤くなっているのを見られたくなくて,俺は皆が集まってる方へ走った。
すぐにも追いついて来て,俺達は皆に混じった。

皆と一緒に歩いている間,手と手がふれあいそうになった瞬間が何度もあったけれど。
でも,お互いに気付かないふりをしていた。
気付かないふりをして,横顔をこっそり盗み見た。目が合わないように,そっと。
お互いに視線が合うのを避けて,合いそうになったらすぐに逸らした。
結果,が俺を見ていない時はずっと,俺はを見ていた。
たぶん,はその逆だった。

…いっそ見詰め合っていた方が楽だったんじゃなかろうか。


+ + + + + + + + +


水風船にかざぐるま。たこ焼き,水飴。射的に輪投げ。
露店の並んだ賑やかな通りを最初こそ皆一緒に歩いていたけれど,時間が経つと普段からつるんでいる
連中で固まって歩き始めた。村塾の生徒達は,松陽先生の目が届く範囲内で,仲良し同士で好きなように
うろちょろと通りを練り歩いた。
それは俺達も例外ではなく,俺はヅラと銀時そしての4人で店を見て回っていた――が,
「…」
後ろを歩いていた銀時が急に立ち止まったから,俺も足を止めて振り返った。
銀時の視線の先には『金魚すくい』と書かれた派手な看板と,水槽の中を涼しそうに泳ぐ色彩豊かな
金魚の群があった。ぼおっとそれを見つめる銀時に真っ先に声をかけたのは,やはりだった。

「銀時くん,金魚すくいやりたいの?」
「…きんぎょすくい?」

ひどく不思議そうに,銀時はの言葉を繰り返した。
銀時は――今日,生まれて初めて祭に来たのだ。
俺は店のおっさんに金を払って,受け取った『ポイ』を銀時に差し出した。
「ほら。こいつで金魚をすくうんだよ」
「すくってどうすんの?」
「すくった分だけ貰えるのだ。面白いぞ」
ヅラがそう解説すると,銀時はポイを裏返してみたり光にかざしてみたりした。
「…ふーん」
「はい,右手で持って」
「!」
「お椀は左手ね」
は銀時の右手にポイを,左手にお椀を持たせて水槽の前に屈ませた。

「袖,濡らさないように持っててあげるね」
「…ん」

背中から軽く抱え込むようにして,は銀時の両袖を持った。銀時は照れくさいのか,口を一文字に
きゅっと結んで頷いた。
(いちいち母親面して…鬱陶しい女)
さっきまでは…俺の言ったことに顔赤らめてたくせに。
なんなんだよ,こいつ。わけわかんねーの。
俺はもやもやとした苛立ちを感じながら,銀時の袖を掴んでいるの手を睨んだ。
「…」
銀時の持ったポイがぎこちなく水面すれすれを動き回り,ある一点で水の中にぼちゃんと潜った。
けれども金魚を一匹ものせることは叶わず,水から出したポイにはぽっかりと穴が空いていた。
「あー…惜しかったね。でも初めてなのに上手だったよ」
「…ありがと」
獲物こそ得られなかったものの,銀時は初めての金魚すくいにかなり満足したようだ。破れてしまった
ポイを記念に持ち帰るつもりなのか,嬉しそうに袂の中にしまった。
「よし。俺が手本をみせてやろう」
ずいっとしゃしゃり出たのはヅラだった。店のおっさんからポイを受け取ると,袖をまくって水槽の
前に屈み込んだ。びしっと(よくわからない無意味な)構えをとり,きらりと目を光らせた。そして,

「こうやって……こうだっ」

掛け声は高らかに,手付きは滑らかに。
音もなくポイが水面につき,次の瞬間には金魚がお椀の中で泳いでいた。間近で見ていたはすっかり
興奮してぱちぱちと拍手しながら,
「小太郎くん,すごい!」
「はっはっは。見直したか」
「うん!すごいすごい!」
尊敬の眼差しでヅラを見上げている。その横で銀時は「…ヅラにも特技ってあったんだな」と小声で
呟きつつ拍手している。俺はフンと鼻を鳴らして,ヅラとの間に割って入った。

「へたくそ」
「晋ちゃん!」
「俺の方が上手い」
「なんだと!」
「見てろよ。おっさん,俺にも一つ」

袖を払ってポイを構える(至って普通の構え方だ)(俺はヅラとは違う)。
どうせ狙うなら今にも死にそうなやつじゃなくて,でっかくて動きのいい金魚だ。
やつらの泳ぐ先を見据えて,動きを予測して――ここだっ。
「…!」
特別に大きな動作なんて,必要なかった。
次の瞬間には,大きな金魚がお椀の中でぴちぴちと赤い尾びれを揺らしていた。

「す,すごい!晋ちゃん!」
「まあな」

ざっとこんなもんだ。
は高い歓声をあげて,俺と金魚を忙しなく見比べて「手品みたい」と笑った。
ふふん…まいったか。
ヅラや銀時なんかより俺の方がすごいんだぞ。わかったか。

「負けん!負けんぞ!」
「あっ小太郎くん…」

俺が天狗ばりに鼻高々になっていると,ヅラはむきになって再びポイを水面へくぐらせた。そして,
今度は黒の出目金をすくってみせた。なかなかやるな,ヅラ。けど…!

「まだまだだ!」
「ちょっ…晋ちゃん!」

の「もうやめようよ」という言葉に耳を貸さず,俺とヅラは金魚すくいを続けた。
何十匹もすくって,
お椀の数もどんどん増えて,
店のおっさんが「頼むからもうやめてくれ」と半泣きになる頃――
――騒ぎを聞きつけた松陽先生がやってきて,お灸を据えられることになってしまった。
しかもにも「だからわたしは止めたのにっ」と拗ねられてしまった。


…負けず嫌いの性分はこの頃既に形成されていた。