淡い輪をかぶった煙るような月が山々を見下ろしていた。
濃密な夜闇が,しっとりと湿った夜気が,わたし達を包み込む。
「…」
夜陰の中うすぼんやりと光る桜木を,わたしは声も無く見上げた。
桜の白さに闇を裂く程の力は無いけれど,少しずつ闇に侵食していくような,あるいは溶け込んでいく
ような柔らかな怖ろしさがある。
夜風に煽られるたびに白い残像を残しながら枝が揺れ動き,光の欠片がひらひらと舞い散っていく。
「…来て良かったでござるな」
万斉さんが手にしたお酒に,花一片がふわりと浮かんでいる。ほんのり紅色の花弁は,まるで酒面の
上で酔っ払っているかのように見える。
「ここを見つけた時は昼間でしたが…夜はまた違った趣があります。本当に来て良かったです」
武市さんは万斉さんの言葉に頷きながら,お猪口をくいっと飲み干した。あまりお酒が強くないのに
大丈夫かな,と少し心配になったけれど…今日は無礼講ということで。
「それもこれものおかげっス!」
頬をピンクに染めたまた子ちゃんが,ぴょんと飛びついてきた。また子ちゃんは酔うと人にくっつき
たがる体質だ。普段からお酒を飲むとくっついてくるけど,今日は特にご機嫌みたい。なんだか大き
な猫みたいだ。
「でも勘違いして皆の予定を変えちゃって…本当にごめんなさい」
「気に病むことは無いでござる。こうして季節の事物に心を動かす時間も人には必要でござる」
わたしが謝ると,万斉さんはやんわり否定してフォローしてくれた。また子ちゃんも,
「それに美味いっス!花見弁当!」
きゃっきゃと笑ってカニさんウィンナーを食べた。すると武市さんが大げさに溜息をついた。
「やれやれ…あなたは本当に『花より団子』ですね。そんなんだから猪女と皆から呼ばれるのです」
「そんな呼び方すんのは武市変態だけっス!なに皆から呼ばれてる設定にしようとしてんスか!!」
かっと八重歯を見せてまた子ちゃんは武市さんを威嚇する…なんだかホンモノの猫みたいだ。
「でも本当に美味いでござるよ」
「ありがとうございます!」
万斉さんは春のお野菜たっぷりの菜飯を食べつつ微笑んでいる。サングラスをかけているからよく
見えないけれど,たぶん彼の目は穏やかに細められているんだろう…そんな気がする。
しめやかな風が万斉さんの髪を揺らして,ヘアワックスの清涼な香りが鼻をくすぐった。
「殿は良いお嫁さんになるでござるな」
「ほ,本当ですか?」
万斉さんに言われると,本当になれそうな気がしてくるから不思議だ。
『将来の夢はお嫁さん』なんてことを口走る年齢じゃないし,結婚に憧れがあるわけでもないけれど。
でも「良いお嫁さんになる」って言葉は,女として最高の褒め言葉な気がする。
ちょっと…いやかなり舞い上がっちゃって,わたしはへらへらと笑った。けど――
「無理だろ。相手がいねェんだから」
淡紅の花弁が散り行く中,冷笑まじりの声が響いた。
桜吹雪さえも凍らせる――氷のような声だった。
「…」
うつむきそうになる顔を上げ,緩慢な動作で彼の方を見た。高杉さんはわたしの方を見ようともせず,
淡々と酒盃をあおっている。わたしは何か言い返そうと口を開いたけれど,何も言葉を発することが
できなかった。頭が真っ白になってしまって,震える唇が空回った。
うまく 動けない。わたしの 心も。
「…晋助」
万斉さんが咎めるように彼の名を呼んだ。その後ろで,また子ちゃんと武市さんが言い争っているのが
視界に入った。「ホントによく喧嘩する2人だなあ」と,こんな時なのに頭の隅で思った。
怒りとも悲しみともつかない感情で心臓はたぎっているのに,どうしてか頭は冴え冴えとしていた。
「大丈夫です。そのうちどこかで見つけますから」
殊更はっきりした口調で,わたしは言い切った。宣戦布告でもするかのように。
けれども高杉さんは馬鹿にしたように鼻で笑った。
「ハッ…『どこか』ってどこだよ」
「そんなこと高杉さんには全く関係無いでしょう」
‘全く’のところを強めて言うと,高杉さんは不愉快そうに眉をしかめた。でも不愉快なのはお互い様
だと思う。むしろ,いきなり喧嘩を売って来たのはそっちの方だ。いきなり冷たい言葉の刃を突き刺し
て来たのは,高杉さんの方だ。
(なんか泣きそうかも…)
思いがけず涙ぐみそうになってしまって,わたしはぐっと奥歯をかみ締めた。絶対に泣いてやるもんか
