「伊東さん,どうぞ」

明るい声と共に机へ置かれた湯呑を見,僕は資料から顔を上げた。
「ありがとう,君」
「いえいえ」
彼女は目を細めて笑い,お盆にのせたもう1つの湯呑を別の人物の元へと運んだ。
「篠原さんも」
「どうも」
僕は篠原君が彼女に軽く頭を下げるのを横目に,湯気を立てるお茶を手にした。
湯呑を持ち上げると,お茶の熱がじんわりと指先から伝わってくる。それと同時に,普通のお茶には
ない爽やかな香りが鼻をくすぐった。よく見ると,お茶の底を何かの花弁がふわふわと漂っている。
「これは何ですか?」
篠原君も気付いたらしく,君に尋ねた。
「菊が入っています。菊の花には目の疲れをとったり,体温を下げたりする効果があるんですよ」
夏バテに良いんですよーと笑い,彼女はお盆を戻しに流し場へと去っていった。

「…やっぱり女性がいると良いですね」

その君の後姿を見て,篠原君はぽつりと言った。
僕と同じくストイックな篠原君が,こういうことを口にするのは珍しい。
それだけ彼女のことを高く評価しているのだろう。
「そうだね」
僕も肯定して,菊花の浮かぶお茶に口をつけた。

実際,君はかなり使える人材だった。
彼女が真選組で働き始めて早1週間になるが,よく気が回るし,よく手足も動くし,仕事を覚えるのも
非常に早かった。
履歴書に書かれていた通り,ブラインドタッチができる上に非常にスピーディだった。
目にも止まらぬ速さでデータを打ち込んでいくので,逆に「本当にちゃんと打っているのか」と不安
になるくらいだった。念のため入力された内容を確認すると,しっかり正確な数値・言葉が打ち込ま
れていて,内心で僕は舌を巻いていた。

しかし――電話での応対に関しては,時々驚くほど派手な間違いをやらかした。
外線の電話だというのに「はい,事務方です」←そりゃ内線だ
内線の電話だというのに「はい,真選組です」←むこうも真選組だ
屯所の電話だというのに「はい,です」←いつからここが君の家になった
…などといった調子だった。
1番酷かったのは,某人物から電話が掛かってきた時「僕はいないと言ってくれ」と君に伝えた
ところ,彼女は「心得た」という風に力強く頷いた。そして受話器に向かって,
「伊東は只今いないと言っております」
と答えてくれやがったのだ。
…あの時はちょっと本気でしばこうかと思った。
世の中にはフォローできない間違いというものが存在する。
でも彼女は失敗することはあっても,同じ失敗を2度はしなかった(してもらっちゃ困るのだが)。
さすがは女性の身で原付を乗りこなし,ゴリラを救出・運搬し,1つバイトが駄目になってもすぐに
次のバイトを手にするだけのことはある。「転んでもただでは起きない」というか。

