こすずめハミング
乳白色に霞んだ空の下で,咲き始めの桜がさらさらと風に揺れていた。
薄いベールに覆われたかのような浅春の空が,淡紅色の花弁を咲かせた枝の向こう側に垣間見える。
桜も蕾を解き始めているというのに,空気の冷たさは今もなお根強く残っていた。
春らしくない冷風に身をすくめながら,土方は屯所内の庭沿いの廊下を歩いていた。
足を踏み出すたびにぎしぎしと音を立てる木床は,雑巾掛けをしたばかりなのか,陽光を浴びて白々
と光っている。
その床の上に,ひらりと桜の花弁が一枚だけ舞い降りた。
(…春だな)
まだ寒ィけど,と胸中で呟きつつ煙草を取り出した。しかし,
「ん?」
制服の袖口がほつれているのが目に入った。
気付かない内にどこかに引っ掛けてしまったのだろうか。
大したほつれではないが,『副長』という立場上あまりくずれた格好をするわけにもいくまい。
もっとも,土方自身はこのような小さな服装の乱れには然程頓着しない。
だが,彼とほぼ同じ立場にいる『参謀』は,こういうことを非常に気にする性質の人間である。
決して――決して張り合うわけではないが,こんな些細なことで<所詮は田舎出の武士気取りだな>
などとあの参謀に言わせるきっかけを与えるのは,どうにも癪だった。
まァなんにしろ……こういうのは,気付いた時に縫い直しておくのが一番だ。
(誰に頼むかな…)
食堂のおばちゃんの顔を思い浮かべ,早速頼みに行こうと方向転換しようとしたその時ー―
……~♪…~♪
「…?」
微かな鼻歌が耳をくすぐった。
それはまさに『耳をくすぐる』という表現がぴったりの,小さくて控えめで柔らかい声だった。
ふわふわと風に流れる雲を思わせる,のんびりとしたリズムで。
男所帯の屯所にはあまり似つかわしくない,なんとも牧歌的なメロディだった。
「…」
その鼻歌の方へ,土方の足先が自然と向く。
廊下を曲がったところで,1人の女中がしゃがみこんでいるのが目に入った。
彼女は両膝をつき,手にした雑巾で木床を丁寧に磨いている。
――歌の出所は彼女だった。
雑巾掛けに精を出しながら,なんとも気持ち良さそうに鼻歌を歌っている。
(…名前は何だったか?)
普段,会話をしたことの無い女中だった。
だいぶ前から見かけている顔なので,わりあいに長い間屯所で働いている,ということはわかる。
それにも関わらず―長期間働いてくれているというのに―名前が出てこない。
それどころか声らしい声を聞いた憶えが無い。
今鼻歌を聞いて,初めて彼女の『声らしきもの』を認識した。
全く言葉を交わしたことのない女中に繕い物を頼むのを,土方は一瞬だけ躊躇った。
しかしそれは一瞬のことで,次の瞬間にはもう「まあいいか」と思っていた。
「おい」
「…!」
土方が声をかけると,細い肩が大げさな程にびくりと跳ねた。
彼女は雑巾から手を離し,恐々と土方の方を振り返った。
――歌はぷっつり途切れていた。
「あーと…」
「…」
無言でこちらを見上げる目が「何の用か?」と問いかけてくる。
その目には,『怯え』や『緊張』といった類の色が仄暗く滲んでいた。
――男が苦手なのだろうか。それとも…土方が怖いのだろうか。
ひょっとすると両方なのかもしれない。
思い返してみれば,彼女が隊士の誰かと話をしているのを,土方はついぞ見たことがなかった。
胸中で<やはり別の人間に声をかけるべきだったか>と苦虫を噛みつぶし,
「…これ,縫ってくれねーか?」
「…」
土方がほつれた袖口を示すと,彼女はぴくりと目の下を震わせた。雑巾を手にとってバケツに入れ,
前掛で自分の手をささっと軽く拭いた。
そして,やはり無言のままスッとこちらに手を伸ばしてきた…<上着を寄越せ>ということだろう。
その愛想の無い仕草に,土方はこの女中に声を掛けたことを再度後悔した。
煩い女は好きではないが,ここまで無口でだんまりな女も…
