日差しもすっかり温かくなって,空気も随分と穏やかなものになってきた。
待ち望んでいた本格的な春がいよいよ到来したかといった時分――

「きゃああああああ!!!!」

最近ではほとんど毎日,少なくとも1回は名前1の叫び声が屯所に響き渡るようになっていた。
そして,その悲鳴の後を追いかける沖田のからかい声も,同時に定番となりつつあった。
「なーんで逃げんでィ,名前2嬢。カマキリの子どもだって」
「こっ…来ないでください!!」
「ほーらよく見てみなせェ。まだ子どもなのに立派なカマだねィ」
「や!あっち行ってください!!」
半泣きで逃げる名前1と,虫を掲げて走る沖田を見て,
「ははは!今日もやってるなあ,あいつら」
局長の近藤はとても愉快そうに笑う。まるで息子と娘が戯れているのを見守る父親のようだ。
2人を見て笑っているのは近藤だけではなく,
「本当にドSだよなァ…あの人」
標的が俺じゃなくなってよかった,と。こうなる前までなにかと沖田にいびられていた監察・山崎は,
ホッと胸を撫で下ろして笑っている。
「仮にも一番隊の隊長である彼が,女性を追い回すのはどうかと思うがね」
まあ僕には関係ないが,と。参謀・伊東は眼鏡の位置を直しつつ微かに口角を上げる。なんだかんだ
言いながら彼も微笑んでいる。
とどのつまりは…皆『和んでいる』のだ。
名前1には気の毒な話だが,『きゃあきゃあ叫んで走る女の子と,虫を片手にそれを追っかける男の子』
…と,絵的には大変ほのぼのしている光景だったため,他の隊士たちもいつも笑って2人を見ていた。
ただし――

「…」

――ただし,副長以外。





……~♪…~♪

うららかな春光の中,心地良さそうな鼻歌が廊下の空気を温める。
下を向いて歩いていた土方は,その声につられて顔をあげた。
視界に入ったのは,洗濯物を山ほど抱えた名前1が,正面からふらふらと歩いて来る姿だった。
(…つーか,なんであんなにいっぺんに運ぼうとしてんだよ)
籐籠の中に洗濯物を詰め込み,さらにその上にまで衣服を積み上げている。まるで巨大なカキ氷を
運んでいるかのようだ。
あれでは前方が全く見えないのではないか,と土方は苦笑いした。
彼女が近づいて来るのを待ち,すぐ目の前に来た時,土方は洗濯物の上をとんとんと小突いた。
「っ!」
ほんの少し叩いただけだというのに,名前1の体がびくりと跳ね上がった。それを訝しく思い,土方は
首を傾げた。
「…おい?どうした?」
「あっ…土方さん」
名前1は洗濯物の陰からこちらを伺い,土方の顔を見ると安心したように目を細めた。
その微笑につられ,土方もつい笑ってしまう。
「なにびくついてんだよ?」
しかし,次の彼女の一言によって,一瞬にして笑みは砕かれた。

「…沖田さんかと,思って」

洗剤の香り漂う空気の中,柔らかな言葉の針に胸を突き刺された。
名前1の声は,いつもと同じく穏やかなものであったというのに,心臓を抉られる思いだった。
「…」
胸の中心が焼け焦げるかのように熱くなる。
それに反して,頭の中は冷たく凍り付いていく気がした。

「…土方さん?」

――ひどく遠く離れているように感じた。
――こんなにも近くにいるというのに。

「…仕事に戻る」
「え?あ…はい…あの…お仕事,頑張っ」
「…」
土方は名前1の言葉の途中で背を向けた。
断ち切られた会話は,怒りと気まずさと罪悪感がないまぜになって,中途半端に胸に垂れ下がった。
「…あ」
背後で名前1が傷ついた声をあげるのが聞こえたが,今は振り返ることができなかった。
自分が今どういう表情をしているのか,わからなかった。
少なくとも,あまりいい表情をしていないことは確かだ。
そして――彼女に絶対見せたくない表情であることも。


