恋を知るには まだ脆く
愛を知るには まだ幼い。



黙契



寒空の下,船舶の汽笛が高らかに埠頭を響き渡った。
ほんの数週間前までは,秋晴れと呼ぶにふさわしい晴天が幾日も続き,人の心まで澄んでゆくかのような
日和だったが,今は北風の吹きおろす小雪へと移っていた。
港に停泊中の鬼兵隊艦船も,初冬の薄柔らかな日差しで包まれ,沖合から寄せる冷たい潮風が,甲板に
干された洗濯物を寒々と揺らしていた。
外で午睡をとるには,風邪を覚悟しなければならない,もはやそのような季節だった。
「…」
空を背に鴎が滑空してゆくのを眺めながら,万斉は新しい旋律を胸中で組み立てようとしていた。
その曲が所謂『物語』を形作ろうとしていた時,突如耳に飛び込んできた女性達の高い声に,万斉の
物思いは中断された。

「待つっス!そんなに走ったら転ぶっスよ!」
「大丈夫!」

花弁のように音符が降り注いでくるのを感じ,万斉は沖へ向けていた目を上へと転じた。
彼のいる甲板より上部にある外廊を,2人の女性が飛び交う小鳥のように駆けてゆく――同僚である
来島また子と,そして,

「!」
「そんなに慌てなくても,大丈夫だもん。私,運動神経悪くないのよ。また子さんは心配し過ぎ」

――おそらく『女性』という言葉で括るには,まだ幾らか幼い『少女』。
そう…おそらく。

「とかなんとか言って,いっつも何も無い所で転ぶのがっス!そんなに走り回って,晋助様に怒られ
 ても知らないっスよ!」
「平気よ。晋助にい様は………あ!!」

案の定,とでも言うべきか。『おそらく,少女』であるの体が不自然な方向によじれ,派手に前のめりに
なった。転ぶかと緊張が走ったその瞬間,

「あぶねーな…」

の小さな体を,鬼兵隊頭領が抱きとめていた。柔らかく,強く。
あやすかのように,隠すかのように。あるいは――その体の線を確かめるかのように。

「晋助にい様!」
「晋助様!」

少女を転倒から守った主の名を,2人はほぼ同時に叫んだ。対して,名を呼ばれた高杉はというと,眉根を
寄せて苦笑した。

「…女がそんなに所構わずばたばた走り回るもんじゃねェ。いつも言ってんだろうが。もう少し
 おとなしくしろ」
「ごめんなさい…」
「ほら見ろっス。怒られた」

腰に両手を置いて笑うまた子に,は尻尾を握られた猫のような声をあげた。

「ま,また子さんだってしょっちゅう走り回ってるじゃない!」
「当たり前っスよ。わたしは戦闘要員なんだから」
「それはそうだけど……晋助にい様!」

切り返されると一瞬小声になったが,一転気を取り直したように明るい声で,は高杉を見上げた。
小さな手で彼の袖を握り,

「晋助にい様,こちらへ来て!」
「なんだ?」
「早く!こっち!」

彼は,日頃の彼からは想像すらできない程に柔らかく眦を緩めて,袖をの手に引かれるがままに
歩き始めた。何とは無しに,万斉もまた彼らの進む方へと歩を進めた。海鳥の声が潮騒の上で響き渡り,
冴えた海風が彼らの着物の袂や包帯を揺らしていた。

「ほら,あそこ。黒い鳥がいるわ」

元いた場所とは反対側の,切り立った崖の見える位置で止まり,は岩場の方を指差した。
言われたとおりに,いや自分が言われたわけではないのだが,とにかくそのとおりに,万斉は岩場へと
視線をやった。しかし,波が黒い岩場を打ちつけ,白く砕け散ってゆくのが見えるだけで,彼女の言う
『黒い鳥』を見つけることはできなかった。

「ああ…ありゃ黒鷺だな」

高杉は既に見つけられたらしい。自分よりも先に彼が見つけた――それに対して,子供じみた嫉妬心を
覚えた自身に,万斉は少なからず驚いた。
(悔しがることでもなかろうに)
なぜ一瞬でもそのような感情が湧いたのか,自分でもよくわからなかった。ただ…