(いや…うるせェ女よりは大分マシか)
土方はそう思い直し,さっさと上着を脱いで彼女に手渡した。彼女は両手でそれを受け取ると,懐から
小さな裁縫道具を取り出した。
「すぐに出来るか?」
土方の問いかけに,彼女は黙って顎を引いた――先程から全く目線を合わせようとしない。
彼女は縁側に移動して,そこに縮こまって座り,ちくちくと針と糸を動かし始めた。
その隣に…少し間を空けた隣に,土方も座った。
ライターをポケットから取り出し,煙草に火をつける。
深く吸い込んで吐き出すと,白い煙は淡い色の春空に立ち昇っていく。
煙を彼女が気にするかと思ったが,そういった様子は全く無く,ただ黙々と針を動かしている。
風下はこちらの方だから,まァ良いだろう。土方はそのまま煙草を吸い続けた。
そうして2本目の最後の灰が土に落ちた時,
「…どうぞ」
蚊の鳴くような声が,隣から上がった。
ぼんやり空を眺めていた土方は,ハッと我にかえって声の方を見た。
彼女のちゃんとした言葉(といっても随分小声だが)を聞いたのは,これが初めてだった。
丁寧に縫った袖口を控えめに指で示して,女中はそっと上着を差し出してきた。
「…おーサンキュ。悪かったな,掃除中に」
「…」
俯いたまま,彼女はふるふると首を横に振った。きれいに切りそろえられた前髪が,小さく踊る。
ここまで徹底して視線をそらされると,いくら他人から怖がられることに慣れているとはいえ,決して
気分の良いものではない。
何か悪いことをしたわけでもないのに,どうにもばつが悪くなってきた。
土方は手渡された上着にさっさと袖を通し,
「…じゃあな」
お互いの心の平安のためにも,一刻も早くこの場を離れるべきだと思った。
彼女に背を向けて,ボタンをかけながら歩き出した――だがしかし,
「ぁ…!」
小さな悲鳴が背後から上がったことで,足を止めざるを得なくなった。
ほぼ反射的に振り返ると,声をあげた張本人の彼女が廊下の隅にしゃがみこんでいた。
「どうした?」
どこか怪我でもしたのかと思い,再びそちらへ近づいた。彼女はうずくまったまま,ある一点を見つ
めていた。怪我を負ったわけではないらしく,か細い声で口を開いた。
「…雀が」
「すずめ?」
予想外の単語に首を傾げつつ,彼女の視線の先を追った。すると,
「…げっ」
廊下の隅に仕掛けられた鼠取りシートに,小さな雀が一羽はり付いていた。
強力な粘着シートに羽や足を捕らわれた雀は,苦しそうにじたばたともがいている。
しかし,もがけばもがく程さらに羽ははり付いてしまい,痛みが増していっているように見えたし,
自由を奪われていっているようにも思えた。
「…かわいそうだな」
鼠をとるためのシートは,接着剤と同じくらいに粘度が強い。無理にはがすわけにはいかない。
土方は雀ごと鼠取りシートを持ち上げ,
「糸切りバサミ,貸してくれ」
「あ…はい」
女中は土方の考えを瞬時に理解したようで,素早く懐から裁縫セットを取り出し,糸切りバサミを
こちらに手渡してきた。土方はその小さなハサミで,粘着シートにくっついてしまった羽を慎重に
切っていった。その最中にも雀は必死にもがき続けるので,それを押さえながらハサミを動かした。
そしてその間,彼女が心配そうな表情でこちらを見ているのが,土方の目の端に映っていた。
シートと雀を切り離した時,雀は既にぐったりしていた。
もう抵抗する気力もないのか,土方の手のひらの上でその身を横たえている。
胸のあたりが上下しているため,まだ生きていることは確実だが,体中に粘着物がまとわりついて
おり,すっかり衰弱しきっている。さらに,
「…足の形がおかしいな」
「…!」
隣で彼女が息を呑むのがわかった――雀の右足は,ひどく不自然な方向に歪んでいた。
にわかに日が翳り,うすぼんやりとした影が土方たちを覆った。
冷淡な風が,静かに庭を吹き渡る。
