結局,年内に銀さんと顔を合わせることはなかった。
かといって銀さんと連絡を取ることもなかった。
すごく気になったけれど,わたしの方から連絡するのは癪な気がした。
くだらないプライドだなって自分でも思うけれど。
今まで割とメールや電話をよくしていただけに,連絡をまったく取り合わないのは不自然で,
「あの日のことを無かったことにはできない」って改めて思い知らされた。
…無かったことにされるのは嫌だけど。
いっそ何も無かったかのように振舞われたら,わたしは銀さんを心底嫌いになっていただろう。

実家に帰った日,すぐにお母さんが「おかえり~」と玄関を開けてくれたのだけれど,わたしは
その顔を真直ぐに見れなかった。
ものすご~~~く後ろめたかったから!!!
初体験後に帰省した時よりも数倍は気まずかった。めちゃめちゃ悪いことをした気がした。
微妙に顔を背けて「た,ただいま」と呟いたわたしを,お母さんは不思議そうな目で見た。
「気分悪いの?」と心配されると余計に罪悪感が引き起こされて,いつもよりも家事を手伝って
しまうわたし。
ええ。親孝行しましたよ,この年末年始。

1月8日にかぶき町の主だった面々と新年会をすることになっていたから,わたしはその日に
再び上京した。ああいうことが起こる前に『出席する』で返事を出してしまっていたし。
花屋でのアルバイトをやめるつもりが無い以上,どのみちいつかは銀さんと顔を合わせる。
わたしの気持ちもいい加減落ち着きを取り戻していた。
実家に帰ってから体重が2キロ増えたことを気に病むくらい現実的にもなっていた。
…なにもそんなことで現実的にならなくてもいいのに。
まあ,とにかく日常の小さな事件に頭を悩ませることができるくらい冷静になっていた。
冷静になってはいるんだけれど…
こういうことって,冷静になれば必ずしも答えが出るってわけじゃない。

わたしは銀さんへの態度をいまだに決めかねていた。
「銀さんを好き?」って誰かに訊かれたらきっと「好きだよ」と答えると思う。
こんなことになっちゃった今でもそれは変わらない。
けどそれが友だちとしての「好き」なのか,1人の男の人としての「好き」なのか。
わたしにはその微妙な境界を判断することができない。
ぶっちゃけた話,酔っていたとはいえ「合意の上」だったわけでレイプされたわけじゃない。
…YESと答えた覚えはないけど!
女は酔うと貞操観念がいつもよりも弱まるっていうけど,
男は酔うと女の倍くらいは「やる気」になるっていうし。
つまりは連帯責任なわけだ。
『行列のできる…』に相談しても慰謝料とれる確率はきっと10%にもならないだろうな。
だから銀さんに対して怒ったり憎んだりする気持ちは無いんだけど。
でもどうしたらいいかわからない。
普通に考えてみれば,銀さんも呆れてるんじゃない?
「すぐにヤれる女」は男にとって便利な存在だろうけど,「その程度の女」っていうことでもある。
それに「身体だけの関係」なんて寂しすぎる。
心と身体は繋がっていると思うから。
でも,わたしと銀さんは心が無い状態でしてしまった。
少なくとも恋愛感情が無いまましてしまった。
あったとしても確認しないまましてしまった。

…わたし,どういう顔して銀さんに会えば良い?

結局答えなんて出なかった。
出ないまま,大荷物を部屋に置いてからすぐに新年会へと向かった。
「銀さんの出方で決めよう」と消極的なことを思ってる自分に溜息が出てしまう。

でも,これが精一杯。
わたしは臆病だから。





飲み場に着いた時,開始時間から既に30分過ぎていたから皆もう飲み始めていた。
飲み会でお決まりのコールやガラスコップのぶつかる音で店内はにぎわっている。
テーブルの上には食べかけのパスタやらサラダやらが放置されていた。
掘りごたつ式の飲み屋さんだから,わたしは座っている人達の合間を踏み分けて進む。
奥の席に,男の人同士で盛り上がっている集団の向かい側にいる花子ちゃんを見つけた。

「ちゃん!こっちや!」

ジョッキをかち合わせている彼らから目を外した花子ちゃんが,こちらに気付いて手を振る。
わたしもちょっとだけ手を振ってそっちに行こうとした…けど。

なんとなく,本当になんとなく視線を感じて後を振り返った。



(………銀さん!)



