照りもせず 曇りもはてぬ 春の夜の 
朧月夜に ()くものぞなき



薄紅で終わる雨


卯月の頃――桜の開花宣言が報じられて数週間が過ぎて。
<一体いつまでこの寒さが続くんだろう>と思っていたら,ここ最近になって急に温かくなってきた。
つい先週まではお布団の足元に湯たんぽを忍ばせていたし,水で顔を洗うなんてとんでもない暴挙だと
思っていたけれど,今となってはそんな日々も嘘のよう。
すっかり温かくなって,ぽかぽか過ごしやすい春の陽気が毎日続いている。
んでもって『気温が上がってくると人の気持ちも上がってくる』というのは本当みたいで…

「また子ちゃんダメだよ!まな板の上で野菜切る時に押さえてる方の指をのばしてちゃ!」
「そ,そうなんッスか!?」
「だって危ないよ!指切っちゃうよ!押さえる手は『猫の手』って言ったでしょ!」
「猫の手ッスね……んじゃ黒猫で良いッスか!?」
「何の猫でも良いから!」

鬼兵隊艦内のお台所では,いつもより少~しだけテンション高めのわたしとまた子ちゃんが,お重箱の
おかず作りに励んでいた。最初はわたしだけで作る予定だったんだけれど,やっぱりまた子ちゃんも
女の子。『お料理』に興味津々で,わたしの背後をうろうろしていた。だから「季節にちなんだおかず
を作るのって楽しいんだよ。また子ちゃんもやってみる?」と誘ってみたら,彼女は目をきらきら輝か
せて「やるッス!」と応えた。でも…

「…なんで上手くできないんスかね?」
「う~ん。また子ちゃん,刃先を怖がってるから手元がぶれちゃうんだよ。そんなに固くならないで」
「だって…怖いっス。包丁」
「…刀持った人達とあんなに戦ってるのに,なんで包丁が怖いの?」

刀をかいくぐってドンパチやる方がよっぽど怖い,とわたしは思う。包丁なんて刀に比べたらずっと
小さな刃物なのに。理解に苦しみながらも,『料理教室』を続けようとわたしは次の野菜に手を伸ば
した。その時,

「…なにやってんだ,お前ら」

わたし達の背後からよく知った声があがった。
その艶めいた低音に一瞬胸が躍ったけれど,それを表には出さずわたしは振り返った。

「炊事場まで来るなんて珍しいですね,高杉さん」
「晋助様!料理っスよ,料理。女のたしなみの料理っス!」

また子ちゃんは高杉さんの姿を見るなり,興奮したように包丁を上下に振った……って危ないよ!
すると高杉さんは煙管を吹かしつつ(お台所では止めて欲しい)漆塗りの重箱を顎でさした。

「女のたしなみかどーかは知らねェが…なんで重箱に詰めてんだ?」
「「えっ?」」

高杉さんの言葉に,わたしとまた子ちゃんが同時に声をあげた。思わず顔を見合わせて,首を傾げた。

「ひょっとして聞いてないんスか,晋助様?」
「今夜,夜桜見物に行くでしょう?その準備ですよ」
「は?…知らねェよ」

わずかに右目を見開いて,高杉さんは煙管から唇を離した。

「武市さんが『花見するのに良い場所を見つけました』っておっしゃってて。穴場らしいですよ」

わたしがそう説明すると,

「…武市が?」

高杉さんは目をかっきり一回瞬かせた。
普段はどちらかというと三角形に近い彼の目が,今は丸めになっている…どうやら本当に何も聞いて
いないみたいだ。また子ちゃんは,

「武市先輩が名前1にそう言ったのは今朝なんスよね?ちょっと唐突過ぎるっつーか」
「うん。でも明日は雨になるらしいから,今日の内に行っておかないと散っちゃうかもって」
「…聞いてねェな」