「くろさぎ?黒いのに鷺なの?前に見た鷺は白かったわ」
「ああ。それは白鷺だ。鷺にも色々いるんだよ」

…ただ,の示したものを,すぐに見つけられる高杉が,少しうらやましかった。
そして,見つけられない自分に,少しだけ苛立ちを感じた。それだけだ。

「え?どこにいるんスか?」
「ほら,あそこ。岩をついばんでるわ」
「ええ?…わかんないッスよ」

2人共目ェ良いッスね,などと同僚が驚いているのが聞こえてくる。万斉は岩場から目を外し,3人が
いる方を見上げた。はおそらく微笑みを浮かべながら,背伸びをして高杉の髪を指差した。

「あの羽,漆黒でとても美しいわ。晋助にい様の御髪の色と一緒」

高杉は口角を緩め,少女を片手で抱えあげた。腕に抱かれたは,高杉の髪を幼い手つきでぽんぽんと
撫でた。男の髪を梳いて甘える女の手つきでは,まだなかった。

「あれを…黒鷺を早くお見せしたくて」
「だから走って来たのか」
「ええ。飛んでいってしまうかもしれないし」

もし,の顔が見えていたのなら,高杉は彼女に口付けをしていたかもしれない。
しかし,生憎そうではなかった。
彼女の顔は――決して見えない。
しかもそれを望んだのは,ほかでもない高杉自身だ。

「いいコだ」

高杉は接吻する代わりにとばかりに,を強く抱きしめた。
も,ぎゅっとしがみ付くように高杉を抱きしめた。
万斉は抱擁する2人から目を逸らした。なぜだろうか…見るに耐えなかった。
しかし,いくら視線を転じても,少女のもつ『音楽』は,花弁が零れてゆくかのような儚い音は,決して
消えない。人の心の音が聞こえるという自分の特性が,この時ばかりは恨めしかった。
万斉は,気を紛らわせるために,岩場にいるはずのクロサギを再び探してみたが,結局のところ鳥を見つ
けることはできなかった。そして――

(晋助はあの少女に一生包帯を巻かせているつもりなのでござろうか…)

――包帯の下にある,の素顔を見ることも叶わなかった。
鬼兵隊の総督は,ゆるさなかった。
少女が自分以外の人間に顔を見せることを。


+++++++++++++++++++++++++


男が少女を自分の理想通りの女性に育てあげる。
支配欲の強い男なら一度は夢見る恋愛の形だが,実際に源氏の君のそれを行うには,様々な条件が必要
であろう。
男がある程度の財力と権力を持っていること,少女に憧憬と敬意を抱かせる才覚を持っていること,
そして――少女が女になった時,離れてゆかぬよう洗脳しておくカリスマ的な魅力を。
幸か不幸か,高杉はそれらすべてを持ち合わせている稀有な男だった。

「万斉さん」
「…ん?何用でござるか,武市殿」

同僚に話しかけられたことで思考が現状へと帰ってきた。常日頃から奇怪な…もとい個性的な音楽を
発しているこの男・武市は,深酒をしているのか顔が赤い。
鬼兵隊は懇意にしている神社の秋祭に招かれ,通常ならば挙式等で使用される建物内で,酒を振る舞わ
れていた。我らが首領は,この国においていまだ信仰の対象であり続けている神社仏閣との繋がりを
重視し,もちつもたれつの関係を築いている。そのため,こういった祭に呼ばれることはしばしばある。
無論,決して表沙汰にはされないが。

「いえ,ね。今日のあなたはなにやら考え込んでいるご様子なので。何かあったのかと思いまして」

そう言いながら,武市は少々ふらつく手つきで万斉の杯に酒を注いだ。万斉はそれを危なげなく受け,
武市の持つ銚子を取った。彼の杯へ酒をつぎ返しつつ,

「いやなに。少し気にかかることがござってな…しかし,今更気にすることではござらん」
「と言いますと?」
「あの娘…殿のことでござる」

黄檗色の銚子を床に置き,万斉は少女の方へ視線をやった。
は常日頃と同じく包帯を頭部に巻きつけていた――髪の色や長さすらも知りようがない。
目や口など必要最低限の部分以外,隙間なく巻かれたそれは,彼女に対する高杉の執着心を表して
いるかのようで。