「伊東先生。さん」

時計の針が12時を回ったところで,篠原君が口を開いた。
「なんだい?」
「なんですか?」
ほぼ2人同時に反応すると,彼は少し可笑しそうに笑った。そして,
「そろそろ昼ご飯,食べに行ってはどうですか。電話の番は僕がしているので」
電話を指差しながらそう言った。すると,
「それなら伊東さんと篠原さんがお先に食べに行ってください。わたしはお2人が帰って来てから
 行きますから」
君はなんとも真っ当で,非常に礼儀正しい科白を口にした。
真選組には,こういういわば『常識』ともいえる言葉を口にできる者がほとんどいない。
近藤さんは<隊士の間に上下はない。皆,五分と五分の仲間だ>と言ってはいるが,ただ単に上下間の
マナーを守れない奴らばかりなだけじゃないのか,とつっこみたくなる。
そういうことを常々思っていたため,君の(ある意味当たり前な)気遣いに,僕はひそかに感動
していた。
「…お気遣いをどうも」
おそらく篠原君も僕と似たような心境なのだろう…声に感嘆がまじっている。しかしすぐに表情を
きりりと引き締め,
「でも,あと少しで僕宛てに電話がかかってくる予定なので」
お先にどうぞ,と彼女を促した。
「そうですか。それなら,お言葉に甘えて!」
君は席から立ち上がり,鼻歌でも歌いかねないほど上機嫌に笑った。
たぶん…なんのかの言いながらも実はお腹が空いていたのだろう。
「じゃあ行こうか」
「はい!」
放っておくとスキップしそうだったので(さすがにそれは止めてほしい)僕は襖を開けて先に歩き
始めた。後ろからすたすたと彼女がついて来るのを確認し,隣りに並んだところで僕は話しかけた。
「もう真選組には慣れたかい?」
「もちろんです!皆さん,とってもよくしてくださるので」
弾んだ声の調子から,それが彼女の本心であることが察せられた。
…たった1週間で真選組に慣れるだなんて,並の神経の持ち主じゃないな。
(まあそれは最初からわかっていたことか)
僕は自分自身の考えに苦笑して,

「君のような若い女性は,今まで食堂以外にいなかったからね。皆なんというか…喜んでいるよ,うん」

喜んでいるというか,浮かれているというか…舞い上がっているというか。
今こうして回廊を歩いている間にも,だ。
すれ違う隊士たちは,君にへらへらと笑いかけて通り過ぎていく。
彼女は彼女で,彼らに対していちいち「こんにちは!」と律儀に挨拶を返していく。
君は特別な美人というわけではないが,全くと言って良い程人見知りしないし,物怖じもしない。
その清々しい気質が,十人前の顔立ちを並以上に見せていると言えた。
日頃女性とあまり話す機会のなかった隊士達にとって,彼女は非常に眩しい存在であるらしい。
男はいつの時代も変わらず単純な生き物なのだ。女性は時代によって矢の如く変わるが。
と,その時――

「あっ…!」
「…おっと」

廊下の角を曲がったところで,君は横の部屋から出てきた影と鉢合わせした。
その人物は素早く体勢を立て直すと,ふらつきかけた彼女の腕をひいた。
「大丈夫か?」
「は,はい」
彼の問いかけに君はこくこくと小刻みに頭を上下させた。僕はというと,その男を視界に入れた
途端,目を細めてしまった。
「土方君。帰っていたのか」
「伊東…」
土方君も僕と似たような反応を示す…すなわち,今にも舌打ちしかねない苦りきった表情になった。
しかしお互いにそれは一瞬のことで,僕も土方君もすぐに無表情をつくった。土方君は僕から目を
外すと,君をまじまじと見下ろした。
「つーことは,あんたか?新しい事務方は」
「はい!」
問われた君は,小柄な背筋をぴしっと伸ばした。
君が働き始めるのと同時に,ちょうど彼女と入れ替わる形で土方君は京都へ発った。
京へご旅行なさる将軍・徳川茂茂様の護衛として随従していたのだった。
したがって今この時が,土方君と君の初対面だった。しかし,新しく事務方が雇われたことを
彼は既に知っていたようだ。おそらく近藤さんにでも聞いたのだろう。
「と申します。よろしくお願いします」
彼女はそう言って,ぺこりと頭を下げた。
「副長の土方だ。むさくるしい奴らばっかりだが,まあ頑張ってくれや」
ふん。自分こそむさくるしい輩の1人のくせに何を他人事のように。
僕が鼻で笑いそうになるの堪える横で,2人は和やかに会話を続けていく。
「土方さんもお昼ご飯ですか?」
「ああ」
…って,ちょっと待て。
なぜ一緒になって歩いているのだ,土方君。
なぜ彼女の左隣りをキープしているのだ,土方君。
いつもだったら僕と顔を合わせた途端,睨みをきかせて去っていくではないか。
なんだかんだ言ってあれだな。君もただの男だな。
まさかとは思うが,ひょっとしてこの流れだと3人一緒の卓につくことになるのでは…。

