「少し休憩しましょう,皆さん」 夕闇が夜闇へと質を変え,月がその姿形をくっきりと空へ刻みつけ出した時,松陽先生が手を叩いた。 木造のベンチが数台置いてあるちょっとした広場のような所で,学童達は思い思いの場所に陣取った。 きゃいきゃいと騒ぐ俺達に対して,「祭りで浮かれている子ども等を狙う人攫いもいるから気をつけて」 「必ず2人以上で行動するように」「一時のテンションに身を任せると痛いメみますよ」などといった ありがたい忠告を松陽先生はにこやかに言い放った。 もちろん俺は先生の言いつけを守って,いつもの面子と一緒に固まって休んでいた。そして―― (…) ――水色の綿菓子を片手に持って,うろうろと金魚娘を探していた。 さっき綿菓子を買った時に「ひと口ずつ交換しようね」と言われていたのだ。 ちなみにが買った綿菓子は桃色で「これ,色が違うだけで味は多分同じだぞ」と俺は言ったのだが, ワガママ金魚は「いいの!交換したい!」と言って譲らなかった(へんな奴)(悪い気はしないけど)。 きょろきょろ広場を見回し,寄せては返す人の海の中,俺はの姿を探した。 …べつにどうしても交換したいってわけじゃない。 ただ…約束してたから,だ。 侍は果たせない約束はしないんだ。 (どこにいんだよ…) 心の中でぼやいた時,行き交う人々の波間に見覚えのある浴衣が見えた。それから,桃色の綿菓子も。 ホッとして,俺はそっちへ足を向けた――が。 「銀時くん,お口のまわりべとべとになってるよ」 「んー…」 「!」 ぎくりとして立ち止まった。 どうして足が竦んでしまったのかは,正直よくわからない。 なにか悪いことをしたわけでもないのに。でも―― 「お口とじてね」 でも――『見てはいけないものを見てしまった』。 そういう後ろめたい気持ちになった。 が自身の手巾で銀時の口を拭いてあげるのを,俺はバカにみたいに突っ立って凝視した。 「…」 やましい気持ちの後に湧いたのは,激しい怒りの情だった。 「晋ちゃん」 「…」 俺に気付いたは,いつもと同じように目を輝かせてこっちに駆け寄って来た。 でも,俺はいつもと違って「べたべたすんな」とも「大声で名前を呼ぶな」とも言えず,視線を落とした。 噛み締めた奥歯の痛みが「顔を上げろ」と俺を責め立てているような気がして,ますます憤りが募る。 「晋ちゃん,ひと口ちょうだい。水色の」 「…」 「晋ちゃん?」 無言の俺を不審に思ったのか,は顔をのぞき込んで来た――目が合ってしまう。 は目を少し細めて笑い,桃色の綿菓子をこっちに差し出した。 「ね,約束したでしょ。わたしのひと口あげるから」 「…うるさい」 「…え?」 「うるさい!」 「!」 ぱしっと皮肉な程に小気味良い音が,俺達の間に響いた。 大声に身を竦ませたの手を,俺はぞんざいに払いのけた。 その衝撃で綿菓子が地面に落ちてしまった。 まるで雲が地面に沈んだみたいに。 「あっ…」 「お前,鬱陶しいんだよ!いつもいつも近寄って来るんじゃねェよ!」 「!!」 日に焼けたの顔がサッと青ざめたのが,暗がりでもわかった。 すぐに強い後悔の波が胸に押し寄せて来たけれど,俺はそれをどうすればいいのかわからなかった。 謝れば良いのに,声が出なかった。くだらない自尊心が,俺から声を奪った。 それに…悔しかったから。 そんなに他の奴の世話やきたいのかよ,って。 俺よりも大事なのかよ,って。 悔しくて悲しくて仕方がなかった。 「…」 は視線を下げて,浴衣の帯下あたりで拳をぎゅっと握り締めた。 いつものように怒り出すかと思いきや――顔を上げた時,の目は涙でいっぱいになっていた。 「…ごめんね」 初めて見た。 金魚が 泣いているとこ。 俺も同じくらい泣きたい気持ちだったけれど。 傷つけたのは,自分なのに。 「…」 はくるりと俺に背を向けて,見る見る間に走り去って行った。 兵児帯が尾びれのように揺れながら遠ざかっていくのを,俺は黙って見ているしかなくて。 