「晋助があの娘を傍に置き始めてどのくらい経つか…」
「さて…ほとんど鬼兵隊結束時からいますね。あの時はまだ十歳くらいでしたね,彼女は」

初潮もまだ迎えていない少女を自らの手元に置くと総督が言った時,気でも狂ったのかと思った。
高杉の言によると,とは偶々立ち寄った小さな村で出会い,貰い受けてきたのだという。
は両親を亡くし,身寄りもなく,村の人間から酷な扱いを受けていたのだそうだ。
高杉が「俺と共に来い」と手を差し出したところ,それほど迷う素振りも見せず,彼の手をとったとの
こと…村でどれほど辛い仕打ちを受けていたのかは,想像するに難くない。
高杉は彼女を連れて行く理由を「末の妹に似ている」と言っていたが,その言葉が本当かどうかはわか
らない。
万斉は高杉の妹を見たことはあったが,少女の顔を見ることはかなわなかった。
高杉は少女に顔を晒させなかった。
彼女を万斉達の前へ連れてきた時から,高杉はの顔に包帯を巻かせていた。

「私も気になっているのですよ,子供好きのフェミニストとして。高杉さんがあれほどまでに隠そうと
 する少女のお顔を。どんなにか美しいのでしょうね。きっと陶器のごとく滑らかな白い肌で,カラスの
 濡れ羽色の髪で,汚れを知らぬ無垢な瞳に,熟れた苺のような唇で…」
「武市殿。ぬしが言うと何故か淫猥に聞こえるでござる。晋助に聞かれたら斬られるでござるよ」
「いやしかしね,羨ましい限りですよ。私も一度はやってみたいです。少女を自分の理想通りに育て…」
「武市殿。ぬしが言うと何故か悍ましく聞こえるでござる。また子殿に聞かれたら撃たれるでござるよ」
「いえ,私だって実際にはやりませんよ。私には,高杉さんや光源氏のような力も才覚もありませんし。
 もとい,出来る条件の揃った少女も傍にいませんからね」
「まあ…そうでござろうな」

万斉は武市の言葉に頷き,杯に残る酒を一口で飲み干した。熱を抱く喉に酔いを感じつつ,包帯の少女を見る。
(あの娘が高杉の『若紫』か…)
源氏となる男だけでなく,若紫となる女にも,様々な条件が揃っていなければならないであろう。
少女を慈しみ育ててくれる身近な親族,血の繋がらぬ男を兄として慕うことに対する疑念,
そして――兄が男になった時,離れようともがき抵抗する本能的な反抗心を。
幸か不幸か, はそれらすべてを持ち合わせていない稀有な少女だった。

「なーに男2人で飲んでるんッスか!暗いッスよ!!」
「また子さん」
「また子殿」

跳ねる猫のような足取りで,また子が近寄ってきた。彼女もまた既に酔っぱらっているらしく,普段よりも
顔が赤くなっている。

「また子さんも見たことないのですよね?殿のお顔」
「当たり前ッスよ!の顔は,鬼兵隊七不思議の1つッスからね!」
「いや他の6つは何でござるか」
「知らないッス!」
「おや珍しいこともあるものですね。また子さんがボケで,万斉さんがツッコミとは。また子さん,あなた
 飲み過ぎですよ」
「え~そうッスかね?」

武市がまた子の手から徳利を奪い,畳に座るよう手で示す。また子は特に反発をするでもなく,いたって
素直にそこに座った。座敷全体が酒と笑い声で満たされ,ここが神事を行う場だということを忘れかけそ
うになる。まあ,高価な酒を何十本も奉納したのだし,お互い様……ということにはならないか。

「しかし,いくら目や口の部分にはわずかな空きがあるとはいえ,あの包帯では物を食べるのも一苦労で
 しょうね」
「大丈夫みたいッスよ。わたしもに同じこと言ったんスけど,『もう慣れた』って」
「そうでしたか。それにしても,本当にどんなお顔なのでしょうね…。隊員達の間でも色々と噂になって
 いるのですよ。『小野小町をも凌ぐ美女なのではないか』とか『本当は舶来人なのではないか』とか。
 あと『本当は火傷で見る影もない顔なのではないか』という憶測もありますよ」
「武市変態,ダメッスよ。は晋助様のものッス。晋助様のへの執着は並大抵のものじゃないん
 スから。そういう噂をされているって知ったら,晋助様は気分を害するッス」
「まあ,そうでしょうけれど……万斉さん?」
「どこへ行くんスか,万斉先輩?」