「このまま離しても死んじまうな」
「…」
土方の言葉に,女中はきゅっと唇をかみ締めた。
決して騒ぎ出すような素振りは見せない。
しかし,眉間に深く皺を寄せて,睨む程に強い視線で雀をじっと見つめている。
――その表情が,泣き出すのを我慢している幼子のように見えた。
「ガーゼのタオルを持って来い」
「…?」
「鳥は体温高ェんだ。人間の手でいつまでも持ってたら体温奪っちまうだろ。タオルにくるめ」
「…え?」
「さっさと連れてくぞ,動物病院」
「!」
彼女の目が,大きく見開かれた。
驚きを隠せない様子で,彼女は忙しなく土方と雀とを交互に見た。そして,
「あ…ありがとうございます」
「!」
相変わらずの小声だったけれども,その声音はとても澄んでいた。
ほっと息をつくように微笑する彼女は,最初の印象よりもずっと…なんというか…『良い』。
「…」
ぱたぱたとタオルを取りに行く彼女の後ろ姿を,黙って見送る。
それから彼女が戻ってきた時に,土方は雀をタオルで包みながら,
「なあ…悪ィんだけど」
「…?」
「名前,何だっけ?お前の」
訊きたくなったことを,尋ねた。
こういう訊き方をするのはどうかとも思ったが,他に言葉が思いつかなかったので,率直に訊いた。
そんな土方の質問に対して,彼女は面食らったように目を瞬かせた。
「…」
「すまねェな」
「…いえ」
ゆっくり首を横に振り,静かに笑って――彼女は名前を教えてくれた。
小さくて柔らかな,その声で。
……~♪…~♪
春風に乗って鼻歌が聞こえてくる。
「」
土方がその名を呼ぶと,彼女は――は鳥籠から目を上げてこちらを見た。
「あ……こんにちは」
穏やかな声で挨拶を紡ぐの前には,木作りの鳥籠が文机上に置かれている。
そしてその籠の中で,右足に添え木をなされた雀が,ちょこちょこと動き回っている。
土方に雀をよく見せるようにするためか,は体の位置を少し横にずらしてくれた。
柔らかな風が,開け放った障子の向こう側から流れてくる。ほのかな畳の匂いが,ゆるやかに溶ける。
「…機嫌が良さそうだな,」
「…え?」
「鼻歌。歌っていただろ」
「あ…」
にやりと笑って言ってやると,は自身の頬を両手ではさんだ。恥ずかしそうに俯いて,
「…昔からの,癖で」
「わかりやすいな」
「…」
土方のからかいの言葉に,はますます縮こまった。けれどもそれは,以前のような『怯え』が
原因の萎縮とは異なっていた。ほんのり赤く染まった頬が,その証拠だ。
喉の奥で笑いつつ,土方はの隣に座った。それから籠の中を覗き込んで,問いかける。
「どうだ?雀は?」
「あの…えっと…餌を,食べてくれるようになりました。自分で」
「へえ。そりゃ良かったな」
の経過報告に,土方は軽く頷きながらも内心ではホッと胸を撫で下ろしていた。
というのも,雀はつい最近まで頑として口を開いてくれなかったからだ。
先日つれていった動物病院の獣医いわく,野生の鳥ならばむしろそれが普通らしい。
本来野生の鳥は,人間の匂いのする食べ物を警戒し,なかなか食べないのだそうだ。
しかし食べさせないことには,この雀は衰弱していずれ死んでしまう。
獣医の言もあり,これまでは無理にくちばしを開かせて食べさせていたのだが…にとって,それは
心の痛む作業だったようだ。ほとんど抑えこむようにして餌をやっている時,彼女はいつも辛そうな
表情をしていた。
だから,雀が自分から餌を食べるようになってくれたということは,非常に喜ばしい知らせだった。
「よかったな」
「はい…足は,まだ痛そうですけれど」
「…人間に懐き過ぎねーようにしねェとな」
冷たく聞こえぬよう注意しつつ,なるべく温和な口調を心掛け,土方は言った。
野鳥を飼うことが法律で禁止されている以上,いつかは離さなければならない。
必要以上に人間に懐いてしまっては,もう2度と野生に戻ることができなくなるだろう。