自分の耳に入っていないことが不満なのか,高杉さんは元から鋭い目をさらに細めた。丸くしたり
鋭くしたり…なんとも忙しい目の持ち主だ。すると,

「良い匂いですね」
「あ。武市先輩」

件の変人謀略家(って呼ばれているのが衝撃だった)が暖簾を上げて炊事場に入って来た。
武市さんはぱっちりな目をきょろきょろ動かし,重箱を見ると立て続けに瞬きした。

「おや。どこか行かれるのですか?」
「「はい?」」

予想外の言葉に,わたしとまた子ちゃんの声が再びハモった。高杉さんはというと,わたし達の横で
相変わらずマイペースに煙管を燻らせている。

「えっ…武市先輩が『花見に行こう』って言い出したんじゃないんスか?」

また子ちゃんが眉をしかめて武市さんに訊くと,

「私が?そんなこと言っていませんよ?」

武市さんは驚いたように目を見開いた――いやあの目は元々ああだったかも。
むしろ本気で驚いたのはわたしの方だ。

「だって…武市さん今朝言ってたじゃないですか。『花見の穴場を見つけた』って」

今朝廊下で立ち話をした時,たしかに彼はそう言っていたはずだ。既にほとんどの桜が散ってしまった
この時季に,まだ花弁をつけているだなんて酔狂な桜だなって,それを聞いてわたしは思ったんだから。
今年は皆色々忙しくて,ゆっくり花見する暇もなくて,満開の桜を逃しちゃったのがすごく残念だった。
だから『まだ咲いている桜がある』と聞いた時はとにかく嬉しくて。
だからこそわたしはこうして重箱作りに励んでいるわけで。
武市さんは記憶の糸を辿るかのように目を虚空に泳がせていたけれど,やがてぽんと手を打った。

「ああ,確かに言いましたね。でも私は『よさそうな花見の場所を見かけたけれども,明日は雨だから
 散ってしまうかもしれない』と言っただけですよ」
「…え?」

そう言われてわたしも今朝の会話を思い出してみて…

――え!まだ咲いている桜があるんですか?
――ええ。先日見かけました。山の奥まったところですけれどね。見事に満開でしたよ。
――へえ!お花見に良さそうですね!
――そうですね。お花見するなら良いところでしょうね。人もいませんからまさに穴場ですよ。でも
  天気予報によれば明日は雨になるそうですから。散ってしまうかもしれませんね。
――そうなんですか~(だったら行くのは今夜だ!)。

…武市さんの口から「花見に行こう」だなんて言葉は出ていなかったということに気付いた。

(ぜ,全部わたしの早とちり!?)

呆然としているわたしの横で,また子ちゃんがおずおずと再確認する。

「…ってことは『花見に行く』ってのは?」
「一言も言っていないと記憶していますが」

武市さんも少々言いづらそうに答えた。そして2人して心配そうな目で,わたしの方を見た。

「…」

正直ショックだった。
ここまで頑張って料理準備したのに。
でも,それよりなにより「皆でお花見行ける」ってことが楽しみで仕方なかったのに。
けれどもわたしの勘違いから起きてしまったことだし…悪いのはわたしなんだけれど。

(…すごく残念だな)

溜息をつきたくなったけれど,そしたら武市さんを責めているみたいになってしまうから我慢した。
こうしている間にもまな板の上の野菜は乾燥してしまう。早くどうにかしなくちゃいけない。
火にかけたお鍋が気まずそうに小さくコトコトと音を立てていた。

「行けば良いだろ,花見」

――沈黙を破ったのは,今の今まで傍観を決め込んでいた総督様だった。
びっくりして高杉さんを凝視すると,やはり先程と同じ姿勢のまま彼は煙管を吹かしている。

「えっ…でも…いいんスか?」

また子ちゃんが驚き半分,喜び半分の声で聞き返すと,

「構うめェよ。食材こんだけ使ったんだ。桜見ながら食べねーと勿体無ェ」

淡々とした口調でそう言って,高杉さんは流し台に煙管の灰を捨てた…皆の食器を洗う所に灰を流さ
ないで欲しい。でも今はそれよりも,

「っ!ありがとうございます!!」

嬉しい気持ちの方が圧倒的に大きくて。
わたしは高杉さんに勢いよく頭を下げた。

「…食材が勿体無ェからだ」

高杉さんの極めて平坦な声が,わたしの頭上に降ってくる。
うちの総督様は――まったくもって素直じゃない。
でも…その遠回りで届く優しさに,いつだってわたしの鼓動は加速させられる。
高杉さんとわたしのやりとりに,武市さんは小さく笑って肩をすくめた。