2人共酔っぱらっているので,何も言わずに立ち去っても平気かと思っていたが,そうはいかなかった。
たとえ酔ってはいてもそこはさすがだ…人の動作には敏感な奴らだ。立ち上がった万斉は苦笑し,

「なに。少々酔ってしまったゆえ。外の風に当たってくるでござるよ」
「そうですか。もう他の参拝客もいないとのことですが,油断はなさらないように」
「ああ。承知しているでござる」
「いってらっしゃーいッス!」

2人の声を背中に受け,万斉は片手を上げた。座敷の外へ出て,襖を閉めようとした時,高杉との
姿が目に入った。
『男女』というにはまだ早い『男と娘』は,幸せそうに歪んだ殻の中に閉じ籠っていた。


+++++++++++++++++++++++++


紫がかった秋の夜闇の中,銀杏の葉が蝶の群のように舞い降りてゆく。鬱金色の蝶々は,冷たい木枯らしに
乗って境内の白砂へと還り続ける。風の音以外ほぼ無音であるはずなのに,銀杏が舞うたびになにかきらきらと
した音が辺りに響いているような気がした。
(見事な紅葉でござるな)
霜の予感を抱かせる北風が,酒で火照った頬に心地よかった。

ふと一曲弾きたい気分になった。

万斉は背に負っていた弦楽器をおろし,黄色い老蝶が飛び交う中でその三味線を抱えた。己の黒い靴底の下で,
玉砂利が歪な音を立てるのが聞こえた。静寂の中で,鹿威しの音が伝わってきた瞬間,万斉は弦を弾いた。

――気が狂ったのだと思った。
あのような幼子を引き取るなど。
それも…情婦として。

朔風が木々の葉を払い落とし,紅と鬱金のさざなみが弦の音と共に踊る。
万斉が音を紡ぎ出すたびに,目には見えない弦がそこらじゅうに張り巡らされていくかのようだった。
それは,透明な蜘蛛の巣のようでもあり,紅葉の蝶を絡めとるかのようだった。

幼子の何が高杉を煽ったのかはわからないが,狂気に堕ちたのだとしか思えなかった。
しかし…元より正気など保っていないのだ。
我らが首領は。そして,我々も。
鬼のごとき強さと引き換えに,正気を差し出した集団なのだ。

(あの娘を愛でることで,一瞬の安らぎにでもなるならと…)

狂気の最中の。

(それなのに…何故,今になって気にかかる?)

そう自問した――その時。
自分の足元ではない場所から,砂利を踏む音がした。

「!」

万斉は咄嗟に身構え,ほとんど反射的に三味線の中に仕込んだ刀の柄を握り締めた…が,すぐに警戒を
解いた。人の気配はするものの,殺気が全く感じられなかったからだ。いや,むしろこちらが身構えた
ことに対して怯えているかのように,その気配は萎縮していた。
(はて…寺の雛僧でござろうか?)
今この境内には,鬼兵隊と寺の関係者しかいないはずだ。驚かせてすまなかった,と謝罪するつもりで
万斉は音のした築山の裏へと回った――が。

「おぬし…」
「…っ」

そこに蹲っていたのは少女だった。
こちらに背を向け,長く重たげな黒髪が彼女の顔を完全に隠していたが,着物の柄に憶えがあった。
それに――この『音』は。

「殿,でござるな?」
「…」

震える細い肩が「見ないで」と強く訴えていた。
無慈悲な風が少女の髪をさらさらと流し,顔を晒そうとでもしているかのようだったが,少女は自身の
手のひらで顔を覆うことでそれに耐えていた。

「巻いていた包帯はどうしたでござるか」
「……虫が」

万斉の問いかけに,は一瞬の躊躇の後に答えた。
無理もない――高杉以外の男と言葉を交わすのは,彼に引き取られて以来初めてのことだろう。

「虫が,包帯の隙間から入って来て…それで…」
「…なるほど」

高杉と話している時とは打って変わって,強張った声音だった。それでも,万斉は自身の胸の高揚を
感じていた。それは,今まで考えつかなかった旋律が突如頭に降りてきた時の感覚に似ていた。

