君はいつも 笑顔と息苦しさを 共につれてきた
君と話すと 自分が『いいもの』になった気がした
でも同時に ひどい自己嫌悪を抱いたりもした
それは 快いことであり 時に苦痛でもあった



残照  <六>



青く澄んだ晴天の下,和やかな涼風にのって蜻蛉が屯所の庭を行き交っている。
先週まで夏の名残の蒸し暑さが汗を誘っていたが,ここ数日の間に気温は下がり,幾分か過ごしやすい
日和になっていた。どうやら『暑さ寒さも彼岸まで』は正しい諺のようだ。このまま暑さがぶり返す
ことなく,季節が速やかに秋へと移ってくれることを,僕は切に願った。

(それにしても…何故)

回廊を歩いていた足を止め,僕は大部屋の前に立った。
閉じられた障子の向こうから,馬鹿笑いや無意味な手拍子が漏れ聞こえて来て,自分の眉間に皺が寄る
のを禁じえない――はっきり言って「入りたくない」。
しかしそういうわけもいかず,僕は溜息を1つついて取っ手を引いた。

「わははは!いや~新しい畳の上で飲む酒は格別だな!」

やかましい笑い声をあげながら杯を掲げる局長の姿が目に入り,一気に脱力しそうになる。

(何故,昼間からこうも酒を飲む必要がある…?)

近藤さんの周りで飲んでいる隊士達も,皆一様に顔を赤くして飲んだくれている。
<そんなだから芋侍だのチンピラ警察だの世間から揶揄されるのだ>と言ってやりたい。
彼らと共に飲む気はさらさらないので,気付かれないよう速やかに部屋の隅へと移動した。

「伊東先生」
「ああ,篠原君」

篠原君をはじめとして北斗一刀流の隊士らがまとまって座っているのを見つけ,僕はそこに座した。

「随分と盛り上がっているね」
「はい…15時だというのに」

侮蔑をこめた微笑を浮かべ,篠原君は近藤さん達の方を見た。

「『もっと時間をずらして帰ってくればよかった』とお思いでしょう,伊東先生?」
「出来ることならそうしたかったのだがね。あいにくこの時間しか新幹線の席が無くてね」
「もっと早くにお知らせするべきでした…すみませんでした」
「いや,仕方無いだろう。彼らの思考は,どうにも僕らには読みづらいものがあるからね」

篠原君から新しい杯を受け取って,僕はそれに口をつけた。
今日の宴会について聞いたのは,今朝のことだった。
出張先の志摩で,江戸へ帰る支度をしている最中に篠原君から電話があった。
電話の冒頭で突然「あの…今日が何の日か知っていますか?」と彼に問われ,「知らない」と答えた。
すると,

――今日は『畳の日』らしいです。

正直「だからなんだ」と言いたくなった。
よくよく話を聞いてみると,今日は『畳の日』だとかで(ちゃんと記念日に登録されているらしい),
屯所内の畳が全て新しいものに替えられた。
それで,きれいな畳の上で日がある内から宴会を行うことになった,と。
…いや後半部分は明らかにおかしい。全く脈略がないことこの上ない。

――新しい畳を日光と風に当て,その上で酒盃を交わすことで清めの儀式になるそうです。

そんな儀式,いまだかつて聞いたことがない。
もっともらしい理由をつけて昼間から酒を飲みたいだけだろう。
そのような馬鹿馬鹿しい宴に参加する気など毛ほども起きず,夜に帰るよう変更しようとしたのだが,
あいにく空席が無く,結局当初の予定通り昼間に帰ってくることになってしまった。
決して酒が嫌いというわけではないが,こういう騒がしい宴会は好きではない。
もっとも,酒の席では人の心を操ることが通常より容易になるため,それ相応の目的のために参加する
ことは多々あるが。
隊士たちの愚かしい騒ぎ様に目を細め,僕は盃の酒を飲み干した。

「良い匂いがしますね~新しい畳は」
(…!)