「食堂のご飯,美味しいですよね。あ!あっち,席が3つ空いてますよ!」

そのまさか。
マジでか。
正直なところ僕は1人で食べたかったのだが,反対する良い言い訳を思いつかず,結局僕ら3人は
お盆を持って,揃って注文カウンターに並んだ(なんだこの構図)。
「今日の日替わりランチは何ですかね?伊東さんは何を食べます?」
昼時特有のがやがやとうるさい食堂の音の中で,君が大きめの声で話しかけてきた。
「そうだな…煮魚定食にしようかな」
「あ~!伊東さんって煮魚似合いますね!」
「…」
どう反応しろというのだ。
薄々勘づいてはいたのだが,このコは少し天然なところがあるようだ。時々突拍子もないことを言う。
しかし僕の怪訝な表情など気にした様子もなく,君は「そういえば!」とメニュー板を指差した。

「前から訊こうと思ってたんですけど,『土方スペシャル』って何ですか?」
「!」

いきなり地雷を踏んでくれやがった。しかも地中に埋められた地雷ではなく,堂々と置かれている
地雷を自ら踏みやがった。
僕は速やかにその話題から彼女を離そうと試みた。
「それはそうと,今日の日替わりランチはナポリタンらしい,」
「『土方スペシャル』に目をつけるたァなかなかの通だな」
どこがだ。
そして人の言葉を遮るな,痴れ者。
「おいしいんですか?」
「食ってみるか?」
「はい!」
「ちょっと待っ…」
「『土方スペシャル』2つ」
「はいよっ」
カウンターの向こう側,厨房を行ったり来たりしている所謂『食堂のおばちゃん』が歯切れよく返事
をした。いや少しは疑問を持ってくれ。あんな犬の餌が2つも注文されたんだぞ。
そして僕はその2つを見ながら飯を食わなきゃならないのか。
なんの懲罰だ。なんの拷問だ。
想像しただけで吐き気がする。
「君!」
「はい?」
堪らず僕が叫ぶと,君はきょとんと目を丸くした。
「どうしてメニューの内容も聞かずに注文するんだ!」
「え?だって『スペシャル』ですよ?女は『特別』とか『季節限定』って言葉に弱いんです」
「だからと言って…!」
「『土方スペシャル』2つお待ちィ!」
「…え」
お盆にのせられた黄色い物体を視界に入れ,君の動きがぴたりと止まった。
厨房の奥から響く水音や食器の音が,なぜかえらく耳についた。
「…」
「どうした?」
君の味覚(というレベルではもう済まされない・神経そのもの)こそどうしたんだ。
凝固した君を,土方君は不思議そうに見下ろした。なぜ不思議そうなのかが,僕は不思議だ。
「い,いえ…あの…これ?」
「美味いぞ」
「…」
明らかに動揺した様子で,彼女は口の端をひくつかせている。自分のしでかした間違いに今更ながら
気付いたらしい。
「おい。早く行かねェと席とられちまうぞ」
「…」
「…」
君の顔色の悪さに気付きもせず,土方君はさっさと席に向かって歩き出した。
彼女はぷるぷると震える手でお盆を持ち上げ,とぼとぼと重い足取りでその後に続く。僕も何と声を
かければ良いのかわからなかったため――そしてこの展開が少し面白かったため――黙って2人の
後に続いた。
普段幸せそうに笑ってばかりいる君が,後悔を露にしている様が珍しくて興味深かったのだ。
…僕もたいがい性悪だな。
目的の場所に着くと,土方君はすぐさま席に座って,割り箸を片手と歯を使って割った。
「あの…これ…おかずは?」
君がおずおずと質問すると,土方君は目を瞬かせた。
「ん?かかっているだろう,上に」
「え…マヨネーズしかかかってな,」
「マヨがおかずだろう。何言ってんだ」
君が何言ってんだ。
いよいよもって顔が蒼白になった君を見て,内心で面白がっていた僕も,さすがにかわいそうに
思えてきた。
「君。ちょっと…」
「マヨは万物森羅万象と相性の良いオールマイティなおかずだ。特に白飯との相性は最高だぞ」
だ・か・ら!
人の言葉を遮るんじゃない,この痴れ者が!
そもそも『森羅万象』の意味をわかっているのか,君は!
いやちょっと待て。
「…」
君はなにやら決意じみた眼差しで,マヨネーズ丼を見下ろしている。
お,おいおい…まさか食べるつもりなのか。この犬の餌を。
まあ…流れ的に(あと立場的に)ひと口くらいは食べないといけない状況かもしれない。
こんなものをひと口食べるだけでも災難だろうが,そこは『料理は内容を確認してから注文すべし』
という教訓を得たと思い,甘んじて受け入れるべき…と言えなくもないかもしれない(激しく曖昧)。