って思った。こんな酷い人の前で泣くくらいなら,あのにっくき真選組の門の前で大泣きする方が百倍
マシなんだから(本当はそれもそれで嫌だけど)。
瞼に力を込めて涙腺が緩むのを堪えていると,わたしの頭上に手のひらが乗せられた。
思わずびくっとしてその手の主を――万斉さんを見ると,彼は小さく笑っていた。そして,
「心配いり申さぬ」
わたしの髪にくっついていたのか,一片の花弁を指で掬い取って微笑した。
「もし万が一誰も相手が現われなかったら,拙者の嫁になればいいでござる」
さぁっと音を立てて桜の枝が風に流れた。
「えっ………は!?」
「!」
口にものを入れていなくて良かった(たぶん噴出していたと思う)。高杉さんは飲んでいたお酒を喉
に詰まらせたらしく,胸の上あたりをしきりに叩いている。わたしが目を剥いて万斉さんを見つめると,
彼は先程からの笑みを崩すことなく首を傾けた。
「嫌か」
「えっ…いや,決してそういうわけでは…いや,でも…え?」
<嫌か>だなんて,そんな聞き方ずるい。そう聞かれて<嫌です>ときっぱり言える女がいるのなら
お目にかかりたい。ひょっとしてそれも見越して,彼はわざとこういう聞き方をしているのだろうか。
こんなにさらりと口説き文句を言えるだなんて,万斉さんはやっぱり高杉さんの右腕だ。
まさに『この首領にしてこの右腕あり』だ。
万斉さんが本気で言っているとは思えないけれど,それでもじわじわと頬に熱が集まってしまうのは,
女の性だろうか。困ってしまう。
「よかったじゃねーか…身近に貰い手がいて」
祝福の言葉とは裏腹に膨大な怒気のこもった声で,高杉さんが言った…すぐ隣で殺気を放つのは止めて
欲しい。笑顔で殺気立つのはぜひとも止めていただきたい。
「えっと…」
わたしは「よかったです」とも「よくねーよ」とも言えず,曖昧に首を捻ることしかできなかった。
「…」
「あ…」
高杉さんは舌打ちすると,無言で立ち上がった。そして,こちらに視線をよこすことなくスタスタと
歩いて行ってしまった。
気をきかせたつもりなのか,それともヘソを曲げたのか。
たぶん――いや絶対に後者だ。
「なによ…もう」
「困った総督殿でござるな」
苦笑まじりの万斉さんを,わたしは軽く睨んだ。
「万斉さんもいけないんですよ。いきなりあんなこと言うから」
「ああ。拙者も反省している。突然過ぎたでござるな。今度からはじわじわ言うでござる」
「いや反省するのはそこじゃないです」
というか「じわじわ言う」って何ですか。というか毛ほども反省していないでしょう,あなた。
色々とツッコミどころがあるというのに,わたしがそれを指摘する前に,万斉さんは言葉を続けた。
「晋助は時々子供返りするでござる」
彼はわたしの顔をぴっと指さして,意味ありげに笑った。
「特に殿の前では」
「…」
万斉さんの人差し指を避けて,ひらひらと花弁が舞い降りてくる。
(なにそれ。ずるい)
<ずるい>と思うのは今日で2度目だ。だってずるいでしょ,どう考えても。
自分の前では子供返りするだなんて,そんな。喜べばいいのか怒ればいいのかわからな――いや違う。
(喜んじゃう…でしょ)
でもそれを素直に認めてしまうのは癪にさわる。わたしは無理に口を尖らせて,
「わたし,お母さんじゃないです」
「男は何歳になっても女子に母親の面影を求める生き物でござる」
「万斉さんも?」
「さあて…」
肯定も否定もせず笑う彼は,本当にくえない人だと思う。彼がなりふり構わず女を好きになることは
果たしてあるのだろうか…なんて,それは余計なお世話か。
わたしは溜息をついて立ち上がった。
「…ワガママ坊やを迎えに行ってきます」
「ああ。行ってらっしゃい」
万斉さんはこちらを見上げ,お猪口を軽く掲げてみせた。わたしは小さく頭を下げ,拗ねてしまった
彼の元へ急いだ。本当言うと慣れっこなのだ,もう…彼のわがままに振り回されるのは。疲れるけど。
べつに疲れたって構わないんだ,本当は。
あの人にならいくら振り回されても。
それだけ強い女になれば良いだけの話だ。
――それこそ『母親』のように。
皆がいる場所から少し離れた川辺で,桜の木に背を預けて高杉さんはひとり座っていた。
声をかけようとしたけれど,ぴしゃぴしゃと跳ねるような水音が聞こえて,わたしは立ち止まった。
(何の音?)