「では皆さんの予定を調節する必要がありますね」
「あ…ごめんなさい,武市さん。ご迷惑をおかけして」

慌てて謝ると,彼は静かに首を横に振って,

「良いのですよ。それより…これは名前1さんが切った野菜ですね?」

ボウルの中に入れられている野菜たちを指差した。

「そうですけど?」
「実に美しく切れていますね」
「あ,ありがとうございます」

褒め言葉に照れてしまい,わたしは頬を指先で数回掻いた。
お花見ってことで,今日は特別に花の形や鳥の形に野菜を切ってみたのだ。
形を変えたところで味は同じだけれど,こういう風に『視覚でも楽しめる』ってことが祭りや行事の
お弁当の楽しみだと思うから。頑張ってちまちま切ってみました,というわけで。

「しかしそう頻繁に包丁を持つのは考えものです」
「…はい?」

何を言われたのかよく理解できなくて,わたしは眉を潜めた。けれども武市さんは,いたって真剣な
眼差しでじっとわたしの両手を見つめている…なにやら怪しげな空気が炊事場に流れ始めた。
はてなマークを頭上に点滅させていると,武市さんはお説教でもするかのように懇々と語り出した。

「もし万が一その白魚のような手に傷でもついたらどうするのですか」
「いやどうするって言われても…(ていうか『白魚』って)」
「それに水仕事をしていては手が荒れてしまうでしょう」
「でも女中なんだから水仕事しないわけには…」
「あなたね,今はよくても将来泣くことになるのですよ?たとえ少しの手荒れでも積み重なっていけば
 大人になった時『手荒れ』ではなく,そのガサついた状態が『普通』になってしまっているのですよ。
 だからあなたはもっと気をつけるべきです。でないとその柔肌が酷いことになります。大人になって
 から後悔しても遅いのですよ」
「…(わたし既に大人なんですけど)」

沸騰したお鍋から泡がぶくぶくとあふれ出し,コンロの火がじゅわっと抗議の声を上げた。
早く止めなくちゃ(いろいろと)。

「武市先輩,キモいっス」

また子ちゃんが軽蔑を目一杯込めた半眼で溜息をついた。わたしも同意見だったけれど,武市さんは
動じた様子を見せず,ちらりとまた子ちゃんを横目で見た。

「あなたの手ならいくらでも荒れて構わないでしょうから,ちょっとは料理を身につけなさい」
「どういう意味っスか!!!」

武市さんの言葉に,また子ちゃんは顔を真っ赤にして怒ったけれど,

「だってこれはいくらなんでも無いですよ。野菜の大きさがてんでばらばらではないですか」
「うっ…こ,これから上手くなるんスよ!!」

大小様々の野菜たちを指摘されて,ぎくっと肩を揺らした。たしかにこれだけ大きさが違ったら,火を
通した時均一に熱が回らないかも。でも包丁を扱った経験がほとんど無いって言ってたから,それも
仕方ない。というか,それにしては十分上手だと思う。そう言おうと思ったんだけど…