「いっいただきます!!!」

がぁーーーーー!
…
……
………。
って,一気に食べる奴があるかぁぁぁぁ!!!!
思わず胸中で絶叫した僕を他所に,君はハムスターよろしく忙しなく頬を動かしている。涙目で。
(だ,大丈夫なのか…?)
君が口をもぐもぐと動かすたびに,彼女の顔色もどんどん悪くなっていく気がする。
蒼白だった顔色が青くなり,紫になり,今は土気色になっている。
「良い食べっぷりだな。どうだ?」
土方君は呑気に感想を求めてくる。空気を読め,空気を。というか顔色を見ろ。
君はたいそう飲みづらそうに,ぎこちなく口の中のものを飲み下した。
空になった丼(信じられない)をテーブルに下ろし,機械じみた動作で土方君の方を見た。

「お,おいしい…で…す…」

まるでかぐや姫のような笑顔だった。
『月に帰らなくてはなりません,つーか帰らせてください』的な笑顔だった。そして――

「ぅお!?」
「君!!!!」

ふっと魂を手放したかのように瞼を閉じ,君は席から転げ落ちた。
慌てて支えた彼女の体は,びっくりするくらい軽かった。
それに,びっくりするくらい華奢だった。
場合が場合なのにも関わらず,僕の鼓動が少しだけ早くなってしまったことは…その…秘密だ。
…そこんとこよろしく。






薬品の香り漂う医務室にて――簡易ベッドの脇にある椅子に僕は腰を下ろした。
「君」
「…はい」
先程よりは幾分かマシになった顔色の君が,ベッドの中から弱々しく返事した。彼女は緩慢な
動作で掛け布団をどけ,僕の方をじっと見上げてくる。僕は溜息を1つついて問いかけた。
「なんで一気に食べたんだ?あんなものを」
「『なんで』って…一気に食べないと完食できそうになくて」
「…どうしてあの物体を完食する気になるんだ?」
わけがわからない。
僕だったらたとえ出世がかかっていたとしても,せいぜい一口しか食べないだろう。
まかり間違えばパワハラだぞ,あれは。
たとえ悪意はなかったとしても。むしろ『悪意がない迷惑行為』ほど悪質なことはあるまい。

「だって…あんなに勧めてくださってるのに,断れません」

叱られてしょげている子供のように,君は小声でぽそぽそと呟いた。
(そうだった…)
その言い訳(?)を聞いて,僕は彼女と初めて会った日(と言ってもたった1週間前だが)のこと
を思い出した。君は,知り合いでもなんでもない近藤さんのために,バイトの面接をふいにして
原付を走らせる女性なのだ。

