「…もう帰んの?」 銀さんがそう言ってきた時,わたしは少なからずびっくりした。 引き止めるようなことを言われるとは思っていなかったから。 敢えて彼の方を見ないようにしていたのに,思わずそっちを見てしまった。 わたしを見つめる銀さんの目は……とても寂しそうだった。 そんな目をずっと見ていることなんてできなくて,すぐに逸らした。 なんでこんなことになっちゃったんだろう。 自分がこんなにも軽率な奴だとは思わなかった。 元々「わたしは清き乙女です」なんて台詞は名実ともに言えなかったけど。 でもこんな風に酔ってる間に恋人でもなんでもない男友達と,記憶も無い状態でやっちゃうなんて… …そんなの『きたない』。 ―知らず知らずのうちにね,彼と自分を同一視してたの。たぶん。 ―どういつし?どーいう意味? ―なんていうか「2人で1つ」っていうか。 ―って意外と思考が『乙女』なのな… ―そうかも…同一視してたから,離れるとまるで自分が欠けてしまったみたいなんだよ。 昨日飲み場で銀さんと喋っている時のことが不意に思い出された。 こんな調子でずっと愚痴っていたのかな,わたし? たぶんわたしは…すごく寂しかったんだろうな。 彼にフられたことは,自分で思っているよりも深い痛手を受けていたんだと思う。 自分では『平気だ』って思っていたし,実際わりと平気だったはずだ。 でも気を許した人を前にすると「慰めてもらいたい」って自然に願っていた。 そのくらいには傷付いていた。 ネガティヴなことを言って,それを誰かに否定してもらいたかった。 たとえ言葉の上だけでも,誰かに必要とされたかった。 自分の価値を,取り戻したかった。 履こうとしている草履の輪郭がいきなりぼやけた。 涙が滲んだのだということに気が付いてぎょっとしてしまう。 意思に関係なくじわじわと涙は浮かんでくる。 こんな場面で泣くなんて,被害者ぶっているみたいで嫌なのに。 …わたしは被害者じゃない。 だからといって加害者でもないけど。 しいていうなら共犯者なんだ。 必死に言い聞かせるのに,涙は全然引っ込んでくれない。 泣けてくるのは「銀さんと寝たから」じゃない。 寂しさに負けてそういうことをしちゃったから,だ。 自分がどうしようもなく「よごれた」気がした。 「なァ…」 銀さんの手が肩に触れそうになるのを感じた途端,思わず鋭く拒絶してしまった。 触れられたくなかった。 今,銀さんには触れられたくなかった。 どうしてなのかはうまく説明できない。 ただ,これ以上自分の弱さを曝け出したくなかった。 もう一時のぬくもりに感情を揺さぶられたくなかった。 「なんで泣くんだよ…」 傷付いたような,戸惑ったような銀さんの声が耳に痛い。 本当になんで泣くんだろう。 被害者ぶるもはなはだしいったら。 けれども自分でもよくわからないこの感情を説明なんてできなかった。 「なんで,って……泣かずにはいられないわよ,バカ!!!」 八つ当たりのように叫び散らす自分はなんて醜いんだろう。 そのままの勢いでわたしは玄関から走り出た。 冬の朝の風が顔に吹き付けてくる。 涙はぽろぽろ流れるわ,鼻水はずるずる出てくるわ,頬はがびがびに乾くわ… …間違いなく今のわたしの顔はぐちゃぐちゃだ。 今すれ違ったおじさんなんて目をひんむいていたし。 こんな顔で電車に乗ることはできなくて,そのまま家まで歩くことにした。 万事屋とわたしの家とは一駅しか離れていないし。 泣きながら吐く息は真っ白だけれど,きっとわたしの中身は灰色だ。 見上げると,真っ青な空を天人の飛行船が飛んでいくのが見えた。 こんな朝からご苦労様だなー天人って働き者なんだなー,なんて呑気な考えが浮かんだ。 雲なんて一つもなかった。 空はどうしようもなく青くて,日差しは憎らしいほどに澄み切っている。 わたし以外の世界はとても美しかった。 とぼとぼと足を進める間も,足の付け根や腰が痛くて歩くのに苦労した。 しかも今でもその部分に「何かが詰まってる」かのような感覚があって余計に泣けた。 歩き方が変になるのは絶対に嫌だから,根性で痛みを耐えた。 