+++++++++++++++++++++++


『かわいさ余って憎さ百倍』とはよく言ったものだと思う。
どれほど時代が流れても,古人の名言や諺には不変の理があるらしい。
一度冷たく接してしまって以来,土方は名前1に笑いかけることができなくなっていた。
彼女と目が合ってもすぐに逸らしたし,話しかけられても聞こえないふりをすることさえあった。
それでも…名前1は一生懸命声をかけてくれた。
男と話すことは苦手なくせに。
どれほど冷たくあしらわれても,土方には必死に話しかけてくれた。
…そのことに昏い喜びを感じる自分に,土方は心底嫌気がさした。

「土方さん」

今日もまた,震えるのを我慢した声が後ろから聞こえた。
「…」
自分でもどうしたら良いのか,どうしたいのか…わからなくなっていた。
呼び声に気付かないふりをして,そのまま振り返らず歩を進めようとした。しかし,
「あの…!土方さん!」
「!」
名前1にしては大きな声で名前を呼ばれ,今回は『気付かないふり』をできそうになかった。
悲鳴以外の彼女の大声を今初めて聞いた。
慣れない大声を出してまで自分を呼んでくれたということが――嬉しかった。
いや…むしろ「苦しい」のかもしれない。あるいは「痛い」のかも…。
――感情が追いつかない。
「…何か用か?」
結局は『渋々』とでもいった様子で,そちらを振り向いた。
今の自分はさぞ無情な目をしているだろう。心のどこかでそれを悔いながらも,口は勝手に動いた。
「今は無駄話してる暇は無ェ」
「あ…ごめんなさい」
「で,なんだ?」
「あの…お医者様が,あと2・3日で雀を離して良いって」
「…そうか」
名前1を避けるようになると同時に,あの雀の籠にもあまり近づかなくなっていた。
離して良いということは,もうあの右足も治ったのだろうか。
「…はいっ」
雀が元気になったことが嬉しいのか,名前1は目を輝かせている。
そういえば久しく彼女の笑顔を見ていなかった気がする。
そして…あの鼻歌も。
ずっと耳にしていない。
それを寂しく思う…そうさせたのは自分であるのに。
しかし,口から零れたのは冷たい科白だった。
「…話はそれだけか?」
「えっ…」
「小せェことで呼び止めるな。俺は忙しい」
「…っ」
名前1の表情という表情が,すべて崩れ落ちた。
限界まで見開かれた双眸を見て,途方もなく彼女を傷つけてしまったことを知った。
すぐさま後悔の波が押し寄せて来る。
「…」
土方が口を開く前に,名前1は身を反転させ,走り去ろうとした――が。