思わず声をあげそうになった。
たぶんそれは銀さんも同じだったんだと思う。
わたしと目が合った瞬間,手にしていたポテトチップスをばりんと砕いちゃってたから。
正直すぎる彼の反応はなんだか笑えてしまって,わたしの緊張はほんの少し解けた。
どっちが先かなんてわからないけど,多分2人ほぼ同時にばっと目線をそらした。
内心どきどきしながら,花子ちゃんの方を向き直る。
グラスを口につけたまま固まっている花子ちゃんは,わたしと銀さんの様子を見ていたらしい。
彼女の目はあからさまに緊張を含んでいて,化学実験中のフラスコを見つめている時みたいに
強張っている。
…花子ちゃん,やっぱりあなた正直すぎるよ。
照れくさいようなばつが悪いような,複雑な気分でわたしは花子ちゃんの方へと近寄った。

「あ,あけましておめでと…花子ちゃん」
「お,おめでと!ちゃん!」

気を取り直して新年の挨拶をすると,花子ちゃんもほっとしたように笑顔を浮かべた。
彼女は「座りなよ」と席を1個ずらして,1番端のスペースをわたしに譲ってくれた。
それからピンクオレンジのお酒――カシスオレンジだと思う――が入ったピッチャーをとって
わたしのグラスに注いでくれた。

「珍しいね。花子ちゃんがこんな端に座っているなんて。」

乾杯,と1度グラスを合わせてからわたしは言った。
いつもなら花子ちゃんは端っこに座ったりしない。ていうかむしろ中央に座る。
普段はちょっと抜けているところはあっても,そこはそれ。夜のお店で働いている女のコなだけに,
話が面白いし聞き上手だ。だからこういう場では必然的に皆の中心になることが多いんだけど…
今日はなぜにこんな隅っこに?
わたしの疑問に,花子ちゃんは丸い目をきりっとさせて答えた。

「あんなあ……端に座っとるんはちゃんのためなんよ」
「え,わたしの?なんで?」
「そりゃね~こん前の飲み会では銀さんに『お持ち帰り』されたわけやん?皆興味津々なんよ。
 本当なら今すぐにでも質問攻めにしたいんよ。特に噂話大好きなおばはん達は」

あー……そうか。

クリスマス飲み会に参加している人達は意外と多かった。
テレビとか雑誌では大々的にクリスマスを取り上げているけれど,実際にロマンチックな聖夜を
過ごす人達って少ないのかもな~って思うくらい。
それにしても…まさかそんなに噂になっちゃってるなんて予想外。
でもちゃんと考えてみれば噂にならない方がおかしい。
自分の気持ちのことで頭いっぱいで,周囲がどうなってるかなんて考えてなかったよ…。

「興味本位で質問されんの嫌やろ?せやからこうして私が壁になってあげるんよ!」
「ありがと~花子ちゃん。本当助かる…」
「まあ困った時はお互い様やで!」

花子ちゃんはからからと笑ったかと思うと,真剣な顔をした。

「まあいずれ質問攻めは避けられへんやろうけど。せめてちゃんと結論出てからの方がええやろ」

うん…本当にそうだね。
わたしは花子ちゃんの心遣いにじんわりと胸が熱くなった。
ちょっと涙ぐみたいような気持ちで,氷の浮かぶカシスオレンジに口をつける。
あ,でも今日は飲みすぎないようにしなくちゃ。
いや普通は滅多に酔っ払わないんだけど,本当に。
取り皿にサラダを乗せてもぐもぐ食べていると,