「君,『お人好し』と言われるだろう?」
「…たまに」
「優しいのは良いことだが,嫌なことは嫌だとはっきり言った方が良い」
「…そうですね」

僕の言葉に頷く君の目は,なんだかとてもぼんやりしている。
ひょっとすると,まだマヨネーズショックから抜け出せていないのかもしれない。
無理もないことだが。
「わたしが気をつかったばっかりに…かえって土方さんを傷つけてしまいましたね」
「いや『傷つけた』のとは少し違うだろう…これは」
むしろあの男の場合,限りなく自業自得の域に近い。あんなものを人に勧める方が悪い。
それに,君の方がダメージは大きい気がする。
自分の好物を食べて昏倒した君を見て,土方君は大層慌てふためいていた。
そのうえ一部始終を見ていたらしい沖田君に,
<大変だ~!土方さんが嫌がる事務員に無理矢理犬の餌食わせて死に至らしめやがった~!>
などと言いふらされていた。しかも最後のところ以外,あながち間違っていない。
土方君も先程までここにいたのだが,将軍様の御帰還に関して近藤さんへ報告があるらしく,後ろ髪
をひかれる様子で出て行った。
「でも…」
「ん?」
不意に君が口を開いたため,僕は再び彼女を見下ろした。
ひどくおぼろげな眼差しで,君は僕の目を見つめてくる。そして,

「伊東さんと土方さん,似てますね」

実にとんでもないことを口走ってくれた。
あんな水とたんぱく質とマヨネーズで構成されている男と一緒にするな。
やはりまだ彼女はマヨネーズショックから立ち直れていないのだろう。
だから思考回路が正常に回っていないに違いない。そうに違いあるまい。そう思わせてくれ。
「…似ていない」
「似てますよ」
君は確信に満ちた声でそう言って,ふにゃっと笑った。
「お2人共とってもかっこいいです」
「かっ…!?」
ぎょっとして僕はたじろいだ。
かか,か,かっこいいとは,どういう…年頃の女性が男に何を,は,恥じらいもなく…!
いかんいかんと思いながらも,僕の顔には熱が集まって来る。その上さっき彼女を抱きとめた時の
ぬくい体温やら華奢な体つきやらを思い出してしまい,またもや心臓の鼓動が早まってきた。
「それに面白いですし」
「…おもしろい?」
続いて紡ぎ出された言葉には,首を傾げてしまった。
そんな言葉,いまだかつて言われたことがない。
自分で言うのもなんだが,僕はあまり冗談を解さない男なのだ。他人とバカ騒ぎをするのが好きでは
ないし,それならば1人で部屋に篭って考え事をしたり,読書をしたりする方がよほど良い。
その僕が『面白い』?
(なんというか…よくわからん)
君は風変わりなコだ。
人を不思議がらせるのが上手すぎる。
その一風変わった彼女は,頭上にクエスチョンマークを点滅させる僕を他所に「うぅ~ん」と小さな
唸り声をあげた。
「しばらくマヨネーズを見たくないです…土方さんには悪いですけれど」
「いや,悪いのが土方君なんだ」
「ふふ…」
僕がずばっと一刀両断すると,君は可笑しそうにくすくすと笑った。

「やっぱり面白いなあ…伊東さん」

しみじみとした口調でそう呟くと,君の瞼は何の前触れもなく閉じた。
やがて,スースーと規則正しい寝息が聞こえて来る。
「…言い逃げするな」
苦笑して頭を撫でてやると,君の口角が少しだけ上がった気がした。

「おかしなコだな…君は」

背中に大の男を縛り付けて原付をとばす豪快さがあって。
それを理由に職を要求するふてぶてしさもあって。
人に勧められたら断れないお人好しなところもあって。
不思議なことを口走る天然娘でもある。
…考えれば考えるほど,よくわからないコだ。

カーテン越しに差し込む夏の日差しが,彼女の白い頬を照らし出していた。
枕に広がる黒髪の上に,日光が水たまりのように集まっている。
――まるで「離れがたい」とでも言うように。


