「救われたい」だなどと 思ったことはなかった
自分を救えるのは自分だけだと そう信じてきた
だからこそ 生きてこれた
たとえ 誰に拒まれても
たとえ 誰に望まれなくても
自らの言葉に しがみつき
やっとのことで 息をしていた
残照 <四>
「…!」
「…おや」
駅前広場から百メートル程歩いたところで,見知った人物と出くわした。
その人物は,手にした水色の扇子で自身をぱたぱたと扇ぎながら,人好きのする笑顔を浮かべた。
「久しぶりだね,伊東君」
「お久しぶりです,松本先生」
僕もハンカチで額の汗を拭き取りながら頭を下げる。
濃い青の風呂敷を広げたかのような空に,乳白色の入道雲が大胆不敵にそびえ立っている。
江戸の町に降り注ぐ日の光は,たしかにもう夏のそれだった。
僕は常陸への出張から帰ってきたところで,当初はタクシーに乗ろうと考えていたのだが――
――なにしろ数週間ぶりの江戸だ。
自分がいない間になにかしら変化があったかもしれないと思い,市中見回りをしながら屯所へ
戻ろうと決めたのだった。
目の前に立つ医師の手をふと見ると,『だんご屋魂平糖』と書かれた紙袋が下がっている。
(この暑いのによく団子を食べる気になるな…)
内心少々呆れたが,僕はそれとは別のことを聞いた。
「車でお帰りにならないのですか?この炎天下に…」
「なるべく歩くようにしているんだ。メタボ対策だよ,今流行の」
いやそれならば尚更その団子はなんなのだ,と僕は言いたくなったが…なんとか堪える。
それに,松本先生はどちらかと言うとやせ型だ(よく菓子を食べているにも関わらず)。
「…必要ないのでは?」
「いや~もう年なんでね。常にメンテナンスが必要な体なんだよ」
「そうは見えませんが」
「ははっ嬉しいことを言ってくれるね。伊東君こそ旅の帰りで疲れているだろう?車で帰ろうとは
思わなかったのかい?」
「いえ。ついでに市中見回りをしながら帰ろうと思いましてね」
並んで歩きながらそう答えると,松本先生は実に愉快そうに声をあげて笑った。
「はっはっはっ!君は真面目な男だなあ。ああ…そっくりだな」
先生は快活な笑い声の最後に,しみじみとした呟きを洩らした。
それに少しだけ違和感をおぼえ,普段偏屈な僕にしては至極素直に問いかけていた。
「?どなたにですか?」
「いや…の父君に,ね」
――伊東さんが屯所にいない間,このコ達の面倒はわたしがちゃんと見てますよ。
松本先生の口から君の名前を聞くと,出張前に彼女が僕に言ったことを自然に思い出した。
紫陽花の傍で仔猫の棘を取って以来,彼女は僕が不在中の猫達の世話を進んで買って出てくれる。
彼女にとっては人間も動物も関係無く,とにかく世話好きな気性の持ち主らしい。
その(少々お節介な)彼女の父親に似ている,と言われると何故か少しだけ胸の奥がざわついた。
それでもその動揺を隠し,いたって平静に問い返した。
「そうなのですか?」
「ああ…君のように真面目な男だったよ。私と違ってね。にはどちらかというと甘かったが」
「はあ…」
どういう返答をすれば良いのかわからず,僕は曖昧に微笑した。
夏の南風が前方から吹いてきて,匂うような爽やかさが薫る。
燕が羽をすいっと鳴らし,青空に黒い軌跡を描いて飛んでいく。
それを見るともなしに見ていると,再び松本先生が話しかけてきた。
「今回はどこへの出張だったかな?」
「常陸へ行って来ました」
「ほお,常陸か」
少し驚いたように先生が目を丸くしているので,「常陸ですが何か?」という意味を込めて視線で
問いかける。すると「いや…話題がまた戻るんだが」と前置きをし,
「の母君の出身は常陸だった,と思ってね」
そう言って困ったように眉を寄せ笑ったので,僕もつられて苦笑した。
まあ…松本先生と僕の共通の話題と言ったら割と限られているかもしれない。
もっとも,先生は誰とでも愉しげに話せる気質の持ち主だが(彼の愛弟子と同じく)。
ここで話題を変えるのはかえっておかしい。
君のことを話すのが自然な流れというものだろう。
別に僕が彼女のことを気に掛けているというわけでは…ない。と思う。
「さんの父君は亡くなられたと聞きましたが,母君はご存命で?」
「いや…どちらも亡くなっているよ。父君はが17歳の時に…母君が亡くなったのはもう10年
以上前だな」