「そのまま歩けば,人に見られよう」

高揚を隠そうと唾を飲み込めば,自分でも思った以上に喉が鳴った。

「ぬしはそこに居るでござる。拙者が代わりの包帯を持って来る」
「…本当?」

疑いの含まれた硬い声の中に,微かに期待が込められているのが聞き取れ,さらに万斉の熱が高まった。
そして――どうしても見てみたくなった。

「ああ」
「ありがとう……あっ」

――心音が波立った。
黒髪が舞い踊った時,少女の顔を覆っている小さな手を掴み上げた。自分でも思った以上に荒々しい
手つきになってしまったことに万斉は一抹の罪悪を感じたが,それよりも圧倒的に欲が勝った。
それが好奇心なのか,性欲なのかははっきりしなかった。
は驚きと怯えの入り混じった叫び声をあげたが,何の意味も為さなかった。

「!」

泣いている――

「いや…!」
「隠すな」

――違う。
少女は泣いてなど,いない。
万斉は袂で顔を隠そうとする少女の手を握りしめ,まじまじとその潤んだ双眸を見つめた。

「やめて…!」

初めて見たその瞳は「涙を湛えているのでは」と,見る者にそう勘違いをさせる程に潤いを含んで
いて,まるで海水に濡れた黒真珠のようだった。包帯で顔を覆っているのは,この眼を隠すためなの
だということが一瞬にして知れた。
まだ化粧を知らない無垢な膚は,咲いたばかりの白百合のようだ。煌々と月の輝く夜空の色をした
長い黒髪が,白百合の肌に流れ落ちている。そして…

「すまぬ。つい,な…」
「ひどい…!」

これは自分にしかわからぬ感覚なのだろうが…
…この少女が奏でる旋律に,瞬く間に心の臓を絡め取られた。
それは,とても透き通った高音で,どこにも乱れは感じられないのに,どこか脆さや危うさを抱えた音
だった。また,少しばかりの残酷さを含んでもいた。無邪気に笑いながら,軽やかな足取りで他人の心を
踏んでゆくかのような。純粋であるがゆえに「堕ちて」ゆく…そんな音の持ち主だった。

「…ひどい」

相当動揺しているのか,は同じ言葉を繰り返した。
言葉を発すれば発するほどに,純粋で残酷な旋律が,濡れた双眸から溢れ出て来る。
眉間に皺を寄せ屈辱に耐えている表情は,まるで破瓜の痛みを堪えているかのようで――
――ああ,自分は間違い無くこの少女に欲情しているのだ,と万斉は確信した。

「晋助にい様には…言わないで」

少女の唇から懇願の科白が零れた時,今すぐにでもこの華奢な体を押し倒してやりたいという激しい
衝動に駆られた。ようやく思春期を迎えようとしている少女の身体からは,およそ肉感的な色気など
微塵も感じられない。また,いつの時代にも常に現れては消えてゆく「可愛い」と形容される小娘達
のような,砂糖菓子じみた甘ったるい雰囲気も無い。は憂いのある冷たい空気を纏っていて,
ある種の「不思議さ」というか「妖しさ」を放っている少女だった。

「…叱られるわ」
「晋助にか」
「…」

当然だろうと言わんばかりに目を吊り上げ,は万斉を臆することなく睨んできた。
なるほど,高杉に対しては従順なようだが,誰に対してもそうというわけではないらしい。
誰にでも変わりなく笑顔を向ける娘ではないらしい――
――だが,この『音』は。

「黙っていても良い」

この『音』は,おそらく自分にしか聞こえぬだろう…が敬い慕う男にさえ,聞こえまい。
とても高く澄んでいる…この少女の体から滲み出てくる音は。
花の蕾が,その内側に香りを閉じ込めておけないように。
匂い立つように,少女の内から音楽が零れてくる。
自分にしか聞こえまい。
でも,まだそれにはっきりとした音程を与えることができない。

「本当?」
「ああ。ただし,」

この美しく清廉された音を,己が所有できたなら――

「ただし,1つ条件があるでござる」

――この音を,書き留めたい。

ひとりの男としての欲なのか,それとも音楽家としてのそれなのか。
どちらとも言い難く,どちらとも言える欲に突き動かれ,万斉は少女に『条件』を告げた。