「あけましておめでとうございやす。嬢に花子嬢」

1列隣のテーブルにいた沖田君が,お猪口を片手にすうっと寄って来た。
…ってまたいるよ沖田君!?
仕事はどうしたの?ていうか公務員が堂々と未成年飲酒していいわけ?
わたしの頭の中を様々なつっこみが駆け巡るけど,どれも言葉にはしなかった(もう今更だし)。

「おめでとうございます~沖田さん!」

にこやかに挨拶を返す花子ちゃんの声は,わたしと話す時よりも若干トーンが高め。
なんでも「男の人相手には自然と声が高うなるんよ」だそうだ…う~んさすが。
『万事屋銀ちゃん』と真選組は不思議と縁があるようで,なにかと行動がかぶるらしい。
その関係上わたしも真選組の人たちとは時々喋る仲で,沖田君もその1人だ。

「あけましておめでとう,沖田君」

わたしも笑顔で挨拶を返した。
沖田君はちょうど今空いた向かい側の席に座り,

「飲んでやすか?」
「飲んどるで~」

琥珀色のチューハイグラスを掲げて,身を乗り出しながら花子ちゃんが答える。そのまま2人は
年末は忙しかったとか初詣は人がすごかったとか,そんな話をしていた。
わたしは2人のお喋りに耳を傾けつつ,半月形のトマトにフォークを刺す。

「嬢は今日遅れて来たんですねィ。新年会に遅れちゃいけやせんぜ。1年の計は元旦にあり
 って言うでしょ」
「いや今日は元旦じゃないよ?」
「まァそうですねィ」

思わずつっこむと,沖田君はとても楽しげに笑ったのでわたしもつられて笑う。

「つい3時間くらい前まで地元にいたの。これでも荷物を部屋に置いて即行で駆けつけたんだよ」
「へ~そうだったんですかィ。じゃあ移動で疲れてるんじゃないですかィ?」
「んー…そうだね,ちょっとは疲れてるかも。」
「身体が疲れてる時って酔っ払いやすいんでさァ。気ィつけてくださいよ」
「うん。そうだね」
「で,精神的に疲れてる時ってピッチが速くなりやすし」
「うん。そう…………だ…ね……?」

あまりに会話の流れが自然過ぎて頷きかけたけれど,わたしの口はトマトを頬張って
フリーズしてしまった。
…言葉に『含み』を感じた。
片側の頬だけ膨らませたまま,という間抜けな顔でわたしは彼の方を見た。
沖田君の目は面白がるでもなく責めるでもなく,つとめて冷静な光を湛えている。
その薄い唇がゆっくりと動く。

「…お酒って怖いでさァ」
「ちょ,ちょい待ち……!沖田さん!」

事態の急変に気付いた花子ちゃんが,慌てたようにわたしと沖田君を交互に見る。
わたしはというと,どうとも反応のしようがなくて目を泳がせるしかなかった。
沖田君がいっそものすごく直球で言うか,嫌味ったらしく言うかしたんだったら,
「あんたに関係ないでしょ!」と怒鳴りつけて強制終了できたのに。

「聞きやしたよ。旦那から。いろいろと」
「いっいろいろ!?」

上ずった声で花子ちゃんが聞き返し,それからナニを想像したのかポッと赤くなった。
一体ナニを喋ったのよ,銀さんは!?