「父君はご病気だったとか…母君も?」
「母君は病死ではないよ。母君は…」
先生は一端そこで言葉を切り,扇いでいた扇子をぱしりと閉じた。
「の母君は攘夷浪士の爆破テロに巻き込まれて…ね」
「!」
告げられた事実に思わず息を呑んだ。
父君が亡くなったのも突然のことだったと聞いたが…少なくとも君はその死を看取ることが
できただろう。しかしテロに巻き込まれたとなると――果たして彼女は母君の死を看取れたのか。
暑さでからからに乾いた喉へ,僕は舌裏に浮かぶ唾をゆっくりと嚥下した。
「しかもその時一緒にいた父君の母上と姉上…つまりにとっての祖母君と伯母君も同時に亡く
なってしまった…3人共即死だった。本当に…ひどいテロだった」
「…そうだったのですか」
普段とは打って変わって,松本先生の声はひどく静かだった。
けれどもその静かさの中に,深い悲しみの色が滲み出ているように思えた。
不意に子ども達の笑い声が通りに響き,熱いアスファルトを蹴る小さな足音が複数近づいて来た。
アイスキャンデーを食べながら駆けて行くその子達を,先生は眩しそうに見つめた。
「1度に妻と母…そして姉の3人を失った賢海は…の父君は…しばらく茫然自失状態だった。
私自身も…衝撃を…」
暑さに浮かされてぼやけた表情で,先生は目を細めた。
言葉と言葉の間の沈黙が,彼の記憶をじわじわと灼いていくかのようだった。
「松本先生は…父君と御同僚だったのですよね?」
「ああ。の父君…賢海と私は元々同じ診療所で働く町医だったんだ。は小さい頃から
父君や私の手伝いをしながら医学を学んでいたんだ。母君も手伝ってくれていたんだが…」
再び松本先生は言葉を切った。
道に沿って生える万緑の木々のざわめきが,熱気を轟かせる。
松本先生は「すまないね」と短く言うと,懐からハンカチを取り出して額の汗を拭いた。
夏落葉がひらひらと路上を漂い,青い蝶となる。
「テロの後,賢海を救ったのはだ」
石畳の日照る匂いが,足元から立ち上って来る。
僕は汗で下がりかけた眼鏡をぐっと押し上げ,先生の言葉に聞き入った。
「大切な人達を失ったのは賢海だけじゃない…もまた母と伯母と祖母を亡くした」
風鈴の音が――それも,1つでなく大量の音色が――涼しげにさざめいて,僕の耳を撫でた。
横目でそちらを窺ってみると,風鈴売りの手によって路上に組まれた竹網に,色鮮やかな風鈴の群が
所狭しと下げられていた。
水音を思わせる涼音に,松本先生も心地よさ気に一瞬微笑んだ。そして,
「でも傷心の父君にはこう言ったそうだ」
――わたしが父上のお嫁さんになってあげる。
――お母様にも,お姉様にもなってあげる。
――だから,元気を出してください。
向日葵の花束を乗せた自転車が,松本先生と僕の横を通り過ぎた。
鮮烈な黄色の大輪が,乾いた僕の目を真直ぐに突き抜けていくように感じた。
「…」
「むちゃくちゃを言うだろう?」
そう言って苦笑しながらも,先生はどこか誇らしげだった。
自分の弟子を自慢するというよりも,むしろ自分の娘を自慢するかのように。
どこか照れくさそうに笑っている。
「そういう娘なんだよ。あの娘は昔からそうだった。いつもむちゃくちゃを言って…周りにいる
人達を救った」
――もっといい人生があるかもしれない。でも,これはわたしの人生だから。
――だからこれで良いんです…ううん,これが良いんです
1つの傘を使い共に帰路についたあの日…彼女が言っていた言葉を,今なぜか僕は思い出した。
「それで父君は…」
「うん。少しずつ気力を取り戻した」
松本先生の声音にも幾分か明るさが戻った。僕はほっとしてスカーフを少しだけ緩め,首にまと
わり付く汗を逃がした。
先生も先生で少々気を張っていたらしく,頭をぐるりと回した。こきこきと首の鳴る音を聞くと,
彼はすっきりしたように笑った。
「その5年後『官医にならないか』とのお声が,幕府から私と賢海の両方に掛けられたんだが…
…あいつは辞退したんだ」
「ああ。たしか『町医が2人共いなくなることを危惧した』とさんは言っていましたが」
「それもある。でも…嫌だったのだろう。テロで3人も大切な人を亡くしたんだ。幕府や政治機関
に関わることを拒否していたんだ」
「…なるほど」
僕が頷くのを見ると,松本先生も「うむ」と顎を引いた。