男達の濁声にまじって,高く澄んだ声が聞こえてきた。
ほぼ反射的にそちらを見ると,君が沖田君や土方君と共に酒を飲んでいるのが目に入った。

「でもこうもキレイだとかえって汚したくなりまさァ」
「だ,駄目ですよ!お酒こぼさないでくださいね!」
沖田君の物騒な言葉に,君は慌てた様子で彼から『鬼嫁』の瓶を奪った。

(…元気そうだな)

久しぶりに見る姿に,思わず笑みがこぼれそうになる。
僕が一点を注視しているのに気付いた篠原君は,不思議そうに目を丸くした。

「伊東先生,どうしました?」
「いや…珍しいと思ってね。君がこういう席にいるのは」

今まで飲み会で顔を合わせたことが無かったため,てっきり下戸だと思っていた。
しかし今彼女が手にした杯を見る限り,どうやらそういうわけではないらしい。
僕の疑問に篠原君は「ああ」と頷いて説明し始めた。

「松本先生に言われたそうですよ。『たまには宴会に顔を出して来なさい』と」
「松本先生に?」
「はい。いつもは松本先生がお飲みになりますから,その間彼女が診療室にいるんですけどね。医師が
 2人共酔うわけにはいかないから,とのことで。でも松本先生は今日中に書きあげなければならない
 論文があるそうで。『診療室には私がいるから,今日は君が宴会に出なさい』と言われたそうです」
「…なるほど」

松本先生はなかなかの酒豪で,どんな名目の宴会にも嬉々としてほぼ毎回出席している。
だから反対に君はほぼ毎回欠席だったというわけか。

「はイケるクチか?」
「お酒を飲むのは好きなんですけど…そんなに強くはなくて」
「そうか。まァたらふく飲めや」
「って土方さん,人の話聞いてます!?」

強くないって言ってるのに!と抗議する君を無視し,土方君は彼女の盃になみなみと酒を注いだ。
当然君はぷりぷり怒っているが,それを見る土方君の表情はどこか楽しげだ。

(いつの間に…呼び捨てに?)

それも,ああいう風に軽口が叩ける仲に――いつの間に。
元からあの男は気に食わなかったが,それに拍車がかかりそうだ。

「…」

――黒い苛立ちと 赤い焦燥が 突き上げてくる。
たしか以前にもこれと似た感情を抱いたことがあった気がしたが,それがいつだったかをすぐには思い
出せなかった。

「嬢は酔うとどうなる体質なんでさァ?」

今度は沖田君が彼女に向って話しかけた…というか彼は未成年であるというのに,なぜああも堂々と
酒を飲んでいるのだ。今更のことだが,君はそれでも公務員か。
そんな僕のつっこみをよそに,君は沖田君の問いにきょとんと目を瞬かせた。

「『どうなる』って?」
「あるじゃねーか,いろいろ。泣き上戸になるとか,笑い上戸になるとか,歌い出すとか踊り出すとか
 脱ぎ始めるとか」
「ぬ,脱ぎません!」
「オイやめろ,総悟。今のセクハラで訴えられたら間違いなく負けるぞ」
「なんでィ土方。固いこと言ってんじゃねェやこのヤロー。脱ぎ始めたらめっけもんじゃねーか」
「脱ぎませんってば!」

「…」
「あの…伊東先生,箸がめきめき言ってますよ?折れそうですよ?」
「…ああ」

我知らず箸を握る手に力が入ってしまっていたようだ。
いやなんというか――沖田君をぶん殴りたくなった。

「んじゃ酔うとどうなるんでさァ?」
「うーん…ぼんやりする,かな。目を開けたまま眠っちゃうんです」
「お前は金魚か」
「よし,いっぱい飲みなせェ。大丈夫大丈夫。本当に眠っちまってもちゃんと運んでやりまさァ」
「えっ?」
「なんなら姫抱きで布団まで運んでやりますぜ。ちゃんと寝巻きにも着替えさせてやんねーとな」
「こ,困ります!!」
「だーかーら,セクハラはやめろって言ってんだろうが総悟!」

「…」
「い,伊東先生。盃がぴきぴき叫んでます!割れそうです!」
「……ああ」

我知らず盃を持つ手に力が入ってしまっていたようだ。
いやなんというか――沖田君をぶった斬りたくなった。
僕は盃をそっと置き,内心で深い溜息をついた。

(どうかしている…)