首を傾げて川と高杉さんとを交互に見て――『それ』に気が付いた。
「…」
無言で高杉さんが腕を振り上げ,その袖が半円を描くと,一秒も立たずに川面が2・3度波立つ。
彼が川に向って投げた石は,まるで生きているかのように水面を軽やかに飛び跳ねていく。
「高杉さん」
「…」
名を呼ぶと,高杉さんはこちらを目だけで振り返った。その隣りに座りつつ,
「上手ですね。石投げ」
「まァな」
わたしが褒めると,彼は得意気に笑った――思っていたよりも機嫌は悪くなさそうだ。
(ほんっとに気分屋なんだから)
怒りを通り越して呆れる…むしろ苦笑してしまう。さっきはまた子ちゃんを「猫みたい」と思った
けれど,高杉さんはもっとそう。ワガママで気まぐれで…実は寂しがりやの猫。
わたしが見ている横で,高杉さんは手元の石を立て続けに何度も投げた。その度に,透明な飛び魚が
跳ねているかのように水面が浮き立った。
(あ…本当の魚もいる)
よく見てみると,川には越冬したフナたちが,青い水草の間をゆうゆうと泳ぎ回っていた。その水面を
透けるような薄紅色の花弁が次々と流れていく。
「…昔を思い出す」
不意にぽつりと高杉さんが言った。
「昔を?」
「ああ」
静かに顎を引くと,彼は手を止めて川をじっと見やった――その瞳には朧な光が揺らいでいる。
水の匂いがたなびく夜闇の中で,薄紅の波がさざめいた。
――今のは俺の石の方が跳ねたな!3回跳ねた!
――ばーか俺の方が跳ねたっつの。高杉のは途中でへばってたな。へとへとだったよ,うん。
――へばってねェよ!いちゃもんつけてんじゃねェ!
――いちゃもんじゃないですぅ。ちゃんとした抗議ですぅ。
――うぜェんだよ,お前の喋り方は!喧嘩売ってんのか!
――止めぬか,高杉。銀時も。つまらんことで言い争うな。
――あ゛?自分が出来ねェからって邪魔してんじゃねェよ,ヅラ。
――そーだそーだ。空気読めよヅラ。
――ぬっ…馬鹿を言うな,俺だってできる!だがせっかくの花見だというのに,お前達ときたら全然
花を見ておらぬではないか!
――いーのいーの。俺,花より団子派だから。
――銀時!!お前という奴は…
――うるせェぞ,ヅラ…花を見りゃ良いんだな?よし。じゃあ次は浮いてる花弁に当ててやらァ。
――おや…こんな所にいましたか,3人共。
――あっ松陽先生!ちょうどよかった。俺,今から花弁に石当てっから!
――それはすごいね,晋助。でも注意してくださいね。
――何にだよ?
――川には魚がいます。魚に石を当ててはダメですよ。
――おう!わかった!