「はい。いろいろ」

だからその『いろいろ』ってなに!?
どうにも落ち着かなくて,わたしは意味も無く手元にあったおしぼりを広げたり閉じたりした。

「あ,あんな~沖田さん。なにをどう聞いたんかは知らへんけど,ちゃんはほとんど覚えと
 らんのよ?」
「ん。それも聞きやした」

反応できずに黙りこくっているわたしの代わりに花子ちゃんがフォローしてくれたけど,沖田君は
それをあっさりと流した。

「せ,せやったら…」
「旦那もあまり覚えてやせんし。俺が聞いたのはむしろその後のことでさァ」
「え…?それどういう意味なん?」

花子ちゃんの頭の上にクェスチョンマークがいっぱいついているけれど,沖田君はわたしの方を
見て言った。

「災難でしたねィ」
「え,それは違うし!」

即座に否定した自分にちょっとびっくり。
沖田君も花子ちゃんも面食らったような表情をしている。
だ,だってそれは違うよ。
あれは『災難』とは違うよ。
そりゃあの日以降のわたしの苦悩時間を思えば『災難』といえなくもないけど。
でも…『災難』って,まるでふってわいたかのような言い方じゃん。
自分のせいでもあるのに。
それに仮にもその……『男女の営み』なわけなのに……ぎゃー!!
ええっと『営み』なわけなのに『災難』なんていわれ方はされたくないわけで。
さすがに『大切な思い出』ってことじゃ絶対ないけど。
でも『悪い過去』みたいに断定されたくない。 

「その…『災難』って言い方はしないで。違うから。わたしも軽率だったんだし…よく覚えて
 ないんだけど」

わたしは言葉を選びながら,注意深く言った。

「も…もしわたしが本気で嫌がってたらああいうことは起こらなかったと思うの。
 銀さんは嫌がる女の子押し倒すほど…その…飢えてないでしょ?い,いや飢えてるかな?
 でででもね,仮に飢えていたとしてもそんな外道なことをする人じゃないもん。
 お酒が入ってたからぶっ飛んでいただろうけど…でもそれならわたしだってそうだし。
 わたしもぶっ飛んでいたから仕方ないけど。
 え~と…とにかく,たぶんわたしが嫌がらなかったんだよ,うん」

あまりに注意深く喋ったせいかどもり過ぎて,もはや誰のことを庇っているんだかよくわから
なくなってきた。それなのに沖田君は,

「なるほどねィ」

と1つ頷いた。何度も頷かない分「本当にわかっている」っぽかった。つくづく不思議な男の子だ。
わたし達の間に沈黙がおりる。
おそらく数秒のことだったんだろうけど,なぜかとても長く感じられた。
次に沖田君が何を言い出すかと緊張する一方で,もうどうとでもなれって腹をくくっている自分もいた。

「あ,あんなぁ…」

意外なことに沈黙を破ったのは沖田君ではなく花子ちゃんだった。

「その……ちゃんはどうするつもりなん?」

わたしの反応を窺うような,遠慮がちな表情でそう訊いてきた。

「ん。俺もそれが聞きたいでさァ」

沖田君も今度は2・3回頷いて,ついでのようにお猪口に口をつける。
まだ銀さん本人にも何も言っていないのに,それ以外の人達に話すのもどうかと思うけど。
でも本人に言う前に誰かに言って,その反応を見ておきたいって気持ちもある。
わたしって,ずるい…。
今日何度目かの自己嫌悪を感じつつも,わたしは冗談めかして言った。

「どうするって言っても……とりあえず『責任とって付き合います』ってのは嫌。
 それくらいなら『責任とって1年分の酒代払います』って言われる方がマシ」
「そりゃまた随分とリアルな条件ですねィ」
「ちゃんらしいといえばちゃんらしいけどなあ」

2人共ちょっとだけ噴出すように笑った。

「そんなにリアル?」
「『一生払え』じゃなくて『1年分払え』ってのがねィ」
「具体的というか,できなくはないやろうから余計にリアルや」
「だってできることじゃないと条件にならないじゃん。交渉はぎりぎりの線を見極めないと」
「「腹黒い!!」」

花子ちゃんがけらけら笑う。沖田君も口を大きく開けて笑っている。
わたしも一緒に笑いながら壁に背をもたれると,ひんやりとした感触が背中から伝わってきた。
少し首を回そうとすると,頭の上すぐにかけられてあった新品のカレンダーにかさりと髪が当たる。
うまい具合に会話をひと段落することができてほっとしながら,わたしはテーブルの上にある皿や
グラスをじっと見続けた。
今視線を外したら,無意識の内に銀さんの方を見てしまいそうだった。
人の合間をぬって,わたしは彼が今何をしているのかをきっと確認してしまうだろう。
きっと,銀さんのことだからサラダは食べずに甘い物ばかり食べながら飲んでるはず。
それとも…わたしを,少しは意識してくれているのだろうか。

