夜の神社の境内は,昼間のそれとは全く異なる空気に染まっていた。
青空の下,皆と一緒に遊びまわったり喧嘩したりする慣れ親しんだ場所なのに。
夜空の下,祭りの喧騒が少し遠くに聞こえるここは,まるで初めて来る場所のように思えた。
境内に漂う紫がかった夜闇に――俺は,おそれを感じた。
『恐れ』ではなく『畏れ』を。
目には見えない力の存在を,肌で直に感じとった。
松陽先生は俺の怪我の手当てをしてくれた後,皆をつれてここに足を運んだ。それから,手にしていた
袋から花火を取り出してみせて,皆を喜ばせた。
水を汲んだ桶を用意して,蝋燭に火をつけて。
皆が手に手に花火を持って,あふれ出す光の花に目を輝かせていた。
「…」
「…」
花火に興じる皆から少し離れた石段に,俺とは並んで座っていた。
俺達は珍しく2人共黙っていた。
思えば「一緒に座ろうよ」と言ったわけでも言われたわけでもなかった。
そんなことわざわざ言い合わなくても,よかった。
ずっと言葉を交わさずに,ただお互いの気配だけを感じ合っていた。
昼の間に太陽の熱をいっぱいに吸い込んだ石段は,今もじんわりと固く熱かった。
でも不思議なことにその熱さは嫌いじゃなかった。
「…晋ちゃん」
ふいにが呟くように俺を呼んだ。
隣を見ると,は何か言いたげな目で俺を見ていた。でも,
「…ううん。なんでもない」
首を振って俯いてしまった。
は俯く前に俺の顎や手についた傷を見た――それがわかった。
謝ろうとしてやめたのかもしれない。
お礼を言おうとしてやめたのかもしれない。
神社の鳥居に着くまでの間ずっと,は両方の言葉を繰り返していて,俺は「もういいから」と少し
強めに言ってやった。
本当に…もうよかった。
俺だってを傷つけた。なのに,俺はまだそれを謝れていなかった。
「…」
「…」
いつもとは違う空気が,俺たちの間に横たわっていた。
それは,謝り合う前の緊張した空気にも,お礼を言い合う前の照れくさい空気にも似ていた。
どこかもどかしくて どこか寂しくて。
もっと近づきたいのに 近づけない。
もっと伝えたいのに 伝えられない。
どれだけ言葉にしても,すべてを伝えるのは無理な気がして。
幼い俺達は途方に暮れて黙るしかなかった。
それは――決して嫌な感情じゃないんだけれど。
でも,持て余す感情だった。
きっと…これが『せつない』って感情なんだろう。
の呼吸音が闇にほどけた――その時。
「!」
突然の光だった。
突然なにか大きな光を浴びて,の髪や顔や浴衣が闇の中で鮮やかに浮かび上がった。
それからドンドンドン,と威勢の良い音が神社の境内に響き渡った――打ち上げ花火だ。
離れた場所にいる皆から歓声があがった。
「…きれいだな」
「…うん」
次々と夜空に大輪の花が咲く。
赤や青や緑に黄色。さまざまな色彩の光が菊の花のように開いていく。
盛大に開いた満開の火の花が,流れ星のように散ってゆく瞬間に,またもうひとつの花が夜空に開く。
それが夜空に溶けるよりも早く,次の花が咲いていく。
「…」
「…なあに?」
同じものを見上げて,同じことを思っている…きっと。
隣にいるこいつと。
そのことが,まるで奇跡のような幸せだと思えた。
「さっき言ったこと…本当だから」
ぱっと花火が咲いて それから太鼓のような音が響く。
光が降りて来て それから音がついて来る。
光と音は一緒に走ることができない――同じところから生じるものなのに。
この世の中に,同時に存在できるものはどれくらいあるのだろう。
あまりないんだ きっと。『同時に』って。
ものすごく少ないんだ きっと。
「『は俺が守る』って。あれ,本当だから」
「!」
でも――お前とは『同時』が良いんだ。
なんでも同時が良い。
なんでも一緒が良い。
そんなの無理だってわかってる。
離れなきゃいけない時だって いつかは来るかもしれない。
それでも…一緒が良いんだ。
「今はまだ…ガキだから。今日は守れなくて…格好悪かったけど」
「ううん…そんなことない」
は手を伸ばして,俺の手をそっと握った。
傷に触れないように,そっと。
俺の手もの手も,石段の熱を吸って熱くなっていた。
俺は傷が痛むのも構わずにの手をぎゅっと握り返した。
ますます熱くなる。熱くなってゆく。
「すごく格好良かったよ,晋ちゃん」
「…」
「わたし,嬉しかった。すごく嬉しかったよ」