地べたに落ちた綿菓子は,行き場を失くして途方に暮れていた。 …途方に 暮れていた。 + + + + + + + + + 「晋助」 「松陽先生」 どのくらい時間が経ったのか,わからない。俺は広場の隅で,ひとりぼんやり佇んでいた。 穏やかなその声に話し掛けられるまで,先生が目の前に立ったことにさえ気付かなかった。 「1人なのですか?」 そう問いかける先生の少し強めの口調には『単独行動はダメだと言ったでしょう』と咎める気持ちが 込められている気がした。 「…すみません」 俺は素直に頭を下げた。 さっきから燻り続けている後悔の念も一緒に。 …それを先生に謝っても仕方ないのに。 「君は非常にしっかりした子だけれど,こういう場では気をつけなくてはいけませんよ。悲しいこと ですが,良い大人ばかりではありませんからね」 「…はい」 俯いた俺の頭を,松陽先生は一度だけ撫でた。 もういいよ,と言われたような気がして心が少し軽くなった。けれども,先生が発した次の言葉に,全身 から血の気が奪われた。 「それはそうと,を知りませんか?」 「…え?」 俺の呆けた返事を聞いて,松陽先生の表情も俄かに曇った。 太鼓や笛の音色,人々の笑い声が,ひどく遠い場所から聞こえてくるもののような気がした。 「少し前から姿が見当たらなくて。君と一緒かと思ったのですが」 「!」 …ごめんね。 目に浮かんだのは 金魚の涙。 「俺…探して来る!」 「あっ,晋助!」 叫ぶやいなや俺の足は駆け出していた。呼び止める先生の声にも振り向かなかった。 …大事だったから。 そうすることが,大事だったから。 を探すことが,見つけることが,そして謝ることが,なにより大事だったから。 にあいたかった。 ただ,それだけで駆け出していた。 (…!) 色彩豊かな浴衣の群集をかきわけて,祭りばやしを自分の息切れでかき消して,ひたすら走った。 わき腹が死ぬ程痛くなっても,視線だけは至る所至る方向へとばしまくった――と, 「は,はなして!」 これ程の喧噪の中,どうしてその声だけが耳に入ったのか。 『鮮やか』とも形容できるくらいにはっきりと,俺の耳はの声をとらえていた。 走る草履を踏みしめて体ごと声の方を向くと,頭を激しく横に振ると,そのの手首を掴んで いる中年の男が目に入った。 松陽先生の言っていたこと…「祭りで浮かれている子ども等を狙う人攫いもいるから気をつけて」という 言葉が頭をよぎったけれど,それも一瞬のことで, 「なんでも買ってあげるから。ついておいで」 「いや!」 の眉が辛そうに歪んでいるのを見た瞬間,頭に血がのぼった。 「おい!」 今までこんなにも声を張り上げたことはなかった。 こんなにも,怒りを込めて誰かを睨んだことはなかった。 「し,晋ちゃん!」 は俺を見ると,くしゃっと顔を歪めて――涙を一滴だけ流した。 ころんと零れた涙がいとしくて,でも悔しくて。 泣かされてんじゃねェよ,と思った。 自分だってさっきこいつを泣かせたくせに,泣かせてめちゃくちゃ後悔したくせに。 他の野郎がこいつを泣かせるのは絶対に我慢ならなかった。 を泣かせていいのは俺だけだ,と。 自分勝手過ぎることを心の中で叫んだ。 「に触るな!」 人の壁をかいくぐって2人に近付き,俺はの手を掴む男のそれを力任せに殴りつけた。 <痛かったから>というよりも<驚いたから>といった風に男は手をぱっと離した。 その隙に俺はを自分の背中に隠し,も俺の背にぴったりくっついてきた。 男は状況を把握できないのか少しの間呆然としていたけれど,「子供に邪魔をされた」という屈辱が 込み上げて来たらしく,怒りで顔を赤く染めた。そして, 「このっ…くそガキ!」 「!」 男は俺の首根っこを軽々と掴み上げると,いとも簡単に地面へ転がした。 「…っ!」 固い土の上に打ちつけられた衝撃と,口の中に入った砂の気持ち悪さに,思わずむせてしまった。 「晋ちゃん!」 は悲鳴をあげてこっちに駆け寄ろうとしたけれど,男がそれを許さなかった。