「名前2嬢」
「お,沖田さん…!」
「!」

彼女が駆け出そうとした先に,飄々とした顔で一番隊隊長が立っていた。
名前1は沖田を目にした瞬間,うろたえた様子で身を仰け反らせた。
そんな彼女の仕草など気にも留めず,沖田は無遠慮に近づいてくる。
「今日はすっげーいいもん持って来やしたぜィ」
楽しげに笑って差し出した彼の手には――彼の手には,
「トノサマバッタ。トノサマバッタはオスよりもメスの方が体でけェんでさァ。知ってたかィ?」
「やああああああ!!!!」
茶緑色に蠢くバッタを見た途端,名前1は金切り声をあげた。そして再び体を翻し,土方の方へ逃げ
帰ってきた。
「…!お,おいっ」
「助けて下さい,土方さん!」
名前1は土方の後ろに隠れ込み,両手でぎゅっと上着の背中部分を握り締めてきた。
さらにそのまま沖田の方に土方をぐいぐい押し出そうとする。
「ちょっ!押すな!」
別に虫は平気だが,それよりも…小さな手のひらに背中を押される感触に動揺した。
そうやってわたわた揉めている間にも沖田はさっさと近寄って来て,土方の前に立つとさも邪魔くさ
そうに目を細めた。
「土方さん,そこどいてくだせェ。名前2嬢が虫を好きになるよう調教,じゃねーや訓練してやって
 んだから」
「そんなの必要ありません!」
ぎゅうううっ…とでも聞こえてきそうな程,背中を握り締められる。
(…)
間違いなく上着に皺が残るだろう。
でも――悪い気はしなかった。
むしろずっとこのままでも良い。
「総悟,そのへんにしとけ」
持ち前の低い声で土方が諌めると,沖田はトノサマバッタを片手にきょとんとした。
「はァ?なんででさァ?」
「嫌がってんだろーが」
「嫌よ嫌よも好きのうちでさァ」
「そんなことありません!嫌なものは嫌なんです!」
土方の背中の後ろから,名前1が叫ぶ。が,沖田は全く意に介せず,
「またまた。仮面〇イダーだってトノサマバッタがモデルなんですぜ。ほら,よく見てみなせェ」
「いや!!!」
短い悲鳴をあげ,名前1は土方の背中に顔を押し付けた。
(…いやそれはさすがにヤバイ)
背中に感じる柔らかな頬の感触に,土方の体が本能的に震えた。
「おい,やめろ総悟」
「土方さん,邪魔しねーでくだせェ。名前2嬢の顔が見えやしねェや」
「…か,顔?」
訝しげな声で聞き返し,名前1は土方の背中から顔を出した。
すると,沖田はにんまりと歯を見せて笑った。
「あんたの嫌がる顔が見たいんでさァ」
「ひどい!沖田さんのひとでなし!!!」
沖田の科白に,名前1はキッと目を尖らせて怒鳴った。
けれどもバッタを「ほら」と掲げられると,大慌てて土方の背に引っ込んだ。
(あー…)
これではまるっきりの盾扱いだ。
しかし,それだけ『頼られている』ような気がして――守ってあげなければ,と強く思った。
「総悟…いい加減にしろ」
土方は凄みをきかせた視線で沖田を睨み付けた。すると,
「…あれ?マジで怒ってます?」
土方の目の奥に只ならぬ感情を読み取ったのか,沖田は目を丸くした。
「…」
黙りこくった土方の前で,沖田はにやにやと癇に障る笑いを浮かべる。
「ふーーーーん。そういうことかィ」
「…なにがだ」
「『虫』がついて欲しくないんでしょ?」
「…」
――無言は肯定と同じだ。
沖田は面白そうに土方と名前1を見比べ,そして…
「名前2嬢。今まで悪かったな」
なぜか急にしおらしい表情をつくり,えらく殊勝な科白を吐いた。
「…え?」
「おーら,お前。飛んでいけ」
沖田はそう言いながら,バッタを庭の方に離した(ちなみにその時も名前1は一瞬びくついた)。
トノサマバッタを逃がした後,沖田は再び土方と名前1の方に向き直った。
「俺ァ田舎育ちだから。昔から虫は遊び相手だったんでィ。だから虫嫌いな人間にも,虫の良さを
 わかって欲しかったんでさァ」
「…!…ご,ごめんなさい」
名前1は土方の背中からそっと離れると,沖田に向って頭を下げた。
「いや。苦手なもんは仕方無ェでさァ…残念だけど」
「すみません…」
「いいって。で,今まで嫌な思いさせたおわびに」
「え…おわび?」
意外過ぎる申し出に,名前1は目を何度も瞬かせた。
「すっげェ貴重なもんあげまさァ」
「そんな…お気遣いなく」
「いやいや。散々嫌な思いさせたんだから。おわびの気持ち」
「でも…」
「ちょっと待ってて下せェ」
「あ…」
言うだけ言うと,沖田は踵を返してどこかへ行ってしまった。
流れ的に自分も待っていなければならない雰囲気だったので,土方は名前1の方をちらりと横目で見た。
『沖田からなにか貰える』という状況を名前1が喜んでいるような気配はなく,むしろおろおろと戸惑
っている――そのことに少し安心した。
「…何なんでしょう?」
「知るか」
また…心無い返事を返してしまった。
沖田が持って来るものがたとえ何であっても,『他の男が名前1に何かを与える』ということが不愉快
で堪らなかった。だからといって,彼女に当たっても仕方が無いというのに。
「…ごめんなさい」
言葉の刃でばっさり両断され,名前1は悲しげに項垂れた。
(…お前が謝る必要は無ェよ)
しょげかえった様子が萎れた野花のようで,土方は謝罪の言葉を口にしかけた。
しかしそこでタイミング悪く沖田が戻ってきたため,結局何も言えなかった。
「待たせたねィ」
沖田は親しげな口調でそう言いながら,土方と名前1の双方に目をよこした。
「いえ…」
名前1は不自然な笑顔をつくって沖田の方を見た。
そんなに無理して笑って欲しくなどない。
(…そうさせたのは俺だっつの)
ひどくはがゆい――自分自身が。
土方の物思いに気付く素振りを見せず,沖田は名前1に声をかけた。
「手ェ出して」
「はあ」
言われるまま名前1は素直に手のひらを出した。
「ほらよ」
「な…に……!!!!!!」
沖田の手の中から何かがころんと転がって,名前1の手の上に移された。
ゆるやかなU字型を描く飴色の物体が,日を浴びてテラテラと光る。
名前1は食い入るように『それ』を見つめ,沖田は歯を見せてにんまりと笑った。