万事屋から自分の家まで歩いたことは今までにも何度かあったけれど,こんなにも道のりが長いと 感じたのは初めてだった。 家に着いたら真っ先にシャワーを浴びた。 熱いお湯が冷えた体を打って,すごく気持ち良い。 ボディソープをいつもの3倍は多く使い,泡をいっぱいに作って体を洗う。 シャワーを浴びながらも時々思い出したかのように涙が出たけれど,すぐにお湯で流した。 髪や顔もその調子で随分と時間をかけて贅沢な泡で洗った。 浴室から出てバスタオルで身体をふいている時に,体中についている痕に気付いた。 胸,お腹,二の腕,脚…… びっくりして鏡を見ると,うなじとか背中にも花弁のような痕がついていた。 「銀さん…これはさすがにエチケット違反なんじゃないの?」 思わずそう独りごちてしまう。 うなじの痕なんて最悪…。 しばらく髪の毛アップにできないじゃん。 痕の数々には脱力したけれども,新しい下着と部屋着を身につけるとだいぶ落ち着くことができた。 髪をふいていると,携帯電話が鳴った。 一瞬銀さんの顔が思い浮かんだけれど,ディスプレイを見たら≪花子ちゃん≫だった。 花子ちゃんは踊り子になる夢を叶えるために大阪から上京してきたコだ。 『スナック・すまいる』で働いているけど,素直過ぎるし騙されやすいし夜の仕事には向いてないんじゃ ないかな~って失礼だけどわたしは思う。 でも故郷は違うものの,お互いに『地方から上京してきた』っていう共通点があるおかげかなにかと気が 合って,よく一緒に遊びに行ったりご飯を食べに行ったりする。 …そういえば花子ちゃんも昨日の飲み会にいたっけ。 なんでも「ほんまはイブのスナックめっちゃ忙しいんやけどな…ちょっと前にお客さんに粗相して もうてん。今謹慎中なんよ」だそうだ。一体何をしたの,花子ちゃん…。 そして暇つぶしに『第35回かぶき町内・聖夜の焼肉パーティ~寂しい奴らなんて言わせねえ!~』 に来た,と。 …あれ?こんな名前の飲み会だったの,昨日の!? ていうか,花子ちゃん謹慎中なのに飲み会に来て良かったの? まあとにかく。 花子ちゃんなら何がどうして銀さんとわたしがああいうことになったのか,知っているかもしれない。 あまり聞きたくない気もするけれど,やっぱり自分のやったことはちゃんと把握しておきたい。 ひとつ深呼吸をして,通話ボタンを押した。 「もしもし?です」 「おはようちゃん!今どこおるん?銀さんは一緒なん?」 花子ちゃんはいきなり地雷を踏んできたけど,彼女の純粋な性格を考えると悪気は決して無いと思う。 わたしは苦笑いをして, 「ううん。わたしの部屋」 「えー!そうなん!?なぁなぁ,昨日どぉなったん?」 …それはわたしが聞きたいんですけど!? 「あのさ,花子ちゃん…。実はわたし昨日のこと全然覚えてないんだけど」 「あ~昨日はいつになく酔っ払っとったもんね,ちゃん」 「それでね…その…わたしさ…なにしたの?」 「なにした,て…」 花子ちゃんはちょっと面食らったようだ。 「わたしも銀さんもほとんど覚えてなくてね,本当にもう…混乱してさ。」 今朝のことを思い出すとまたもや涙がこみ上げてくるのを感じた。 花子ちゃんはわたしの声音から,ただごとじゃない雰囲気を察したらしく言葉を柔らげてくれた。 「そうやったんやね…でも私は『よかったなあ』て思ったよ」 「なにがよ?」 「だってちゃんと銀さんって前から仲良しやったやん? ちゃんにはもう相手がおったけど…2人で話しとるトコ,絵になっとったし。 正直羨ましかったもん。たとえ恋人やなくても,あないに仲の良ぇ男の人がおるってこと」 花子ちゃんの声は思いのほか優しくて,わたしは電話越しに泣き出してしまった。 そうだ。 銀さんとわたしは元から仲が良かったのだ。 田舎から上京して半年は違う所でアルバイトしていたんだけど,数ヶ月前から『ヘドロの森』で働く ことになって。最初に話したのは,たしか銀さんが回覧板を持って来てくれた時だっけ。 それから隣同士で年も近いし,銀さんだけじゃなくて神楽ちゃんや新八君や定春君とも仲良くなった。 