(目が合うのも嫌だけれど,目が合わないのも嫌だ)

そう思った。
そして愕然とした。

(…わたしは我儘だ)

『責任とって付き合います』は嫌。
かといって『あれは一夜の過ち』で済ませられるのも嫌。
…『好きだから付き合おう』以外は嫌なんだ。
理性では「連帯責任」と思いながらも,心のどこかに被害者意識があるんだ。
というか…これって…

(わたしは…銀さんを好きなのかも)

突如黙って俯いたわたしに気付いて,花子ちゃんが心配そうにわたしの顔を覗き込んだ。

「ちゃん?どないしたん?」
「…ばらばら過ぎるんだよね,順番が」

わたしの声は少し強張っていたかもしれない。
顔を上げた時,沖田君の目も花子ちゃんの目も緊張のためか鈍く輝いていて,焦点がわたし1人に
絞り込まれていた。
せっかく会話を切り上げることができたのに,自分で蒸し返してしまったことに一抹の後悔を
覚えたけれど,その気持ちはすぐに消えた。

誰かに言いたかった。
誰かに聞いてほしかった。
それも…親しい誰かに。

「普通は『あの人のこと好きなのかも』って悩み始めて,
 それから『付き合ってください』って告白して,
 それからキスしたりナニしたりするわけじゃない?」

恋愛って『恋愛をしよう』と思って始めるものじゃないと思う。 
それはきっと本当にいつの間にか始まっているもので。
誰にも予測できなくて。
誰にも止められなくて。
一体いつからその人を好きだったのか,自分でもわからないというのはよくあることだと思う。
本当に相手のことを好きなのか,自分の気持ちを見つめなおして,
そうするうちに「ああやっぱり好きだ」と確信して,
時には笑っちゃうくらいバカみたいなアプローチをしてみたりして。
それでもその時は本当に大真面目で。
その人のことで思い悩む時間だって,すごく大切な『恋時間』なんだ。
だって,悩むのは『真剣』だからこそのものだから。

わたしと銀さんはそういったすべての『恋時間』をすっ飛ばしてしまった。
言ってみれば,前菜もメインも飛ばしていきなりデザートからいただいてしまったわけだ。

「わたしらの場合さ,先にキスやらナニやらしちゃって,『好きなのかしら?』って悩んでるんだよ?
 なんかもうイレギュラー過ぎるっていうか」

2人に話すというよりもほとんど独白のようになってしまった。
わたしはぼんやりと飲み場の天井を見上げた。
まるで「永遠に光ってます」とでも言っているかのように,煌々といくつもの電球が灯っていた。
なにもかもが輝いていて,派手で賑やかで,みんな楽しそうで。
でも輝いていて派手で楽しいのは,どこか哀しいものがある気がした。
ひとりで悩んでいるのが哀しくなるくらい,今飲み場は盛り上がっていた。

今度の沈黙は間違いなく長かったと思う。
隣のテーブルの人達が「何事か」と首をかしげているのが目の端に映ったから。

「正しい順番なんて誰が決めたんですかィ?」

テーブルの表面をこつこつと叩いて,沖田君が口を開いた。


…正しい順番なんて誰が決めた?


「そんなのわかんないよ。でも世間一般ではやっぱりあるでしょ『段階』ってものが。」
「そりゃありやすけど。でもそんなに重要なことですかィ?」

沖田君は別にわたしのことを責めているわけじゃない。それは確かだ。
ただ,男と女では考え方に相違があるんだと思う。
どこまでいっても平行線,そういうことはよくあることだ。
絶対にわかり合えない部分が男女の間には存在するんだ。

「私はちゃんの気持ちわかるわ」

花子ちゃんは私を弁護するというよりも,自分の考えを見つめなおすかのように,ゆっくりと
言葉を紡ぐ。

「女にとって『段階』はめっちゃ重要や。精神的に準備ができない状態でいきなり身体だけ先走って
 しもうたら戸惑うのが当たり前やで」
「そうなんですかィ?男だって戸惑わねーわけじゃねェですけど。旦那もこだわってやしたし。
 『段階』とか『段取』ってやつに」
「女はたぶん男以上に混乱すると思うで。本当のところどうかは知らへんけど『男は頭と下半身が
 別物』っていうやん?でも女は違う。頭も心も下半身もぜんぶ繋がってる生き物なんやで」