「カブトムシの幼虫でさァ。この都会で見つけんのはマジで貴重,」
「ひゃあああああ!!!!!」

『絹を裂くような悲鳴』とはまさにこのことだろう。名前1は肺の奥から叫び声を発し,派手に手を
振り上げた。その勢いで幼虫は空を舞い,
「おっと」
それを沖田が見事キャッチした(こうなることを予想していたとしか思えない)。
「放り出すなんて酷いことをするねィ」
「酷いことしてんのはテメェだ!!!」
たとえカブトムシは好きでも,その幼虫は無理だという人間も結構いるのだ。ましてや虫全般が苦手
な女に対して,いくらなんでもこれはあんまりな仕打ちだ。
「いやですね~土方さん。なにマジになってんですかィ?冗談ですよ,冗談」
「お前の冗談は笑えねーんだよ!!!!」
土方が沖田の胸倉に掴みかかる横で,とうとう名前1はめそめそ泣き始めた。
「やだーやだー…手の,手の感触が…ぶにって…ぐにって…」
「手?なんでィ,見せてみろィ」
沖田は土方の手をあっさり振りほどくと,素早く名前1に近づいた。
幼虫を花瓶の置かれた台に一旦置いて,名前1の手をひょいと握った。
「んな゛っ!」
抗議の声が喉から溢れそうになり,土方はギリッと歯をかみ締めた。そんなことお構いなしで,沖田は
名前1の手のひらを注視している。
「なんともなってねーでさァ」
「だって…ころんって…ぐにゃって…気持ち悪いです」
幼虫の感触があまりにショックだったのか,沖田に手を触られてもそれに気を回す余裕が今の名前1には
全く無いようだ。ぴーぴー泣き続ける名前1に,沖田は大げさに溜息をついた。
「仕方ねーなァ」
(…!)
なにを思ったのか,沖田は名前1の手をゆっくりさすり始めた。しかもその手付きがやたらと優しい。
<子供のように泣きじゃくる女中と,それを慰める若き一番隊隊長>
その光景が不思議と『絵になっている』ため,土方は余計に腹が立った。
「キモいのキモいの土方にとんでいけー」
本来怒るべきはこの科白に対してなのだろうが…それよりその手をさっさと離せ,と怒鳴りたかった。
「おいっ…総悟…!」
「ふーん。名前2嬢の手,ちっせェな。赤子みてェ」
「……あ……お,沖田さん?」
名前1はやっと今の状況に気付いたらしく,はたと泣き止んで沖田と沖田の手を見つめた。
「…あの…手…ちょっと…」
「ホントちっせェ…食べたくなってくらァ」
「え…」
あーん,と沖田は口を開いた。
(!!!)
――もう限界だった。

「ひゃ!!」

名前1の小さな叫びが聞こえ,手のひらからひんやりと柔らかい感触が伝わってきた。
それはほとんど無意識で――ひどく衝動的な行動だった。
沖田に握られていた彼女の手が,今は土方の手の中にすっぽり収まっていた。
他の男から引き剥がした手を,土方はぎゅっと握り締めた。
「…土方さん?」
名前1は呆けた声を出して土方を見上げてくる。
「…ちょっと来い」
「…え?あ…ひ,引っ張らないでください」
「ごゆっくり~」
からかいまじりの沖田の声を背に,名前1の手を掴んで土方はずかずか歩き出した。
どこへ行くか決めていたわけではないが…とにかく。
とにかく,一緒に歩き出した。
…多少無理矢理ではあったが。