笑いのツボとか食の好みとか,そういう些細なことが同じで。 (わたしの他にも小豆をご飯にかけて食べる人がいたなんて本当に嬉しかった) (花子ちゃんには『そないなの人間の食べる飯やない!』て怒鳴られたけど) 銀さんと話すのはすごく楽しかった。 明るい話だけじゃなくて,時には深刻な悩みを話すこともできた。 ひょっとしたら彼氏よりもある意味では信頼していたのかもしれない。 銀さんとは男女の仲を超えた信頼関係を築けている気がした。 そんなの幻想だったのかもしれないけど。 でも…それがすごく大事だった。 これからも大事にしたかった。 どれだけちゃんとした言葉にできたかは疑問だけど,わたしは泣きながらそれを話した。 花子ちゃんはかなりの天然サンだけど恋の直感は結構すごいから,わたしの支離滅裂な話もすんなり 理解してくれた。 「そりゃね…恋愛関係やなければ男と女は傷付け合わんと済むもんね。 『男女間の友情』なんてな,とどのつまりは『逃げ』やで」 たしかにそうかも。 すごく大切に思っているのに, 本当はすぐにでも『恋愛』に転がることもできるのに, 「友達だから」の一言で逃げるんだ。 「友達」って言葉でお互いを縛ってる。 それは滅多に断ち切れるものじゃないから。 「ホンマのこと言うと…私な,ちゃんが独り身になったて聞いた時安心したんよ。 『あ~これでやっと銀さんと何の気兼ねもなく付き合えるな』って。」 「え……そ,そうなの?」 これにはかなりびっくりした。だってそんなの初耳だ。 「だって銀さんはちゃんに惚れとるし。見とったらわかる」 「………は!?」 わたしは思わず大声を出してしまった。 銀さんがわたしに???? そんなバカな…だってわたし色々と相談しちゃってたし。彼のことで。 (まさか…) 「昨日のちゃんと銀さん,最初はいつもどおり2人で喋っとったんよ。端の方で。」 うん…それはちょっと覚えている。 わたし,皆と離れたところで銀さんと話してるのが好きだし。 「けどそこに南戸さんが割り込んだんよ…私は近くにおらんかったから詳しい内容は聞こえ へんかったんやけどな」 「は?南戸さん?」 思ってもいなかった名前が出て,わたしは素っ頓狂な声を出してしまった。 『南戸さん』とは南戸粋さんのことだ。 剣術の名門・柳生流の四天王の1人でなんというか…ちょっとチャラ男だ。いや結構なチャラ男だ。 でもわたしは南戸さんのそんなキャラも嫌いじゃなくて(だって面白いもん),だから割と仲良し なんだけど…なんでここで彼の名前が出てくるのだろう。 「まあそれはともかくや。銀さんは南戸さんを退けて,ちゃんを連れて出て行ったんよ。 かっこよかったで~。お姫様抱っこって女の憧れやんな!ちゃんもなぁ,銀さんにコテッて もたれ掛かっとって可愛かったし」 「お,お姫様抱っこ…!?」 …そんなことしてたんだ。 は,恥ずかし過ぎる!わたしのキャラじゃないじゃん!! 涙も収まってきて,わたしは深呼吸をした。 ひゅうという変な音がわたしの喉奥から搾り出される。 髪を押さえていたタオルを椅子にかけて,ベランダへと近寄った。 窓ガラスには水滴がいっぱいついていた。 掌で円を描くようにこすると,冬の町並みがぼんやりと見えた。 まるで涙の奥から覗いているかのような,そんな景色。 ゆらゆらとしていて, 形が定まらなくて, そして…きれいだ。 「ちゃんは真面目やから色々悩んどるのかもしれへんけど…思い詰めたらアカンよ?」 花子ちゃんの声が耳に穏やかに響いた。 わたしはどうすれば良いんだろう。 その答えは出なかったけれど,心が少し落ち着いた。 ちゃんと…考えなくちゃ。 自分の気持ちなんだから。 でもきっと自分の気持ちだから,余計にわからないんだ。 だからってそれを投げ出すことはできないけれど。 自分の心さえわからずに,誰かの心を理解することなんてできないだろうから。 悩む時間はこんなにも長いのに, 決めてしまったら,それはきっと一瞬だ。 一瞬で終わる。 あるいは……その逆。