土方の言葉に対して,は静かに頷いた。
「…それが,この子のためですよね」
呟いたの瞳には,優しさと寂しさが交じり合っていて,自分自身に言い聞かせているかのよう
だった。雀を見つめる彼女の双眸は,春の月のように淡い光を湛えている。
は――極端におとなしい娘だった。
男と話すことに全く慣れておらず,それどころか『男』という生き物に対して恐怖を感じているらし
かった。
それでも少しずつ…ぽつりぽつりと自分のことについて,彼女は土方に語ってくれるようになった。
父親を早くに亡くし,家族は母と妹の女のみであり,屯所で働くようになる前までは,男と接する機会
自体がほとんど無かったのだそうだ。
しかし<ならば何故よりにもよって男所帯の真選組を働く場所に選んだのか>と問えば,<給料が
良かったから>と,案外たくましい答えが返って来た。
土方と一緒に話をする時,はどんなに小さなことでも,考え考え言葉を口にしているらしかった。
そのせいで話す速度はえらく遅かったけれども,一生懸命考えながら,必死に話そうとしてくれている
様子は,とても健気だった。だから,どれほど会話のペースが遅くても,土方は平気だった。
『いじらしい』と。そう思えた。それに――
「…だいぶ慣れてきたよな」
「はい…もう何度も,掃除してますから」
鳥籠の掃除をしながらは答えたが,土方は首を横に振って笑った。
「バーカ。そうじゃねーよ」
「…え?」
掃除の手を止めて,はきょとんとして土方の方を見た。
「が,俺に。俺に慣れてきた」
「!」
籠の中のこすずめが,軽やかに弾んだ声でさえずった。
まるで2人を揶揄するかのように。
「…やっぱりまだみてェだな」
「…」
固まってしまったを横目に,土方は短く笑った。
彼女は眉を八の字に垂らし,言葉を出さずとも相当戸惑っていることが容易に窺えた。
何も話さなくても,言葉を交わさなくても――『楽しい』と。
そう思える相手なんていやしない,と思っていたのだが。
「笑ってばかりだ。お前といると」
「…」
土方のその言葉に,は一層困ったように俯いた。
けれども小さな唇の端がほんの少し上がっていて,困惑しながらも喜んでいるようだった。
慈しむ気持ちが自然と胸に湧いてきて,土方はの頭を撫でた。
は丸々と目を開いた後,照れくさそうに,そして嬉しそうに頬をほころばせた。
春の日差しの中,こすずめの鳴き声が畳の部屋に可愛らしく響きわたった。
『それ』は,ほんの数日後に何の前触れもなく起こった。
急ぎ局長室へ行くため,土方が屯所の庭を突っ切ろうとしていた時,
「あんた,口が無いんですかィ?」
鋭い声音が耳に入ってきて,急いでいることも忘れ土方は足を止めた。
(総悟?それに…)
声のした方を見ると,多くの物干し竿が空間を横切る洗濯場で,一番隊隊長と内気な女中が向かい
合って立っていた。2人の雰囲気はお世辞にも良いとは言えず,沖田にいたっては苛立った様子を
隠しもせず,の前で大きく溜息をついた。沖田のその仕草に,の肩が微かに震えた。
「…」
「無視かィ?」
「ち,違…」
冷たい言葉を叩きつけられ,は必死な面持ちで首を横に振った。
(一体何事だ?)
不穏な空気に土方は眉を潜めたが,その原因は次の沖田の言葉ですぐにわかった。
「人のもん破いといて謝りもしねェとはどういう了見でィ」
沖田はの目前で,赤い布切れをひらひらと振ってみせた。
それは,沖田が日頃から使っているあの『ふざけたアイピロー(土方談)』だった。
よく目を凝らして見てみると,そのアイピローの丁度真ん中が派手に裂けているのがわかった。
「…ごめんなさい」
今にも消え入りそうな声では謝ったが,沖田は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「…暗ェ女」
(…!総悟の奴!)