「…次は花弁に当てる」
高杉さんが唐突に宣言したので,わたしは驚いて目を瞬かせた。
「え?花弁って…浮いている桜の?」
「ああ」
「うそ…当てれるんですか?」
半信半疑でそう問うと,高杉さんはにやりと笑った。
「当然だ」
「すごい…」
「見てろよ」
石を投げる構えをとった高杉さんを,言われた通りじっと見ていたけれど,ふと思いついて口を開く。
「あ。でも魚に石当てちゃダメですよ」
「!」
ぼちゃん,と不恰好な音を立てて石が沈んだ。
あれっと思って高杉さんを見ると,大きく見開かれた彼の目とかち合った。高杉さんは信じられない
ものでも見るかのような目で,わたしを見つめてくる。
「…?どうかしました?」
「…いや。なんでもねェ」
「でも………うわっ!」
――風が 狂い咲いた。
わたし達の上空で桜がごうごうと鳴り響く。
藍色に煙った空気が揺さぶられ,薄紅色の吹雪が渦を巻く。
ごう ごうと。
桜が啼いた。
やがて巻き起こった時と同じくらい突然に,風は凪いだ。辺りは再び静まり返り,川のせせらぎの音
だけになった。
風が止んでもなお,余韻のようにひらひらと花弁は零れ落ちてくる。
「ああ,びっくりした…でも…綺麗ですね」
乱れた髪を直しながら,わたしは感嘆の溜息をついた。
「そうだな」
高杉さんも溜息まじりに頷いて――わたしはその横顔をそっと見つめた。
闇に縁取られた輪郭,それを上から下へ通り過ぎる花弁。
目を細め桜を見上げる彼は,微笑んでいるように見えた。
そして――泣いているようにも 見えた。
(さっき…何を思い出したのかな)
その記憶の中に,今この場にいる人達の姿はないのだろう…わたしの姿も。
それはとても寂しいことだけれど,仕方が無い。
思い出の中に『今』の人間は入れない。
今を生きている人間は,過去の中に決して入れない。
その思い出を抱く本人さえも。
だからこそ――
「美しいな…散ってゆくものは」
この人の心の中には…どうしようもない程の悲しみがあるのだろう。
どうしようもない程の憎しみや苦しみも,いっぱいあるのだろう。
誰もそれを癒せないのかもしれない。
誰も彼を救えないのかもしれない。
それでも――
「一途に散るものは美しい」
こうして桜の雨の下で,微かな笑みをその頬に浮かべるあなたを見ていると。
悲しみや憎しみに灼かれながらも それでも生きていくってことは,なんて美しいのだろうって。
苦しみの中もがいて足掻いて それでも生きていくってことは,なんて素敵なのだろうって。
――そう思える。
「なんだ。見惚れてんのか?」
わたしの視線に気が付いて,高杉さんは緩やかに口角を上げた。
その自信は一体どこから来るのだろう…まったくもう。
彼は『謙遜』とか『慎ましさ』というものを少しは知った方が良いと思う。だからそう言い返そう
と思ったのだけれど…ふと違うことを思いついた。
笑いそうになる口を堪えて,わたしは澄ました顔で言った。
「見惚れてなんかいません」
彼の髪に 肌に 声に。
桜の花弁が降り注ぐ。
「惚れています」
ぼとっ…
高杉さんの手にした石が地面に転がり落ちた。しかも,
ごんっ…
なぜか仰け反ってしまったらしく,そのせいで彼は後頭部をしたたか木の幹に打ち付けた。
高杉さんは頭を忙しなくさすりながら,
「んなっ!おまっ!なに言って…!?」
顔一面真っ赤に燃え上がらせ,慌てふためいた。
少しかわいそうになるほどに。
(でも…普段はわたしの方が振り回されているし)
たまにはわたしが振り回しても良いんじゃないか,と思う。
それに――嘘をついたわけじゃないし。
動揺して汗まで流し始めた高杉さんに,わたしはにっこり笑ってみせた。
すると彼はますます戸惑って,わたしから視線を引き剥がして巨木を見上げた。
つられてわたしも上を向く。
桜の雨が降ってくる。
ひらひらと…さらさらと。
いつの日か――この人のあらゆる痛みが終わればいい。
そしてもしその時,傍にいることができたなら。
それだけでわたしは…わたしは。
「…」
黙ってその肩に頭を乗せると,高杉さんは派手に身じろぎした。きっと驚いているのだろう。
でも――なんだか無性に触れたくなってしまったから。
おっとりと物柔らかな月が,遙かなる高みからわたし達を見下ろしていた。
その隣りに,光静かで瞬きの小さな星が寄り添っている。
たとえばあの月と星のように。
彼と…わたしも。
こつんっと微かな音を立てて,高杉さんの頭がわたしの頭に触れた。
髪から髪へ,お互いの熱が伝わり合う。
その熱が心地よくて,わたしはそっと瞼を下ろした。
最後に見えたのは薄紅色の残像と――淡き光立つ朧月。
照りもせず 曇りもはてぬ 春の夜の
朧月夜に 如くものぞなき
----------------------------fin.
2009/04/28 up...
YORU様からのリクエスト『高杉夢。主人公の提案で鬼兵隊メンバーでお弁当持って夜桜見物にいく話。
桜の下で酒を飲む高杉を「綺麗だ」と思う主人公』でした☆
武市さんを初めて書きましたが,意外にも書きやすくて驚きました。
途中で「万斉の方が格好良くね?」と思う一幕もあり…(笑)。
また子ちゃんは何をやっても可愛いので大好きです。
YORU様,どうぞお受けとりくださいませ。真心と感謝を込めて,プレゼント致します。(by RICO)