花子ちゃんはたまに自信なさそうに首を傾けたり,指先を顎に当てたりしていたけれど,とても
わかりやすい言葉だと私は思った。
本当にまさにそうだったから。
繋がっているからこそ,一箇所が絡まると全部に影響をきたすんだと思う。
どこまでも際限がなくて…途切れようがない。

「それに周囲の目も気になるしな。付き合うのは二人やけど,二人だけで生きているわけやない
 からなあ。周囲の目って気になるで。むしろ気にするべきやと思うし」
「でも気にしすぎて1番大切なものを手放しちまうのは間違いなんじゃねーですかィ?」

沖田君の言っていることも正しいと思う。
でも1番大切なものがなにか,計れないから苦労しているんだよ。
男の人は1番大切にすべきものをすぐに選べるんだろうか。

「『たまたま順番が狂っただけ』って思うのは無理なんですかィ?
 こうなった以上,無理にでもそう思わないことには一生旦那と付き合えやせんぜ」

言いにくいことを沖田君はずばっと言ってのけた。
なんの飾りもなく。
なんの躊躇いもなく。
一瞬にして自分の表情が凍りついたのがわかった。
感傷をすべて省いた彼のその言葉は,本当に正しかった。
「許さない」とはつまりは「付き合えない」ということだ。
…どうして今までそうなった時のことを想像しなかったのだろう。
つまりはそういうことなのに。

(それは……嫌だ)

付き合えないのは嫌だとはっきり思う。
ということはやっぱり…私は銀さんを好きなんだろうか。

突きつけられた事実に,私はかなりショックを受けていた。
わかっていたはずなのに。
でも誰かにそう言われなければ覚悟できないことってある。
『覚悟』って「悪い結果をも受け入れる」ということだ。

「なっ……沖田さん!そんな言い方はいくらなんでも酷いんとちゃう!?」

花子ちゃんは本当に頭にきたらしく,眉をきっと上げて声を荒げた。
いまにも沖田君の胸倉を掴みかねない勢いの花子ちゃんを,私は止めた。

「待って,花子ちゃん……いいの」
「ちゃん!?」
「だって…本当のことだから」

私の声は今までにないくらい冷静だった。
まるで自分の声を第三者として聞いているかのような感覚さえした。
『覚悟』らしきものが私の中で形作られようとしていた。

「ありがとう花子ちゃん。怒ってくれて」

花子ちゃんは目を瞬かせた。
ぐずぐず泣いていた女が,突然笑ったので驚いたとでもいう感じだった。

「沖田君もありがとう。言いにくいこと言ってくれて」
「……いーえ」

沖田君は微笑みなのか苦笑いなのか判断しかねる顔をした。

ちょうどその時,追加で頼んだらしいビール数杯と,唐揚とポテトの盛り合わせが届いた。
スペースを空けるために,空いている皿やグラスを集めて店員に渡す。
ついでに新しいお手拭も持ってきてもらうように頼む。
そうやって作業していると,なんの気なしに目が他のテーブルに泳いだ。



向こうにいる銀さんと目が合った。



私は――今度はすぐにはそらさなかった。
銀さんがそらすまで待とう,とさえ思っていた。
けれども彼もまたすぐにそらすことはしなかった。
店員数人が私達の間を通り過ぎて,その視線が遮断されるまで。
私達はじっとお互いを見つめていた。

なにかを,はかろうとするように。
なにかを,たしかめようとするように。

私は,それを知っていた。

でも――きっと理解してはいなかった。
そして,覚悟も。



――そう思わないことには一生旦那と付き合えやせんぜ――



淡々とした沖田君の言葉が,私の頭の中をぐるぐると回り続けていた。