眼鏡を一旦外し,目頭を軽く押さえる。
こんなにも感情の浮き沈みが激しくなるなんて…子どもの頃以来な気がした。


――先日保管庫に入り込んだ際,さんに見つかりました。
――…見られたのか?彼女に?
――ええ。彼女は松本先生が使用なさる資料を取りに来たんです。それで…。
――彼女は…聡い。勘付かれなかったかい?
――大丈夫です。上手くごまかしましたから。
――…そうか。
――けれども1つ伊東先生に謝らねばならないことが。
――ん?
――僕が保管庫にいたことを局長や副長に伝えられては困ると思い…彼女の気をそらすために,先生の
  話をしました。
――僕の話を?…なぜ?
――さんの気をそらすには最も効果的な話題だと思いましたので。
――……。


先日,電話で受けた篠原君からの報告を思い出した。
より多くの人員を『こちら側』に引き込むために,篠原君には隊士たちの個人情報を探らせていた。
その一環として保管庫への侵入を命じたのだが,まさか君にそれを見られるとは思わなかった。
ごまかせたのならそれでいい。それでいいはずなのだが…

   さんの気をそらすには最も効果的な話題だと思いましたので。

(…僕の話題が?)

少なくとも篠原君はそう思ったのだろう。
僕と君は,周囲の人間から一体どういう風に見られているのか。
低俗な連中の目などどうということもない,とそう思っていたのに。
――近頃 それがひどく気に掛かる。

多くの隊士達に囲まれて,君は溌剌と笑っている。
なんの裏表もない明るい笑顔だ。

「…」

僕は君の前ではよく笑う…その自覚はある。
でも彼女はそうじゃない。
君は誰の前でもよく笑うのだ。
たとえその相手が僕ではなくても。

――近頃 それがやけに腹立たしい。



+++++++++++++++++++++++++++++



思いの外飲み過ぎて頭痛がしてきたので,僕は一旦席を外すことにした。
水をもらうために調理場へ向かい,喉を潤して再び回廊を歩き出した時,既に夕焼けが始まっていた。
朱色の雲が幾重もの層をなし,西の空を煌々とたなびいている。その中心で,太陽が黄金色の輝きを
止め処なく放っている――秋の涼風を照らし出す,燃え上がるような夕日だ。
眩い光に目を細めながら歩を進め,角を曲がったところで細長くのびた人影が視界に入った。

「…!」

回廊の縁側に座り,地面に向かって足をぷらぷらさせているのは――
――彼女だった。

「…」

君は特に何をするでもなく,ただ庭の池の方を一途に眺めている。
夕日に照らされた彼女の顔は,他のあらゆる物と同じくオレンジ色に染まっている。
ぼんやりとした君の眼差しは,霧でもかかっているかのようで…どこか心もとない。
先程の「目を開けたまま眠ってしまう」という彼女の科白を思い出し,ひょっとしてその状態なのか,
と僕は目を大きく見張った。しかし,

「おかえりなさい,伊東さん」

君の耳には僕の足音がちゃんと届いていたらしい――彼女はこちらを振り向いて微笑した。

「ああ…ただいま」

彼女の「おかえり」が,今日出張から帰ってきたことへのそれなのか。
もしくは,たった今調理場から戻ってきたことへのそれなのか。
もし後者ならば…彼女はここで僕を待っていたのだろうか?夕日を見ながら?
様々な疑問が頭に浮かんでは,はっきりした答えを出せずに四散していった。

「待ちくたびれました~」

拗ねたように少し口を尖らせて,君は頭を左右に軽く揺らした。
今日の彼女の声は,なんだかとてもふわふわしている。酒が入っているせいだろうか。

「それは悪いことをしたね…」

かくいう僕自身の声も,いつもとは違う気がする。どこが,と訊かれても上手く答えられないが。

「夕涼みかい?」

そう問いかけながら隣りに座ると,彼女は心なしか嬉しそうにはにかんだ。

「ええ。少し酔ってしまったので」

君は手のひらで自分の顔をぱたぱたと仰いだ。
その頬が赤いのは,輝く夕日のせいなのか。
許容範囲を超えた酒のせいなのか。
それとも――隣りにいる僕のせいなのか。

(…なにを馬鹿な)

自分の浮ついた思考に驚き,胸中で自嘲してしまう。
どうやら僕の方もかなり酔っているらしい。

「2つの夕日を見ていたんですよ」

なんとも不可解なことを言い始めた君に,僕は首を傾げた。

「2つ?」
「はい,2つです…ほら」

彼女の示した視線の先を追いかけ――僕は苦笑した。

「本当だ」
「ね?」

僕が頷くのを見て,君はくすくすと笑った。
1つは 塀の向こう側で輝く空の夕日。
もう1つは…庭の池でゆらめく水面の夕日。
確固たる形をもつ太陽と,不確かな球体の太陽。
いうなれば――双子の太陽だ。