「それで私は官医になり,あいつは町医として残った。けれどもその3年後に…病で。医者の不養生
だよ,まったく」
「さんも同じことを言っていましたよ」
「ははっ…そうか」
僕の言葉に,先生は溜息をつくようにして笑った。
――わたし…父上が大好きでした。
(…まただ)
何の躊躇いも無しにそう言っていた君の笑顔が,僕の頭を過ぎった。
それはとても――とても輝かしい笑顔だった。
思わず絵に描きとめておきたくなるくらいの…
けれどもあまりの眩しさに,逆に目をそらしたくなるくらいの…
僕は瞼をぐっと閉じ,すぐさま開いた。
(僕には…わからない感情だ)
親に対して畏怖の念を抱くことはあれど,そういう暖かな親しみを抱くことは無かった気がする。
そしておそらくこれから先も――たぶん無いように思える。
君の両親はもうこの世にはいない。
それでも強い何かで,喩えようも無い程に強固な何かで,今でも彼女と繋がっているのだろう。
(逆に…僕はどうだ)
僕の両親は今でも故郷で生きている。
けれども長らく音信不通状態であり,かといってそれで何か困ったことがあるわけではない。
連絡を取り合わなくても,お互いに何も支障はない。
血の繋がり以外には何も無い。何でも繋がっていない。
きっと――繋がる日は一生来ないだろう。
(…)
僕は頭を振って暑気を払い,再度松本先生に問いかけた。
「それで松本先生がさんをお引取りに?」
「ああ。は優秀な医師の卵だからね。その時以来私のもとで弟子として学んでいるんだ」
先生は紙袋の持ち手を変えると,少しだけ小声になった。
「実を言うと…賢海には申し訳なくてね。あいつは幕府と関わることを拒否していた。なのに今,
彼の娘は私に従って幕吏の下にいる」
(…たしかに)
父君が官医を辞退した理由を聞いた時,実は僕もそれが少し引っ掛かってはいた。
――父君は幕府と関わることを嫌がっていたのに,その娘は今真選組にいるではないか。
そう思った。
かといって,父君の生き方をそっくりそのまま娘が引き継いだとしても,それはそれでおかしな
話だと思う。父君には父君の考え方あるように,娘には娘の考え方があって当然だ。
ましてやあの君のことだ。
彼女ならば,官医である松本先生の下で学ぶと決意した時,既に心の中で色々な感情にけじめを
つけているような気がした。
そして彼女の父君も――自分とは違う選択肢を取った娘を,遠くから見守っているような気がする。
実際に会ったことも,話したこともないけれども。
「僕が口を出すようなことではありませんが…気に負うことは無いのでは?」
日差しに灼かれた橋を渡りつつ,僕はゆっくりと口を開いた。
「たとえどんなに優秀な人物でも,埋もれてしまっては意味がない。松本先生はさんという医師の
卵が世に埋もれることから救ったのです。ましてや父君にして見れば『娘の人生を救ってくれた』
ことに他なりませんよ。感謝こそすれ恨んでいるはずはありません」
いくら才能に恵まれていても,いくら努力を積み重ねていても…それに見合うだけの評価を得ることが
出来ないのならば『不幸』だ。
学問でも芸術でも武芸でも――この世で才能を持て余している人物は,ごまんと存在するだろう。
松本先生はその『才能の芽』を持つ人物を1人救ったのだから。
悔やむことは少しも無いように思えた。
「…そうかな」
先生は橋を渡りきった所で1度足を止め,
「うん…そうであることを願うよ。かたじけないね,伊東君」
眦を緩め,非常に嬉しそうな皺を浮かべて笑った。
「いえ…」
年嵩の人物から礼を言われたのは久方ぶりだったため,僕は少し気恥ずかしくなった。
ごほんと咳払いをして,視線を静かに外す。すると,川沿いに設置されたベンチに座る老夫婦が丁度
目に入った。僕はふと思いついた疑問を,松本先生に訊いた。
「話は変わりますが…松本先生はご結婚なさらないのですか?」
「うーむ。残念ながら生来モテた例がなくてね」
「ご冗談を」
「はっはっはっ」
大きく口を開いて笑う先生は,明朗快活で親しみやすい。
失礼な話,老いてもなお整った顔立ちをしていると思う。若い頃はさぞ女性から騒がれただろう。
『結婚できなかった』とは思えない。ということは『結婚しなかった』のだろう。
それは何故か。独身主義者なのだろうか。それとも…
(もしかとすると君の母君に…?)