かっと一気に頭へ血が上った。
腸が煮えくり返る思いだ――自分が侮辱されたわけでもないのに。
しかし,彼女をなじる言葉を吐く沖田の方も,どこか傷ついているような表情をしていた。
愛用している物をに破かれたことは,あくまで怒るきっかけだったに過ぎないのだろう…多分。
それよりも,彼女が自分を怖がっていることに対して,沖田は強い苛立ちを感じているように見えた。
そして…少々傷ついているようにも見えた。
常日頃あれ程ふてぶてしいくせに,それでいてかなりナイーブなところもある男なのだ。
「人形みてェだな,あんた」
「…」
温度の無い沖田の言葉に,は前掛をぎゅっと握り締めて俯いている。もう顔を上げることができ
ないようだった。土方もこれ以上黙って見ていることはできず,2人の方へ歩き出した――が。
「あれ?」
きょとんとした沖田の声が庭に響き,
「…え?」
恐々と震えたの声があがった。
沖田はしげしげと彼女の左肩あたりを見つめ,
「おい。あんた,肩んとこにカナブンがついて…」
「え?………!!!!」
――空気が静まり返った。その直後,
「いっ……いやああああああ!!!!」
「っ!?」
(なっ!!??)
きーん…と耳をつんざく悲鳴があたり一面にこだました。
薄い窓ガラスならば,声の振動だけで軽く砕けてしまうのではないだろうか。
そう思える程のすさまじい声量に驚愕し,土方は両手を両耳に押し当てた。
何が起こったのか,誰が叫んだのか,しばらくわからなかった。しかし,
「とって!とってください!とってぇぇぇ!!!!」
「なっ…ちょっ…」
(!)
が沖田に泣きついているのを見,土方は目を見張った。
普段の彼女からは想像もできない大声で叫び,は沖田に身を寄せている。
(…!!!)
抱きついているわけではない。密着しているわけでもない。
ただ,その細い体を『近づけている』に過ぎない。
けれども互いの体温をほのかに感じ合えるくらいの…近い距離。
もっとも,そんなことなど今のの頭には全く浮かばないのだろう。しかし,沖田は珍しく慌てた
様子で目を瞬かせた。
「お,おい…っ」
しかし動揺しながらも,その身を引こうとはしないし,彼女を遠ざけようともしない。
(…)
――土方は奥歯をかみ締めていた。
歯茎から血が滲みそうになる程に。
怒りにも悲しみにも似た…けれどもその両方と微妙に異なる『感情』が,皮膚の下で燻っている。
自尊心をひどく傷付けられた時のような。
気をゆるした人間に裏切られた時のような。
腹立たしくて,悲しくて,そして…苦しい。
「お,落ち着きなせェ。もう飛んでった」
「…ほ,本当に?」
「本当でさァ」
「…」
はびくびくと自分の肩を見,そこに何もついていないことを知ると,ホーッと溜息をついた。
そして,自分が沖田に近づきすぎているということに気付くと,すざっと素早くその身をひいた。
取り乱しているところを見られて恥ずかしいのか,それとも我を忘れて男にとびついたことに照れて
いるのか,は頬を真っ赤にしている。
「……す,すみません」
「いや…まァ別に」
沖田はというと,然程満更でもない表情で頭を掻いている。それから,
「あんたさ…虫が苦手なんだねィ」
「…」
こくこく頷くを見て,沖田は興味深そうに彼女の顔を覗きこんだ。
「…面白ェ」
新しいオモチャを見つけた子供のような顔で,沖田がにんまりと笑った。
「…え?」
対するは首を傾げ,先程とはうってかわって機嫌の良さそうな一番隊隊長をみつめた。
(…)
背後から風が吹いてきて,土方の髪の毛や制服の裾を翻した。
ざわざわと木々や草葉が揺れ動き,ヒヨドリの騒々しい啼き声が空を引き裂いていく。
風に煽られた髪が目に入りそうになり,チッと舌打ちし――はっとした。
「…どうかしてんな」
ただの春風を煩わしく感じた自分に対し,土方は頭を垂れて息を吐いた。
――溜息は,影色の土の中へ沈み込んでいった。