+++++++++++++++++++++++++


君が真選組で働くようになって約1ヶ月後。
契約期間である2ヶ月間の半分が経過した日のことだった。

「勝手な話なんですけど,明日お休みをいただけませんか?」

夕方5時の帰り際,君が突然そんなことを言い始めた。
「構わないが…何か用事でも?」
つい10日程前にお盆休みがあったばかりだというのに,なんとも訝しいタイミングだった。
とは言っても,彼女は病気で休んだことさえ今まで無かったし(マヨショックは除いて),勤務態度
も至って真面目だった。こうしてわざわざ休みを請うのは,余程の事情があるに違いなかった。
「どうしても外せない大事な用が入ってしまって…すみません」
詳細は語らなかったが,君は心底申し訳なさそうに頭を垂れた――とても深々と。
気にするな,と声をかけてあげたくなるほどに。
「いや…顔を上げなさい」
僕は咳払いをして,少し早口に言った。
「君はよくやってくれている。こちらが求めている以上の働きぶりだよ。予定よりかなり早く作業
 も進んでいるし」
実際,彼女のおかげで溜まりに溜まっていた書類は着々と姿を消していて,富士山のごとしであった
机の上も,今ではそのへんの小さな裏山くらいになっていた。
「1日くらい構わないよ」
「ありがとうございます!」
僕が許可を口にすると,君はぱっと顔を輝かせた。
その表情をみると,自分がなにやらとても良い行いをしたように思えてくるから不思議だ。
「それではまた明後日に!」
「ああ。気をつけて」
例の空色のヘルメットをかぶり,荷物を持って彼女はいそいそと部屋を出て行った。
それからちょっとして,入れ替わるようにして篠原君が部屋に戻ってきた。
「明日,君は休むそうだ」
「そうですか…珍しいですね。何か用事でも?」
「『大切な用事』が入ったそうだ」
篠原君に顛末を説明しつつ,僕は冷めたお茶に口をつけた。

「へえ。デートでもするんでしょうか」
「!」

あ,危うく噴出すところだった…いかんいかん(最近これ多いな)。
平静を装って篠原君の方を見やると,彼はいたって普通に資料に目を落としている。
「…彼女にはそういう相手がいるのかい?」
その手の話(所謂恋愛話の類だ)をするのは僕の趣味ではないため,君とそういった話をついぞ
したことがなかった。それに,最近はそういう話題を部下にふっただけで『セクハラ』として訴えら
れかねない世の中なのだ(『上司』って難しい)。
篠原君と彼女は年が近い分,ひょっとしてそういった話もしているのだろうか。
けれども僕の問いに,篠原君は首を横に振った。
「あ,いえ。ただの推測です。若い女性の『大切な用事』と言ったら,恋人絡みかと思いまして」
単なる邪推です,と篠原君は笑ったが…僕は全く笑う気にならなかった。

(君に,恋人?)

なぜか僕は今の今まで「彼女にはそういう相手はいない」と勝手に思い込んでいた。
しかし改めて考えてみれば,そういう相手がいても全くおかしくないのだ。
君は目を見張るほどの美人ではないが,いつもにこにこしている所謂『笑顔美人』で,親しみ
やすくて,ちゃきちゃきしていて,相手が気弱な男ならば自分から引っ張っていきそうな…。
最近増えているという噂の『草食系男子』とやらに人気がありそうなタイプではないか。
(ふん…なにが『草食系』だ)
草食動物をなめるのもいい加減にしろ。
兎を見るが良い。おとなしい顔して,彼らの蹴りは狼の顎骨を砕くことも可能なんだぞ。
お前らにはできるまい。
サバンナで1日も生き残れそうにない,言ってみれば単なるもやし男が『草食動物』を名乗るな。

「…気に食わないな」
「…は?」

想像の中の『相手の男(草食系)』に対し,僕の胸はとどろいた。
突然不機嫌になった僕に,篠原君は不思議そうに目を丸くしていた。

――後々になって考えると,これが『騒動』の幕開けというか前哨戦だったのかもしれない。