母君が亡くなった時のことを話す先生の様子を思い出し,そんなことを考えた…が。
(…まさか)
このような邪推をはたらかせるなど,自分らしくないことだ――僕は自嘲的な笑いを浮かべた。
路傍でお喋りに興じる妻人達の笑い声が耳をくすぐった。
彼女らが手に持った日傘は,夏の日差しの中に彩りを添えている。
今度は松本先生が,同じ質問を僕に返した。
「伊東君こそ誰かいいひとがいるんだろう?」
「いませんよ」
「ははっ冗談だろう。君ほどの男が」
「いや冗談ではありませんよ」
「本当かね?」
「本当です」
「じゃあはどうかね?」
「…」
不意打ちの提案にろくな反応ができず,僕は目を瞬かせた。
「は?」
松本先生の方に顔を向けると,彼はとてもにこやかに笑っていた。
「私が言うのもなんだが,とても良い娘だよ。医学以外のことに関しては少しぬけたところのある娘
だけれど,とにかく色んな人から好かれる娘でね。自慢の弟子なんだ」
「そ,それはわかりますが…」
「どうだね?ん?」
「い,いやその…『どうだ』と言われましても」
(…おかしい)
普段の僕ならばこういう話題を振られても,即座に上手く受け流すのだが。
実際,幕府の高官達の「娘の婿に」という言葉を度々断ってきた(勿論当たり障りの無いように)。
それなのに…
(なぜ…受け流せない?)
それどころか猫と戯れて笑っている君の顔が思い浮かんでしまい,しかもどうしてかそれを
容易に頭から消すことができない。
(…暑さのせいで頭が回らなくなっているのかもしれないな)
屯所に着いたらまずは水分を補給しよう。
「おや…伊東君がそういう風に言いよどむのは珍しいね。ひょっとすると脈ありかね。ん?」
「ご,ご冗談を。松本先生」
「いや~この年になると自分にそういう話が無いもんだからね。どうしても若者らの恋の世話を
焼きたくなるんだよ」
「そ,そうですか…」
「そうなんだよ。いやでも私が医学生だった時は…」
その後は君の話から微妙に離れ,「若い頃は素直に行動した方が良い」だの「告白は男から
するべきだ」だの――松本先生の恋愛講義を,屯所に着くまでの間延々と聞かされた。
…なぜこの只でさえ暑い中,ますます暑くなるような話を聞かされなければならないんだ。
僕は内心げんなりしながらも,「話題が逸れてくれて助かった」と安心してもいた。
もう当初の予定だった『市中見回りをしながら帰る』ことなどすっかり頭から抜け落ちていた。
赤い首輪の犬が道端に寝そべって,さも暑そうに舌をだらりと垂らしていた。
気怠げにこちらを見上げる彼(彼女?)と目がぱちりと合ってしまい,僕はこっそり溜息をついた。
――とにもかくも。
この頭にのぼった熱を,早くどうにかしたくて仕方が無かった。
一時も早く。
この熱を 冷ましたかった。
+++++++++++++++++++++++++
屯所の門をくぐった後,僕は松本先生と別れ,出張先で得た情報を近藤さんに報告した。
そして報告後まだ昼間ではあったけれども,一足先に湯を浴びて汗を流した。
その時にはもう頭に上がった熱も,溜まっていた疲労もいくらか和らいでいた。
和らいでいたのだが…
「ふんっ」
「えい!」
自室へ戻る途中に庭の側を通ると,一組の男女の姿が目に入ったため,僕は足を止めた。
(君と…山崎君か)
両者が手にした『ミントン』のラケットを見るに,どうやら2人で打ち合いでもしているらしい。
僕は高い植え込みの後ろに立っているため,彼らの方から僕の姿を見ることはできないようだ。
だからというわけでは決してないが,僕はじっと君を注視した。
数週間ぶりに見た君は,以前よりも少しだけ痩せているように見えた。
まさか早速夏バテになっているわけではあるまいな(医者なのに),と余計な心配が頭をよぎる。
いやしかしこの炎天下にあれほど動き回っているのだから,おそらく健康ではあるだろう。
そのままぼんやり眺めていると,
「とぉ!……あ゛!」
君の打ったシャトルがあらぬ方向へと飛んでいった。彼女はそれを眺めると,悔しそうに口を