「…次に…こういうことがあったら…絶対絶対,守るから」
「…うん」
夏夜の熱。花火の熱。
人々の熱。石段の熱。
そして――胸にある この熱。
さまざまな熱が,俺達の体温を上げた。
「は一生俺が守るから」
だからずっと一緒にいて。
「いや間違えた!今のはナシだ!」
「ええっ!」
花火の音との叫びが境内に響き渡った(無理もない)。
眉を八の字に垂らして,は俺にぐぐっと詰め寄ってきた(そりゃそうだ)。
「ま,間違いなの?ナシなの!?」
「ちょ,ちょっと待て」
正確には『間違い』じゃない。
内容は正しいのだ。
ちょっと言い方を変えたかった。
だって…これは『ぷろぽおず』なんだから。
男として。侍として。
ちゃんと,びしっと,ばしっと言っておく必要があるのだ。
俺は咳払いをして,を正面から見据えた。
「い,一生俺が守ってやるから,ずっと一緒にいろ!」
「…」
金魚は目を点にした。
「…最初言ったのと,どこが違うの?」
「全然違うだろ」
「そうかなあ…」
「そうだ」
「うーん…」
は納得いかないって顔でしきりに首を傾げている。
…わかってないな,こいつ。『男のこけん』ってやつを。
でも,やがて「うん」と頷くと俺の方に向き直った。
石段の上は固いし熱いのに,なぜかぴしっと正座した。そして――
「ふつつか者ですが,よろしくお願い致します」
――金魚は三つ指ついて 深々と俺に頭を下げた。
+ + + + + + + + +
(…随分と懐かしい夢を見たもんだ)
夏の夕べにうたた寝をしていたら…あまりにも遠い日の夢を見た。
今となっては――あまりにも 眩し過ぎる。
そんな…夢を。
あの頃はまだ松陽先生も生きていて。
銀時やヅラとは馬鹿ばっかりやって。
すべてがあった。
すべてがそこにあった。
足りないものなんてなかった。
でも――
――気付けばいつの間にか遠くまで来たものだ。
「…」
俺は畳の上で起き上がり,窓の外を見やった。夕焼けの赤が夜空の黒へと散り始めていた。
あまりにも多くのものを失った。
あまりにも大切なものを失った。
季節の流れと共に。
命の移ろいと共に。
「晋助」
すっと襖が横に開き,浴衣姿の女が部屋へと入ってきた。
微かに響いてくる祭りばやしの音を,まるで形あるもののように女は指差して笑った。
「そろそろ出かけましょう?」
「…ああ」
俺はゆっくりと立ち上がり,女の隣に立った。
艶のある髪を見下ろしながら,俺は彼女に囁いた。
「…なあ」
「?」
女が首を傾げると,首元からうなじまでのラインがはっきりと見えた。
「…憶えてるか,『金魚』」
彼女の――の後れ毛を耳にかけてやりつつ,俺は問いかけた。
失ってしまったものも多いけれど。
こいつは 残っている。
今でも笑ってくれている。
俺の すぐ隣で。
「え?」
「…なんでもねーよ」
もうずっと前のことだしな。
俺もさっき夢に見るまでは忘れていた。
自然と忘れてしまうくらいに,こいつが傍にいることが『当たり前』過ぎて。
思えば,こいつの「晋ちゃんについていく!」は昔から今に至るまで,ずっと変わらなかった。
戦に行く時に鉢巻しめて薙刀構えて「ついていく!」と言われた時はさすがに腰を抜かしかけたが。
でも…その気持ちは素直に嬉しかった。
「憶えてるよ,『晋ちゃん』」
「!」
きゅっと手を握られてハッと目を見開くと,は照れくさそうに笑っていた。
ったく…憶えてんなら憶えてるってさっさと言えよ。
は何か思いついたかのように「あっ」と口を開き,繋いだ手を前後に振った。
「綿菓子,交換しようね」
「何度も言ってっけど,色が違うだけで味は同じだぞ」
「何度も言うけど,それでいいの。交換したいの!」
「…はいはい」
言うことなすこと昔からこいつは変わらねェな,本当に。
見た目ばっかり大人になりやがって。
金魚の尾ひれのようだった兵児帯は,今は麻絞りの半幅帯だ。
兵児帯よりも布の素材が固いから解きづら…いやいや。
邪まな方向に行きかけた思考を止め,俺は咳払いをした。
そして――繋がれた手を握り返した。
「行こっ」
大人になった金魚は いと鮮やかに笑った。
あの頃よりも ずっとずっと綺麗に。
俺達は 手を繋いで泳ぎ出した。
色とりどりの光が滲む 祭りの海の中へ。
-------了-------
2010/08/15 up...
Image Song 『夏祭り』 (Whiteberry)