「天の夕日は勿論きれいだけれど,こういう風に水面に映った夕日もきれいですね。
 とても危うくて…今にも揺れて消えてしまいそうで。つい見入ってしまいます」

ふと彼女は池から目を離して,僕の顔を熱のこもった視線で見つめてきた。
急に目が合ったことに僕の胸はざわついたが,酒によるぼやけた熱が動揺をごまかしてくれた。

「先日,篠原さんからお聞きしました。伊東さんには双子の兄上様がいらっしゃるんですね?」
「!」

南風が吹いてきて,朱色の水面がさざめいた。
まるで紅い魚の群が泳いでいるかのように,波の上を夕光が乱反射する。

(よりにもよって兄上の話をしたのか…篠原君)

暗色が体の中心に落ちてくる。
苦々しい感情を抑えたくて,僕は自分の胸あたりを小さくつかんだ。

「双子ってどんな感じなんですか?わたし,兄弟が1人もいないから…」

君の声はつとめて優しかった。その声を聞くと,不思議と少しだけ気持ちが落ち着いた。
元はといえば彼女の言葉によって動揺したというのに…おかしな話だ。
僕は咳払いをして,じっと考え込んだ。

(何と答えるべきか…)

適当な嘘をつくことはできる。
当たり障りのない答えを紡ぐこともできる。
でも――僕の心は 彼女にそうすることを拒んだ。
頑なに 拒んだ。

「…この夕日と同じだよ」

天と水――燃え上がる2つの太陽を見やって僕は答えた。

「え?」
「僕は天の夕日。兄は水面の夕日だ」

信じられない程に紅い太陽が,さざ波の立った水面を焦がす。
夕光に照らされたススキの群が,篝火のように不規則に揺れている。

「君も先程言っただろう。『水面の夕日の危うさがきれいだ』と。
 人は…危うさや儚さ,弱さを目にすると,どうしてもそれに構わずにはいられない」
「それは…」

君の声からは,若干の戸惑いが感じ取られたが,

「それは,そうかもしれません…ね」

静かに僕を肯定した。

「そうだろう?」

僕も彼女に向かって頷きを返す。
数層に分かれていた雲が集まって,巨大な赤い塊へとなり変わった。
まるで暗い群青の空に浮かぶ紅の大陸のように。

「兄は子どもの頃非常に病弱でね。両親や祖父母は皆…『危うい水面の夕日』に執心していた。
 だから僕はひとりでいることの方が多かったな」

『家の中でも外でも』という言葉は心の内だけで唱えた。
くだらない自尊心だとは思ったが。
それでも…守り通したかった。

「自慢じゃないが,僕は兄より色々な才に恵まれていた。だから…両親は殊更歯がゆかったのだろうね。
 いくら才があっても次男では宝の持ち腐れだ,と」
「そんな…!」
「古い考え方の人間もまだまだ沢山いるんだよ」
「でも…」

君の表情がにわかに曇った。小さな唇がなにか言いたげに震えている。
彼女のこんな表情は…見たくなかった。
いや――もしかすると真逆かもしれない。
自分のことで彼女が苦しみを感じてくれているのを,心のどこかで僕は喜んでいた。
だから言葉が止まらなかった。

「『兄の全てを弟が奪って生まれてきた』と」
「誰が…誰がそんなことを…!」
「僕の母だ」
「!」

君は息を呑んで,手のひらを口にあてた。
そして,癇癪を起こして泣き始める寸前の幼子のような表情になった。
激しい憤りが,彼女の瞳を潤ませていた。
腹の底から怒りを抱いている人の表情は――泣き顔によく似ている。
どちらも苦痛から生まれるからだろうか。
怒りも…悲しみも。

「意外に思うかもしれないが…僕と兄上はね,決して仲が悪くはなかったんだよ」

夕焼けを飛び回る蜻蛉の群を見て,僕はふと思い出した。
まだ幼かった時分,兄上の具合が良い日には2人で色々な話をした。
母上は「起き上がると身体に障るから」と言って,僕と兄上が会話するのを快く思っていなかった。
だからこっそり忍び込んで,他愛もない話に2人で笑い合ったものだった。