「それは心強いですね。せいぜい頑張ってください……バカが」
「言われなくても頑張るっスよ……オメーがバカ」

また子ちゃんと武市さんは既に目から火花どころか爆竹を散らし合っていて,とてもじゃないけれど
口を挟めるような雰囲気じゃなかった。

「…あいつら,いつもああなるな」

じっと黙っていた高杉さんが,静かな声音で言った(割とどうでも良さそうに)。

「…そうですね」

わたしが頷くと,高杉さんは花形や鳥形に切られた野菜たちに目を落とした。そして,

「器用だな」

ぼそっと一言呟いた。

「ほっ本当ですか!?」

高杉さんがわたしを褒めてくれることなんてほとんど無いのに。嬉し恥ずかしびっくりで聞き返すと,

「人間,どんな奴でも1つは取り得を持ってるもんだな」
「…どういう意味ですか」

憎たらしい言葉を浴びせられ,むかっ腹が立った。
今わたしの額には青筋が浮かんでいるはずだ。確信をもって断言できる。
たまに人を上げたかと思ったらすぐに落とすんだから…ほんっとに酷い総督様だ。
わたしはぷいっと高杉さんから目を外して,しばし放置していた作業を再開した。右手に包丁を持ち,
左手に真っ赤なウィンナーソーセージ(赤色は天然のトマトによるもので合成着色料は一切使って
おりません…らしい)を持った。

「高杉さんはタコさんとカニさんのどっちが良いですか?」
「なんの話だ」
「お弁当のウィンナーですよ」

わたしはタコさん派なんだけど,一応高杉さんの希望も聞いておこうと思って尋ねた。それなのに彼は
思い切り怪訝そうに眉間に皺を寄せた。

「花見の弁当の野菜を花形に切るのはわかるが…なんで肉類をわざわざ魚介類の形に切る必要がある」
「そう言われても…だって可愛いじゃないですか。タコさんウィンナー…カニさんも」
「可愛かねェな,全然」
「…」

この包丁でブッ刺してやりたい。
極めて物騒な感情が胸に湧いたけれど,よく考えてみれば高杉さんの口から「タコさんがいい」という
言葉が出ても,それはそれでかなり微妙だ。いろいろとビミョーだ,うん。あ,でも万斉さんなら普通に
「カニさんが良いでござる」って答えてくれるかもしれない。ていうか言って欲しい。あの美声で。

(よし,カニさんにしよっと)

万斉さんはきっとカニさん派に違いない。だって毛蟹が好きだって前に言ってたし。あくまでこれは
ただのウィンナーだけど,まあそこは大目にみてもらおう。
わたしはカニさんの切れ込みをウィンナーに入れつつ,高杉さんにウキウキと笑いかけた。

「とにかく!楽しみですね,夜桜見物!」
「べつに楽しみじゃねェな」
「…どうしてそういちいち腹の立つ言い方するんですか」
「どっかのバカのせいで諸々の予定が急遽変更になったからな。腹立ってんのはこっちだろうよ」
「うっ」

思わず刃先で指を切りそうになった…あぶないあぶない。

(やっぱり…怒ってるのかな)

わたしのせいで急に予定が変わっちゃって。
でもそれなら無理に花見行かなくても良いんだけどなあ,なんて思っちゃうのは自分勝手かな。
そりゃ行けるに越したことはないんだけれど,皆が楽しめないのなら意味は無いだろうし。
もしこの人が本当は行きたくないのなら,わたしだって…行きたくないもん。

「けど,まァ…」

じっとまな板の上に視線を落として俯いていると,高杉さんの手がわたしの頭を小突いた。
顔を上げると,彼は唇の端を歪めてにやりと笑っていた。

「風情はある。嫌いじゃねェよ,夜桜」

そう言ってわたしの髪をわしゃわしゃと撫でてくる彼は本当に――本当に酷い人だ。
人のこと落ち込ませたり,喜ばせたり。
どこまで人の気持ちを振り回すつもりなんだろう。
彼の発言に一喜一憂するのは,それはそれで幸せなんだけれど…でも…

(…時々疲れちゃうんですけど)

頭を乱暴に撫でる手の感触に,わたしの胸はきゅんと鳴く。
その胸の鳴き声は甘いけれど,少しだけ痛い。
まるで林檎をかじった時のように。
歯茎が痛い。

――甘くて 痛いよ。