尖らせて自分のラケットを睨んだ。
「なんで真直ぐ飛ばないのかな…もう」
その言葉を聞くに,彼女が今までに何度もこういうホームランを打っていることが知れた。
山崎君は離れた場所に着地したシャトルを拾うと,君に小走りで近寄った。
「持ち方が良くないんじゃない?ちょっと握ってみてよ」
「ん~…こう?」
微妙にラケットの持ち方を変えながら,君は彼に首を傾げた。
(…いつから仲良くなったんだ)
互いに敬語が抜けている,ということに気付いた途端――僕の心臓は昏い鼓動を打った。
耳のすぐ横で,弦が次々と音を立てて切れていくかのような――理不尽な焦燥感を抱いた。
自分の視線が鋭くなっていくのを,抑えることができない。
「違う違う。こうだよ」
僕がそういう苛立ちに耐えている間も,彼らは仲良さげに言葉を交わしている。
「え?どう?こう?」
「いや違うから。こうだよ,こう」
「……う~ん??」
「……さんってさ,診察とか治療の時以外はとろいし不器用だよね」
「うっ…でっでも体力はあるのよ」
「体力はあっても運動神経は切れてるんだね」
「ううっ…ひどい」
おそらく――僕が山崎君と同じ立場だったとしても,君に手厳しいことを言っただろう。
けれども,だ。
僕以外の人間が,彼女に対してそういう口をきいているのを見ると,ひどく不愉快であり,また
ひどく腹立たしく思えた。
炎日に照らされた庭に草いきれが漂い,その熱気で胸がむせ返りそうになる。
風が死んだようにはたと途絶えて,耐え難いほどの熱光が僕の身と心をやく。
「こうだよ,こう」
照れもせず恥じもせず,山崎君がごく自然に君の手をとった。
「…っ!」
「死ね,山崎」
ついに心の声が口から出てしまったのかと思った――が,違った。
その声は僕よりもずっと離れたところから聞こえた。
そして次の瞬間,ドォォンッという派手な轟音が庭に響き渡った。
僕の目の前にある植え込みも,その衝撃でゆさゆさと揺れる。
「うぎゃあああああああ!!!!」
「ええええええ!!??」
前者は山崎君の悲鳴,後者は君のそれだった。
一体何事かと思い,僕は植え込みの後ろから離れ,庭全体が見える位置へと移動した。
その直後すぐに納得した。
「沖田隊長!いきなり何すんですか!危ないでしょーが!!」
「び,びっくりした……沖田さん?」
山崎君の足元の土が抉れており,そこからぷすぷすと黒い煙が上がっている。
2人の視線の先に立っているのは――砲口くすぶるバズーカを手にした若き一番隊隊長だった。
「おー悪ィ悪ィ。ほのぼのした雰囲気見てたら妙に勘にさわって…つい撃っちまった」
「『つい』でそんなもん撃たんで下さい!」
青ざめた山崎君が沖田君に叫び散らす――彼の反応は至って正しい。ごく当たり前の反応だ。
対する沖田君の行いは,お世辞にも褒められたものではない。むしろその逆だ。
砲弾は無料ではないし(これも税金から支払われているのだ),直に当たったら洒落にならない。
それなのに…だ。
(…なぜか沖田君を称賛したい気分だ)
「あれっ…伊東さん!」
不毛な言い合いを続ける隊長と監察をよそに,君が僕に気付いた。
彼女はハッとしたようにぱたぱたと衣服を払い,ぱぱっと髪型を整え,ささっと額の汗をハンカチで
拭い…やっとこさ僕に走り寄って来た。女性というのは時として次の行動に時間がかかるものだ。
けれどもその前置きの動作で,彼女が僕に対して――山崎君や沖田君に対してよりも――恥じらい
を持っているということが窺えて,内心僕は非常に満足した。
つい先程の焦燥感が,きれいに消え去るほどに。
「いつお帰りに?」
動き回っていたせいだろう,君の頬はいつもより少し赤らんでいる。
「ついさっきだよ」
僕がそう答えると,彼女は顔全体で思い切り笑った。
「おかえりなさい!」
「……ああ,うん」
耳慣れない言葉に戸惑いを覚え,呆けた返事しか僕の口からは出なかった。
先程松本先生に「の父親に似ている」と言われたせいだろうか――まるで自分の娘から出迎え
られたかのような気持ちになった。