「けれどもお互い相手に対して負い目を感じていた。
 兄上は僕に『両親を独り占めにしてすまない』と。
 僕は兄上に『双子なのに自分だけ健康ですまない』と」

滅多に外へ出られない兄上のために,花や葉っぱ,時には捕まえた虫を見せてあげた。
籠に入れた蜻蛉を見せると,兄上は嬉しそうに笑っていた。
でも見終わった後には「離してやってね」と決まってそう言った。
今にして思えば,籠の中の虫と,部屋にこもりきりの自分とを重ねていたのかもしれない。

「言葉にして謝り合ったわけではないが,わかるんだ」
「…双子だから?」
「どうかな…おそらくそうだろう」
「兄上様は,今?」

君の問いかけに,僕は微かに笑った。
零れた吐息は,朱色の空気に溶けていく。

「今は元気だよ。当主として立派に役目を果たしている」

僕が江戸へ発つ日――兄上はただ静かな表情をしていた。
枕元で「いってきます」と言った僕の頭を,兄上はゆっくり一度だけ撫でた。
その手のひらが「ごめんね」と言っている気がした。
「君を追い出してしまってごめんね」と。
――あれからもう何年経ったのだろう。
父や母は1度も便りをよこしてはくれなかったが,その分兄上は何度も手紙を送ってくれた。
家の様子や自分の健康状態について報せてくれたし,「たまには帰っておいで」とも言ってくれたが…
…あの家に 僕はいない方が良い。

「すまないね,こんな話をして。忘れてくれるかい」
「伊東さん」

強い 呼び声。
はっとして声の方を向く。
沈みゆく光を受けた君の双眸が,まるで射るように僕を見上げている。

「誰かに弱音を吐いたことはありますか?」

射抜かれる――そう思った。
遠い日の記憶が,耳鳴のように頭の中で響き渡る。


――もっと もっと頑張らなければ
――もっと頑張れば きっと僕を見てくれる


「誰かの前で泣いたことはありますか?」

記憶の中に――彼女の声が入ってくる。
息苦しさに喉を押さえたが,何の効果もありはしなかった。

「…いや」

たった二文字の否定を紡ぎ出すのに,ひどく時間がかかった。

「じゃあ…隠れて泣いたことは?」
「…」


――あんな子 生まれてこなければ良かったのに


体中を掻きむしりたくなる衝動が突き上げてきて,きつく瞼を閉じる。

熱い。
凍えるほどに 熱い。
寒い。
灼けるほどに 寒い。

止まない頭痛に叫びだしそうになった時,僕の頬に柔らかいものが触れた。
自分の肩が滑稽な程びくりと震えたのがわかった。
おそるおそる目を開くと――穏やかな君の瞳がそこにあった。
海のように深い瞳が,僕の姿を鮮やかに映し出していた。

「わたしは…自分の子供に涙を隠させる母親を,同じ女として許せません」

君は僕の頬に手のひらをあてていた。
ひんやりと 柔らかい。
ただ触れられているだけだというのに,頭痛の波がひいていく。
耳鳴が消えていく。

「伊東さんにそんな思いをさせた人を許せません」


――なんで
――なんでみんな 僕を見てくれない


「わたしが伊東さんのお母さんだったら…そんな思い絶対にさせなかったのに」

彼女は僕を見ていた。
ただ 真直ぐに。
僕だけを 見ていた。

「涙を拭ってあげたのに。一緒に泣いてあげたのに」

僕らを照らす太陽の残り火が,紫紺の空を彩っていた。
くすぶった熱が 夜色を引き寄せる。
散らばった赤が 夜風を煽り上げる。

「あなたの泣き場所になってあげたのに」



残照が――眩しい。



「ありがとう…」

彼女の名前を呼ぶ。
たったそれだけのことで,世界の色が変わった気がした。
たったそれだけのことで,世界の音が変わった気がした。

「もし,僕が女性に生まれていたのなら…君のような女性になりたかった」

孤独も 寂しさも。
過去も 未来も。
そして――自分自身さえも。
たったそれだけのことで なにもかもゆるせる気がした。





君はいつも 笑顔と息苦しさを 共につれてきた
君と話すと 自分が『いいもの』になった気がした
でも同時に ひどい自己嫌悪を抱いたりもした
それは 快いことであり 時に苦痛でもあった
けれどもこれだけは言える

君のくれた言葉が 一番嬉しかった


2009/05/31 up...