再びの手を 乱暴に掴むと,今度は体ごと抱え込もうとした。は身を捩って必死に抵抗したけれど,女子供の 力ではたかがしれていた。 「やっ!」 「!」 俺は咄嗟に砂を掴んで男の顔に投げつけた。それから渾身の力を込めて,この大人に体当たりをした。 「いでででっ!」 今度は本当に痛がって,男は手を離した。その拍子には体勢をくずして転げそうになった。 でも,そうなる前に俺はを力一杯抱きしめた。 も俺にぎゅっと抱きついてきた。 『抱き合う』というよりも,お互いに『しがみつき合っている』といった感じだった。 子どもの俺たちは,そういう抱き合い方しかまだ知らなかった。 「晋ちゃん…」 「守る」 その言葉を口にした瞬間,全身に力が宿った気がした。 誰にも何にも,絶対に負けやしないと思えた。 に向かって,そして俺自身に向かって,声を張り上げて宣言した。 「は俺が守る」 俺の頬にひっついているの髪が,緩やかに震えた。 の髪は,汗と綿菓子の香りがした。 俺にしがみつくその手に,ますます力が込められたのがわかった。 「このガキ…覚悟はできてんだろうな!」 完全に理性を失った男の怒声が聞こえ,俺はそっちを睨み上げた。 怖くなどなかった。最初から。 こんな大人など,怖くはない。 怖いのは――もっと別のことだ。 「!」 男の手がこっちに伸ばされたのと,ほぼ同時だった。 俺の視界全体に誰かの――いや,とても見慣れた人の…広い背中が。 「なにをしているのですか」 「松陽先生!」 安心とか嬉しさとか。 それから…『これ』は何と言う名前の感情だろう。 無性に『泣きたい気持ち』とか。 そういう感情全部ひっくるめて,俺は敬愛する師の名を呼んだ。 「な,なんだてめェは…!」 「私の教え子たちに何の用ですか」 急に立ちふさがった松陽先生に対し,男はうろたえた声をあげた。先生は俺たちをちらりと振り返り, 再び男へと視線を戻した。 「この子に怪我をさせたのはあなたですか」 (…怪我?) 反射的に顎を押さえると,砂の感触と共に鈍い痛みが走った。 興奮していて今まで気付かなかったけれど,どうやら最初に転がされた時に怪我をしたらしい。 顎だけじゃなく,手のひらや膝にもあちこち擦り傷ができているようだ。今になって痛みがじんじんと 脳まで伝わってきた。は目に涙をいっぱいに溜めて「ごめんね,晋ちゃん」と繰り返し呟いた… …なんでお前が謝るんだよ。 「失せなさい」 松陽先生は俺たちに背を向けていたから,どういう表情をしているのか見えなかったけれど。 でも…今まで聞いたことがないくらいに低い声だったから。 口調こそ丁寧だったけれど,ものすごく怒っているってことがわかった。 「あなたがどこで何をしようと構いません。しかし,私のこの剣。この剣が届く範囲で,悪事をはたらく ことは――私がゆるさない」 先生の手が,刀の鍔にふれた。 熱気溢れる祭りの道に,ひやりとした空気が流れた。 「…っ!」 虎を前にした鼠のように。 すっかり気圧された男はじりじりと後じさり,やがて背を向けて逃げて行った。 松陽先生は男の後ろ姿が人ごみの中に消えるのを見届け,静かに鍔から手を離した。 そして,息を詰めた俺とを振り返り――柔らかく笑った。 「大丈夫ですか,2人共」 いつもの先生だった。 優しくて厳しい,俺たちの師だ。 「せ,先生…ごめんなさい」 緊張の糸が切れたのか,は声を上げて泣き始めた。 本当言うと,俺も泣きそうになったのだけれど。目に力を込めてそれを堪えた。 代わりに懐から手巾を取り出して,の顔を拭いてあげた。 すると,なぜかますますは涙やら鼻水やらを零して泣いた。 ごめんね,晋ちゃん。ごめんね。 泣きながら,むせながら,鼻をすすり上げながら,は謝り続けた。 向こうの方からヅラや銀時が走り寄って来るのが,視界の隅に映った。 松陽先生の大きな手のひらが,俺との頭にのせられた。 よくやった,と言われた気がした。 その…あまりにも穏かな体温に。 俺は――もう一度。 泣くのを,堪えた。