君はそんな僕の戸惑いをよそに,ぽんと軽快に手を打った。
「そうだ!伊東さんも沖田さんも一緒にどうですか?」
「何をだい?」
「なにをでィ?」
僕と沖田君の声がかぶったことに,君はおかしそうに小さく笑った。
「ミントンですよ!ラケットたくさん持ってますよね,山崎さん?」
「え…うん。持ってるけど(隊長や伊東さんがミントンって…するわけないよ,ぷぷっ)」
話題をふられた山崎君は,どうとも形容しがたい微妙な表情で返事をした(あれはろくでもない
ことを考えている顔だな)。
「ね,やりましょうよ!」
「まァ…たまには良いかねィ」
今にも跳ねんばかりにはしゃぐ君に,沖田君は頭を掻いて頷いた。
「って,ええっ!?やるんですか,沖田隊長!?」
「なんでィ山崎。なんか文句あるのかィ?」
「いいいいいや!ないですけど!!」
「…」
…なんというか。
沖田君に限らず,隊士達は君にどうも「甘い」気がする。
そういえば,彼女の言うことを断ったり拒んだりする人間を,僕は見たことがない。
それは羨ましくもあり…少しだけ悔しい。
僕は――真逆だったから。
「僕はいいよ。一浴びして来たばかりだから」
君のことを好ましく思うと同時に,苦々しくも思う。
僕は――『彼女を見下すことができない』から。
他人を自分より下に見ることを当然として来た僕にとって,それはある意味「脅威」だった。
しかし,立ち去ろうと踵を返しかけた僕の袖を,君はきゅっと握って引き止めた。そして,
父親や夫に甘えるかのような,息子や弟を遊びに誘うかのような…誰が見ても親しみを感じずには
いられない笑顔を僕に向けた。
「いいじゃないですか。ちょっとだけ。ねっ?」
――やめてくれ。
――それ以上入って来ないでくれ。
「いや僕は…」
「それとも,」
君は言葉を少し止めると,今度はいたずらっぽい笑みでにやりと僕を見上げた。
「逃げるんですか?」
「!」
枯れていた風が動き出し,青嵐が庭を駆け抜けていった。
「受けて立とう」
腕まくりをしながら僕が頷くと,
「やった!」
君はとても嬉しそうに小さくガッツポーズをした。
「…」
自分がただ頷くだけで,誰かをこれ程までに喜ばせる時もあるということを…僕は知らなかった。
(…それにしても,おかしい)
普段の僕ならばこういう風に挑発されても,適当に受け流すのだが。
心中で首を傾げながら,眼鏡の中心をくいっと押し上げた。
「じゃあまずはペアを決めましょ!」
「うん,そうしよっか。グーとパーで分かれる?」
「いや裏と表だろィ」
「いやどちらでも同じだろう」
こんなとりとめのない無駄な言い合いをしながら遊びに興じるのは――生まれて初めてだった。
「よし行け,山崎」
「あいよ!…ふんっ」
「…あ!………今のは伊東さんのです!」
「いや明らかに君の方に飛んでいただろう!」
「あんなの打ち返せません!」
「どんどん行くよ~」
「どんどん行きやすぜィ」
「もういいから,君はじっとしていてくれ」
「そんなのつまらないから嫌です!」
「ならせめて自分の方に来たシャトルはとってくれ!」
――誰かと共に何かをして『楽しい』と思ったのも,生まれて初めてだった。
「てめェら何遊んで……って,伊東!?お前まで何やってんだよ?!」
「邪魔しないでくれたまえ,土方君!僕は今忙しいんだ!」
「いや遊んでるようにしか見えねーよ!!!!」
青く広がる大空の下,副長の怒声が庭に響く。
日差しが強く照りつけてきて非常に暑い。
体中に浮かぶ汗が,体中を覆う熱気が,僕の存在の中心を激しく煽った。
この暑さを,心地よく感じる自分が確かにそこにいた。
もしも――
――あの暑さを忘れなかったのなら,何かが変わっていたかもしれない。
「救われたい」だなどと 思ったことはなかった
自分を救えるのは自分だけだと そう信じてきた
でも…
もし「助けてくれ」と 縋れていたのなら
もし「ここにいたい」と 口にできていたのなら
もっと未来は 違っていたのだろうか
もっと未来は 幸福だったのだろうか
2009/01/30 up...